緑(りう)の一族

黒澤伊織

第一部 第五章 月の輝石

「#小花{サイファ}様、結び目が一つ、多いよ」
 どこか上の空でカルを編んでいた、ラーレの顔をのぞきこむようにして、小さな#緑{リウ}が声をかけた。
「ああ…本当ね」
 細かな模様のカルは、一目結び目を間違えただけでも、全体の仕上がりに影響してしまう。
 古くから緑の一族に伝わるカルは、緑たち一人一人がその生きた証を紡ぐように、この世で一枚だけの自分のものを編むのが伝統だ。
 ラーレはカルを編む手を止めると、小さなため息をついて額に手を当てた。
「小花様、どこか具合が悪いの?」
 小さな緑は、心配そうに首をかしげてラーレを見る。
「何でもないのよ」
「そう?」
 それでもこちらを気遣うように見上げる緑に、ラーレは編みかけのカルを部屋の隅に押しやった。
 こんな鬱々とした気分では、いいものも出来ないだろう。
 ラーレは気分を変えるように、明るい声を出した。
「そうだ、今日はこれから糸を染めようと思うの。緑も一緒にやりましょう」
「うん! やる!」
 ラーレの言葉に、緑たちは嬉しそうに返事をすると、カルを片付けて外へ飛び出した。
 あのときにはまだ冷たかった風が、今はもう汗ばむほどに暖かい。柔らかだった草原の草も、もう肌に触れると痛いほどに固く、はるか高い山の上の雪も殆ど融けてしまったようだった。
「さ、みんなで火を起こして、麻糸を出してきてちょうだい。その間に、私はお水を汲んで来るから…」
「はあい!」
 緑たちのきゃっきゃとはしゃぐ声を聞きながら、ラーレは一人大きな鍋を持って水場に向かった。
 糸を染めるようなときには、家の端にある井戸の水よりも、山から流れて来る水のほうが合うことは、一族に伝わる知恵として、ラーレも緑たちも知っていることだった。
 丘を下り、里の入口の、迷いの森の近くの池まで、ラーレは急ぐことなく、景色を眺めながらゆっくりと歩く。
 しかし、ただ無心に、美しい景色を目に映していたいだけなのに、ラーレの思考は、どうしてもこの里を去ってしまった人に引き寄せられてしまうのを、止めることができなかった。
 きっとこんな生活の中で、あの人は私の中から消えていくのだわ。花が何度も咲き、枯れ、実を結ぶうちに。
 そして、何度も季節がめぐり、そうしたらそのときには、私はあの人のことを忘れられているだろうか。
 ラーレは心の靄を全部吐き出そうとするかのように、深いため息をついた。
 人間の男と女は、種を繋ぐために恋をし、交わり、子を産むのだという。けれど、私たちは違う。すべての緑は#大花{タイファ}様が生みだし、そして小花である私が、今度は緑を増やしていく。
 大花様の話してくれた通り、天の神様が緑の一族を創ったのなら、どうしてこんな気持ちまで私たちに与えたのだろう。
 人間に、恋をする気持ちなんて。
 池の底まで見通せる、透き通った水に、ラーレは自分の顔を映した。
 こうして水面に映すくらいでしか、ラーレは自分の顔など見たことがない。けれど、緑や大花と同じその顔は、改めて眺めることなどしなくても、見慣れた、他の皆と違いのない顔であった。
 それなのに、あの人は私の手を取ってくれた。
 ラーレは心の中にいまだくすぶる、辛い思いに身を焦がした。
 私と、他の緑たちと、どこが違う? どうして私なの? 私の中に、あなたは何を見たの?
 あの人の手を離したのはほかならぬ自分なのに、あの人とゆけるわけがないのに、それなのに今、私の中は後悔でいっぱいだ。
 ラーレの瞳からこぼれ落ちた涙が、静かな水面に波紋をつくっていく。
 そうよ。私は小花で、緑たちを守る役目がある。一緒に行くなんて、そんなことは出来ないのに。
 誰への言葉でもない、自分を慰める言い訳だけが、ラーレの胸の中を埋め尽くす。
 もし、時が巻き戻せるならば、そのときは何もかも捨ててしまったっていい。けれど。
「…そんなこと、考えてももう仕方のないことよ」
 ラーレは水面に映った憂鬱な少女の像を壊すように、乱暴に鍋に水を汲んだ。そして、乱れる水面を後に、涙を拭って緑たちの元へと急ぐ。
 あの人は、行ってしまった。そして、私はここに残った。それだけのことなのに。
 ラーレは鍋の水がこぼれるのも構わずに、煙の上る方向へ小道を急いで登った。
「大丈夫? 小花様」
 火を起こし、ラーレの到着を待っていた緑たちは、ラーレから重たい大鍋を受け取ると、明るく言った。
「小花様、麻糸は、何色に染める?」
「そうね…」
 ラーレは濡れてしまった衣の裾を絞りながら、少し考えて言った。
「太陽の色に染めましょう。みんなが元気でいられるように」
「うん!」
「小花様も、元気になるようにね」
「…ありがとう、緑」
 自分を小花様と慕い、お日さまのような笑顔で笑ってくれる緑たちに、ラーレもにっこりと笑顔を返した。

  *

 王の計らいで、ユクセルの屋敷の近くに居を構えたアスランは、忙しい毎日を送っていた。
 クゼイで商いを始めるともなれば、入用なものは膨大で、その目録は一巻きの羊皮紙では足りないほどだった。
 ユクセルに雇われていた時とは違って、護衛も、馬も、何もかも自分で用意しなければならないのだ。
 アスランが独り立ちしたお祝いとして、ユクセルはマクをくれたり、護衛を紹介してくれたりしたが、それでもアスランにはまだまだ足りないものだらけだった。
 それに加えて、もう一つ、アスランには頭の痛い問題があった。
 それは、先ほどから目の前でアスランと同じくらい困り顔をした王宮からの使者、エムラルだった。
「この通りだ、アスランどの。王はもう、それはそれはお嘆きになって、政務も滞るような状況なのだ」
 エムラルがアスランの家へ出向いてくるのは、これがもう五回目だった。
 アスランの承諾を得るまでは帰ってくるな、とでも言われているのだろう。戸外よりはずっと涼しい、家の中に入っても、エムラルの額の汗は留まるところを知らずに流れ続けている。
「しかし、王にも申し上げました通り、あの花の球根は、もう手に入らないのです」
 エムラルが禿頭を下げ続ける姿に、アスランも困り果てて、何度目かの説明の台詞を繰り返した。
 しかし、王の命を受けたエムラルも、そんな言葉で引き下がるわけにはいかないのだろう、自分よりずっと年若いアスランに懇願するように言った。
「そこを何とか。金ならいくらでも使っていいとのお達しです。それに何も、本当に、一つも手に入らないということはありますまい」
「それが本当に…」
「いえいえ、そんなことはないはずです」
 テーブルに置かれた、金粒の詰まった革袋をアスランのほうに押しやって、エムラルは泣き出しそうな顔で言った。
「とにかく、どんな手段を使っても構いませんから、どうかこの支度金をお受け取りください」
「いや、本当に、ラーレの花はあれきりで…」
「そこまでアスランどのがおっしゃるなら、こちらにも考えがございますぞ」
 泣き落としは通じないと判断したのか、エムラルは今度はアスランを脅すような言い方をした。
「あなた様は無事、商いの権利も手に入れた。それをいまさら取り消されても、面白くありますまい」
「そんな、それとこれとは…」
「とにかく、頼みましたぞ。王にはできるだけ待つように、お願いしておきますから…」
「待って下さい、エムラルどの!」
 情けない声で追いすがるアスランを尻目に、エムラルは急いで外に飛び出していってしまった。
「そんな、無茶な…」
 アスランは頭を抱えて、床の上に座り込んだ。
 ラーレの花は、まるで魔法のように見るものすべてを魅了するようだった。
 王に献上したラーレの花の評判は、アスランが想像した以上に広まり、王族に名を連ねる者や、名だたる要人たちの間で大層な人気となった。
 遠くは噂を聞きつけた異国の王の使者たちや、ラーレの花を見たいと熱望する者たちは、毎日のように王宮に詰めかけ、それは大変な騒ぎであった。
 そのとんでもない騒ぎを横目で見ながら、アスランは大層鼻が高かった。
 何せ、ラーレの花は、ほかならぬ自分が都へもたらしたものだ。その花に、都中の人々が熱狂している様は、アスランの自尊心を大いに満たした。
 しかし、その騒ぎは人々の望まぬ形で終焉を迎えた。
 季節が移りゆく中で、ラーレの花は散り、土の中の球根は、また花を咲かせる日を待つように、深い眠りについてしまったからだ。
 花が散ってしまったことを知った人々は、一様に落胆し、都は太陽がなくなってしまったかのように、静かになった。
 ラーレの花は、そこまで人々の心を魅了して離さなかったのだ。
 そしてまた来年、一つきりの、その花の咲くことを待てない、ラーレの花に魅了された人々は、代わる代わるアスランの家を訪ねては、ラーレの花を仕入れてくれるよう、アスランに懇願した。
『もう、あの花の球根はないのです』
 アスランが訪ねて来る人々に、いくら説明しても、無駄だった。
 アスランが断れば断るほど、人々は水に飢えた者のように、アスランをなだめすかして、ラーレの球根を仕入れてきてもらおうと粘った。
 しかし、もう手に入らないものは、入らない。
 そう答え続けるしかないアスランに、ついに王から命を受けたエムラルが、訪ねて来るようになってしまったのだ。
「どうしろっていうんだよ」
 エムラルに押し付けられた金を床に放って、アスランはどさりと長椅子に倒れ込んだ。
 こんなに面倒なことになるのなら、一時の感情であの球根をユクセルに見せなければよかった。
 緑の一族のことを誰にも言わないという、大花との約束を破ってしまったことを思って、アスランの心は少しだけ痛んだ。
 けれど自分は、ある人々から球根をもらったと、言っただけだ。それに、あの迷いの森の先の里など、誰もたどり着けはしないと、大花自身も言っていたじゃないか。
 アスランは自分に言い訳するように胸の中でつぶやくと、やっと静かになった空間で一人、ため息をついた。
 こう周囲がうるさいと、あの緑の一族の里の静けさが、アスランには懐かしい。
 そして、その静けさとともに、アスランの心の中に浮かんでくるのは、やはり愛しいラーレの顔だった。
 彼女はどうしているだろう。
 アスランは目を閉じたまま、ぼんやりと考えた。
 あの草木を操る、不思議な力を守って、一生あの里から出ずに暮らすんだろうか。
 二度と会えないことなど知りながらも、アスランはラーレに、会いたかった。
 もし、迷いの森に落としてきた、月の輝石が本物なら。
 アスランは、自分の馬鹿げた考えに、一つ吐息を漏らした。
 月の光を吸って輝く石など、そんな魔術めいたことを信じるわけがない。
 けれど、もしもそれが本当なら、失くしてしまった黄金の筒があれば、月の輝石の光をたどり、またラーレの元を訪れることは不可能でないかもしれない。
 不可能ではないかもしれない、だって?
 幻想の上に幻想を重ねたような考えに、アスランは一人苦笑いを浮かべた。
 とにかく、皆に球根のことは諦めてもらうしかないだろう。
 アスランが深くため息をついたときだった。
「一人でニヤニヤして、すべてがうまく行っているとでも言いたげだな」
「ジャン…様」
 突然降りかかってきた声に、アスランは驚いて起き上がった。
「フン、商いの権利を得たから、お前は俺と対等だとでも?」
 アスランが思わず名前で呼んだことに、ジャンはむっとしたように後ろに並ばせたヤウズとルザに目線をやった。
「それが、今まで若旦那と呼んでた恩人に対する、口のきき方か?」
「恩人だって?」
 ヤウズの言葉に、アスランは無意識にこぶしを握った。
「俺を迷いの森に捨てた挙句、俺がギュネイで仕入れた品まで奪い、自分の手柄にして、それで恩人だって言うのか?」
「当たり前だ」
 ジャンは、自分に喰ってかかるアスランを、鼻で笑った。
「お前は捨て子なんだぞ。それがうちの前に捨てられていたとはいえ、そのまま見殺しにすればいいものを、お人好しで気まぐれな父上はお前を拾ったばかりか、獅子像の前に捨てられていたお前にアスラン——獅子などと大層な名前をつけ、学まで授けた。まったく、不相応だとは思わないか? 俺はお前をあるべき環境に戻してやっただけだ。それに、俺が置いて行ってやったせいで、あの花を見つけられたんだから、それは俺のおかげと言ってもおかしくないだろう?」
 暗にアスランを迷いの森に置いてけぼりにしたことを認めるように、ジャンは高級な椅子に身体を預けた。そして、アスランの新居の内装を遠慮なく、じろじろと眺めまわす。
「ずいぶん派手な住まいにしてもらったじゃないか」
「ユクセル様のお屋敷にはかないません」
「ははあ」
 アスランの言葉に眉をあげると、ジャンは身を乗り出した。
「ユクセル様の、お屋敷か。あの屋敷は俺ではなく、あくまで父上の屋敷だと言いたいんだな」
「そんなつもりは…」
「お前のそういうところが、最初から気に食わなかったんだ」
 腹だたしそうにジャンは言うと、土のついた靴を、テーブルの上にどんと投げ出した。
 そのジャンの態度を諌めるでもなく、ヤウズはにやにやと、ルザは申し訳なさそうにその巨体を縮めた。
「チャイでも出したらどうだ」
「…すみません、気付かなくて」
「まあ、いい。お前の入れるチャイなど、まずくて飲めたものではないだろうからな」
「………」
 こいつ、ただ俺に文句をつけにきたのか?
 ユクセルに迷惑をかけたくない一心で、ジャンの暴言を我慢するアスランが限界に達しそうになったときに、やっとジャンは本題に入った。
「それで、とうとう王が、例の花を取って来いといったそうじゃないか。ええと、何と言ったか…」
「…ラーレの花です」
「そうそう、ラーレだか何だか知らんが、大層な名だな」
 ジャンは花の名前にすらケチをつけると、大仰に足を組んだ。
「それで、お前はいつ仕入れに行くのだ?」
「それが…」
 アスランは、できるだけジャンの気を立てないように言った。
「あの球根はもう手に入らないのです」
「なぜだ? まさか、一つしか生えてなかったわけではないだろう?」
「それがその…」
 ジャンははっきりしないアスランに片眉をあげて髭を撫でた。
「王が支度金をはずんだだろう?」
「金の問題ではないのです」
「金の問題ではない? はっ、面白いことを言うな、アスラン」
 ジャンは鼻で笑った。
「お前も父上に商売を学んだだろう? 金さえあれば、何でも手に入る。食い物も、水も、身にまとうものも、何でもだ」
「手に入らないものもあります」
 静かに押し殺した声で、アスランは答えた。
 たしかに大抵のものは、金で手に入るかもしれない。
 しかし、目の前で金欲にまみれた卑しい顔をしたジャンにそんなことを言われると、アスランは否と言いたくなった。
 それに、金で買えないものがあるのは、事実だ。
 緑の一族の清貧な生活は、まさに金では買えない幸せのようにアスランの目には映っていた。
 それにあの美しい人…ラーレの心は、言うまでもない。
「私は、今回の旅でそれを知ったのです」
「ははあ、アスラン、お前」
 きっぱりと自分の顔を見て言い切ったアスランに、ジャンがにやついてぐいと顔を近づける。
「疲れた馬と、お前一人で、どうしてクゼイまで帰ってこれたのか不思議だったが、違うんだな?」
「何がですか」
 ジャンのハイエナのような目つきに、アスランは少し怯んだ様子で一瞬目を逸らす。
「お前は、誰か…あんなところにいるのは遊牧民くらいだろうが、どこかの世話になったんだな? …女だ。そしてその娘に恋をした」
「…そんなことは」
 胸の内をずばり言い当てられて、アスランは思わず下を向いた。口では否と言いながら、正直な態度のアスランに、ジャンは大声で笑い声を立てた。
「やはり、そうだ。はっはっは、それで、金で買えないものがある、か」
「何かおかしいですか」
 ラーレと自分との間に通った、金の価値とは対照的に位置する、美しい感情を穢されたような気がして、アスランは反論した。
「人の心は、金で動くものではありません」
「人の心は、愛情は、金で買えないと。お前、そんなことを本気で思っているのか?」
「はい」
「本当に馬鹿だな、お前は」
 ジャンはそう言うと、後ろのヤウズとルザを振り返った。
「例えば、俺の護衛をするこいつらだ。俺はこいつらの力を、武を、金で買っている。つまりは金こそが、俺を守ってくれているのだ」
 ヤウズとルザは、突然自分たちを例えに使われて、目を白黒させた。
「僕はこいつらに、一日五つも銀粒を払っている。旅商の護衛のときは、もっとだ。金を支払わなければ、こいつらは俺から離れ、他の者のところへ行ってしまうだろう。女も、同じだ」
「そんなことはありません」
 知らず知らずのうちに、強い語調になるアスランを値踏みするように、ジャンは目を細めて見た。
「それはお前、金をケチったからだろう。ついていく男を選ぶってのは、我が身を売る女にとっちゃ一生に一度の取引だ。十分な金が得られないと知って、ついてくる女はいないだろうよ」
 そんなんじゃない。ラーレは金のことなんか…。
 ぐっと言葉を飲み込むように黙るアスランに、何を勘違いしたのか、ジャンは勝ち誇ったように言った。
「そこで、その球根の話になるわけだ」
「球根なら…」
 こいつも結局その話か。球根球根って、もううんざりだ。
 取り繕うのも疲れたアスランに、ジャンは追い打ちをかけるように言う。
「手に入らないというのか? 馬鹿を言うな、手に入らないものなどない。王の玉座でさえ、うなるほどの金があれば手に入れられる。女の心など、玉座よりは安いだろうよ」
 何が楽しいのか、ジャンは笑って続ける。
「俺と手を組め。そうすれば、支度金も半々で済む。いや、お前はその王からもらった支度金を手元に丸々残し、俺たちの金を使い、その場所へ案内するだけでもいい。馬も、護衛も、うちのものを使えば、大規模な交渉が出来る。どうだ、お前にとってもこの上ないチャンスだぞ?」
「できません」
「ラーレの花は都で大流行するだろう。王の庭を埋め尽くすほどの花が咲いたら、次は金持ち連中に球根を売りつける。王と同じ花を愛でて、自己満足に浸る金持ちから、ごっそり金を絞り取るんだ。そして、都中がラーレの花で埋め尽くされたら、次は異国に持っていってもいい。おい、アスラン、想像してみろよ、このクゼイが花の都となる様を。そして、その花よりも美しい、うずたかく積まれた金粒の山を」
「どれだけ金が儲かろうが、もうあの球根は手に入らないのです。それに」
 アスランは、もう限界だった。
 ジャンが何だ、ユクセル様が何だ、俺はもう誰の指図も受けずに、自分の考えで商いをするんだ。
 アスランは、遠慮なくジャンを睨みつけて言った。
「球根を仕入れるにしても、俺は決してお前となんか手を組まない!」
「何だと…」
「若旦那様!」
 興奮したジャンの顔が真っ赤になり、そしてアスランに殴りかかろうとするのを、ルザが懸命に止めた。
「恩をあだで返すとはこのことだな! ルザ、離せ!」
 ジャンはルザを力いっぱい振りほどくと、思い切りアスランを睨みつけながら、乱れた服を正した。
「いつまでもちやほやされると思うなよ。お前の目利きなんて大したことないんだ。あの球根がなかったら、お前は終わりなんだからな!」
「商いの才能がないのは、あんただろ!」
「適当なこと言いやがって…ほら、これがお前の目利きがない証拠だ。父上も、この品には困惑しておられたぞ」
 ジャンは、禍々しい目をしてアスランをもう一睨みすると、アスランの足元に何かを投げつけて、足をふみならして出ていく。
「二度と来るな!」
 三人が戸口から出たのを見届けると、アスランは肩をいからせて部屋に戻った。
 絶対に、あいつらの思い通りになんかなるものか。
 腹だたしい気持ちで、再び、長椅子の上に身を投げたアスランの足に、カランと音を立てて、何かが触れた音がした。
「何だ?」
 椅子の下を苛々しながら覗いたアスランは、そこに転がった光を見て、はっと息を飲んだ。
「さっき、ジャンが投げたのはこいつか…」
 ジャンが思い切り投げつけたせいで、少々へこんではいるが、それは月の輝石の光が見えるという、あの黄金の筒にほかならなかった。
「あいつが持っていったんだな…」
 懐かしいものを見つけたように、アスランは手を伸ばし、黄金の筒を拾い上げる。
 そしてその表面に描かれた、月の絵をなぞると、あの迷いの森に道しるべのように置いてきた、月の輝石のことを寂しく思い出す。
 ラーレは、今どうしているだろうか。
 その手の中のひんやりとした感触にうながされるように、アスランはふと黄金の筒を窓の外に向け、中を覗き込んだ。

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