没落令嬢、貧乏騎士のメイドになります
番外編 『新妻奮闘記』
結婚式から一ヶ月が経った。
新妻となったアニエスの生活は、ゆるやかに過ぎていく。
朝、夫ベルナールより早く起床し、身支度を行う。
まだ外は暗く、日の出前。
顔を洗い、ドレスを選んで着こなし、化粧をして、髪型を整える。それらを、たった一時間で仕上げるのだ。
仕事に向かう夫に、毎朝綺麗な姿で会いたいが故の、健気な努力でもある。
そうこうしているうちに、ミエルが目を覚ます。
朝方はベルナールにくっついて眠ていた猫は、日の出と同時にアニエスにすり寄ってニャアニャアと鳴きながら空腹を訴えてくるのだ。
厨房に行けばすでに灯りが点され、料理人のアレンを中心に、ジジルやエリックなどが忙しなく働いていた。
アニエスが顔を出せば、ジジルがミエルの食事を持って来てくれる。
「奥様、おはようございます」
「……はい、おはようございます」
いまだ、「奥様」と呼ばれるのに照れてしまうアニエス。
本当に、結婚したのだなと実感する瞬間でもあった。
長い間、仮の婚約者を務めていた弊害とも言える。
その後、ミエルの食事を見守り、庭の鶏が鳴く時間になれば夫を起こしに向かう。
再び寝室に戻ったアニエスは、寝顔を覗き込む。無防備に眠る姿は、何度見ても可愛いなと思っていたが、鶏の鳴き声を耳にして目的を思い出し、ハッと我に返る。
早く起こさなければ、遅刻をしてしまう。心を鬼にして、体を揺さぶった。
ベルナールは最近、新しく入った従騎士の部隊の教鞭を握ることになり、疲れているのか眠りは深い。
「ベルナール様、朝ですよ」
「うう~~」
ぎゅっと眉間に皺を寄せ、唸り声を上げるベルナール。
もう一度、アニエスは名前を呼んだ。
「ベルナール様」
「……もう、起きてる」
「このままでは、遅刻をしてしまいますよ」
「……それは、困る」
いつの間にかアニエスの枕を抱きしめて眠っていたベルナール。再度唸りながら、枕に顔を埋めていた。
その様子を見て、まだまだ覚醒は遠いように思う。困ったアニエスは、最後の手段に出た。
「今日は、チョコレートケーキを焼きますので」
「……本当か?」
「はい。ケーキと一緒に、お帰りをお待ちしております」
「分かった」
ベルナールは枕を放り投げ、さっと起き上がる。そして、寝台近くにいたアニエスを抱きしめ、朝の挨拶をした。
「やっぱり、枕よりこっちの方がいい」
いなくなってしまった妻の代わりに、枕を抱きしめていたことが発覚する。
耳元で囁かれた言葉に、赤面するアニエスであった。
◇◇◇
ベルナールを見送ったあとは、アニエスの自由時間となる。
使用人をしていた時とは違い、働く必要はない。
その時間は、文通をしているシュ・エリーや義母へ宛てる手紙を書いたり、父親とお茶を飲んだり、お菓子を焼いたりと、充実した時間を過ごす。
廊下を歩いていれば、執事のエリックと料理人のアレンと行き会う。
エリックはいつのも執事の正装姿ではなく、シャツにベスト、ズボンにブーツ姿で、片手にライフル銃、片手に革袋を持っていた。今まで狩猟に行っていたらしい。アレンは詰襟の上着にズボンと、ラフな恰好でいる。
二人共、今まで森に行っていたと話す。エリックは野鳥狩りをしに行っていた模様。
獲物はオルレリアン家の食卓を彩る。
謎が多いエリックの、意外な一面を知ることになった。
アレンも森の散策に同行したようで、木の実やキノコなどを見せてくれた。
さらに廊下を進めば、荷物を抱える庭師、ドミニクがやって来た。
箱の中には、大量の軟膏が入っていた。最近街の雑貨屋で、屋敷の植物から作った保湿軟膏の委託販売しており、そこそこの収入になっているとベルナールから話を聞いていたのだ。
ちなみに、売り上げの三分の一をオルレリアン家に入れている。
お疲れさまですと、アニエスは労いの言葉をかけた。
途中、ジジルとも会う。
近所の養蜂農園で、蜂蜜と庭の花を物々交換してきたと、嬉しそうに見せてくれた。
ベルナールにパンケーキを作り、上からかけてあげると喜ぶという耳寄りな情報を手に入れる。
厨房の横を通り過ぎれば、お買い物から帰って来たキャロルとセリアの賑やかな声が聞こえてきた。
入って来た母、ジジルの顔を見るなり、お使いの成果を報告する。
「見て、小さなジャガイモ、おまけでもらった!」
「元気が良いからだって」
「いいわねえ、あなた達は普通にしていても、おまけがもらえて」
ジジルがそう言えば、そんなことはないと抗議する双子の姉妹。
「これは努力の成果で、人心掌握術を使ったの!」
「八百屋さんの心を、鷲の爪のように狙って掴んだんだから!」
「まあ、そうだったの」
母娘の微笑ましいやりとりに、アニエスは頬を緩ませていたが、ふとあることに気付く。
使用人一家はオルレリアン家の家計を助けるため、並々ならぬ努力をしていたのだと。
夜になり、ベルナールが帰宅をする。
アニエスが待ちに待った瞬間であった。
夕食のメインは野鳥の蒸し煮。数日前にエリックが仕留めた鳥で、熟成と丁寧な調理を経て、驚くほど柔らかな肉質になっている。ソースには蜂蜜が使われているのが分かり、きっとジジルがもらって来た物を使っているのだろうとアニエスは思う。付け合わせの揚げジャガも、キャロルとセリアがおまけでもらった物だった。
今まで知らずに口にしていたのだと思い神への祈りの時に、使用人一家への感謝の気持ちも、心の中で思い浮かべることにした。
それから、アニエスは考える。自分に出来ることはないのかと。
父親に相談をしてみれば、思いがけない着想を挙げてくれた。
年々、野菜の値段が高騰しつつあるので、家庭菜園でも始めてみてはどうかと。
さっそく、アニエスがやってみようと決意を口にすれば、父シェザールも手伝うと言ってきた。
「お父様も、家庭菜園を?」
「別に、お前やベルナールのためではない。……そう、以前から、興味があったのだ!」
「左様でございましたか」
こうして、アニエスとシェザールの親子は、家庭菜園を始めることになった。
とは言っても、右も左も分からない状況なので、ドミニクに教えを乞うことにした。
家庭菜園という身近な言葉であったが、地面に種を蒔けば安易に育つわけではない。環境が整っていないので、土作りから始めなければならないのだ。
まず、庭の一角に畑を作った。
土は、しっかり養分や空気を含んだ物でなければならない。
穴を掘って藁や枯れ葉を敷き、水を与えて土を被せる。上から貝殻を粉末にした物を振りかける、というのを何度か繰り返し、数ヶ月熟成させた物を使うのが理想だとドミニクは言う。
今回は特別に、仕込んでいた特製の土を分けてもらった。
秋から冬にかけて育つのは大根に玉葱、蕪などの根菜類がメイン。
アニエスとシェザールは種を蒔き、泥まみれになりながらもせっせと毎日世話をした。
数ヵ月後。
ドミニクの協力もあって、立派な野菜を収穫することになった。
土から抜いた野菜を見て、シェザールはほうと感心するような声をあげる。
「種からここまで育つんだな。正直驚いた」
「ええ、本当に」
調理された野菜しか知らなかった親子には驚きの出来事で、穫れたての瑞々しい野菜は、夕食のスープとなった。
夜、仕事から帰って来たベルナールは食堂の席につく。
エリックが湯気のたつスープを、一家の主の前に置いた。
食前の祈りをしたのちに、ベルナールはスープ用の匙を手に取って皿から野菜を掬う。
「――義父上、何か?」
「!」
自分が作った野菜を食べるところを見ようと、シェザールはベルナールを睨み付けるようにしていたのだ。不審に思われ、どうかしたのかと聞かれてしまう。
「な、なんでもない、早く食べろ」
「はあ、左様で」
同時に、匙を握らないまま、皿のスープを眺めるアニエスにも声をかける。
「アニエスも、食べないのか?」
「は、はい、いただきます」
シェザールとアニエスが食事を始めたので、ベルナールもスープと蕪を掬って口にする。が、食べたあとも無反応で、味など伝わってこなかった。
そこで、エリックが質問をする。
「旦那様、本日のスープはいかがでしょうか?」
「いや、いつものアレンの味だが」
なんとも味気ない感想だった。が、そのあとに続く言葉があった。
「――でも、なんだか今日の蕪は特別甘くて、美味しい気がする」
その発言に、パッと表情を明るくする親子。
二人の努力が報われた瞬間でもあった。
ベルナールはその変化に気付かずに、美味しい冬野菜のスープをじっくり堪能していた。
新妻となったアニエスの生活は、ゆるやかに過ぎていく。
朝、夫ベルナールより早く起床し、身支度を行う。
まだ外は暗く、日の出前。
顔を洗い、ドレスを選んで着こなし、化粧をして、髪型を整える。それらを、たった一時間で仕上げるのだ。
仕事に向かう夫に、毎朝綺麗な姿で会いたいが故の、健気な努力でもある。
そうこうしているうちに、ミエルが目を覚ます。
朝方はベルナールにくっついて眠ていた猫は、日の出と同時にアニエスにすり寄ってニャアニャアと鳴きながら空腹を訴えてくるのだ。
厨房に行けばすでに灯りが点され、料理人のアレンを中心に、ジジルやエリックなどが忙しなく働いていた。
アニエスが顔を出せば、ジジルがミエルの食事を持って来てくれる。
「奥様、おはようございます」
「……はい、おはようございます」
いまだ、「奥様」と呼ばれるのに照れてしまうアニエス。
本当に、結婚したのだなと実感する瞬間でもあった。
長い間、仮の婚約者を務めていた弊害とも言える。
その後、ミエルの食事を見守り、庭の鶏が鳴く時間になれば夫を起こしに向かう。
再び寝室に戻ったアニエスは、寝顔を覗き込む。無防備に眠る姿は、何度見ても可愛いなと思っていたが、鶏の鳴き声を耳にして目的を思い出し、ハッと我に返る。
早く起こさなければ、遅刻をしてしまう。心を鬼にして、体を揺さぶった。
ベルナールは最近、新しく入った従騎士の部隊の教鞭を握ることになり、疲れているのか眠りは深い。
「ベルナール様、朝ですよ」
「うう~~」
ぎゅっと眉間に皺を寄せ、唸り声を上げるベルナール。
もう一度、アニエスは名前を呼んだ。
「ベルナール様」
「……もう、起きてる」
「このままでは、遅刻をしてしまいますよ」
「……それは、困る」
いつの間にかアニエスの枕を抱きしめて眠っていたベルナール。再度唸りながら、枕に顔を埋めていた。
その様子を見て、まだまだ覚醒は遠いように思う。困ったアニエスは、最後の手段に出た。
「今日は、チョコレートケーキを焼きますので」
「……本当か?」
「はい。ケーキと一緒に、お帰りをお待ちしております」
「分かった」
ベルナールは枕を放り投げ、さっと起き上がる。そして、寝台近くにいたアニエスを抱きしめ、朝の挨拶をした。
「やっぱり、枕よりこっちの方がいい」
いなくなってしまった妻の代わりに、枕を抱きしめていたことが発覚する。
耳元で囁かれた言葉に、赤面するアニエスであった。
◇◇◇
ベルナールを見送ったあとは、アニエスの自由時間となる。
使用人をしていた時とは違い、働く必要はない。
その時間は、文通をしているシュ・エリーや義母へ宛てる手紙を書いたり、父親とお茶を飲んだり、お菓子を焼いたりと、充実した時間を過ごす。
廊下を歩いていれば、執事のエリックと料理人のアレンと行き会う。
エリックはいつのも執事の正装姿ではなく、シャツにベスト、ズボンにブーツ姿で、片手にライフル銃、片手に革袋を持っていた。今まで狩猟に行っていたらしい。アレンは詰襟の上着にズボンと、ラフな恰好でいる。
二人共、今まで森に行っていたと話す。エリックは野鳥狩りをしに行っていた模様。
獲物はオルレリアン家の食卓を彩る。
謎が多いエリックの、意外な一面を知ることになった。
アレンも森の散策に同行したようで、木の実やキノコなどを見せてくれた。
さらに廊下を進めば、荷物を抱える庭師、ドミニクがやって来た。
箱の中には、大量の軟膏が入っていた。最近街の雑貨屋で、屋敷の植物から作った保湿軟膏の委託販売しており、そこそこの収入になっているとベルナールから話を聞いていたのだ。
ちなみに、売り上げの三分の一をオルレリアン家に入れている。
お疲れさまですと、アニエスは労いの言葉をかけた。
途中、ジジルとも会う。
近所の養蜂農園で、蜂蜜と庭の花を物々交換してきたと、嬉しそうに見せてくれた。
ベルナールにパンケーキを作り、上からかけてあげると喜ぶという耳寄りな情報を手に入れる。
厨房の横を通り過ぎれば、お買い物から帰って来たキャロルとセリアの賑やかな声が聞こえてきた。
入って来た母、ジジルの顔を見るなり、お使いの成果を報告する。
「見て、小さなジャガイモ、おまけでもらった!」
「元気が良いからだって」
「いいわねえ、あなた達は普通にしていても、おまけがもらえて」
ジジルがそう言えば、そんなことはないと抗議する双子の姉妹。
「これは努力の成果で、人心掌握術を使ったの!」
「八百屋さんの心を、鷲の爪のように狙って掴んだんだから!」
「まあ、そうだったの」
母娘の微笑ましいやりとりに、アニエスは頬を緩ませていたが、ふとあることに気付く。
使用人一家はオルレリアン家の家計を助けるため、並々ならぬ努力をしていたのだと。
夜になり、ベルナールが帰宅をする。
アニエスが待ちに待った瞬間であった。
夕食のメインは野鳥の蒸し煮。数日前にエリックが仕留めた鳥で、熟成と丁寧な調理を経て、驚くほど柔らかな肉質になっている。ソースには蜂蜜が使われているのが分かり、きっとジジルがもらって来た物を使っているのだろうとアニエスは思う。付け合わせの揚げジャガも、キャロルとセリアがおまけでもらった物だった。
今まで知らずに口にしていたのだと思い神への祈りの時に、使用人一家への感謝の気持ちも、心の中で思い浮かべることにした。
それから、アニエスは考える。自分に出来ることはないのかと。
父親に相談をしてみれば、思いがけない着想を挙げてくれた。
年々、野菜の値段が高騰しつつあるので、家庭菜園でも始めてみてはどうかと。
さっそく、アニエスがやってみようと決意を口にすれば、父シェザールも手伝うと言ってきた。
「お父様も、家庭菜園を?」
「別に、お前やベルナールのためではない。……そう、以前から、興味があったのだ!」
「左様でございましたか」
こうして、アニエスとシェザールの親子は、家庭菜園を始めることになった。
とは言っても、右も左も分からない状況なので、ドミニクに教えを乞うことにした。
家庭菜園という身近な言葉であったが、地面に種を蒔けば安易に育つわけではない。環境が整っていないので、土作りから始めなければならないのだ。
まず、庭の一角に畑を作った。
土は、しっかり養分や空気を含んだ物でなければならない。
穴を掘って藁や枯れ葉を敷き、水を与えて土を被せる。上から貝殻を粉末にした物を振りかける、というのを何度か繰り返し、数ヶ月熟成させた物を使うのが理想だとドミニクは言う。
今回は特別に、仕込んでいた特製の土を分けてもらった。
秋から冬にかけて育つのは大根に玉葱、蕪などの根菜類がメイン。
アニエスとシェザールは種を蒔き、泥まみれになりながらもせっせと毎日世話をした。
数ヵ月後。
ドミニクの協力もあって、立派な野菜を収穫することになった。
土から抜いた野菜を見て、シェザールはほうと感心するような声をあげる。
「種からここまで育つんだな。正直驚いた」
「ええ、本当に」
調理された野菜しか知らなかった親子には驚きの出来事で、穫れたての瑞々しい野菜は、夕食のスープとなった。
夜、仕事から帰って来たベルナールは食堂の席につく。
エリックが湯気のたつスープを、一家の主の前に置いた。
食前の祈りをしたのちに、ベルナールはスープ用の匙を手に取って皿から野菜を掬う。
「――義父上、何か?」
「!」
自分が作った野菜を食べるところを見ようと、シェザールはベルナールを睨み付けるようにしていたのだ。不審に思われ、どうかしたのかと聞かれてしまう。
「な、なんでもない、早く食べろ」
「はあ、左様で」
同時に、匙を握らないまま、皿のスープを眺めるアニエスにも声をかける。
「アニエスも、食べないのか?」
「は、はい、いただきます」
シェザールとアニエスが食事を始めたので、ベルナールもスープと蕪を掬って口にする。が、食べたあとも無反応で、味など伝わってこなかった。
そこで、エリックが質問をする。
「旦那様、本日のスープはいかがでしょうか?」
「いや、いつものアレンの味だが」
なんとも味気ない感想だった。が、そのあとに続く言葉があった。
「――でも、なんだか今日の蕪は特別甘くて、美味しい気がする」
その発言に、パッと表情を明るくする親子。
二人の努力が報われた瞬間でもあった。
ベルナールはその変化に気付かずに、美味しい冬野菜のスープをじっくり堪能していた。
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