没落令嬢、貧乏騎士のメイドになります
第六十一話 なりきれないご令嬢
祖父カルヴィンより衝撃的な計画が発表されたあと、ベルナールとアニエスは呼び方の練習をするように言われ、客間に取り残される。
「あ、あの、わたくし、前にも言いましたが、演技なんて、とても――」
「でもお前、俺の婚約者役、上手くやっていたじゃないか」
「あれは、演技ではありません。ベルナール様を、その、かねてよりお慕いしておりましたので……」
「そ、そうだったのか」
婚約者役を演じている時、アニエスはオセアンヌの前で愛の告白をした。
その場しのぎで言ってくれたものだと思っていたので、急に申し訳ないやら恥ずかしいやらで、なんとも言えない気分になる。
「あ~、なんだ、婚約者役をやらせた件については、本当に、悪かった」
「いえ……」
アニエスは首を横に振り、気にしないでくれと言う。周囲を騙すことに対し辛いと思うこともあったが、心の片隅では夢のようだと感じているところもあったと話す。
「夢?」
「はい。ベルナール様のお隣に立つことを、夢見ていました。でも、そんな感情を抱くこと自体、いけないことだと……」
その当時のアニエスは一介の使用人として屋敷に居た。
主人と使用人の結婚なんてありえないことで、たとえ嘘であっても、婚約者になれたのは喜ばしいことであったと語る。
「苦しかったり、嬉しかったり、浮かれたり、落ち込んだり、その時のわたくしは、大変忙しい日々を送っていました」
「アニエス……」
「けれど、振り返ってみれば、楽しい日々でした。今までの人生の中で、一番輝いていたような気がします」
アニエスは言う。
社交界で生きる貴族令嬢としての人生は、矯正下着でぎゅうぎゅうに締め付けられ、自由の利かない物だと。
「――目の前に美味しそうな食事があっても、苦しくて食べられないのです」
それは比喩である。ベルナールも理解していた。
「ですが、矯正下着から解放されても、自由になるわけではありません」
貴族社会の狭い範囲でしか生きられないような躾を受けた者が、社交界の外で生きていけるわけもない。
常識も、お金の価値も、生活環境だって違う。
「ですが、わたくしは幸運でした。所持金が尽きようとしていたあの日、ベルナール様に逢えた――」
「お前を家に連れて帰った動機は酷いものだったがな」
「普通の出会い方をしていれば、今、こうして隣り合って座っていることはなかったでしょうね」
「まあ、そうだ」
「思えば、これまで様々な困難を、ベルナール様と共に乗り越えてきたような気がします」
「屋敷の雨漏りから始まってな」
「ええ」
それを思えば、今回の演技もきっと上手くいくだろうと、アニエスは凛とした表情で言った。
「だったら、俺のことも呼び捨てに出来るな」
「!」
「どうした?」
「わ、忘れていました」
「一回呼んでみろよ」
「……」
アニエスは意を決したように口を開いたが、なかなか言葉にならない。
眉間にぐっと皺を寄せ、険しい顔つきになる。
ベルナールは状況も大切だと思って立ち上がると、アニエスの斜め前にしゃがみ込み、その場で膝を突いた。
「――そんなに難しいことでありますか、アニエスお嬢様?」
「ベルナール様!」
「私のことは、どうぞ、呼び捨てで」
顔を一気に真っ赤にして、涙目になるアニエス。
「あ、あの、その……」
傅く姿を直視出来ず、視線は宙を彷徨う。
その様子を見て、「駄目だこりゃ」とベルナールは呟いた。
「よし分かった。名前を変えよう」
このままでは名前を呼び捨てにするなど不可能だと思った。なので、偽名を考えることにする。
「じゃあ、適当にモーリス」
「モーリス様」
「ロラン……」
「ロラン様」
「エドガール!」
「エドガール様」
ベルナールは綺麗に整えていた髪をぐしゃぐしゃにしながら叫ぶ。様を付けずに、呼び捨てにしろと。
「ベルナール様を呼びかけるのに、呼び捨てなんて、とても……!」
「お前の中で俺は何様なんだよ!!」
「ベルナール様、です」
「なんじゃそりゃ!」
申し訳ないと、しゅんと肩を落とすアニエス。
どうしたものかと、ベルナールは頭を抱えていた。
だが、ふと思い浮かぶ。アニエスが唯一呼び捨てにする存在を。
「ミエル!!」
「ミエル?」
「それだ!!」
猫の名前、ミエルなら様を付けなくても呼べる。
これから従僕役をするベルナールを、ミエルと呼べばいいと思いついたのだ。
「呼んでみろ」
「……ミエル」
「そうだ!」
港街に滞在中、ミエルとベルナールの名は、交換をすることに決まる。
これで、呼びかけ問題は無事に解決した。
功労者(?)のミエルには、魚の燻製(猫用)が贈られることになった。
◇◇◇
翌日は怒涛の買い物ツアーとなった。
各々行くと思いきや、ベルナールとアニエスはオセアンヌに捕まってしまう。
二人共、厳しい監視の元で必要な品を買い集めることになった。
従僕役のベルナールの買い物は実にシンプルであった。
使用人は主人のおさがりの礼服を着る場合が多く、仕着せは家から持ってきていた物で問題なかった。一応、知り合いに会った時の対策として、変装用の伊達眼鏡と、髪を黒く染める染料を購入するばかりである。
一方で、アニエスは寸法の合うドレスや靴は片っ端から購入するような勢いで、買い集めていく。
荷車にどんどんと積み重なっていく箱を見ながら、アニエスは涙で目を潤ませていた。
「こんなに、必要なのでしょうか?」
「ええ、必要ですよ。アニエスさんは富豪の娘という設定ですから、お着替えはたくさん必要です」
支払いについても気にするなとオセアンヌは言う。経済を回すことは、良いことしかないのだと諭すように話していた。
おろおろとするアニエスの背を、ベルナールはぽんと軽く叩く。
「下手な恰好で来れば、祖父に怒られるからな。大変だろうが、付き合ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
ベルナールの励ましを受け、なんとか気を確かにするアニエスであった。
購入した品は店の担当が部屋に運んでくれる。
部屋に戻ったアニエスはドレスや小物が入った箱の山を見て、くらりと立ち眩みを覚えた。だが、これも試練だと思うようにする。
使用人一家も、富豪になりきるための服装をオセアンヌより合格をもらえるレベルで買い集めていた。
こうして、丸々一日かけての買い物は無事に終了となった。
◇◇◇
三日目の朝。
船は国内で一番大きな港街へと到着した。
ここは大商人カルヴィン・エキューデが拠点とする街で、国内第二の都市とも言われている。
世界中の品々を流通させる中継ぎ貿易港でもあり、港を行き来する者達はほとんどが商人。異国の文化も多く取り入れているため、王都とはまったく雰囲気が違う場所となっている。
その地に降り立ったのは、とある富豪一家だった。
絹織物の工場経営をするドミニク・アントワーヌ。妻のジジルに長男のエリック、長女のアニエス。一家は、熊のような大男のドミニクを除いて、大層秀麗である。
その一家に仕えるのが、執事のアレン、侍女のオセアンヌ、従僕のミエル。
従僕ミエルは、お嬢様の大切な猫、『ベルナール』の入った籠を大切そうに抱えていた。
ミャアミャアという鳴き声を聞いて、オセアンヌは言う。
「まあまあ、ベルナール様ったら、お嬢様に甘えたいのでしょう。我慢できないなんて、困った子」
その発言を傍で聞いた執事のアレンは、噴き出しそうになった口元を慌てて押さえる。
眼鏡をかけた従僕のミエルは、何故か顔を真っ赤にして、ぶるぶると震えていた。
ボー、という船舶の汽笛合図と同時に、周囲に聞こえないような声でジジルが呟く。
「……駄目だ、面白すぎる」
「あ、あの、わたくし、前にも言いましたが、演技なんて、とても――」
「でもお前、俺の婚約者役、上手くやっていたじゃないか」
「あれは、演技ではありません。ベルナール様を、その、かねてよりお慕いしておりましたので……」
「そ、そうだったのか」
婚約者役を演じている時、アニエスはオセアンヌの前で愛の告白をした。
その場しのぎで言ってくれたものだと思っていたので、急に申し訳ないやら恥ずかしいやらで、なんとも言えない気分になる。
「あ~、なんだ、婚約者役をやらせた件については、本当に、悪かった」
「いえ……」
アニエスは首を横に振り、気にしないでくれと言う。周囲を騙すことに対し辛いと思うこともあったが、心の片隅では夢のようだと感じているところもあったと話す。
「夢?」
「はい。ベルナール様のお隣に立つことを、夢見ていました。でも、そんな感情を抱くこと自体、いけないことだと……」
その当時のアニエスは一介の使用人として屋敷に居た。
主人と使用人の結婚なんてありえないことで、たとえ嘘であっても、婚約者になれたのは喜ばしいことであったと語る。
「苦しかったり、嬉しかったり、浮かれたり、落ち込んだり、その時のわたくしは、大変忙しい日々を送っていました」
「アニエス……」
「けれど、振り返ってみれば、楽しい日々でした。今までの人生の中で、一番輝いていたような気がします」
アニエスは言う。
社交界で生きる貴族令嬢としての人生は、矯正下着でぎゅうぎゅうに締め付けられ、自由の利かない物だと。
「――目の前に美味しそうな食事があっても、苦しくて食べられないのです」
それは比喩である。ベルナールも理解していた。
「ですが、矯正下着から解放されても、自由になるわけではありません」
貴族社会の狭い範囲でしか生きられないような躾を受けた者が、社交界の外で生きていけるわけもない。
常識も、お金の価値も、生活環境だって違う。
「ですが、わたくしは幸運でした。所持金が尽きようとしていたあの日、ベルナール様に逢えた――」
「お前を家に連れて帰った動機は酷いものだったがな」
「普通の出会い方をしていれば、今、こうして隣り合って座っていることはなかったでしょうね」
「まあ、そうだ」
「思えば、これまで様々な困難を、ベルナール様と共に乗り越えてきたような気がします」
「屋敷の雨漏りから始まってな」
「ええ」
それを思えば、今回の演技もきっと上手くいくだろうと、アニエスは凛とした表情で言った。
「だったら、俺のことも呼び捨てに出来るな」
「!」
「どうした?」
「わ、忘れていました」
「一回呼んでみろよ」
「……」
アニエスは意を決したように口を開いたが、なかなか言葉にならない。
眉間にぐっと皺を寄せ、険しい顔つきになる。
ベルナールは状況も大切だと思って立ち上がると、アニエスの斜め前にしゃがみ込み、その場で膝を突いた。
「――そんなに難しいことでありますか、アニエスお嬢様?」
「ベルナール様!」
「私のことは、どうぞ、呼び捨てで」
顔を一気に真っ赤にして、涙目になるアニエス。
「あ、あの、その……」
傅く姿を直視出来ず、視線は宙を彷徨う。
その様子を見て、「駄目だこりゃ」とベルナールは呟いた。
「よし分かった。名前を変えよう」
このままでは名前を呼び捨てにするなど不可能だと思った。なので、偽名を考えることにする。
「じゃあ、適当にモーリス」
「モーリス様」
「ロラン……」
「ロラン様」
「エドガール!」
「エドガール様」
ベルナールは綺麗に整えていた髪をぐしゃぐしゃにしながら叫ぶ。様を付けずに、呼び捨てにしろと。
「ベルナール様を呼びかけるのに、呼び捨てなんて、とても……!」
「お前の中で俺は何様なんだよ!!」
「ベルナール様、です」
「なんじゃそりゃ!」
申し訳ないと、しゅんと肩を落とすアニエス。
どうしたものかと、ベルナールは頭を抱えていた。
だが、ふと思い浮かぶ。アニエスが唯一呼び捨てにする存在を。
「ミエル!!」
「ミエル?」
「それだ!!」
猫の名前、ミエルなら様を付けなくても呼べる。
これから従僕役をするベルナールを、ミエルと呼べばいいと思いついたのだ。
「呼んでみろ」
「……ミエル」
「そうだ!」
港街に滞在中、ミエルとベルナールの名は、交換をすることに決まる。
これで、呼びかけ問題は無事に解決した。
功労者(?)のミエルには、魚の燻製(猫用)が贈られることになった。
◇◇◇
翌日は怒涛の買い物ツアーとなった。
各々行くと思いきや、ベルナールとアニエスはオセアンヌに捕まってしまう。
二人共、厳しい監視の元で必要な品を買い集めることになった。
従僕役のベルナールの買い物は実にシンプルであった。
使用人は主人のおさがりの礼服を着る場合が多く、仕着せは家から持ってきていた物で問題なかった。一応、知り合いに会った時の対策として、変装用の伊達眼鏡と、髪を黒く染める染料を購入するばかりである。
一方で、アニエスは寸法の合うドレスや靴は片っ端から購入するような勢いで、買い集めていく。
荷車にどんどんと積み重なっていく箱を見ながら、アニエスは涙で目を潤ませていた。
「こんなに、必要なのでしょうか?」
「ええ、必要ですよ。アニエスさんは富豪の娘という設定ですから、お着替えはたくさん必要です」
支払いについても気にするなとオセアンヌは言う。経済を回すことは、良いことしかないのだと諭すように話していた。
おろおろとするアニエスの背を、ベルナールはぽんと軽く叩く。
「下手な恰好で来れば、祖父に怒られるからな。大変だろうが、付き合ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
ベルナールの励ましを受け、なんとか気を確かにするアニエスであった。
購入した品は店の担当が部屋に運んでくれる。
部屋に戻ったアニエスはドレスや小物が入った箱の山を見て、くらりと立ち眩みを覚えた。だが、これも試練だと思うようにする。
使用人一家も、富豪になりきるための服装をオセアンヌより合格をもらえるレベルで買い集めていた。
こうして、丸々一日かけての買い物は無事に終了となった。
◇◇◇
三日目の朝。
船は国内で一番大きな港街へと到着した。
ここは大商人カルヴィン・エキューデが拠点とする街で、国内第二の都市とも言われている。
世界中の品々を流通させる中継ぎ貿易港でもあり、港を行き来する者達はほとんどが商人。異国の文化も多く取り入れているため、王都とはまったく雰囲気が違う場所となっている。
その地に降り立ったのは、とある富豪一家だった。
絹織物の工場経営をするドミニク・アントワーヌ。妻のジジルに長男のエリック、長女のアニエス。一家は、熊のような大男のドミニクを除いて、大層秀麗である。
その一家に仕えるのが、執事のアレン、侍女のオセアンヌ、従僕のミエル。
従僕ミエルは、お嬢様の大切な猫、『ベルナール』の入った籠を大切そうに抱えていた。
ミャアミャアという鳴き声を聞いて、オセアンヌは言う。
「まあまあ、ベルナール様ったら、お嬢様に甘えたいのでしょう。我慢できないなんて、困った子」
その発言を傍で聞いた執事のアレンは、噴き出しそうになった口元を慌てて押さえる。
眼鏡をかけた従僕のミエルは、何故か顔を真っ赤にして、ぶるぶると震えていた。
ボー、という船舶の汽笛合図と同時に、周囲に聞こえないような声でジジルが呟く。
「……駄目だ、面白すぎる」
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