ブラック企業戦士、異世界で救国の勇者になる

海道 一人

落ちていく

 穴の中をどこまでも落ちていた。




 どの位落ちているのだろうか、既に落ちているという感覚すらも失われた。


 こんな時に思いだすのは何故か不思議の国のアリスの事だった。
 アリスが穴に落ちた時もこんな感覚だったのだろうか。
 いやいや、そんな事を考えてる場合じゃない。
 そもそも何でこんな事になったのだ。


 元々は確か駅のプラットホームを歩いてたはずだった。
 時間は確か二十三時四十五分、地獄のような十九連勤の後で朦朧としながら下車駅の改札に一番近い入口で開く車両に向かって歩いてる時だった。


 勤め先は業界ではそれなりに名の通った企業、と言えば聞こえがいいがその内情は一年以内の離職率八十%を超える超ブラック企業で、社員の魂を錬金している悪魔のような会社だ。


 先輩営業が現場の状態も知らずに無茶な納期で仕事を取ってきたせいでスケジュールが狂いに狂い、部下である俺まで尻拭いに翻弄する羽目になってしまったのだ。


 客先の罵倒に耐えてスケジュールを調整し、死んだ目をしながら設計図面を描く設計に発破をかけ、現場からの呪詛をいなしつつ上司の叱咤激励という名のパワハラを切り抜け、気が付けば十九連勤、この四日は家にも帰っていない。


 新卒で就職して六年耐えたがもう辞める、絶対に辞めると思いながらプラットホームを歩いている時、急に目の前が暗くなって足がもつれ、ホームから線路によろけてしまったのだ。


 間の悪い事にちょうどそこに通過の特急列車が。


 目の前に迫る先頭車両のライトとおびえた運転手の顔を見た時、頭に浮かんだのは”これで怪我して入院とかになったら休めるな。”だった。


 そして衝撃を覚悟しながら線路に落ちていった俺を待っていたのがどこまでも続く落下となった訳だ。




 不思議な穴だった。


 いや、穴というよりも広い空間といった方が良いのかもしれない。


 周囲はほの白く輝く空間で、上下左右どこまで続いているのか分からない。
 時折赤や青など色とりどりの謎の塊が下(?)と思われる方角から迫ってくる。
 最初こそ驚いたがその塊は霧のような不思議な物体で塊に入る時に一瞬柔らかな感触があるが、落下はとまらずしばらくするとその塊を突き抜けていく。
 俺はひたすら落ち続けて、そういうカラフルな塊を何度も通り抜けていった。
 驚きの後は何故か楽しくなり、次の塊が来るのを楽しみにしていた時期もあったが、やがてそれにも飽きてきて、特に何をすることもないので俺は今までの人生を振り返る事にした。


 俺の名前は布津野ふつの 仁志ひとし、年齢は二十八歳、男。
 取り立てて特徴のある子供ではなかったけれど中高と勉強を頑張ったおかげでそれなりの大学には入れた。
 しかしそこからやる気を失い大学時代を怠惰に過ごした後にそこそこ良い会社に入れたと思ったら入った会社が超絶ブラックときたもんだ。
 そこで心身ともに擦り減らした挙句に、もし自分が第三者だったらブチ切れれてたであろう人身事故で一生を終えるなんて、俺の人生は何だったんだろうか。
 彼女すらできないまま死んでいくのか、なんて事を考えながらひたすら落ちているのかいないのか分からないまま俺は穴の中を落下していった。
 やがて落ちていくという感触にも飽き、いつしか俺は気を失うように眠っていった。




 (起きよ…)
 (目を覚ますのだ、異訪者よ…)
 どこか遠くで声が聞こえる。
 うるさいな。
 こっちは十九連勤でまともに寝てないんだ。
 ちょっと位寝かせてくれ。
 …
 ……
 ………
 って、確か今日納期じゃん!!


 ガバッと起き上がった俺が最初に見た光景は眼下見えるでかいベッドと、俺を見上げる一人の少女、そして…槍を構えた数人の男達だった。


 (な、なんだ…?ここは?)


 そう思ったのも束の間、俺は自分が空中を舞っている事に気付いた。


 何故自分が空中にいるのかもわからないまま体は上昇を止め、重力に引かれて地面に向かって落下していく。


 受け身など取れる訳もなく、俺はまともに背中から床に叩きつけられた。
 床は滑らかな硬い石作りで、背中から落ちた衝撃で目の前に星が飛び、呼吸ができなくなる。


 息も付けず痙攣している俺の目の前に槍の穂先が付きつけられた。
 先ほど見た男達だ。


 まるでファンタジー映画やゲームの世界から出てきたように上半身を鎧で覆い、腰回りに金属のプレートを付けている。
 膝から下も金属製の脛当を付けていて、革で出来ているらしいブーツを履いている。
 頭には金属でできたヘルメットを被っていて、その顔に浮かんだ表情は……
 恐怖?
 俺の周りで槍を構えている七~八人の男達はみな冷や汗を垂らしまるで化け物でも見るように俺を睨みつけていた。


 「異訪者よ…」


 頭の向こうで声がした。
 目を向けると逆さまになった先ほどの少女が見えた。
 少女が手を上げると男達が数歩下がった。
 それでも槍の穂先は俺の方を向いているし、その目から怒りと恐怖は消えていない。


 「起き上がりなさい、異訪者。」


 少女が更に口を開いた。
 それにつられて俺はなんとか身を起こした。


 不思議な事にあれだけ強かに体を打ち付けたのにもうそれ程痛くない。
 というか、最初からあまり痛みは感じていなかったような。
 あまりのショックでアドレナリンが出てるのだろうか?


 少女は金糸で複雑に刺繍がされた真っ白なドレスを着ていた。
 詰めた襟が首の周りを覆い、上半身は体のラインを強調するようにぴったりと張り付いている。
 残念ながら女性的な魅力というよりはまだ少女の面影が残る体格だが、ドレスは体にぴったりで見かけの年齢とは思えない優雅さを醸し出している。
 下半身はドレープがたっぷりとした半透明の生地を幾重にも重ねている。
 服を見ただけで分かる、この少女は周りの男達に守られる立場の人間だと。


 顔は…まず目につくのは燃えるような赤髪だ。
 金というには赤く、燃えるように輝いている。
 その髪を後ろでまとめ、額には金のレースでブローチほどの大きさの宝石が留められている。


 あの宝石だけで俺の十年分の年収以上になるんじゃないだろうか。
 宝石から目を下に移せば、宝石よりも輝く菫色の瞳が俺を見つめている。
 眉はきりりと細く、まつ毛は眉に届くんじゃないかと思う位高く立っている。
 小さめの鼻はつんと上がり、その下には桃色の唇がきゅっと結ばれていて、丸くて小さな顎へと続いている。


 はっきり言って凄い美少女だった。
 おそらく美しすぎて同年齢の男達では声も掛けられないほどの。
 そんな美少女が俺の数メートル先から真っ直ぐ俺を見つめている。
 いや、睨みつけているといった方が良いのかもしれない。
 少女の、薔薇の花弁のような唇が開いた。


 「身を上げよ、異訪者。」


 その言葉は美しい唇から出たとは思えない程冷たく硬く俺の耳に届き、有無を言わせぬその言葉の迫力に俺は思わず片膝をついて身を起こした。


 手に伝わる冷たい石の感触がやけにリアルだ。
 その時、俺ははたと気付いた。


 (待てよ、俺はいま言った言葉の意味を理解してるよな?)


 少女はどう見ても日本人には見えないが言葉が通じるという事はここは日本か?
 つまり、これは何らかのドッキリで、俺は寝てる間にどこかに連れていかれて、周りにいるのはみんな仕込みの役者なのか?


 そう考えると全て納得がいく。
 いや、何で俺がそのドッキリに選ばれたのかは納得がいかないが、少なくともこの状況にある事の納得はいく。


 「あ、あの~。」


 恐る恐る俺は口を開いた。
 ドッキリを仕掛けるのは構わない。いや、大いに構うが今はそれどころじゃない。
 総時間半年に及ぶ案件の納品日なのだ、絶対に遅刻は出来ない。


 「これって、何かのドッキリですよね?
  カメラどこにあるんですか?」


 動揺を悟られないように努めて明るい口調で話しかける。
 どんな状況でもトーンを下げるなと職場で叩きこまれた成果がこんなところで役立つとは。


 「いや~、それにしても凄いですね~。
  こんなセットまで組んで。
  その槍って映画とかドラマ用の小道具ですか?リアルですねぇ~。」


 どこかの劇団員であろう男達にも話しかけてみた。
 しかし返事は返ってこない。
 むしろ表情を更に硬くし、突き出した槍は全く引っ込む様子がない。


 「あの~、僕には仕事があってでしてね、今日は凄く重要な日なんですよ。
  出来ればそろそろ帰していただけないでしょうか?」


 なるべく神経を逆なでしないようにあえて下手に出つつ、自分の要望をはっきりと伝える。
 これも仕事でで覚えたセオリーだ。
 相手は絶対に怒らせてはいけない。
 しかし、答えは返ってこない。
 少女は無言で俺を見つめながら近づいてくる。


 「あの~、聞こえてます?
 いい加減帰していただかないと弊社にとって重大な損失が生まれる可能性があるんですよ。
 そうなったらお宅らに損害賠償を請求する事になる可能性だってあるんですよ?」


 ここで相手に危機感を抱かせるために若干の脅しを入れる。
 金銭面でプレッシャーをかける事は基本中の基本だ。
 しかし、少女は全く動じていない。
 俺の側まで歩み寄ると両手を目の前にかざし、目を閉じて何かをぶつぶつ呟いている。
 「おい!聞いてんのかよっ!!
  いい加減にしろって言ってんだよっ!!」


 止む無く恫喝フェーズに入る。
 相手にショックを与えて何らかのリアクションを引き出すブラック企業ならではの交渉術だ。
 本来は自分達の立場が上だとはっきりした上でやるのがセオリーだが、そうも言ってられない。
 というか正直言うと若干焦っていた。


 寝てる間にはぎ取られたのか身に着けていたのは薄くてゴワゴワした布で出来た寝巻のようなもので、腕時計もスマホもいつの間にか消えていたが、体内時計が間違いなく遅刻をしていると告げている。
 なにより心の奥底から響く内なる声に不安を煽られていた。


 ひょっとするとここは日本ではないのかもしれない、と。


 「ふざけてんじゃ…」


 気が付くと俺の声は驚きと共に立ち消えていた。
 胸の前に両手を合わせるように広げた少女の手の間がまばゆい光を放っている。


 (なんだ!?イリュージョンか?)


 そう思いつつ呆然と見ていると、その光が次第に凝縮していき、真ん中に小さな宝石のようなものが姿を現してきた。
 いや、元々そこにあって光で見えなかっただけなのかもしれない。


 ともかく、その宝石は少女の手と手の間に重力の干渉を受けていないかのように浮かんでいる。


 少女はなおも目をつむったまま何かを呟いている。
 光はやがて宝石に吸い込まれるかのように消えていった。
 光が消えた瞬間、宝石が少女の手の間から飛び出して俺の胸を穿った。
 胸を打つ衝撃に思わずのけぞる。


 しかしそれはその後に訪れた苦痛に比べたら蚊に刺されたようなものだった。
 宝石に抉られた部分を中心に想像すら絶する痛みが俺の体を蹂躙していた。
 例えるなら胸に飛び込んだ宝石からガラスの糸が伸び体の神経という神経を縛り上げる様なものだろうか。
 叫び声すらあげられず、のたうち回る事も出来ない痛みに俺は体を硬直したまま床に倒れ伏す。


 「…せよ……は……で……まる。」


 少女が何かを言ってきているが全く耳に入らない。
 というか周囲で何が起きているかなんてどうでもいい。
 まるで血管という血管に蟻が入り込んで内部から齧りつかれているようだ。
 死ぬ、というか発狂する。
 という実感が脳裏を掠めた時、ふいに痛みが消えた。
 おそらくは一瞬だったのだろうが、呼吸すら忘れていたため俺はまるでフルマラソンを 走り切ったように荒い息をついていた。


 「……な、なにを……?」


 やっと声を絞り出しながら謎の宝石を投げつけてきた少女の方を睨み返す。
 が、当の少女の顔に浮かんでいたのは驚愕の表情だった。


 「そ、そんな…私の魔晶魂縛法が…」


 少女はよく分からない事を呟きながら数歩あとずさり、キッと俺の方を睨み返して再び手を前にかざした。


 (冗談じゃねえ!またやる気かよ!)


 先ほどの苦痛を思い出し、とっさに逃げ出す俺。


 「そこを動くなっ!」


 不意に横から怒鳴り声が響き、振り返ると俺の周囲で槍を構えていた男達の一人が突き出した槍の穂先が俺の目の前に飛び込んでくる所だった。

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