日々の事

増田朋美

日々の事

日々の事
今日もただ一人で、電車に乗って、ただ一人で仕事から帰ってくる日々だ。それでは、何の楽しみもないし、悲しみもない。ただ、つまらない日々が、続いていくだけだ。誰でも、そうだと思うんだけど、つまらない毎日が続いていると、変なことを思いついてしまうものである。
「れい子さん、ご実家から電話。」
会社の同僚から言われて、れい子は、言われるがままに受話器を取った。なんでまったく、今時携帯電話かスマートフォンを持っているのが当たり前なはずなのに、なんで、会社に電話をかけてくるんだろうか。れい子の家族は恐ろしく古い観念を持っているようなのだ。もう、会社のひとに迷惑がかかるから、スマートフォンにかけて、と、実家の母には言ってあるのに、母は、それを一度も守ったためしがない。実家から電話をかけてくると言ったら、大体、母である事がほとんどで、それも大した用事がないのに、かけてくるからいやなのだ。
「ほら。早く出てやってよ。」
どうせ、母の事だから、大したことはないだろう。母もつまらない生活で、話し相手が欲しいから、電話をよこしてくるのだから。
母は、確か、五歳年上の兄と同居していた。兄夫婦が、母を管理していると言ってもいい。母の事は、兄にまかせっきりにしていた。どうせ、自分の事は、たいして見ていなくて、兄の事しか見ていないと
、れい子は思っていたからだ。兄はものすごく成績が優秀だったし、しっかりした大学にも行ったし、高校までしか行っていない自分にとっては、ものすごい落差であるようなものだった。どうせ、自分の事なんか、家族も親戚も何も見てくれないのだ。だから、れい子は、高校を卒業して、自立していいことになると、直ぐに就職することを決めた。いつもいつも、兄と比較されるのではなく、もう自分は自分の世界だけで、生きていければそれでいいや。れい子はそう思っていた。
「はい、もしもし。」
「ああ、れい子?」
いつも通り、かけてきたのは母だった。
「お母さん仕事中はよしてよ。暇なときこっちから電話するから。」
れい子もいつも通りの言葉を言うが、
「何を言っているの。あんたと喧嘩するのが張り合いよ。」
母は、おだやかな口調で言うのだった。
「暇なとき電話するって、何回も同じこと言っているのに、一度も電話した試しがないじゃないの。仕事のほうはどう?うまくいってる?」
「うまくいってるわよ。もうこんな時に電話なんかしないでよ。又後でかけるから、もうちょっと待ってて。」
「あら、あとでかけるっていつになるのかしら?」
母は、一寸からかうように言った。
「いつになるって、今は仕事中なのよ。そんな大事な時にかけないでよ。」
と、れい子は周りを見た。周りの社員たちもれい子の顔を見ている。中には全く、れい子さんのお母さんは、娘さん思いでいいなあなんて言っている若い社員もいる。れい子はそれが嫌だった。
「菅さんって、容姿も何歳なのかわからないと思ったら、お母さんもまだ健在って、本当に何歳だかわからないわね。」
と、別の若い女性社員が、小さい声で言った。れい子は、それを聞くと、余計に母の電話が嫌になった。
「もう、私の事考えてよ!周りの子たちに、あたしが何歳だかわからないなんて、からかわれるのよ。もういい加減にして。仕事中に電話なんてかけてこないで。」
れい子は周りのひとたちがそういっているのを見て、お母さんに思わず言ってしまった。
「はいはい。分かったわよ。れい子がそういう事言うんだったらまだ元気よね。其れならよかった。じゃあ、こっちの事は心配ないから、又、暇なときにかけるわよ。その時はよろしくね。」
と、母はからからと笑って、電話を切った。れい子は、嫌そうに電話の受話器を置いた。
「菅さんって見かけじゃ年齢がわからないけど、お母さんが元気でいいですね。うち何て、もう要介護が付いているけど、菅さんのお母さんは、そんなことないみたい。」
と、隣の席に座っている女性が、れい子にそういうことを言った。
「いやあ、うるさいだけよ。」
とれい子は苦笑いして、仕事に戻ろうとするが、
「いいじゃないですか。お母さんにかまってもらえるうちが、花ってもんですよ。うちみたいになんでもしてやらなきゃならないってわけでもないんだから、れい子さんは、幸せな方ですよ。」
と、近くの席に座っていた男性社員がれい子に言った。
「あとは、良い人を見つけて、お母さんを幸せにしてあげたら最高ね。」
一寸年配の上司が、そういうことを言った。さすがに、彼女には、何も言えない。上司のおかげで、れい子はこの会社に入らせてもらったようなものということは、覚えているのであるが。この上司は、仕事はできることで有名な女性だったが、結婚とか出産とかそういうことに過敏であるなど、やたら家庭的過ぎるところがあって、れい子はあまり好きではなかった。
ひとつため息をついて、れい子は仕事に戻った。でも、お母さんがああして電話をかけてきたということから、午後の仕事は、あまり能率的ではなかった。
その次の日。れい子が会社に出勤すると、上司の席が空席になっている。
「あの、井上社長、まだ出勤してないの?」
れい子は、急いで隣の机の女性社員に聞いた。
「ええ。なんでもしばらくは、来られないからっていうことらしいです。」
と、女性社員が答える。
「とりあえず、社長の代わりとして、副社長がやってくれるからあたしたちは心配ないっていうんですけど、やっぱり井上社長がいた方が良いわよね。」
別の女性社員が、ひとことつぶやいた。
その日はとりあえず、副社長が来てくれて、仕事はしっかり指揮を執ってくれたのであるが、れい子はどうもやり辛いと、思ったのであった。その日一日は、なんだか変な日だなと思ってしまったほどである。
「今日は変な日だったわね。社長がいなくて、何だか私たちもやりにくかったわね。」
と、れい子は、帰り支度をしている別の社員に、ため息をついていった。
「まあね。でも、井上社長、しばらく会社には帰ってこないみたいよ。なんでも、息子さんが体調が悪くて、大変なことになっているらしいから。」
一寸噂話が好きな女性社員が、そういうことを言った。
「あら、社長みたいな人が、そんなことで会社を休むの?」
れい子が思わず聞くと、
「菅さん知らないんですか?社長の息子さんの事。もうかなり前からうわさになっていますよ。なんでも特殊な病気で、ずっと家にいるって。社長は、彼を養うためにこの会社をつくったっていう伝説もあるくらいですよ。そんなことも知らないで、うちで働いていたんですか?」
と、男性社員がれい子に言った。
「まあ、最近になって雇ったばかりの社員も知らないでしょうからね。」
と、れい子が言い返すと、
「私は、社長のそういうところすごいと思います。あたし、まだこの会社入って、少ししかたっていないけれど、あたしには、そういうことはとてもできませんよ。重い病気の息子さん抱えて、そのうえ会社までやって。社長はそういうところがすごいと思う。」
入社して数か月の若い女性社員がそういうことを言った。
「私見ましたよ。入社する前に、社長がインタビューに答えてるの。確か、ネットのニュースサイトだったと思います。」
そうか、若い社員は、そういうことを知っているのか。そういうニュースサイトとか、れい子は全く見たことがなかった。若手の社員は、そういうことまで、なんでも知ることができるけれど、れい子は、それとこれとは別の事だと思っていた。だから、社長の事も、周りの社員の事も、ほとんど知らなかった。
周りのひとたちは、社長の家庭的な所を話しながら会社を出て行ってしまう。れい子は、みんなどうして、そんなことを、話しているんだろうかと思いながら、会社から出て自宅へ帰った。社長の事なんて、どうでもいいじゃない。私はとにかく、仕事をして、自分で生活していけばいい。逆に、他人の同情を浴びながら、仕事をしようとする社長が、なんだか汚く見えた。
翌日もれい子は出勤時間に出勤したが、社長は現れなかった。又会社の指揮は副社長がとった。れい子も、ほかの社員たちも、副社長の指示のもと、会社内で動いていた。別に指揮官が変わったからと言って、仕事内容が変わったわけではない。なのでれい子もほかの社員たちも、それ自体は何かあったわけではないのだが、でも何か物足りなかった。
れい子たちも、その日も仕事をこなして、又いつも通り退社時刻が来た。れい子もほかの社員もまた自宅にかえっていく時刻。
「社長はどうしているのかな。」
と、れい子はほかの社員に言ってみた。
「さあねえ。まあ、連絡が何もないということは、何か元気でやっているんじゃないの?」
ほかの社員はそうこたえた。噂話は好きだけど、他人と直接かかわることは、したくないというのがほかの社員たちの気持ちらしかった。れい子は、あの時はあれだけ噂したのに、と、思ったが、社員たちは自分は関わりたくないような感じだった。
「ああ、来週には戻ってくるみたいですよ。副社長から、直接聞きました。副社長と一緒に、営業に行ったときに。」
男性社員がれい子たちに言った。其れが事実なら、やっと本当の日常に戻れるのか。れい子は、なんだか安心した。
「あら本当。其れは良かったわね。それでは又、いつも通りに仕事ができるようになるのか。何だか社長がいる方が、仕事がしやすいわ。」
とれい子は思わず言ったが、
「さあどうですかね。何かトラブルにならないといいんですけど。」
男性社員はちょっといやそうに言った。なんでそんなに嫌な顔をするのか、れい子はおかしいなと思ったが、その男性社員も、新人社員も社長が戻ってくることは、嫌だなという顔をしている。みんな情報手段は色いろあるから、其れで何か情報を入手して社長のことを知っているのかは不明だが、いずれにしても、スマートフォンを使いこなせない、中年おばさん社員のれい子は、それを使って社長の事を知ろうとは思わなかった。
その翌日と翌々日は退屈な休日だった。れい子には、誰か恋人がいるわけでもないし、実家の事は優秀な兄がいてくれるわけだし、何もする必要がなかったから、いつも通り一人で過ごした。特に何もしないで、テレビをぼんやりと眺めているだけ、というのがれい子のいつも通りの休日だった。どうせ、自分は何をしなくても、良いというのは、なんかちょっと寂しい気がしないわけでもないが、そうすることで、自分は優秀だった兄と比べられることから逃げている。其れもれい子が自分自身を保つために、必要なのだと思っていた。
つまらない休日を二日続けて、れい子は再び会社に出勤した。今日は、井上社長が戻ってくる。これっでやっと、また仕事がしやすくなるのだ、とれい子はちょっとうれしかった。
ところが、井上社長は、定刻通りやってきた。そこだけははっきりしている。いや、そこだけしか、今までと同じところはなかった。確かに、出勤時間も守っているし、しっかり仕事の指揮も取ってくれているんだけど、何か今までと違うのだ。一体どうしたんだろう。
スマートフォンを使いこなしている若い社員たちも、覇気のない井上社長の事を心配しているようであったが、井上社長に声はかけなかった。かけてはいけないと思っているようである。
退社時刻になって、井上社長が帰っていく後ろ姿を眺めながら、れい子は、彼女に声をかけようか迷った。でも、社長のプライドもあるだろうし、それではいけないよなと思ってしまって、声はかけられなかった。次の日も、その次の日も、井上社長は今までとは違っている。一言で言えば元気がないのだ。仕事でみんなに声掛けをするときも、ほかの社員を注意するときも、井上社長は、何か元気がなかった。
その日、れい子が、いつも通り出勤すると、井上社長が、入社したばかりの社員を注意していた。なんでも、出先で打ち合わせの場所を確保するのを忘れてしまっていたらしいのだ。まあ、新人社員なので、忘れてしまうのも仕方ないことだ。其れは、新人社員であればよくある事なので、ほかの社員も、それをひどくとがめることはしなかったが、いつもの井上社長だったら、もっと強い口調で叱るはずなのにな、とれい子は思った。なぜか井上社長は、彼女を叱るのに、力がなかった。それどころか、何か悲しそうに見える。だって、仕事の場所を確保するのは大事なことなのに、それを忘れるということは、かなり大きなミスであるはずである。だったらもっと強く言ってもいいはずなのに。れい子は、そう思いながら、その叱責を聞いていた。噂が好きなほかの社員たちも、井上社長のことを、追及したりはしなかった。みんな、自然に社長が立ち直ってくれるのを待っているようだった。
れい子は、おかしいなと思った。なぜ、井上社長はこんなにだらしなくというか、力がなくなってしまったのだろう?
叱責して数時間後、お昼休みが来た。
社員たちは、皆コンビニで弁当を買ってきたり、自宅から持ってきた弁当を食べたりしているが、中には、猫の額くらいの小さな社員食堂で、食事をとる社員もいた。井上社長もその一人だ。社員食堂は、調理員のおばちゃんが切り盛りしていた。れい子は、いつもならコンビニで弁当を買ってきてしまうタイプで、社員食堂はいかなかったが、今日は社長の事が気になって、社員食堂へ行った。社員食堂の料理は、コンビニ弁当に比べると、味が薄くて本当においしくなかった。井上社長がよく、こんなまずいものを毎日毎日食べていられるなと思われるほど、味は薄かったのである。
そんなまずい料理を食べながら、れい子は井上社長を観察した。井上社長は、とりあえずおばちゃんから、料理を受け取って、椅子に座ったが、直ぐに料理を食べようとはしなかった。料理の代わりに、スマートフォンを出した。そして、何か頁を開くような仕草をして、ずっとスマートフォンを見つめていた。その顔は、だんだん悲しそうな顔になり、涙を流している。涙を拭くこともなく、それに任せきりという感じでいつまでも泣いているのだった。食堂のおばちゃんが、井上ちゃん、いつまでも悲しんじゃ息子さんは困っていると思うよ、というので、れい子はピンときた。そうか、そういうことか。
「そうなのね。社長もお母さんだったんだわ。」
思わずそうつぶやいてしまう。おもえば井上社長が、あれほど家庭の事にうるさかったのは、そういうことだったんだと納得した。よく井上社長が言っていたっけ。女は仕事ももちろんしたいけれど、家庭というものもちゃんと持たないとだめだと。れい子はそれを社長が単なる世話好きということで片づけていたが、今になってこういう事情があったんだとやっと理解した。ほかの社員、スマートフォンを使いこなしている社員たちは、彼女の事情を知っているだろうか。もしかしたら、もうとっくに知っているのかもしれなかった。だからこそ、井上社長に声をかけないで平気でいられるのではないか。
れい子は、井上社長に声をかけようか迷った。
井上社長が、今まで家庭を持つようにとうるさく言い続けた理由が分かった気がして、一寸優越感というかそういう感情も持ったけれど、れい子は今は井上社長がかわいそうな気がするのだった。
「社長。」
れい子は、井上社長にそういってみる。
「私、隣に座ってもいいですか。」
其れだけやっと言えた。
社長に、息子さん亡くなられて大変でしたねとか、ご愁傷様ですとか、そういうことを言っても、何も意味のない気がした。そんな言葉が、何の意味もないことを、れい子は良く感じていた。其れよりも、誰かがそばにいることをアピールする方が大事なのだ。もちろん、相手が自分は一人ではないと気が付いてくれなければ、成立しないのだが。
「ええ、お願いします。」
井上社長は、れい子の顔を見て、涙だらけの顔でそういうことを言った。れい子は、社長の隣に座って、また社員食堂の定食を食べ始めた。確かに薄味だったが、れい子はそれを口にすることはしなかった。黙って、隣で黙々と食べているれい子を見て、井上社長も何か感じ取ってくれたようだ。涙を拭くのをやめて、箸をとり、もう冷めてしまった定食を食べ始めた。二人は、何も言わないで、定職を完食した。
「ごちそうさまでした。」
れい子は、食器を返却口へもっていこうとたちあがる。井上社長もこの時は涙も乾いてくれたようだ。でも、この悲しみは消えないに違いない。だって、それくらい、重い悲しみだから。其れを、スマートフォンで気軽に知ってしまうことは、なんだか悲しみの重さを軽くしてしまうような、そんな点を良くも悪くも持っているとれい子は思った。
「ごちそうさまでした。」
社長も、そういって、食器を返却口へもっていった。おばちゃんが、はい、お粗末様でした。と、二人の食器を受け取った。おばちゃんは、れい子の考えていることも、井上社長の考えていることも、全部わかっているような顔をしていた。もうそのくらいの年齢になるとそうなるのだろう。おばちゃんにとってみれば、れい子も井上社長もまだまだ青二才なので。
「菅さん。」
れい子は社長に呼び止められる。
「ありがとう。」
井上社長はにこやかに笑って、いつもの部屋に戻っていった。れい子もなんだかそれを手助けすることができて、嬉しいなと思った。思えば、仕事をして金を貰うよりも、社長が笑顔になってくれるために、もっと神経を使ったような気がした。
れい子も井上社長が戻っていくのを見届けて、自分の仕事に戻ることにした。戻ろうとしながられい子は、いつもうるさく会社に電話をかけてくる母に、話したいなと思った。いつもなら、そのようなことは絶対思いつかないのに、社長の後姿を見て、そう思った。


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