ペンタゴンにストロベリー

桜間八尋

第23話

 ナイフを手にした男と対峙した優雨は、反射的に流歌をその背に隠して危険が及ばないようにした。目の前の男はそれにも構わず、猛然と迫ってくる―――当然だ。最初から彼の狙いはこの自分だったのだから。

 想定していた最悪の事態が現実になろうとは思ってもみなかったが、そのことに決して無策で臨んでいたわけでもなかった。万一に備えて自慢の太い腕で自身の胸と首を覆い隠すと、男が腰だめに構えたナイフの切っ先は吸い込まれるように優雨の脇腹へと突き出された。

 刃の先端が彼のシャツを切り裂くと、優雨が激痛に備えて身体を強張らせる―――ことはなかった。むしろその逆だ。ナイフを向けられた先が腹より上に位置していたならばそうはいかなかったが、おかげで冷静さを保つことができた。

 それが何故かというと、一度は命を落としかけた人間の境地というべきか、彼の中で「肉を切らせて骨を断つ」というこれまでの人生になかった発想が生まれたことによって―――あるいは天命に任せるといった、諦念にも似た感情に支配されつつあったせいか。結果としてそれらが功を奏した。

 ナイフの切っ先は優雨の身体に届くことはなく、彼がウエスト周りに仕込んでいた分厚い漫画雑誌に食い込んだ。その瞬間、優雨が咄嗟に身体を捩ったことでナイフの刃が巻末の作者コメントを貫通するより前に、肌着の上を滑って狙いの的を逸らした。

 成人男性一人分の体重と殺意とを刃金に乗せられて、まるで腹巻のようにズボンのベルトできつく縛り付けていたはずの雑誌がそこからすっぽ抜けると、ナイフに裂かれながら半ば宙を舞った。その勢いにつられて優雨の着ていたシャツが横に大きく膨らむ。

 その直後、優雨の耳に「ぎゃっ」という短い悲鳴が届いた。それが目の前の男から発せられたものだと気づいたときには、彼の視界に鮮血の赤色がちらついていた。

 優雨の服の内側で完全に刺突の勢いを殺されてしまったせいで、文字通り手を滑らせた男は柄の先にある刀身を握り込んでしまったのだ。刃に触れてしまった指はぬらぬらとした赤い血に覆われ、それがみるみるうちに溢れ出すと足元のアスファルトに滴った。

 本来なら思わず目を背けたくなるなるような痛ましい光景だったが、不思議と優雨の視線はそこへ釘付けにされたままだった。いくらか後退った男が痛みに耐えかねて蹲る様子を放心したように眺めていると、遅れて雑誌から抜け落ちたナイフが路面を叩く音で我に返った。

 穴の開いてしまったシャツから覗く漫画雑誌を抜き取る。いつだったか蘭子の担当編集から受け取った見本誌の一冊だった。本来なら自分たちの作品が載った記念品のようなものに違いなかったが、もっぱら電子書籍ばかり普段から手に取っていたせいで他に適当なものが見当たらなかったのだ。蘭子の冗談とも取れる一言が、結果的に優雨の身体を凶器から守った。今日ほど漫画家のアシスタントをしていてよかったと思った日はない。

 優雨が男の存在に気がついてから、ものの数秒も経たないうちに起こった出来事の、それが全貌であった。優雨の後ろにいただけの流歌にしてみれば、突如として彼の背中に視界を塞がれて面食らったに違いない。むしろそれだけで済んだのが幸運だった。

「ねえ、どうしたの、」

 目の前で何かが起こった。それが只事でないと気配で感じ取った流歌が、震える声で優雨に聞いた。それから、愕然とした表情でこちらを見上げた男と目が合い、

「うそ」

 それだけ言うと、彼は言葉を失った。

 その様子をみた男が項垂れると、優雨の脇をすり抜けた流歌が迷いなく彼の元に駆け寄って膝を折る。ポケットからハンカチを取り出すと、血にまみれた男の右手にそれをあてがった。

 流歌の目からは涙が零れていた。

      *

 犯人の正体は流歌の中学時代の担任教師・真壁だった。年齢は四十台半ばと聞いていたが、憔悴しきった彼の顔はそれよりもかなり老け込んで見える。真壁の脂ぎった髪や垢の染みたシャツが目に入ると、私生活すらままならない様子だったことが窺えた。どちらにせよ、まともな精神状態ではなかったのだろう。

 持病の悪化に伴い、療養のために休職状態であったという彼は、流歌との手紙や挨拶状などのやり取りだけに抑えていた交流に辛抱できなくなった。教師と教え子という立場を超えることに抵抗を覚えていたはずが、心身を病んでしまったために自制心をも崩壊させてしまっていたのだ。

 彼もまた、宮藤流歌を愛してしまった男の一人だった。流歌が中学校を卒業し、直接顔を合わせることがなくなった後も、彼への執着心が薄れることはなかった。それどころか次第にその思いも強まっていき、美しく成長した流歌の姿を目にしたことで遂には歯止めがきかなくなった。

 当時、担任教師から流歌とはあからさまに不平等な扱いを受けていたことに対して、彼のクラスメイトから不平や不満が漏れることはなかった。若くもなく、気難しい独身者の彼にはもとより生徒からの人望は薄かったからだ。だからこそ、自分の指導に応えてくれる流歌に異常なまでの執着心を抱いたのだろう。それを垣間見たクラスの生徒たちは流歌に同情はしても羨むことはしなかった。

 流歌にしてみれば過保護ともいえる恩師の自分への態度は愛情の表れであり、他の誰とも区別することなく感謝の気持ちを伝えることを疎かにしなかった。幸か不幸か、自身の学級を取り巻く異常性に、流歌は最後まで気がつかなかったのである。気の置けない友人たちに囲まれ、その傍らには信頼できる担任の先生がいる。表面上は穏やかな日々が卒業まで続いた。

 しかし、流歌が高校生活で躓いたことを知ると、真壁はそのことを深く悔いた―――自分が彼のそばにいてやれなかったことが原因だと思い込むほどに。そこで真壁は決心した。二度と流歌が悲しむことがないように、自分が彼にとっての「騎士」になるのだと。

 仕事が手につかなくなった真壁は陰ながら流歌の動向を見守り始めるも、本人の気持ちはどうあれやっていることはストーカーのそれと区別がつかないものだった。新調したスマホに慣れたいと伝えると、流歌はすんなりと自分の電話番号やメールアドレスを教えてくれた。何気ない日常的なやり取りから推察すれば、彼が何時に何処へ出掛け、何をするのかが手に取るようにわかった。盗撮もお手の物だ。

 いつかのオフ会で秋山優雨の存在に突き当たると、真壁は嫉妬の炎に燃え上がった。彼が流歌に対していかに釣り合わない存在であるか示すために、まずは情報を集めることにしたが―――駅での一件が不特定多数の目に触れると、意外なことに優雨に言及する断片的な情報が散見された。幸か不幸か、妹の水面がつい先日にネット上で炎上騒ぎを起こしていたことで、それに巻き込まれる形で兄の優雨のプロフィールも明るみになっていたのだ。真壁はこれを拡散するだけでよかった。

 同時に、流歌の美しさをひけらかすように、手元にある彼の写真も公開しようと思い至った。それがネット上で反響を得られれば得られれるほど、世間で流歌の存在が神格化されたように感じられた―――あのビデオメッセージを受け取るまでは。

 流歌が自分のやったことを指して「許せない」と口にしたこと―――それはインターネットを通じて世界中に公開された。最初は何かの間違いだと思った。自分はこんなにも流歌を思いやっているというのに。しかし、彼の口から秋山優雨の名前を耳にしてすぐにその原因もわかった。あの男に惑わされているのだ、流歌は。

 どうすれば自分の手で流歌の目を覚まさせてやれるか、答えは簡単だ。元凶を排除してやればいい―――そして、再び同性に実らない恋をした流歌を哀れに思うと、真壁は優雨の再度の抹殺を心に決めた。もう二度と流歌を悲しませないために。

      *

 先生は今も入院中だ。しかし、彼が優雨にしたことを知ると、とても見舞いに行く気にはなれなかった。そのことを不義理に感じながらも、やはり流歌は恩師のしたことを許せなかった。

「いこっか」

 ゲームはエンディングを締めくくると、いつしかデモ画面に戻っていた。流歌がその場から立ち上がると、座ったままの優雨がこちらを呆けたように見上げている。

「やっぱ変、かな」

 彼が目を瞬かせるのにも、思い当たる節がある。今日の自分の格好だ。今まではゲーム画面に気を取られていたから、その全貌にまで目が及んでいなかったのだろう。

「・・・・・・よく似合ってます」

 優雨がようやくといった様子で言葉を作ると、流歌の全身をくまなく眺めるように上から下へと眇めた目を動かした。その視線が妙にくすぐったい。

「いや、本当に」

 万感の思いを込めたように優雨が続けた。聞いているだけでこちらの顔が熱くなる。

 今日、彼のために選んだのは真っ白なワンピースだった。膝の上に鞄と一緒に置いていた麦わら帽子を被ると、すっかり真夏の装いになる。同時に、あまりにも少女趣味な見た目だ。未だに残暑の色濃い九月の始めとはいえ、少々大胆過ぎたか。

「その、ショートにしたんですね。髪も」

 流歌は頷くと、すっかり短く切り揃えられた自分の髪に触れた。悔恨の念から決心した散髪だったが、これはこれで気に入っていたりもする。

「高校まではね、ずっとこんな感じだったんだよ。もっと短かったかな」

 長かった髪と一緒に優雨への未練も断ち切るつもりでいたのだが、そんな胸の内を見透かされたように千歳から「会って話すべき」と諫められると、諦めるにはまだ早いと思わされた。彼女とはまだ会って日も浅いというのに、随分と気心が知れた仲になったものだ。

 ここが大一番。

 そう自分に言い聞かせると、流歌はかねてからの計画を―――そう呼ぶにはささやかなものだったが、実行することにした。

      *

「そうだ」

 優雨が席を立つと、流歌が何かを思い出したかのように言った。

「ユウにプレゼントがあるんだった」

 久々に見下ろすことになった彼の眩しい笑顔に、優雨の胸が高鳴る。チューリップを思わせる愛らしい唇に、魅惑的なデコルテ。相手は男だというのに、今日の今日まで抗うことができずにいた―――流歌を好ましいと思う感情に。

「はい、なんでしょう」

 辛うじて平静を装いながら、僅かに視線を上げると優雨は内心で身構えた。

 てっきりこの場には男物の普段着で来るものと思っていたが、予想は大きく裏切られた。流歌と二人きりになるとき、彼は決まって女装している。そう思い至った途端に、これがとても重大な意味を持つような、言葉にできない思考に囚われた。ここから先、一歩でも踏み込んでしまえば後戻りができないような、判然としない不安感に支配される。

「これ」

 しし、と悪戯っぽく笑った流歌が麦わら帽子を脱いだ。スツールに置かれたままの鞄に手を伸ばす様子はなく、代わりに手にした帽子の中身を指し示す。一見すると何も入っていないように見えるが―――中を覗いてみろ、ということだろうか。

「いいから」

 流歌に促されるまま、僅かに身を屈めて麦わら帽子の窪みに目を落とした。と、そのときだった。

「えっ」

 くっついたと思ったら、すぐに離れる。頬に花びらを押し付けられたかのような、柔らかな感触。

「・・・・・・オジョさん?」

 すぐに引っ込められてしまった帽子の中には、何も入っていなかったように思える。だがそんなことより、不意打ちに食らったものの正体が問題だ。

「ゲームしようよ」

 自分でしたことの恥ずかしさを紛らわせるように、鞄を持ち上げるとさっさと背を向けてしまっていた流歌がこちらを振り返りながら言った。その姿は生まれながらの天使のようで―――実は小悪魔なのかも。呆けたように彼の姿を眺めながら、優雨は我知らず自分の頬に手を伸ばしていた。

 俺はこの人に恋をしてしまったのかもしれない。

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