ペンタゴンにストロベリー

桜間八尋

第4話

      6

 オフ会の会場であるカラオケ店の場所はあらかじめ知らされていたため、後は体一つで向かうだけでいい。打ち合わせを終えた優雨は蘭子と別れると、着の身着のままで会場へと向かっていた。道中にオフ会の幹事へ通話を繋ぐと、会場に着く大体の時間を伝える。それから思い出したのはオジョのことだ。ほどなくして彼から「不戦勝」というメッセージが届いた。

 思わず苦笑しながら、何を食べに行きたいか返信で聞いてみる。すると、「お酒」という答えがすぐに返ってきた。そういえば、彼は二十歳になったばかりだと言っていたか。未成年の自分が居酒屋に入るのも憚られるのだが、蘭子の晩酌に付き合うときと同じくソフトドリンクで通すことにしよう。

 そうこうしているうちに、会場と思しきカラオケ店が優雨の視界に入った。到着したことを幹事に伝えると、本人がフロントまですぐに迎えにきてくれた。

「君がイナリくんか」

 そう言って優雨の方へつかつかと歩み寄ってきたのは、ドミノマスクで素顔を隠し、架空の軍服を着込んだ異様な風体の男だ。コスプレ衣装の持ち込みが許可されてるという事前情報があったものの、実際に目の当たりにしたインパクトは絶大だった。

 これが現実の光景なのかと思わず自分の目を疑ってしまったが、この人ならやりかねないという謎の実感を抱かせる気迫もあった。ちなみに彼の軍服はオーダーメイドであるらしく、本人は「独身男性の正しい金の使い方」を主張している。

「ようこそ、我が騎兵連隊『タイタンズ』の宴へ」

      *

 優雨の目の間に突如として現れたドミノマスクで素顔を隠した軍服姿の男。彼こそが優雨の所属する「タイタンズ」を率いる「大佐」こと赤井スバル氏だった。

 彼は動画配信サイトで顔出し(とはいってもマスクを着けてはいるが)でのゲーム実況を趣味にするほどのコアなゲーマーだ。その際は有名なアニメキャラの口調を真似ているようだが、そのクオリティは決して高いとは言えない。

「仕事か」

 そんな大佐がスーツ姿のこちらを見やりながら言った。

「ええ、まあ。そんなところで」

 本来なら打ち合わせ程度できっちり着込む必要もないのだが、年上の人物と会うのに適当な服装が他に思いつかなかったのだ。学生服が絶望的に似合わないことも自覚しており、それを理由に高校は私服で登校できるところを選んでいたくらいである。そんな話を父にしたところ、面白がってこのスーツを選んでくれた。

「週末だというのに、熱心なことだな」

 呆れたように大佐は言うと、自分の後に続くようにと手振りで促した。

 今回のオフ会は大佐がタイタンズに所属するメンバーを集めて開催したもので、視聴者のファンミーティングというわけではないようだ。そもそもゲーム配信を始めたのもつい最近のことで、ファンを獲得できる土壌も何もあったものではないのだが。オフ会の参加者も風変わりなプレイヤーの元に集ったゲーム友達といった感じで、優雨自身も彼のファンというわけではなかった。

「盛り上がってるぞ」

 今日はメインの会場であるパーティルームと、今は荷物置き場の代わりになっている小部屋の二つを貸し切っているようだ。主催者の大佐が言うには、大部屋の方はかなりの盛況らしい。部屋番号を教えてもらうと、優雨は小部屋に寄ってからそちらに向かうと伝えて大佐と別れた。宴を大いに楽しんでいる様子が窺えたので、一足先に戻ってもらうことにしたのだ。

 ここへはほとんど手ぶらで来たので大した荷物はないのだが、折角なので上着は小部屋の方に置かせてもらうことにしよう。冷房が効いているとはいえ、騒いでいる間くらいは薄着でいたい。

「ここだな」

 ドアガラス越しに薄暗い室内の様子を見やる。誰かが歌っているわけでもなく、ここが単なる荷物置き場となっているのは間違いなさそうだ。優雨は何の躊躇いもなくドアを開いて小部屋に入る。すると、そこへ足を踏み入れた瞬間に何者かの気配を感じた。室外からは死角となっていた場所に人影があったのだ。

 思わず息を呑んだような、小さな悲鳴が優雨の耳に届く。反射的に声のした方へ目を向けると、そこには一人の女性がいた。華奢なシルエットは少女のものといってもいい。彼女は着替えの最中だったようで、脱ぎたてと思しきワンピースを胸にかき抱いて下着姿を隠していた。剥き出しになった白い肩が薄暗い室内で艶めかしく映える。

「あの、」

 少女のか細い声で我に返った優雨は、後ずさった拍子に背中をドアに押し付けてしまった。思わず見惚れてしまったとはいえ、異性の裸体などしげしげと眺めていいものではない。

「すいませんっ」

 優雨は慌てて回れ右をすると、そのまま出入口のドアノブに手を掛ける。

「待って」

 彼女の制止する声に、ドアを開けようとした手が止まった。頭の中では一刻も早く立ち去るべきだと判断しているのに。ひとまずはドアノブに手を掛けた状態のまま、優雨は彼女の言うことに耳を傾けることにした。

「ごめんなさい。誰か来るとは思わなくて」

 申し訳なさそうに言われると、事故とはいえこちらの良心も流石に痛む。やはり今すぐ出ていくべきかと悩んでいると、

「もしかしてイナリさん、ですか」

 続けざまに彼女は声を掛けてきた。大佐と同様にこちらのハンドルネームを把握している。驚いたことに、この人もオフ会の参加者で間違いないようだ。

「さっきは見かけなかったし。遅れてくるって聞いてたから」
「ええ、まあ」

 向き合いもせずに話を続けるのは礼儀に反するかと思ったが、相手は半裸の女性だ。仕方なくドアに向かって優雨が答える。

「あっ、すみません。すぐ終わりますから。そのまま外から見えないように、お願いしますね」

 驚くべきことに、それだけ言うと彼女は着替えを再開したらしい。そんな彼女の言葉に優雨は耳を疑ったが、衣擦れの音が聞こえてくると声を掛けるに掛けられなくなってしまった。ドアノブからゆっくりと手を剥がすと、緊張のせいか手のひらがじっとりと汗ばんでいるのを感じる。図らずも密室に異性と二人きり。しかも相手はすぐそばで着替えをしている最中だ。

 背後から聞こえてくる物音の一つ一つが優雨を悶々とさせる。そんな煩悩を頭から締め出すべく、優雨は咄嗟に取り出したイヤホンを片耳に装着すると、何時如何なる状況でも冷静さを取り戻せるようにと用意していた音声ファイルを再生した。妹がノリノリで録音した「外郎売」の朗読だった。

 こういうときは肉親の声を聞くに限る。

 演劇部である彼女のはきはきとした声を聞いているうちに、優雨は次第に落ち着きを取り戻していった。可愛い妹にとって立派な兄でありたい。そうした思いが彼に過ちを犯すまいとする強固な意志を備えさせたのだ。

「もう大丈夫だよ」

 背中から声を掛けられた優雨は、慌てて耳からイヤホンを引っこ抜いた。すると、室内がにわかに明るくなる。着替えを済ませた彼女が照明のスイッチに触れたのだ。

 途端に香水の甘い匂いが優雨の鼻腔をくすぐった。すぐ後ろにいる。そんな実感が彼に生唾を飲ませた。少女の呼びかけに応じ、優雨が恐る恐る声のする方へと振り返る。思った通り、彼女はすぐ目の前にいた。

 淡雪のように白い肌。アーモンド形の大粒な瞳は、まるで宝石のように輝く潤みを帯びた薄鈍色だった。亜麻色の艶やかな長髪は天井灯を照り返し、光の輪を生み出している。

 天使だ。

 彼女を形容するのに、真っ先に思い浮かんだ表現がそれだった。流暢に日本語を話してはいるが、彫りの深い整った顔立ちは西洋人のそれに近い。

「どうかな。似合ってる?」

 容貌に見惚れていたせいで、そう言われて初めて彼女の衣服に注目した。当然、先程抱えていたワンピースとは違う。どうやら、大佐と同じようにコスプレ衣装を用意してきたようだ。

 少女が身に纏っていたのは、ファンタジー世界に登場するような騎士階級の服装をアレンジしたものだ。凛々しさよりも愛らしさが目立つ幼い顔つきは男装の麗人と呼ぶには相応しくないかもしれないが。と、優雨が言葉を作る前に、彼女が自虐的な笑みを浮かべた。

「んー、やっぱ着ただけだとちょっと恥ずかしいね。ウィッグ着けてないし、メイクも直さなきゃ」

 明るくなった室内で二人がお互いの顔を見やる。すると彼女ははっとしたように、

「ごめんなさいっ、自己紹介もまだだったのに」

 慌てて優雨に向かって頭を下げた。それから顔を上げると彼女は名乗ろうとして、

「ええと、ボクは」

 不意に笑顔を引っ込めてしまうと、少し考える素振りを見せてからこう尋ねてきた。

「ボクのこと、わかります?」
「はい?」

 そうは言われても、まるで思い当たる節がない。ほとんど面識のないチームメイトもいるにはいるのだが、その中に女性がいたとは驚きだ。まさか大佐のファンが紛れ込んだのか。いや、万が一にもそれは有り得ないが、事実なら癪に障ることこの上ない。まあ、それはともかくとして、

「すみません、もしかして一緒に遊んだことあります?」

 失礼を詫びたつもりでそう聞いてみた。彼女の口ぶりからすると、向こうはこちらのことを認識しているようだし。もしかすると、同じアカウントで蘭子と遊んでいたのかも。

 すると、やれやれといったように両手を広げた少女が言った。小鳥の囀りかのようだったこれまでのか細い声音から一変し、少年のような涼やかなアルトが優雨の耳に届く。

「ちょっと声作っただけでこれだ」

 彼女の言葉に優雨の疑問は疑問は一気に氷解した。通話しながら遊んだことのあるメンバーは限られているし、まして女性と一緒にゲームをした記憶などない。しかし、ただ単に自分がそう思い込んでいただけだとしたら。

「もしかして、オジョさんですか」

 驚きのあまり、口をぽかんと開けたままで優雨は目の前の人物をまじまじと眺めた。まさか、男だと思っていたゲーム友達が―――こんな美人だったとは。

「あたり」

 オジョは満面の笑みで答えた。

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