ペンタゴンにストロベリー
第2話
2
当時まだ中学生だった優雨は、その気になれば何でもできると思っていた。それまでの人生に大きな失敗もなければ、人一倍の正義感と行動力がたまたま功を奏していたというだけで、どんな問題も自分の手で解決できるという全能感にすっかり酔いしれていた。今ではそんな自分を恥じるばかりか、失望すらしている。
墓石に向かって手を合わせながらしゃがみこんでいると、不意に雨粒が彼の頬に触れた。合わせていた手を広げると、その上に次々と水滴の跡が増えていく。まるで泣いているみたいだ、と。まるで他人事のように思った。葬儀の日に散々泣いたせいで涙が底を尽いてしまったのか、こうして悲しみ悼んでいるはずの今は思うように泣けずにいる。
「・・・・・・んだよ、傘持ってきてねーのか」
唐突に雨に打たれる感覚が途切れたかと思うと、背中から声を掛けられた。膝立ちのまま振り返ると、何処かで見たような顔がそこにはあった。開いた傘をこちらに差し出しながら、彼女は同情の眼差しをこちらに向けていた。
*
「やっぱりあんたか」
義理の妹とはいえ、身内の葬式で唯一泣いていた少年だ。その顔はよく覚えている。憔悴しきった表情で、茫然とこちらを見上げる彼の姿に胸が痛んだ。
「真冬の友達だろ。ありがとな」
少年は何事か呟くように口を開いたが、言葉にできず再び俯いてしまう。その目は余りにも虚ろだった。こうも悲しみに憑りつかれてしまうと、人並みの嘆き方すら忘れてしまうのだろうか。
「・・・・・・姉貴失格だな」
そんなことは、こうなるもっと前からわかりきっていたことだった。目の前の少年や、まして物言わぬ墓石に向かうでもなく、その言葉は独白に近い。
「なあ、あんた。真冬とはどんな関係だったんだ」
少年は答えない。
「あたしはダメな姉だったよ。わかってると思うけど」
きっとこの少年は、義妹の抱えていた悲しみや苦しみを知っていたに違いない。もしかしたら、それを取り除こうと努力していたのかも。
「・・・・・・何もしなかった。今だって泣けないし」
悲しくないと言えば嘘になる。仮にも家族だったのだから。しかし、彼女が生きているうちに何もしてやれなかった自分に対する憤りや無力感、そういった感情ばかりが先に立って素直に悲しむこともできないでいた。
「どの面下げて来たんだろ、って。ほんと今更」
真冬が何も言わないのをいいことに、見て見ぬふりをしていた。あまつさえ、家族とのしがらみから逃れようと自分から距離を取った。そんな自分を思うと反吐が出る。その上、義妹の墓前で泣き言か。つくづく救えない。
「墓参りなんてさ、する資格ないよな」
年端もいかない少年の脇で、こうして胸の内を曝け出していると、
「それは違います」
少年が声に怒気を滲ませて言った。しかし、すぐに自分でもどうしてそんなことを言い出したのか理解できないといった表情になる。そのせいか、彼は二の句を継ぐことさえままならない様子だった。
結局、少年はそのまま気まずそうに目を背けただけだった。きっと、誰かに怒りをぶつけることに抵抗があるのだろう。
「ありがとな」
少年の心に触れ、少し救われた気がした。結局のところ、自分は誰かに叱ってほしかっただけなのだ。贖罪の意識を認めてほしくて。彼がそれに応える義務などなかったのに。
衝動的に少年の若白髪が目立つ後頭部に手が伸ばす。そのまま、しっとりと雨で濡れそぼった髪に指を差し入れた。
*
「もうちょっと生きてりゃよかったのに」
誰かに頭を撫でられることなど、物心つく前に経験して以来のことだった。こんなに温かいと感じた手のひらは、後にも先にもこの人のものだけだったに違いない。
「風邪ひくぞ。ほら立ちな」
女性の声に促され、優雨は立ち上がろうとした。すると、
「うおっ、でけえな」
背後の人物は存外に小柄だったようで、こちらの頭の上に傘を差そうとすると目一杯その腕を伸ばさなければならなかった。流石にそれは骨が折れると思ったのか、「おい、これ持て」と手に持った傘をすぐさま押し付けてくる。
「さ、行こうぜ」
ぴったりと肩を寄せ合いながら二人で墓地を後にする。その間はお互いに口を開くこともなかったのだが、外に出てからはどちらに向かってよいかわからずに思わず顔を見合わせた。地味な装いの自分とは正反対に、彼女は随分と主張の強いロックなファッションで墓参りに来ていたようだ。
「なあ、あんた今日は暇か」
隣に立ったロックコーデの女が唐突に聞いた。当然、予定などあるわけもない。急な誘いに戸惑いながらも、優雨は首肯して応えた。
「ならさ、あたしんち来いよ。コーヒーくらいなら淹れてやっから」
彼女がにっと笑ってみせたかと思うと、いつの間にやら組んだ腕をぐいと引っ張って先導を始めた。
「ちょっと手伝ってほしいこともあってさ」
傘一本ではお互いに身体を寄せ合ってでもいないとどちらかが濡れてしまう。先へ進む彼女の頭上に傘を持っていくと、自分は当然のように雨に打たれた。しかしそれは冷たいばかりではなく、いつもより少しだけ優しい感触である気がした。
3
目が覚めると、見上げた先にあったのは自分の部屋の天井ではなかった。
なんだか懐かしい夢を見ていた気がする―――優雨は横になっていたソファから背中を剥がすように、ゆっくりと身を起こす。目が覚めてくると、明方から居間で仮眠をとっていたことに思い至った。
窓から差し込む朝日を見るに、自分が寝ていたのは三時間ほどかと見当をつける。寝過ごしたというほどではないものの、今はとにかく時間が惜しかった。
ソファの背もたれ越しに蘭子の寝室の方を見やると、そこへ通じる引き戸は閉じられていた。そうなると彼女は休んでいるか、はたまた悪びれもせずにゲームに興じているか。どちらにせよ、今からやることに変わりはない。
布団で十分にリラックスできなかった身体を軽くストレッチしながら解すと、先ずは洗面所に向かう。ぬるま湯で顔を洗うと起き抜けの眠気もすっかり流れ落ちた。タオルで十分に顔の水気を取ってから、天井を見上げて大きく息をつく。次にやるべきことをイメージしていると、徐々に全身に活力が漲ってくるのを感じた。
洗面所でさっぱりした後、次に優雨はキッチンに向かった。冷蔵庫から昨日のうちに用意しておいた食材を取り出すと、手際よく調理を始める。優雨にとってそこは自分の家の台所でないにも関わらず、今では家主よりもよっぽどその扱いに慣れていた。
二人分のサラダをカットして大皿に盛りつけ、焼き上がったトーストに作りたての目玉焼きをフライパンから落とす。黄身は半熟にしておかないと蘭子の機嫌を損ねるので、焼き過ぎないように注意が必要だ。最後に肉の焼ける匂いにつられて彼女が寝室を抜け出してくることを期待しながら、厚切りのベーコンを盛大に音を立てながら焼いた。
ほどなくして寝ぼけ眼を擦りながら、蘭子がキッチンを覗きに来た。昨晩は食事もとらずに原稿と向き合っていたからか、彼女の腹の虫が鳴く音もこちらまで届いてきそうな勢いだ。
「起きてたんですね」
「優雨が寝ちゃうからソロでランクマやってた」
優雨は呆れて声も出ないといった風に肩をすくめると、黙々と朝食の準備を続ける。
進んで人の面倒を見たがる性分なのか、優雨のそんな一面に蘭子はすっかり甘えるようになってしまった。彼をアシスタントとして雇った当初は年上らしく振舞うつもりでいたようだが―――そのスタンスもあっという間に瓦解してしまうほどに、優雨の面倒見の良さと蘭子のだらしなさが噛み合ってしまった結果だった。
「んみゃい」
「食べながら喋らないでください」
「後でランク上げ手伝ってよ」
「原稿が先です」
「えー」
蘭子は頬を膨らませて不満げな態度を示すが、それ以上は何も言わず朝食を口に運び続けた。
「ごち」
「お粗末様でした」
スマホ片手にのんびりと大皿のサラダまで平らげた蘭子が席を立つと、テーブルの食器を片付けて洗い物を始めた。調理こそ優雨任せだが、後片付けは食べるのが遅い蘭子の仕事なのだ。
優雨はドリッパーに入れたコーヒー粉の表面を均しながら、大人しく皿洗いをする彼女を脇目に見やる。普段からこれだけ殊勝であれば自分も泊まり込みで原稿の手伝いをする必要もないのだが―――喉から出掛かった愚痴を飲み込みながら、自分の手元に目を戻す。
全体に湯をそっと乗せるようにして、ドリッパーのコーヒー粉を蒸らしていく。小さく「の」の字を書くようにして、一度、二度、湯を再び注いだ。たかが素人の淹れる一杯にしろ、自身が生み出すものと向かい合っている間だけは余計なことを考えずに済む。その発見は蘭子のアシスタントを勤めた二年あまりで得られた大きな収穫だった。
「コーヒー入りましたよ」
「ほい」
蘭子が洗い物を終えると、踏み台から降りてテーブルに戻った。幼い見た目にコンプレックスでもあるのか、頑として人前ではブラックしか飲まないのが彼女である。今日も今日とて苦い顔をしながらマグカップに何度も息を吹きかけては少しずつ中身を啜っている。
「昨日から寝てないんでしょう。ララさんも少し休みますか」
「んー、じゃあ三時くらいに起こして」
「絶対起きてもらいますからね」
優雨の言葉に生返事で応えた蘭子が風呂場に向かう。その背中に「ちゃんと髪も洗うように」と声を掛けてから、彼は仕事部屋でやりかけだった作業の続きに戻った。
二人が「仕事部屋」と呼んでいるそこは、蘭子の住まうアパートの一室に設けられているちょっとした書斎だ。そこで本棚から参考になりそうなものを見繕うと、優雨は自分の作業デスクに着いた。
集中してタブレットに向かうと、蘭子に指定された空白に背景を描き込んでいく。人物やコマ割りは蘭子の担当で、自分は背景担当だ。こうしてレイヤー毎に作画を分担しているわけだが―――本来ならば蘭子の指示に対して解釈を誤らないように、彼女と一緒に作業を進められる方が一人でやるよりもずっと楽だ。しかし、無理強いしたところで蘭子は素直に働くような人でもない。睡魔に負けて足並みを揃えることができなかった自分の責任だ。
「優雨、髪乾かして」
優雨がしばらく作業に没頭していると、風呂場から戻ってきた蘭子が仕事部屋を覗いて言った。出不精なせいか病的に白い肌が湯上りでうっすらと上気している。
「ちょっとだけ待ってください」
「あとなんか飲み物」
「はいはい」
着手していた一コマを仕上げにかかりながら答える。こんなことで仕事を中断させられるのは日常茶飯事なので今更なんとも思わなかった。
優雨は作業を切り上げると、大きく伸びをしてから席を立つ。リビングへ向かう途中で冷蔵庫を覗くと、蘭子がコンビニでよく買ってくる紙パック入りのミルクティーを見つけた。早速開封すると、その飲み口にストローを差してから持っていくことにする。蘭子は長湯をすると普段よりも注意散漫になるのか、コップやマグカップだと口に運ぶ前に取り落としてしまうことが以前にあった。ストローで飲ませるのはその被害を最小限に抑えるための処置である。言わずもがな掃除は自分の仕事だからだ。
居間では水分を吸わせるためにバスタオルを頭に巻いた蘭子が、スマホ片手にソファでくつろいでいた。目の前のテーブルにミルクティーのパックを置いてやると、彼女は軟体動物のようにソファから床に滑り降りる。そのままカーペットにぺたんと座り込むと、頬杖をつきながらストローに口をつけた。
蘭子と入れ替わる形でソファに腰掛けた優雨は、ターバンのように巻きつけられたバスタオルを解いていく。すると、中から少し癖のあるふさふさとした金髪が現れた。ちゃんと乾かしてあるか手触りで確かめてから、ヘアブラシでその髪を梳かしていく。
喪が明けてから蘭子が真っ先にやったことが染髪だった。そもそも真冬の葬儀に合わせて黒くしていただけで、普段から明るい髪色を好んでいたらしい。しかし、しばらく染め直していないせいか今や頭頂部だけはプリンのカラメルみたいに真っ黒だ。
「そういえばさ、」
手櫛でヘアオイルを髪に馴染ませていると、蘭子が思い出したように言った。
「オフ会の話あったじゃん」
「あー、ありましたね」
優雨は床に転がっていたドライヤーを手に取りながら、話を遮ることに躊躇いを感じてスイッチを入れられずにいた。彼女の言うオフ会とは、二人が遊んでいるオンラインゲームを通じて知り合った面々で集まる予定のものだ。
「それがどうかしたんですか」
ドライヤーを遊ばせていた優雨が、蘭子に言葉の続きを促す。
「あれさ、優雨が行ってみない?」
「いやララさんのアカウントでしょあれ」
そうは言いながら、蘭子の代わりにログインして遊ぶ時間も随分と長くなった優雨にも彼女の言わんとしていることはなんとなくわかる。
「いいじゃん。取材だよ取材」
「俺が遊びに行く時間を作れるかどうかはララさんの仕事にかかってるんですけど」
「へいへい」
蘭子の仰せに従っているようで、断らないことで言外に興味津々であることを認めてしまったようなものだ。優雨はドライヤーのスイッチに指を掛けながら、ゲーム内で結成されたチームのメンバーたちに思いを馳せる。しかし、実際に彼らと顔を合わせたことは一度もない。
「どーせおっさんばっかだぞ」
「別に期待なんかしてませんよ」
つい失礼な物言いになってしまったが、現実とのギャップに落胆してしまう可能性だってなくはない。しかし、そんな不安よりも実際に顔を見て話せるということに対する興味や期待感の方が遥かに大きかった。可愛い女の子と知り合おうなんて気は毛頭ないし、現実にはそんな都合のいい出会いがある可能性など皆無に等しいだろう。
「女がいたら教えろよな。まあ、ないと思うけど」
「わかりました」
話が一段落したタイミングで、優雨はドライヤーのスイッチをオンにした。髪が乾くまでの間、蘭子はスマホを手に取ると動画配信サイトを閲覧し始める。時折けらけらと無邪気に笑う彼女の声を聞きながら、温まってもこもことした感触を取り戻していく髪の毛の手触りを楽しんだ。
「はい、できましたよ」
「ん、ご苦労」
乾かした髪で緩く結んだ三つ編みを作ってやると、これで寝る準備は万端だ。蘭子はイヤホンを外しながら大きな欠伸をして、
「オフ会のこと、考えといてよ」
それだけ言ってさっさと寝室に引っ込んでしまった。
「さて、と」
それを見届けてから仕事部屋に戻った優雨が作業を再開した。オフ会に参加するなら少しでも蘭子の仕事を手伝って時間を作らなければならない。
当時まだ中学生だった優雨は、その気になれば何でもできると思っていた。それまでの人生に大きな失敗もなければ、人一倍の正義感と行動力がたまたま功を奏していたというだけで、どんな問題も自分の手で解決できるという全能感にすっかり酔いしれていた。今ではそんな自分を恥じるばかりか、失望すらしている。
墓石に向かって手を合わせながらしゃがみこんでいると、不意に雨粒が彼の頬に触れた。合わせていた手を広げると、その上に次々と水滴の跡が増えていく。まるで泣いているみたいだ、と。まるで他人事のように思った。葬儀の日に散々泣いたせいで涙が底を尽いてしまったのか、こうして悲しみ悼んでいるはずの今は思うように泣けずにいる。
「・・・・・・んだよ、傘持ってきてねーのか」
唐突に雨に打たれる感覚が途切れたかと思うと、背中から声を掛けられた。膝立ちのまま振り返ると、何処かで見たような顔がそこにはあった。開いた傘をこちらに差し出しながら、彼女は同情の眼差しをこちらに向けていた。
*
「やっぱりあんたか」
義理の妹とはいえ、身内の葬式で唯一泣いていた少年だ。その顔はよく覚えている。憔悴しきった表情で、茫然とこちらを見上げる彼の姿に胸が痛んだ。
「真冬の友達だろ。ありがとな」
少年は何事か呟くように口を開いたが、言葉にできず再び俯いてしまう。その目は余りにも虚ろだった。こうも悲しみに憑りつかれてしまうと、人並みの嘆き方すら忘れてしまうのだろうか。
「・・・・・・姉貴失格だな」
そんなことは、こうなるもっと前からわかりきっていたことだった。目の前の少年や、まして物言わぬ墓石に向かうでもなく、その言葉は独白に近い。
「なあ、あんた。真冬とはどんな関係だったんだ」
少年は答えない。
「あたしはダメな姉だったよ。わかってると思うけど」
きっとこの少年は、義妹の抱えていた悲しみや苦しみを知っていたに違いない。もしかしたら、それを取り除こうと努力していたのかも。
「・・・・・・何もしなかった。今だって泣けないし」
悲しくないと言えば嘘になる。仮にも家族だったのだから。しかし、彼女が生きているうちに何もしてやれなかった自分に対する憤りや無力感、そういった感情ばかりが先に立って素直に悲しむこともできないでいた。
「どの面下げて来たんだろ、って。ほんと今更」
真冬が何も言わないのをいいことに、見て見ぬふりをしていた。あまつさえ、家族とのしがらみから逃れようと自分から距離を取った。そんな自分を思うと反吐が出る。その上、義妹の墓前で泣き言か。つくづく救えない。
「墓参りなんてさ、する資格ないよな」
年端もいかない少年の脇で、こうして胸の内を曝け出していると、
「それは違います」
少年が声に怒気を滲ませて言った。しかし、すぐに自分でもどうしてそんなことを言い出したのか理解できないといった表情になる。そのせいか、彼は二の句を継ぐことさえままならない様子だった。
結局、少年はそのまま気まずそうに目を背けただけだった。きっと、誰かに怒りをぶつけることに抵抗があるのだろう。
「ありがとな」
少年の心に触れ、少し救われた気がした。結局のところ、自分は誰かに叱ってほしかっただけなのだ。贖罪の意識を認めてほしくて。彼がそれに応える義務などなかったのに。
衝動的に少年の若白髪が目立つ後頭部に手が伸ばす。そのまま、しっとりと雨で濡れそぼった髪に指を差し入れた。
*
「もうちょっと生きてりゃよかったのに」
誰かに頭を撫でられることなど、物心つく前に経験して以来のことだった。こんなに温かいと感じた手のひらは、後にも先にもこの人のものだけだったに違いない。
「風邪ひくぞ。ほら立ちな」
女性の声に促され、優雨は立ち上がろうとした。すると、
「うおっ、でけえな」
背後の人物は存外に小柄だったようで、こちらの頭の上に傘を差そうとすると目一杯その腕を伸ばさなければならなかった。流石にそれは骨が折れると思ったのか、「おい、これ持て」と手に持った傘をすぐさま押し付けてくる。
「さ、行こうぜ」
ぴったりと肩を寄せ合いながら二人で墓地を後にする。その間はお互いに口を開くこともなかったのだが、外に出てからはどちらに向かってよいかわからずに思わず顔を見合わせた。地味な装いの自分とは正反対に、彼女は随分と主張の強いロックなファッションで墓参りに来ていたようだ。
「なあ、あんた今日は暇か」
隣に立ったロックコーデの女が唐突に聞いた。当然、予定などあるわけもない。急な誘いに戸惑いながらも、優雨は首肯して応えた。
「ならさ、あたしんち来いよ。コーヒーくらいなら淹れてやっから」
彼女がにっと笑ってみせたかと思うと、いつの間にやら組んだ腕をぐいと引っ張って先導を始めた。
「ちょっと手伝ってほしいこともあってさ」
傘一本ではお互いに身体を寄せ合ってでもいないとどちらかが濡れてしまう。先へ進む彼女の頭上に傘を持っていくと、自分は当然のように雨に打たれた。しかしそれは冷たいばかりではなく、いつもより少しだけ優しい感触である気がした。
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目が覚めると、見上げた先にあったのは自分の部屋の天井ではなかった。
なんだか懐かしい夢を見ていた気がする―――優雨は横になっていたソファから背中を剥がすように、ゆっくりと身を起こす。目が覚めてくると、明方から居間で仮眠をとっていたことに思い至った。
窓から差し込む朝日を見るに、自分が寝ていたのは三時間ほどかと見当をつける。寝過ごしたというほどではないものの、今はとにかく時間が惜しかった。
ソファの背もたれ越しに蘭子の寝室の方を見やると、そこへ通じる引き戸は閉じられていた。そうなると彼女は休んでいるか、はたまた悪びれもせずにゲームに興じているか。どちらにせよ、今からやることに変わりはない。
布団で十分にリラックスできなかった身体を軽くストレッチしながら解すと、先ずは洗面所に向かう。ぬるま湯で顔を洗うと起き抜けの眠気もすっかり流れ落ちた。タオルで十分に顔の水気を取ってから、天井を見上げて大きく息をつく。次にやるべきことをイメージしていると、徐々に全身に活力が漲ってくるのを感じた。
洗面所でさっぱりした後、次に優雨はキッチンに向かった。冷蔵庫から昨日のうちに用意しておいた食材を取り出すと、手際よく調理を始める。優雨にとってそこは自分の家の台所でないにも関わらず、今では家主よりもよっぽどその扱いに慣れていた。
二人分のサラダをカットして大皿に盛りつけ、焼き上がったトーストに作りたての目玉焼きをフライパンから落とす。黄身は半熟にしておかないと蘭子の機嫌を損ねるので、焼き過ぎないように注意が必要だ。最後に肉の焼ける匂いにつられて彼女が寝室を抜け出してくることを期待しながら、厚切りのベーコンを盛大に音を立てながら焼いた。
ほどなくして寝ぼけ眼を擦りながら、蘭子がキッチンを覗きに来た。昨晩は食事もとらずに原稿と向き合っていたからか、彼女の腹の虫が鳴く音もこちらまで届いてきそうな勢いだ。
「起きてたんですね」
「優雨が寝ちゃうからソロでランクマやってた」
優雨は呆れて声も出ないといった風に肩をすくめると、黙々と朝食の準備を続ける。
進んで人の面倒を見たがる性分なのか、優雨のそんな一面に蘭子はすっかり甘えるようになってしまった。彼をアシスタントとして雇った当初は年上らしく振舞うつもりでいたようだが―――そのスタンスもあっという間に瓦解してしまうほどに、優雨の面倒見の良さと蘭子のだらしなさが噛み合ってしまった結果だった。
「んみゃい」
「食べながら喋らないでください」
「後でランク上げ手伝ってよ」
「原稿が先です」
「えー」
蘭子は頬を膨らませて不満げな態度を示すが、それ以上は何も言わず朝食を口に運び続けた。
「ごち」
「お粗末様でした」
スマホ片手にのんびりと大皿のサラダまで平らげた蘭子が席を立つと、テーブルの食器を片付けて洗い物を始めた。調理こそ優雨任せだが、後片付けは食べるのが遅い蘭子の仕事なのだ。
優雨はドリッパーに入れたコーヒー粉の表面を均しながら、大人しく皿洗いをする彼女を脇目に見やる。普段からこれだけ殊勝であれば自分も泊まり込みで原稿の手伝いをする必要もないのだが―――喉から出掛かった愚痴を飲み込みながら、自分の手元に目を戻す。
全体に湯をそっと乗せるようにして、ドリッパーのコーヒー粉を蒸らしていく。小さく「の」の字を書くようにして、一度、二度、湯を再び注いだ。たかが素人の淹れる一杯にしろ、自身が生み出すものと向かい合っている間だけは余計なことを考えずに済む。その発見は蘭子のアシスタントを勤めた二年あまりで得られた大きな収穫だった。
「コーヒー入りましたよ」
「ほい」
蘭子が洗い物を終えると、踏み台から降りてテーブルに戻った。幼い見た目にコンプレックスでもあるのか、頑として人前ではブラックしか飲まないのが彼女である。今日も今日とて苦い顔をしながらマグカップに何度も息を吹きかけては少しずつ中身を啜っている。
「昨日から寝てないんでしょう。ララさんも少し休みますか」
「んー、じゃあ三時くらいに起こして」
「絶対起きてもらいますからね」
優雨の言葉に生返事で応えた蘭子が風呂場に向かう。その背中に「ちゃんと髪も洗うように」と声を掛けてから、彼は仕事部屋でやりかけだった作業の続きに戻った。
二人が「仕事部屋」と呼んでいるそこは、蘭子の住まうアパートの一室に設けられているちょっとした書斎だ。そこで本棚から参考になりそうなものを見繕うと、優雨は自分の作業デスクに着いた。
集中してタブレットに向かうと、蘭子に指定された空白に背景を描き込んでいく。人物やコマ割りは蘭子の担当で、自分は背景担当だ。こうしてレイヤー毎に作画を分担しているわけだが―――本来ならば蘭子の指示に対して解釈を誤らないように、彼女と一緒に作業を進められる方が一人でやるよりもずっと楽だ。しかし、無理強いしたところで蘭子は素直に働くような人でもない。睡魔に負けて足並みを揃えることができなかった自分の責任だ。
「優雨、髪乾かして」
優雨がしばらく作業に没頭していると、風呂場から戻ってきた蘭子が仕事部屋を覗いて言った。出不精なせいか病的に白い肌が湯上りでうっすらと上気している。
「ちょっとだけ待ってください」
「あとなんか飲み物」
「はいはい」
着手していた一コマを仕上げにかかりながら答える。こんなことで仕事を中断させられるのは日常茶飯事なので今更なんとも思わなかった。
優雨は作業を切り上げると、大きく伸びをしてから席を立つ。リビングへ向かう途中で冷蔵庫を覗くと、蘭子がコンビニでよく買ってくる紙パック入りのミルクティーを見つけた。早速開封すると、その飲み口にストローを差してから持っていくことにする。蘭子は長湯をすると普段よりも注意散漫になるのか、コップやマグカップだと口に運ぶ前に取り落としてしまうことが以前にあった。ストローで飲ませるのはその被害を最小限に抑えるための処置である。言わずもがな掃除は自分の仕事だからだ。
居間では水分を吸わせるためにバスタオルを頭に巻いた蘭子が、スマホ片手にソファでくつろいでいた。目の前のテーブルにミルクティーのパックを置いてやると、彼女は軟体動物のようにソファから床に滑り降りる。そのままカーペットにぺたんと座り込むと、頬杖をつきながらストローに口をつけた。
蘭子と入れ替わる形でソファに腰掛けた優雨は、ターバンのように巻きつけられたバスタオルを解いていく。すると、中から少し癖のあるふさふさとした金髪が現れた。ちゃんと乾かしてあるか手触りで確かめてから、ヘアブラシでその髪を梳かしていく。
喪が明けてから蘭子が真っ先にやったことが染髪だった。そもそも真冬の葬儀に合わせて黒くしていただけで、普段から明るい髪色を好んでいたらしい。しかし、しばらく染め直していないせいか今や頭頂部だけはプリンのカラメルみたいに真っ黒だ。
「そういえばさ、」
手櫛でヘアオイルを髪に馴染ませていると、蘭子が思い出したように言った。
「オフ会の話あったじゃん」
「あー、ありましたね」
優雨は床に転がっていたドライヤーを手に取りながら、話を遮ることに躊躇いを感じてスイッチを入れられずにいた。彼女の言うオフ会とは、二人が遊んでいるオンラインゲームを通じて知り合った面々で集まる予定のものだ。
「それがどうかしたんですか」
ドライヤーを遊ばせていた優雨が、蘭子に言葉の続きを促す。
「あれさ、優雨が行ってみない?」
「いやララさんのアカウントでしょあれ」
そうは言いながら、蘭子の代わりにログインして遊ぶ時間も随分と長くなった優雨にも彼女の言わんとしていることはなんとなくわかる。
「いいじゃん。取材だよ取材」
「俺が遊びに行く時間を作れるかどうかはララさんの仕事にかかってるんですけど」
「へいへい」
蘭子の仰せに従っているようで、断らないことで言外に興味津々であることを認めてしまったようなものだ。優雨はドライヤーのスイッチに指を掛けながら、ゲーム内で結成されたチームのメンバーたちに思いを馳せる。しかし、実際に彼らと顔を合わせたことは一度もない。
「どーせおっさんばっかだぞ」
「別に期待なんかしてませんよ」
つい失礼な物言いになってしまったが、現実とのギャップに落胆してしまう可能性だってなくはない。しかし、そんな不安よりも実際に顔を見て話せるということに対する興味や期待感の方が遥かに大きかった。可愛い女の子と知り合おうなんて気は毛頭ないし、現実にはそんな都合のいい出会いがある可能性など皆無に等しいだろう。
「女がいたら教えろよな。まあ、ないと思うけど」
「わかりました」
話が一段落したタイミングで、優雨はドライヤーのスイッチをオンにした。髪が乾くまでの間、蘭子はスマホを手に取ると動画配信サイトを閲覧し始める。時折けらけらと無邪気に笑う彼女の声を聞きながら、温まってもこもことした感触を取り戻していく髪の毛の手触りを楽しんだ。
「はい、できましたよ」
「ん、ご苦労」
乾かした髪で緩く結んだ三つ編みを作ってやると、これで寝る準備は万端だ。蘭子はイヤホンを外しながら大きな欠伸をして、
「オフ会のこと、考えといてよ」
それだけ言ってさっさと寝室に引っ込んでしまった。
「さて、と」
それを見届けてから仕事部屋に戻った優雨が作業を再開した。オフ会に参加するなら少しでも蘭子の仕事を手伝って時間を作らなければならない。
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