ラ・カンパネラ

増田朋美

ラ・カンパネラ

ラ・カンパネラ
その日は強い風が吹いて、暖かい日ではあったけど、過ごしやすい日ではなかった。その日も、野田美香は、自宅内でピアノ教室をやっていた。教室と言っても、生徒は幼い女の子ばかりで、大体の子が退屈しのぎにやってくるだけであった。思えば、音楽学校を出て、この教室を始めたのであったが、教える対象は、近所の子どもばかりだし、ピアノを弾くというよりぶったたいている子供に、正しい弾き方はこうなのだと、何回も教えるのを繰り返すばかり、という単調な日々を過ごすだけであった。
そんな中でも、美香は、ピアノ教室を続けていたが、なんてつまらない日々を過ごすことになるんだろう、と叫びたくなるほどつまらなかった。周りの同級生たちが、大きなリサイタルを開いたなどの知らせを聞くたびに、自分は何をやっているんだろうと思う。自分だって、何か大きな公演をやりたいと思ったことはあったが、そんなこと、野田家の事情を考えると、出来そうにもなかった。野田家の当主である夫の野田栄作は、仕事に熱を入れすぎて、美香の事なんてほとんどかまわなかった。其れに、家には、栄作の実兄である、野田健作がいて、彼がひとりで動けない体であったために、引っ越すとか、独立するとか、そういうことはできないのであった。だから美香は、いつまでもひとりでつまらない日々を過ごすしかなかった。
そんな中、今日も、音楽とはまるで縁のない子供たちに、ピアノを教えるのを繰り返していると、彼女のスマートフォンがなった。家の前に設置してあるピアノ教室の看板に、スマートフォンの番号を掲載しているから、知らない人が電話をかけてきても、おかしなことはないのだが、本当にまったく知らない、番号である。
「はい、野田でございます。」
美香が電話に出ると、相手は、若い男性であった。
「あの、野田美香先生でいらっしゃいますか。ピアノ教室に、入門させていただきたいのですが?」
と、いうのである。
「あの、失礼ですけど、どちらの方ですか?まず、自己紹介を言ってもらわないとね。」
美香が言うと、
「はい、僕は小浜と申します。小浜由紀夫です。小は小さいに、浜は浜辺の歌の浜、由紀夫は三島由紀夫と同じ由紀夫です。」
と、彼は言った。
「もし、大人でも、習えるのでしたら、ぜひ、入門させていただきたいです。以前、別の音楽教室に行っていましたが引っ越しで、先生と離れてしまったので、新しい先生を探しておりまして。たまたま
、仕事で近くを通りかかった際、先生のお宅の看板を目にしましてね。其れで、習わせていただきたくて、お電話させてもらった次第なんです。」
「そうんですか。ありがとうございます。じゃあ、希望される、日付とか在ればおっしゃってください。」
と、美香が言うと、
「はい、いつでも行けます。どうぞそちらで指定してくだされば。明日でもいいですよ。よろしくお願いします。」
男性はそう答える。
「じゃあ、早い方が良いわね。明日来てくれますか?」
「あ、わかりました。じゃあ明日の午後にでも伺ってよろしいですか?時間は何時でもいいです。明日は特に用事もありませんので。」
そういう小浜さんに、美香は一時半に来てくれと言った。小浜さんは、わかりましたと言って、電話を切った。
ということは、つまり、大人の生徒さんが来てくれるということか。小浜さんって、どんな人なんだろう。小浜さんの顔を想像するだけで、美香はうきうきしてしまった。今日は嬉しそうだねと、夫の実兄である、健作さんに言われてしまったくらいだ。健作さんになにか言われてしまうのは、美香はとてもいやだった。其れを無視するようにと、夫の栄作さんは、いつも言っていたけれど、健作さんは、人におせっかいをするのがとても好きなのだった。
さて、翌日の一時半、美香のもとに、小浜由紀夫さんがやってくる時刻になった。美香はその日、いつもより、ちょっとおしゃれな服装をして、玄関先を掃除した。
一時半になると、インターフォンがなった。
「こんにちは。」
美香が、玄関先へ行くといたのは、一寸老けた顔をした男性であった。美香ははいどうぞと言って、彼をレッスン室へ通した。
「どうぞお入りください。ピアノを習っていたとおっしゃっていましたけど、何年ならっていたんですか?」
美香が聞くと、男性、小浜由紀夫さんは、10年ですと答えた。
それではかなり弾ける人と思われる気がした。
「じゃあ、結構弾くことができるはずですね。」
「ええ、まあ。でも、ものすごく下手で、本当に対してうまくもないんですけど。今でも、ピアノが好きで、自己流で弾いています。」
と、由紀夫さんは答えた。
「何を弾いているんですか?ちょっと弾いてみていただけますか?」
美香がそういうと、由紀夫さんはわかりましたと言って、ピアノの前に座った。持ってきた楽譜はリスト集であった。リストは技巧的には難しい曲が多いが、和声的には比較的楽な曲が多い。彼の、演奏した曲は、ラ・カンパネラという曲であった。美香はそれを、半分驚いた表情で聞いていた。其れは、一流のピアニストの演奏ほどではないけれど、素人としては非常ににうまい演奏である。これでやっと、美香が身に着けた知識を披露できることになる。ただの小さな子供のピアノ指導者から、これでやっと卒業だ。そんなことを考えながら、美香は、由紀夫の演奏を聞いていた。
「どうでしょうか。まだまだ下手な演奏ではありましたけど。」
弾き終わって由紀夫は、一寸照れ笑いした。
「下手な演奏じゃないわよ。技術的にはかなりできてる。其れはあたしが保証する。でも、音楽的に言ったら、一寸単純すぎるところもあるから、そうじゃなくて、もっと、きれいな演奏にすれば、其れでもっといい演奏になる。」
美香は、彼に言った。
「そうですか。ありがとうございます。下手な演奏ですけど、聞いていただいてありがとうございました。具体的には、どういうところを注意すればいいのでしょうか。其れを教えていただけないでしょうか。」
「ええ。そうね。左の伴奏が大きすぎるかな。あとは、小指をもう少し、強くすることよ。其れで、メロディラインをしっかり弾くこと。この曲は、メロディというものは割と単純なんだけど、それにまつわる伴奏が複雑だから、どうしてもそっちばかりが、音量が大きくなってしまうのよね。それを、気を付ければ、もっといい曲になる。」
そんなことを言えるなんて、美香は、音大の先生にでもなったような気分だった。
「ありがとうございます。もう一度、やってみますから、できる限り訂正させてみますので、聞いてみてくださいますか?」
由紀夫は、もう一度、ラ・カンパネラを弾き始めた。
「すごい上手だわ。」
美香が思わず言ってしまうほど、由紀夫の演奏は、素晴らしいものであった。やっぱり覚えの悪い、子供とはえらい違いだ。子供は、大きくしろと言えば思いっきりたたきまくって、ピアノを壊してしまうようなくらいなのに、この男性はちゃんと加減して弾いてくれる。
「ありがとう。上手ですね。」
美香は思わず言ってしまった。
「お上手だわ。」
由紀夫が演奏し終わると、美香は手をたたいて拍手をした。
「どこか、音楽学校でも出てらっしゃるの?」
思わず美香がそういってしまうと、由紀夫の表情が崩れる。にこやかに笑っていた顔とはえらい違いの悲しそうな顔になる。
「音楽学校は、行けませんでした。いきたかったけど。それは、無理でした。それは、仕方ないと言えばそうなんでしょうけど、なんだかまだピアノをやりたいという気持ちだけはあって、其れで、ピアノを、時々思いっきり弾いてるんですよ。」
「そうだったんですか。何か事情があったんでしょうか。ご両親から反対されたとか?音楽なんて、女子のやるものとか、そういう風に言われてしまったとか?」
美香が軽い気持ちで聞くと、
「まあ確かにそうかもしれません。僕も結論としてはそう思うようにしています。」
と、由紀夫は答えた。
「言わなかったら、いわなくてもいいわ。でも、あなたの演奏は、なかなかのものだった。コンクールとか、そういうところに出演したら、いいところまで行くんじゃないかと思った。」
美香は正直に答えると、
「先生はお世辞が上手ですね。」
と、由紀夫はそういうのである。
「お世辞なんかじゃないわよ。あたしが保証してあげるわ。コンクールがどこかで開催されたら、是非、出演なさるといいわ。あ、あたしの同級生で、そういうのの審査員やってる子がいるから、いつコンクールが開催されるか、彼に聞いてみましょうか?」
美香は、一寸はしゃいでしまって、そういってしまった。
「いいえ、それは結構ですよ。僕はそんな高尚な舞台に立てるという身分ではありません。そんな大した身分じゃないのに、そういうところに出てしまうと、どんなことになるか、僕は良く知ってますし。其れよりも、今日はありがとうございました。お稽古時間、三十分でしたよね。大体のピアノ教室はそうなりますよね。それでは、もう帰りますから。ありがとうございました。」
由紀夫は、椅子から立ち上がった。確かに、大体のピアノ教室では、稽古時間は三十分ということになっている。美香も子供のためにはと思い、それに設定していたのであるが、今回のレッスンでは、一寸短すぎるような気がしてしまった。
「いいえ。ちょっと待って。まだやっていないことが在るわ。」
美香は急いで、帰り支度をする彼を呼び止めた。
「はい、何でしょう。」
「ええ。次のレッスンのご予約よ。来週の今日でいいのかしら?それとも、別の曜日でいい?あるいは、休日じゃないとまずいとかある?」
美香がそういうと、由紀夫は、そうですねと考えるようなそぶりをした。
「すみません。一寸わからないです。仕事が不定期なもので。今日はたまたま暇だったんですけど、忙しい時は、すごく忙しいんですよ。そういう事もありますので、又連絡する形でもよろしいですか?」
「わかったわ。じゃあ、会員名簿を作るから、名前と、住所と電話番号を教えていただけないかしら?」
美香が言うと由紀夫は、手帖を取り出して、住所と電話番号を描いた。
「これです。携帯電話を持っていないので、固定電話だけになりますけど。」
その時は、美香はあまりそのことについて気にしていなかったので、住所を受け取って、そのままにしておいた。
「ありがとう。じゃあ、レッスンの変更とか、そういうことがあったときは、ここにかければいいのね。」
「ええ。家族が出ると思いますが、伝言してもらうように言ってくれれば、それで大丈夫です。」
美香が言うと、由紀夫はそういった。まあ、そんなこと、どこの家でもあるかと思い、美香はそれも聞き流していた。
「其れでは、これから、うちの生徒としてよろしくお願いします。」
「はい。じゃあ、次のレッスンの開いている日がわかったら、必ず連絡しますので。よろしくお願いします。今日はお稽古してくださりまして、ありがとうございました。」
由紀夫は、軽く一礼して、レッスン室を出ていった。彼と過ごした30分間は、本当に、短かったような気がした。
「じゃあ、次のレッスンの連絡を楽しみにしています。」
美香はそれが何よりの楽しみとなった。その時は、近いうちに、レッスンをお願いしたいと、電話がかかってくるのではないかと思っていた。
ところが、一日たっても、二日経っても、三日たっても、小浜由紀夫というひとから、電話がかかってくることはなかった。一週間たっても来なかった。これはおかしいなと思った美香は、由紀夫から渡された、住所と電話番号の描かれた紙きれを出して、その電話番号に電話をかけてみた。
すると、応答したのは、由紀夫の家族とはとても思えないような口調の女性で、
「はい、どちら様でしょうか?」
と、かえってくる。
「あの、私、ピアノ教室の野田美香と申しますが、小浜由紀夫さんは御在宅でしょうか?」
美香が聞くと、
「いえ、由紀夫は在宅しておりません。」
と、女性はぶっきらぼうに答えるのである。
「でも、由紀夫さんは、私のピアノ教室に来て、何かあったときは、お宅の番号に電話するようにとおっしゃっておりましたが?」
美香がそういうと、
「そうですね。確かにそうだった時期もありましたが、由紀夫は在宅しておりません。ご用はまた、明日にお願いします。それでは。」
女性は電話をブツッと切ってしまった。
「いやねえ。失礼ねえ。」
と美香は言いながら、スマートフォンをピアノの上に置いたのであるが、どうもおかしいなと思い始めてきた。あの、小浜由紀夫という人は、何か悪いことでもしたのだろうか?それとも、家族から嫌われているのだろうか?
「ちょっと来てくれる!」
不意に、隣の部屋から、大きな声が聞こえてきた。夫のお兄さんの健作さんの声だ。美香は、こうして呼び出されるのがたまらなくいやだった。でも、栄作と結婚する際に、栄作から、うるさいくらい言われていたので、健作さんの世話をしなければならない。
「あの、棚の上にある、お皿をとりたいんだけど、手が届かないんです。とっていただけますか。」
健作さんは、車いすに乗ったまま、茶箪笥にある皿を指さした。よく見ると、まな板の上に、大量のサラダが置いてある。それはとてもおいしそうで、どこかのレストランのサラダとそっくりなのだ。其れは、健作さんが図書館の本を借りて、料理の勉強をしてきた成果なのだ。そういうわけで野田家は食事には不自由しなかったが、美香は、彼の料理が嫌いだった。
「美香さんお願いします。晩御飯を盛り付けなければならないんで。」
美香には簡単に届いてしまう高さだが、車いすの健作さんには届かないのだった。美香は、はいはいと言いながら、サラダボウルを、茶箪笥の上からとって、彼に渡した。
「ありがとうございます。今日は、シーザーサラダです。」
と言っても、晩御飯にはまだ早い時間だった。健作さんは、料理に何時間もかけるのが好きだ。隣のガスコンロには、丁重にカレーを煮込んでいる鍋が、火の上に置かれていた。
「ご飯はいつも通りにできますから、いましばらくお待ちください。」
同時に、玄関のインターフォンがなったため、美香は、じゃあ私、戻りますからと言って、部屋に戻った。又、音楽性なんてまったくわからない、近所の子供に教える日々が続くのだ。それが、美香は、たまらなく苦痛だった。できれば、あの、小浜由紀夫というひとにもう一回会いたい。その、子供に教えていく作業と、健作さんの手伝いをする、単純な日々の中、美香はその思いを募らせてばかりいるようになった。もう一度、あの人に会ってみたい。夫の野田栄作は、美香がそんな思いをしているのにまるで気が付かないようだ。美香はそのほうが都合がよかった。
翌日。美香は、その日レッスンがない時間を見計らって、小浜由紀夫に会いに行ってみることにした。教えてもらった住所をカーナビに打ち込んで、ナビゲートしてくれる方向に、車を走らせる。その通りに行ってみると、意外に、美香の家から遠い事がわかった。美香は、こんな遠いところからなんで、私のところにレッスンに来たのか、不思議におもった。この近くにもピアノ教室はあるはずなのだが?
美香は、道路近くの一般的な家の前で車をとめた。二階建ての普通の家であった。其れは、美香の家と変わらないが、障碍者用のスロープが設けられていることはなく、普通に人が住んでいるという感じの家であった。まあ、そういう家はどこにでもあると美香は思って、迷うことなく車を降りて、インターフォンを押した。
「はい、どなたでしょうか。」
「あの、野田美香と申します。由紀夫さんに会わせていただきたいんですけど、お願いできませんでしょうか?」
美香がインターフォンの応答に向ってそういうと、がちゃんとドアが開いて、中年の女性が現れた。
「あの、由紀夫さんは今御在宅でしょうか?」
美香が言うと、
「由紀夫なら、もうとうの昔に、、、。」
と言いかけて彼女は黙ってしまった。
「黙ってないで教えてください。小浜由紀夫さんという方は、このお宅の方ですよね?私、彼に、ピアノの指導をしていたものなんですけど!一体何が在ったんですか!」
美香が一寸勘定的になってそういうと、
「ちょっと来ていただけますか?」
と、女性は美香を家の中へ招き入れた。
「どうぞ。」
彼女について、美香は居間に通される。そこには仏壇があって、一枚の写真が飾られていた。其れは、間違いなく、美香がピアノを教えた人物と同じ顔をしている。
「由紀夫は、一週間前に死んだんです。もう生きていけないって手紙には書いてありました。とりあえず家族葬で葬儀をして、遺骨は散骨させてもらいました。これでよかったんです。あんな子が生きていたら、あたしたちはいつまでも障碍者と一緒にいるとレッテルをはられることになります。」
ということは、この女性は、お母さんだろうか、お姉さんだろうか。どちらかはわからないけれど、いずれにしても彼が逝ってくれてよかったという顔をしている。美香は、そんな彼女の顔を見て、自分の家にも、健作さんという人が居る事を思い出した。もしかしたら、自分も健作さんに、そういう志内をしてしまうのかもしれなかった。そうなったら、ものすごくかわいそうなことをさせたような気持ちになってしまった。
「でも、由紀夫さんは、私のところに来てくれて、ラ・カンパネラを演奏してくださいました。それはものすごくお上手で、しっかりした演奏だったと思います。せめて生きていてくれれば、もう一回私はそれを聞くことができましたのに。」
美香は正直に自分の思っていることを言うと、
「ええ。あんなけたたましい音楽をいつまでも聞かされて、私たちはいい迷惑でした。其れよりも、もっとまともな生き方をしてほしいと何度も思いましたが、結局それはかないませんでした。」
と、彼女は答えた。
「せめて、由紀夫さんにお線香でもあげさせてもらえないでしょうか?」
美香がそういうと、彼女は、ええ、少しでもあの子が様になるのならといった。美香はそれを聞いて、この女性はまだ、由紀夫さんに未練があるんだなと思った。



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