前世水乙女の公爵令嬢は婚約破棄を宣言されました。

克全

第20話

王太子には誇りも矜持もなかった。
ただ精霊の怒りが怖かった。
恐怖から逃れるには、シャーロットの元に逃げ込むしかなかった。
側近の事もメイヤー公爵の事も、頭にも心にもなかった。

王太子が逃げ出した事で、王太子軍は崩壊した。
最初から低かった士気が、地の底まで落ちてしまった。
メイヤー公爵も尻に帆掛けて逃げ出した。
騎士や徒士も、武具を放り出して逃げ出した。

一分一秒でも早く、小川から遠く離れたかったのだ。
残ったのは、痛みにのたうち回る私兵と、むりやり動員された雑兵だけだった。
だが雑兵には、逃げる場所などなかった。
王太子直轄領やメイヤー公爵領に逃げても、その場で殺されるか、飢えか渇きで死ぬだけだった。

やがて彼らの前で、小川の一部の水がひきだした。
まるで彼らを誘っているように、道が出来ていた。
彼らは、ふらふらとサライダ公爵家の農園に入っていった。
彼らの前には、たわわに実った果実があった。

だが彼らは、それに手を出す事が出来なかった。
何故なら、つい今さっき、あれほど恐ろしい存在だった私兵達が、小川を穢して精霊様の罰を受けた姿を見ているのだ。
農園の果実を盗めば、どれほどの厳しい罰を受けるか分からなかった。

「大丈夫ですよ。
安心して御食べなさい。
これは、水の精霊様の御恵みなのですよ」

「皆感謝するがいい。
水乙女様であられるカチュア御嬢様が、御慈悲をもってデーツを与えてくださる。
安心して食すがいい」

最初は半信半疑だった雑兵達も、サライダ公爵家の兵士や、サライダ公爵家の領民に笑顔で迎えられ、徐々に警戒心がとれ、ついには食欲に負けて、甘く完熟したデーツに齧り付いたのだった。

渇きからは解放された雑兵達だったが、元は奴隷や貧民である。
常に餓死と隣り合わせの生活をしていたのだ。
わずかに食べられるモノと言えば、腐りかけのモノばかりだった。

それが、甘く完熟した食べ頃の新鮮なデーツなのだ。
生まれて初めて口にしたその味は、痛いほどの美味しさを彼らに与えた。
口の中が反射的にキュッと引き締まり、おたふく風邪に罹ったように扁桃腺の辺りが痛むのだ。

だが、その後に来る甘味と旨味は、彼らが天上の食べ物を与えられたと錯覚するほどのモノだった。
彼らの心は、無条件にサライダ公爵家に忠誠を誓った。
いや、水の精霊様に対する恐怖と畏怖に加えて、水乙女様への感謝が心に刻まれた。

恐怖と畏怖の後の甘味と旨味。
命をつなぐだけではない、至福の美味しさが、彼らの心を満たしたのだ。

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