御大尽与力と稲荷神使

克全

第48話無礼討ち11

「うぁわぁぁぁあ!」

永井忠左衛門は往来を脱兎のごとく駆けた。
芝居町という人通りの多い道だから、とても真直ぐには全力で走れない。
だが恐怖に支配された永井忠左衛門には、人を避けるという判断はできなかった。
刀を振るって邪魔になる人を斬り捨てて全力で逃げようとした。

「待て!
やめよ!
天下の往来で刀を振るっての狼藉、止めねば斬るぞ!」

永井忠左衛門が逃げようと駆けだして直ぐに、溝口伝兵衛が立ちはだかった。
七右衛門の手配りで、永井忠左衛門一党が逃げられないように、要所に手先の同心や若党、剣客や十手持ちを配していたのだ。
そして永井忠左衛門にとっては最悪と言っていい、剣客上がりの北町奉行所同心、溝口伝兵衛が配されている道に逃げてしまっていた。

「うぁわぁぁぁあ!」

恐怖に支配された永井忠左衛門の眼に同心姿の溝口伝兵衛が映った時、恐怖と狂気が爆発し、自訴して評定所の裁きを待ち、賄賂を贈って罪を軽くしてもらうという判断ができなくなっていた。
大上段に振りかぶり、溝口伝兵衛を斬り殺そうとした。

だが、永井忠左衛門と溝口伝兵衛では、圧倒的な実力差があった。
溝口伝兵衛は永井忠左衛門の一刀をひらりとかわし、抜き打ちざまに永井忠左衛門の頭を斬った。
切ったとはいっても、町奉行所同心の刀は犯人を無暗に殺さないように、刃をつぶして切れないようにしてある。
峰打ちすればいいなどと馬鹿の事を言うモノもいるが、本来刃で斬るように造られた刀の峰を使って全力で人間を叩けば、刀は歪み時に折れてしまうのだ。

刃引きしてあるとはいえ、溝口伝兵衛程の達人が全力で頭を斬ったのだ。
永井忠左衛門は頭蓋骨陥没によりその場で絶命した。
直ぐに溝口伝兵衛が目付を呼び、事の真相が幕閣に伝えられた。
幕閣はまたも苦慮することになった。

本当は事件を庶民には隠蔽して、内々で切腹させたかった。
だがもう江戸中の評判になってしまっている。
瓦版が面白おかしく書いてしまっていた。
前例は作りたくないが、厳しい処置をするしかなかった。

永井家の最後はとても惨めなモノとなった。
既に死んでいる忠左衛門は、切腹相当と裁きが下された。
忠左衛門が若党としていたゴロツキ達は武士と認められず、無宿人として市中引き回しの上で磔獄門とされた。
永井家は家名断絶の上で闕所となった。
親戚縁者による家督相続は認められなかった。

「旦那、申し訳ありません」

「気にするな。
永井忠左衛門を狂気に追い込んでくれたんだ。
それで十分役目は果たしてくれている」

「ですがそれじゃあ、あっしの気がすみません。
今度なんかあった時には、死んでも相手を逃がしません」

「じゃあその時は頼んだよ」

菊次郎は本気だった。
自分の実力不足で、何人かの町人が永井忠左衛門に斬られて傷を負っていた。
幸い使者は出なかったが、自分が永井忠左衛門を逃がさなかったら、誰も傷つかずにすんでいたのだ。
意地を張らずに剣客達に任せていたら、痛い思いをする人はいなかったのだ。
菊次郎は死ぬ気で剣の修行をする心算だった。

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