女将軍 井伊直虎

克全

第100話中国地方の攻防12

さて、ここで尾高城を横領していた杉原盛重と言う武将だが、杉原匡信の次男で備後国の国衆・山名理興の家老を務めていた。そのころは山名家の次席家老として、大内家との神辺城合戦において活躍し、その勇猛さを敵方・大内家にいた吉川元春から高く評価されていた。

1557年には山名理興も毛利家の傘下となっていたが、山名理興が亡くなり継嗣・直良も先に亡くなっており、吉川元春の推挙もあって山名理興(杉原家)の跡を継ぎ備後国神辺城主となった。この事が、序列で筆頭家老だった藤井皓玄が山名家を一旦去り、尼子勝久の支援を得て神辺城を奪う原因となっていた。

そして1563年にようやく尾高城を奪い返した行松正盛が病死して、後家となった毛利興元の娘(毛利元就の姪)と再婚し、行松正盛の遺児を養育する体裁で尾高城と領地を横領していた。この時毛利興元の娘は40歳を過ぎており、山内豊通・小早川興景・行松正盛・杉原盛重と4度目の結婚であり、明らかな政略結婚だった。

杉原盛重は、毛利元就直属の忍衆を束ねる忍頭で、その将兵には野武士や忍び崩れ、山賊、海賊、強盗など、実戦経験豊富で命知らずの傾奇者やならず者達を多く召し抱える独特の部隊であった。足軽には忍びの技を自ら教え修得させ、徳岡久兵衛、別所雅楽允、佐田三兄弟(佐田彦四郎、佐田神五郎、佐田小鼠)など忍び上手な配下が育っていった。鏡山城の戦いより本格的に忍びが実戦で運用され、上月城の戦いにおいては忍び部隊による多大な戦果を上げていた。

傾奇者やならず者とされる配下の将兵には、何らかの罪を犯し素行の悪い者も多かったが、仲間内での結束は強固で信義にも厚い人材が揃っていた。彼らを纏めあげていた手腕・裁量・度量の広さなど一廉の武将なのは間違いないが、余りにもタイミングが良すぎる山名理興と行松正盛の病死だった。

このような抜け目のない杉原盛重だったが、今回は藤井皓玄に奪われた神辺城を奪回するため、息子達や主だった家臣達も引き連れて備後国に戻っていたので、比較的簡単に尾高城を落とされてしまったのだ。

今川直竜は西伯耆の毛利方城砦を次々と落としたが、出雲方面には警戒の部隊を駐屯させただけだった。義直将軍・御隠居様・母上様から尼子勝久との共闘を事前に指示されていた事もあり、攻撃する意思は全くなかったが、油断して奇襲され無いように十二分の配備を行っていた。

今川直竜は伯耆衆の大半を味方につけ、彼らを先鋒として日野郡生山城に攻めかかり、瞬く間に落城させた。これも内側から城門を開かせると言う内応が成功したからだが、山名藤幸の家臣で宮景盛に降った者が、再び叛旗を翻して直竜に協力したのだ。

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