女将軍 井伊直虎

克全

第75話初陣

年が明けて色々な動きが起こったが、その際たるものは顕如の娘と氏真の前正室が、義直将軍の側室として正式に輿入れしてきたことだった。一種の人質ではあるものの、これによって今川・北条・武田の同盟が再度結成されたのみならず、一向宗が加わって4者同盟となったのだ。

この関係強化は、北条と武田にとっては管領職を得たことだけでなく、再度背後の心配をせずに前面の敵に集中できることになる。特に武田家の得たものは大きく、越前からの攻撃の心配をせずに、加賀一向宗に越中侵攻の援軍を依頼することが出来るようになった。信濃から直接春日山城を攻める姿勢を見せつつ、飛騨・越中を攻め取る戦略を取った。雪解けと同時に加賀の一向宗は、武田義信の指揮下で越中に猛攻撃を仕掛けた。

それ以前に北条家が動いていた。北条家は、今川長得と朝比奈泰朝・三浦義鎮などの亡命してきた氏真派の者達が、流行り病で全員死亡たと知らせてきた。もちろん証拠として、駿河の今川館に亡骸を送ってきたが、衣服の下の刀傷は両家とも見て見ぬ振りをした。

そこまで義直将軍との関係改善をした後で、北条家は関東管領職を得て一気に関東制圧に全軍を投入した。雪解け前で上杉軍が動けない時期を選んで、一気呵成に上杉方の国衆・地侍を攻め降伏させていった。上杉勢は以前のように無理をして峠を越えることが出来なかった、何故なら忍の働きで今川と武田・北条の同盟が再締結していることを掴んでいたからだ。無理をして峠を越えてしまったら、武田軍が越後に攻め込むことが予想できた。

義直が将軍に就任して直ぐに、将軍の実弟として今川五郎は元服をした。足利義直将軍から諱を貰い、今川直竜と名乗ることになった。そして北条が関東制圧に動き、武田の半数が川中島に集結し、残る武田の半数と加賀一向宗が越中に攻め込むのを待った。東の安全を確認して、いよいよ直竜が初陣を飾ることになった。


1568年『近江・観音寺城』今川義直・直虎

「母上様、五郎はだいじょうぶでしょうか」

「心配するには及びませんよ、関口と松平が側に仕え安全を確保しています。それに加えて大和・丹波・若狭・美濃・尾張の国衆・地侍から兵を募り、雑賀衆と根来衆も雇いました、兵力は圧倒しております」

「それならばいいのですが」

「それに河内の国衆・地侍には、大和の国衆・地侍や南朝の楠を通して調略を仕掛けています、ほとんど戦う事無く降って来るでしょう」

「それならばいいのですが」

「歴史」の人気作品

コメント

コメントを書く