女将軍 井伊直虎

克全

第63話三好家分裂

1566年8月『近江・観音寺城』

義直は越前を平定して観音寺城に戻って来たが、そこで耳にしたのは三好家内の権力闘争の激化だった。三好義継は、三好家の当主たらんを積極的に活動するものの、三好三人衆を筆頭とする各国衆の利益集団は、義継の権力を制限して自分達の権限を増やそうとしていた。一方松永久秀・内藤宗勝は、義継を盛り立てつつ自分達の力も維持しようとしていた。

特に三好三人衆は、阿波本国から義輝の従弟・足利義親を呼び寄せ、義親を次の将軍に据え義継を抜いて自分達が直接将軍の臣下になろうと画策していた。

「義直様、どうなされますか?」

「これは難しい判断ですね。」

「はい、義直様の生末を左右する重大な判断になります。」

「三人衆は、義親様が将軍に就任すれば、私を管領にすると言っているのですね。」

「はい、義親様は既に6月に阿波から淡路に渡っておられます、その上で機会を見て摂津に渡られると思われます。」

「義継殿は何も言ってこられないのですか?」

「噂では三人衆に軟禁されているとのことです。」

「白拍子と歩き巫女が集めた噂なら確かなのでしょう。」

「そうです。」

「松永久秀・内藤宗勝兄弟は何か言ってきていますか。」

「義直様なら、征夷大将軍に就任なされてもおかしくないのではありませんか、そう内々に申しております。」

「いくらなんでもそれは無茶ではありませんか?」

「確かに義親様以外にも、阿波には足利義冬様・義助様・義任様の親子が残っておられますが、方々が亡くなられたどうでしょうか?」

「母上様!」

「私達はそのような手を使う気はありません。ですが義継殿やその取り巻きは、追い詰めれて何をするか分かりません。」

「止めさせることは出来ないのですか?」

「京に押し入れば御上にまで害が及ぶかもしれないのです、義直様は成り行きに任せるしかありません。」

「それはそうなのですが。」

「それに寿桂尼様からも、御上と朝廷の事はくれぐれも宜しくと文が来ておりますでしょ?」

「はい、それは来ております。寿桂尼様だけではなく、武田の三条の方からも文が届きました。」

「それに丹波の皇室御領所回復して以来、他の多くの公家衆からも、荘園の回復依頼の使者や文が多く参っています。」

「それは御隠居様から御聞きしています。」

「公家衆の依頼を全て受けましょう、それを大義名分として再度丹波を攻めると共に、丹後にも攻め込み舞鶴の湊を手に入れましょう。」

「稲刈りが終わったら攻め込むのですか?」

「いえ、今から義直様の直属軍2万を、新野親矩様に指揮して頂き先行させます。」

「丹波・丹後の国衆・地侍に稲刈りをさせないという事ですか?」

「青田刈りもさせますよ。」

「2万は三好と浅井に備えるのですね。」

「はい、稲刈りが終わったら、浅井に丹波・丹後に攻め込むように命じるのです。」

「美濃や尾張の国衆にも動員をかけるのですか?」

「そうですね、遠江・三河の国衆は駿河の氏真様に備えさせえましょう。尾張・美濃・近江の国衆には、観音寺城に入って三好の抑えを務めてもらいましょう。」

「承りました、母上様。」

史実では、1565年8月2日に内藤宗勝が丹波で敗死して丹波を失っている。11月に三好三人衆と松永久秀の権力闘争が激化する。そして12月には、三好三人衆が足利義親に松永久秀討伐令を強要し、それを得た事で三好三人衆と松永久秀の合戦が始まっている。だが六角家が弱体化し、三好家に対抗できない史実とは違うのだ。

この世界では近江に強力な今川義直が睨みを利かせている、京・大和・摂津で三好家内で合戦を起こせば、何時今川が攻め込んで来るか分からないのだ。義直が丹波・若狭・越前に攻め込んだ時でも、近江には3万兵が三好家に備えて集まっていたのだ。とてもではないが、三好家に内訌を起こすことは出来なかった。


『京・御所』

松永久秀は、三好家の家宰、幕府奉行衆・御供衆、従四位下・弾正忠の立場を利用して、朝廷との工作に奔走していた。弟の内藤宗勝も、独自の縁を駆使して動いていた。久秀・宗勝兄弟の思惑は、今川義直を京に迎え入れ、朝廷の守護者とすると言う計画だった。三好義継は九条家の血を引いているし、妻が足利義晴の娘で、同じく足利義晴の娘を妻に持つ今川義直とは義兄弟。

今川義直と三好義継の代では、義直将軍と義継管領代として、次の代では今川家と三好家で婚姻を結び、将軍と管領とする腹案だ。

領地に関しても、松永久秀は大和守護、内藤宗勝は丹波守護を目指す。しかしその代わり、三好義継には阿波・淡路・摂津・河内・和泉を確保し、今川義直には紀伊・伊賀に加え丹後・但馬を保証する事で味方につけようとした。

それに今川義直の母・直虎は南朝の井伊家の出であり、今も南朝縁の国衆・地侍を優遇しているように見える。三好家も当初南朝を奉じていたし、長慶の代には楠木正成の子孫と称する楠木正虎の朝敵の赦免を、松永久秀自身が取り成し正親町天皇の勅免を受けている。

だが松永久秀と内藤宗勝の動きは、三好三人衆の危機感を煽ってしまった。

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