女将軍 井伊直虎

克全

第38話雪崩

『岩倉城』

岩倉城で1夜を過ごした義直の下に、今日も降伏臣従を誓う者がやって来た。

「義直様、南朝を奉じて戦った石黒重行殿の子孫、長谷川善九郎重成殿が臣従の挨拶にやってこられました。」

「左様か、よくぞ来てくれた、我が母・直虎は同じく南朝を奉じて戦った井伊家の出だ、南朝方の子孫が集まってくれたこと、心強く思うぞ。」

「勿体無き御言葉を賜り有り難き幸せでございます。我が祖先石黒重定は、高師(こうのもろ)泰(やす)のために井伊城で破れらた、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を越中奈呉の郷の木船の居城に迎えました。その孫・重行も数度にわたり勤王の兵をあげましたが、武運つたなく破れ越中から奥州へと落ちのびることになりました。」

「左様であったか、御先祖は御苦労なされたのだな。」

「はい、しかしながら重行は塩釜明神の尊像を負い、如意の里に来て、姓を長谷川と変えて北朝から見つからぬように潜み隠れておりました。その後、尾張の守護斯波氏の庇護をうけて如意、味鋺の領主となり今に至っております。」

「ならば織田になど従ういわれはないのですな。」

「はいそこで同じ長谷川一族の長谷川与次・長谷川橋介(はせがわきょうすけ)兄弟を誘い降伏して参りました。」

2人の男が少し身じろぎをして存在を示した。

「そこに控えておられるのが長谷川与次殿・長谷川橋介殿か、他にも4人おられるようだが?」

「他に控えるは、桶狭間の戦のおり、信長が夜明けに行軍を開始した当初僅かに従った5人のうち、岩室重休殿・佐脇良之殿・山口飛騨守殿・加藤弥三郎殿でございます。もう1人は長谷川橋介殿でございます。」

「おお、桶狭間の勇者が全てここに集まってくれたのか!」

「「「「「有り難き御言葉を賜り、恐悦至極でございます。」」」」」

次いで現れたのは、比良城主・佐々成政だった。

「此方におられるのは佐々成政殿でございます。成政殿の長兄・政次殿と次兄・孫介は、三河国小豆坂の戦いで共に活躍し、小豆坂七本槍に数えられる勇将でございました。しかしながら成政殿は桶狭間の戦いの序盤で、信長が善照寺砦に到着したのを見て、千秋四郎と共に今川義元軍に攻撃をかけ討死されてしまわれました。また孫介殿も稲生の戦いに武者大将として出陣し奮戦するも、討死を遂げておられます。」

「それは残念な事ですな、だが成政殿の姿は勇将と言われた政次殿・孫介殿にも負けない立派なものですね。近隣諸国に鳴り響いた勇将・佐々一族の当主を家臣に迎える事が出来るなど、これほどの喜びはありません。」

「佐々一族を高く評価して頂き真にありがたく思います、亡き兄達に恥じない働きをしたいと思っております。」

「心から期待しております。」

佐々成政の元には亡くなった兄達の遺児がいる、彼らを守り育て一族を滅ぼさない為にも、勝てる方に味方することにしたのだ。

大野木城の塙右近・塙直政親子も降伏臣従の挨拶にやって来た。

小田井城・坂井戸城の織田信張も義直に抗しきれず、義直に降伏臣従の挨拶にやって来た。

光明寺城主・神戸伯耆守も義直に降伏臣従の挨拶にやって来た。

「義直様、此方におられるのが光明寺城主・神戸伯耆守殿でございます、神戸伯耆守は善政を敷かれ、城下の民を慈しまれ、民草から大変慕われておられます、しかも戦場では勇者の如く活躍なられると評判の武将でございます。」

「おおそうか、神戸伯耆守殿のような知勇仁を兼ね揃えた武将を家臣に迎える事が出来るなど、望外の喜びでございます。」

「お褒め頂き恐悦至極でございます。義直様の家臣として、恥ずかしくない働きをさせて頂きたいと思っております。」

次に黒田城主・織田広良が降伏臣従の挨拶にやって来た。織田広良は逃亡した犬山城主・織田信清の弟だが、兄とは別の道を歩むことにしたようだ。だがここで1つの問題がある、黒田城は元々尾張国上四郡守護代・岩倉城主・織田伊勢守信安の家老・山内但馬守盛豊が城代をしていたのだ。

岩倉織田家が信長と対立関係になり、1557年盛豊の長男十郎が信長の手勢に攻撃されて討死、1559年に盛豊も岩倉城落城の際に亡くなっていた。岩倉織田家の遺臣を取り込むには、盛豊の次男・一豊を味方にして名目上の城代にするのも手だ。

結論として、織田広良には春日郡の大草城を与えた。山内一豊の居場所は白拍子・歩き巫女達が確認していたので、使者を派遣して家臣として迎え入れるように図った。

松倉城・坪内城・宮後城を支配する坪内一族を代表して、坪内利定が義直に降伏臣従の挨拶にやって来た。彼は同時に、蜂須賀小六・前野将右衛門らで有名な川並衆の代表でもある。他にも割田城の開田二郎国用も降伏臣従の挨拶にやって来たし、吉藤城の遠藤三郎右衛門も降伏臣従の挨拶にやって来た。更に奥城の梶川高秀も降伏臣従の挨拶にやって来たが、梶川高秀は桶狭間の戦いで中島砦に参陣していたのだが、遂に信長を見限ったのだ。

遂には尾張国だけでなく、美濃国加賀野井城主の加賀井重宗も密かに誼を通じにやって来た。他にも溝口城の溝口勝政も降伏臣従の挨拶にやって来たが、勝政は信長の直臣では無く丹羽長秀の家臣だったが、義直は自らの直臣として迎えた。

平田城主・平田三位祐秀は、兵を集めて義直に対抗しようとした。平田家は斯波氏の一門である上に、織田信長が16歳から18歳にかけて、弓を市川大介・鉄砲を橋本一巴・兵法を平田三位を学び、信長は絶えず平田らの師を側近くに招いて教えを請うていた、その関係もあり義直に降るのを潔(いさぎよ)しとしなかった。

片原一色城・三宅城・井堀城・矢合城に勢力を持つ橋本一巴(道求)は、信長の鉄砲の師でもあり、信長を守る為に籠城の構えを続けた。

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