女将軍 井伊直虎

克全

第31話決戦

『日置城外 織田信長陣地』

「討って出る! 馬引け!」

平手久秀が裏切り名塚砦が落ちる前日、信長は古渡城の総掛り準備を命じていた。褒賞目当てで集まった地侍・牢人・雑兵を先手に配置し、古くから仕える兵たちと合わせて戦わせるために、動じても必要な準備だった。

だが信長が夜明け前に向かったのは那古野城の方向だった。平手久秀が裏切り、義直が田幡城の修築を始めたと物見の報告を受けた時点で、もはや時がない事を信長は理解した。このままでは林秀貞が今川に寝返りをうち、その後は次々と尾張衆が裏切ることを悟ったのだ。

信長は、古渡城・御器所西城・御器所東城の抑えに残すはずだった将兵も動員した。もし3城の籠城兵が出て来たら、兵を返して完膚なきまで叩く心算だった。愚かにも義元が討って出て来てくれれば、一発逆転の機会なのだ。それに岡部元信・鵜殿長照だけが1000・2000の手勢で出て来てくれれば、簡単に討ち滅ぼし向背の心配をする必要が無くなるのだ。

だが3城からは追撃の兵は出なかった。

信長が必死で掻き集めた8000兵は一団となって田幡城跡に向かった。


『田幡城跡』

「義直様・直虎様、信長が日置城を出陣してこちらに向かっております。」

「皆に戦の準備を命じなさい! 兵はどれほどですか?」

ふじ配下の歩き巫女が、馬を駆って知らせにやって来た。急ぎの伝令を担う白拍子や歩き巫女は、乗馬の訓練をしており、普段は馬を荷運びに使っているのだ。

「古渡城・御器所西城・御器所東城の包囲を解いて、全軍をもって向かってきております。褒賞で釣った雑兵も集まっておりましたから、7000から8000の間と思われます。」

「母上様、田幡城には入ったばかりで、修築など全くできておりません。1万を切った我が軍勢は、どう織田勢を迎え討つべきなのですか?」

「安心なされませ、信長は追い込まれて一か八かの博打を討って来たのです。御隠居様を囲んだ信長にとっては、我らなど本来相手にすべき敵では無いのです。それを御隠居様の囲みを解くなど、追い詰められた信長の苦肉の策なのです。」

「それは理解出来ますが、母上様は信長の鉄砲は恐ろしいと申されたではありませんか。」

「確かに恐ろしいものですが、それは鉄砲隊が守っている所に此方が攻め掛かると恐ろしいと言うことです。ですがこちらが守っている所に、鉄砲隊が攻めてくる分には十分対処できます。」

「満足な堀も土塁も無いのにですか?」

「確かに堀や土塁があれば更に有利です。ですがそのような場所に陣取っていたら、信長は攻めてこなかったでしょう。」

「母上様は信長を誘い出したのですか?」

「いいえ母ではありません、義直様が信長を誘い出されたのです。信長は義直様の策に嵌まって、のこのこと日置城から出て来たのです。」

田幡城跡では、今川方の将が雑兵達の士気を鼓舞していた。義直様の策によって、信長が誘い出されてきた話して聞かせていた。柵を設け木盾を準備し、信長の鉄砲を防いだ後に切り込めば勝利間違いないと教えていた。つまり鉄砲隊から撃たれる事を事前に教えているのだ。

ここにきて、遠江・三河・尾張の民百姓に作らせていた、大量の柵と木盾が役に立っている。時間の許す範囲で出来る限り、1万の将兵に竹や木を伐り出させて柵と木盾を作らせていたのもよかった。次々と廃城を修築するために資材を使って来たが、それでも田幡城跡で信長を迎え討つだけの数は残っていた。


『信長軍』

信長は日置城を出陣して那古野城の左側、つまり那古野城と押切城の間を抜けるように進んでいた。もし那古野城の右側を進めば、義直勢が田幡城跡を捨て、より守備力の高い押切城に移動する恐れがあったからだ。

信長は奇襲を恐れていた。自分が桶狭間で行ったように、長く伸びた陣形を横から突かれる可能性がある。特に義直方の押切城と、何時裏切るか分からない林秀貞の守る那古野城の間、最も狭隘な部分を通過する時が危険だった。何方に寄り過ぎても城兵から弓鉄砲を射掛けられ、奇襲を受ける恐れがあったからだ。

多くの物見を放ち、陣形を保ちつつ行軍し、何時奇襲があっても狼狽せずに対応出来るように準備万端整えていた。だがそのため行軍速度はどうしても遅くなってしまい、信長が義直を奇襲すると言う訳にはいかなかった。

信長は進軍の勢いのまま田幡城跡に攻め掛かったりはしなかった。そのまま攻めれば前に田幡城跡、左に平手久秀の志賀城、後ろに義直勢の押切城、右に裏切る可能性のある林秀貞の那古野城と言う布陣で戦う事になる。

そこで信長は田幡城跡と那古野城の間を抜けて、織田信次の守る守山城が背後に来るように陣を構えた。これで信長は、少なくとも背後を奇襲される可能性が少なくなった。だが同時に、義直は危険と判断したら押切城に撤退することが出来るようになった。信長は義直に逃げ道を作る事で、義直勢の踏ん張りを無くす為だったのかもしれない。

昼前から始まった合戦は、弓矢の応酬から始まった。信長勢の足軽が木盾を構えて田幡城跡の柵に徐々に近づき、柵まであと50mに迫った所で義直勢の弓隊が一斉に矢を射掛けた。義直勢は、信長勢が300mまで迫った所で矢を放っていた。

信長勢の弓隊も矢を射掛け始めた。盾を構えた足軽勢の後ろから射掛ける為、義直勢よりも少々遠距離からの攻撃になる。だが互いに正確に狙いを定めた攻撃ではなく、面制圧弓射、いわゆる矢衾を張った状態だ。超有名なアニメの名言「弾幕薄いぞ!」の弓矢バージョンだ。

義直勢にとっては、このまま遠距離での攻防は望むところだった。直接戦っていない者達に濠を深く掘り返させ、土塁を高く築かせる事が出来る。時間が経てば経つほど田幡城の防御力が向上する。

信長は何度か攻め掛けさせては引いてわざと隙を見せ、義直勢を田幡城跡から引きずり出そうとした。しかし義直勢は、決して田幡城跡から討って出ようとはしなかった。

「母上様、このまま城跡に籠っていればよいのですね?」

「そうですよ、信長は義直様の罠に嵌まったのです。このまま攻めあぐねる姿を晒せば、信長勢から離反する者が出るかもしれません。その裏切り者が背後から攻め掛かれば、信長勢は総崩れとなります。わざわざこちらから攻めて、鉄砲隊の間合いに入るなど愚かな事です。」

「はい母上様!」

日が暮れるまで義直勢と信長勢の小競り合いは続いた。

夜が更けてから信長は将兵にしっかり腹ごしらえをさせた。昼の合戦で弓矢の間合いを十分の確認した信長は、木盾を構えた足軽の後に鉄砲隊・弓隊を布陣して田幡城跡に近付かせた。柵の間を抜けて更に近付こうとしたとき、愚かな雑兵が鳴子に触れてしまい、義直勢に夜討を気付かれてしまった。

「鉄砲放て! 弓はたて続けに射よ!」

鉄砲隊が木盾を構えた足軽の間から1射し、弓隊も出来るだけ遠くに矢を次々と射た。槍足軽を主力にした織田勢先方が、一斉に駆け出し田幡城跡に突入しようとする。次発装填を終えた鉄砲足軽は、少し射角をかけて、味方を撃たないようにして最大射程で援護射撃をする。

義直勢は夜討ちの可能性も考慮はしていた。夜警兵も多く投入していたし、眠る兵も武器を手元から離すような事はなった。だが実際に夜討を受けた衝撃は無視できなかった。何も見えない闇の中から鬨の声が上がり、実際に矢玉が飛んでくるのだ。闇の中では、攻める方より守る方が圧倒的に恐怖感が大きいのだ。

義直勢は弓隊に矢衾を張らせたが、闇の中ではどれほど効果があるのか分からない。それに比べて、敵の矢弾を受けて死傷する味方の姿は間近に見える。闇夜では、鬨の声上げて攻め寄せる敵を狙って射る事は出来ない。信長勢は無人の柵地帯を抜けて、槍足軽が守るところまで攻め掛かって来た。

信長勢は、義直勢が急遽築いた槍衾に突撃を仕掛け、城跡深くへと入り込もうとした。だが槍隊の前には、柵に木盾を組み込んで強化した急造の防御線が築かれてた。

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