女将軍 井伊直虎

克全

第23話信長包囲網

『尾張・伊藤城』
信長は、今川勢の様子を見る為に、一度仕掛ける事にした。
まずは、末森城に五百兵を送り、悪口雑言で挑発したのだ。

「義元をたぶらかす為に、股を開いた売女」
「義直は不義の子」
「井伊家は、氏真の首を狙っているぞ」
「義直を生かしていると、今川が滅ぶぞ」
「直虎は、誰にでも股を開く売女だ」
「母上。討って出させてください。あのような悪口雑言は、絶対に許せません」
「義直様。あのような、武士とも思えない卑しき言葉を吐く者など、相手にされますな。あれは、我らを罠に誘い込むための挑発です」
「しかし、母上を悪し様に罵る言葉を、許す訳にはいきません」
「では万全態勢を整え、夜明けを待って、堂々と押し出されませ。それが大将の分別でございます」
「母上。母上の名誉はどうなるのです」
「義直様。義直様は、今川先鋒軍の総大将なのですよ。私事に囚われてはいけません。義直様の誤りで、万の将兵が命を失い、それに数倍する家族が哀しむことになるのです。分別なされませ」
「母上様‥‥‥」
「信長のような卑しき者は、必ず思い知らせてあげます。だから朝まで体を休めて、戦に備えなさい。それが大将の分別です」
「はい……母上様」

『尾張・古渡城』
「みわ殿。急な使者だが、何かあったのか」
「信長の配下が、末森城外で義直様と直虎様の悪口雑言を申しております」
「わざわざ直虎様が使者を送られると言うのは、放置できない事なのだな」
「はい。放置すると嘘の悪い噂が広がり、義直様と直虎様の不利となります。偽りと知りながら、御屋形様はそれを理由に、義直様と直虎様を排除しようとなされます」
「なるほど、分かった。明朝の出陣、確かに請け負った」

翌朝、義直は直盛と時間を合わせて、ゆっくり出陣した。
五百の兵を末森城に残して、六千兵でほぼ全力攻撃した。
直盛も古渡城に五百兵を残し、五千兵で全力出陣した。

『尾張・伊藤城』
信長は、義直が悪口雑言につられて夜襲を仕掛けていたら、伏兵に配置していた鉄砲隊使って、義直勢を全滅させる心算でいた。
十面埋伏の陣を築いて、手薬煉(てぐすね)引いて義直勢を待ち構えていたが、残念ながら空振りに終わった。
信長はこれによって義直の能力を量り、一旦伊藤城に籠城して、鉄砲で寄せ手を撃退する決断をくだした。
大打撃を与えた上で、機を見て討って出て、義直軍を全滅させる心算でいた。
これが鉄砲を有効に使う、一番の手段だと思っていたのだ。
信長の放った物見の報告は、義直勢が優秀であることを裏付けていた。
義直勢は、信長が伏兵を潜める心算でいた場所を、物見を放って安全を確認してから、ゆっくり伊藤城を目指していたのだ。
ここで、信長の誤算が一つ露わになった。
それは熱田を包囲すべき大切な井伊直盛勢が、義直の援軍に現れたのだ。
義直勢は最大で六千兵と計算していた信長だが、これで一万千兵を相手にする事になってしまった。
だがまだ城攻め攻守三倍の法則で言えば、五千兵を超える信長勢が守り切れるはずだった。

『尾張・伊藤城外』
直盛勢は義直の指揮下に入った。
実質的には、後見役の井伊直平と直虎が、全軍の指揮をすると言う事だ。
いや、井伊直虎が一万千兵の軍権を握った事になる、
そこで直虎が取った戦術は、以下の方法だった。

一・伊藤城から鉄砲・弓矢の届かない所に柵を幾重にも置く。
二・その後ろに木盾で守られた鉄砲・弓足軽を配備する。
三・地域の民を強制労働させ、木盾の後ろに空堀を掘らせる。
四・掘った土を木枠の間に運び踏み固めて土塁にする。

「母上様。よくこのような策を考えつかれましたな。」
「兵法書を読めば、幾らでもこの程度の方法は書いてありますよ。三国志ですら、この程度の事は書き記しています」
「不勉強でした。申し訳ありません。母上様」
「少しも油断してはいけませんよ。敵は織田だけではないのですよ」
「はい。母上様」

『尾張・伊藤城』
「盛次。このままでは袋の鼠になる。儂は討って出て、古渡城を攻撃する」
「承りました」
「今川勢が城攻めを仕掛けて来たら、背後を突くから安心しておれ」
「ありがとうございます」

義直勢の動きを見た信長は、自分の策が敗れた事を悟った。
今の信長勢が保有する鉄砲は、小筒と中筒が大半で、射程距離も破壊力も限られている。
城外から距離を取って陣を構えられては、城を出て攻撃するしかない。
そうなると、義直勢が保有する二倍の兵力がものを言う。
城を出てしまったら、数が多い鉄砲隊で義直勢に攻撃を仕掛けても、柵と木盾に阻まれてしまう。
逆に速射性に優れた義直勢の弓隊に攻撃され、大切な鉄砲隊を無為に失う事になってしまう。
まして空堀と土塁が完成して伊藤城に封じ込められてしまえば、尾張は今川勢に席巻され、伊藤城だけが信長に残される状態になる。
信長は、義直勢が柵と木盾で城の全出入り口を封鎖しようとした瞬間に、全てを悟った。
だから手遅れになる前に、討って出る事を決断した。
佐久間盛次に城を任せ、兵には腰兵糧だけを持たせ、しゃにむに義直の陣を突破することにした。

『尾張・伊藤城外』
「母上様」
「気にする事はありません。信長も無能ではないと言う事です。このままでは袋の鼠になり、滅ぶと悟って逃げ出したのです。義直様の勝ちでございます」
「私の力ではありません。全て母上様の御力です」
「配下の将兵に力を発揮させるのが、大将の力量です。義直様には、目先の功名にとらわれない、立派な大将になって頂きたいのです。そのような些少な事など、気になされますな」
「はい。母上様」
「直盛殿に、追撃と古渡城の死守を、御命じになられませ」
「はい。母上様」

信長は殿(しんがり)を志願する者を選び、志願者に後方を死守させて古渡城を目指した。
井伊直盛が留守にしている古渡城を急襲・強襲して奪い、熱田湊を解放する心算だった。
だが、信長が古渡城に辿り着いた時には、既に今川義元が入城していた。
信長は、鉄砲を撃ちかけて古渡城の今川軍を牽制し、追撃してくる井伊直盛勢に挟撃されないように清州城に帰還した。
伊藤城を出た時に、全ての物資を置いてきたのだ。
長期の対陣をするには、補給をする必要があった。
城地を奪われる事はなかったものの、じわりじわりと信長包囲網は強くなって来た。

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