魔法武士・種子島時堯

克全

第163話近衛家対策

1542年12月2日『近江国・新庄城』種子島権中納言時堯・14歳

「蔵人殿、ここは素直に降伏されよ」

「承りました権中納言さま、お言葉通り城地の召し上げには応じさせて頂きます。しかしながら一族一門家臣一同の今後の事は宜しくお願い申し上げます」

「任せられよ、決して悪いようにはせん」

「それはそうとして、我が息子を久我家の養嗣子にするのは余りに無理な事では無いでしょうか?」

「いやいやそうではあるまい、蔵人殿の正室は庶子とは申せ久我通言の娘ではないか、十分資格があるだろう」

「しかし一旦公家から武家に嫁いでおります、何より久我家には近衛家から迎えた養嗣子・久我晴通が現当主としておられます」

「まあ任されよ、無理であったとしても何の損もないであろう?」

「それはそうでございますが・・・・・・」

「近衛家の嫁がれた久我慶子さまが次男をお産みになられるまでの事だ、慶子さまのお子ならば久我家を継承されても何の問題も無い」

「そうですね、久我晴通さまよりは正統でございましょう」

「一旦久我家の養嗣子となれば高位の官職も賜われる、新庄家には得になっても損になる事などあるまい」

「分かりました、宜しく願い致します」

俺としては、足利家に近かった近衛家の勢力を抑えておきたい。その為には源氏長者を務める久我家に入った養嗣子は排除したい、その為には多少悪辣な手段も取る覚悟をした!

新庄直昌は清華家・久我氏から正妻を迎えていた。久我家は俺が狙っている当道座の本所となっている。久我家は戦国時代となって源氏長者を独占しているが、同時に戦国の世の荒波は各地の荘園を押領されることになった。そのため源氏長者ではあるが衰退没落してしまい、俺の支援で何とか公家としての体裁を整えている状態だった。

俺が狙っている当道座の起こりは、鎌倉時代に『平家物語』が流行ししたことで、多くの場合盲人が『平家物語』を演奏した。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護管理下に入っていく。室町時代に検校明石覚一が『平家物語』のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いた。そして久我家が当道座の本所となったのだ。だが1456年に放火されてしまい、家伝の書類の多くを失ってしまっていた。

それと現当主の久我晴通なのだが、この男は近衛家から久我通言の養嗣子として入っていて、実父は近衛尚通・実兄は近衛稙家の家系なのだ。

まだ存命の久我通言だが、1528年に嗣子・久我邦通を亡くして仕方なく翌年に近衛晴通を養嗣子に迎え入れた。1528年に右大臣となり1535年に従一位となるが、1536年に父親の豊通を亡くし、悲観して50歳で出家して朝廷を去っていた。

それと検校と言う官位なのだが、仁明天皇の子である人康(さねやす)親王の行いから始まる。親王は盲目(眼疾による中途失明)であったが、山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えた。人康親王の死後、そばに仕えていた者に検校と勾当の官位を与えたとする故事により、当道座の最高の官位は検校とされた。

新庄直昌(1513~1549)
居城:坂田郡新庄城
父親:新庄直寛
通称:蔵人
正室:久我家の娘
1538年:父新庄直寛の病没により新庄家の家督を相続した。
坂田郡に朝妻城を築城して本城を移した。
1549年:畿内で細川晴元と三好長慶が対立すると細川晴元勢の救援に赴いた。
「江口の戦い」で討死した。
朝妻城は継嗣の新庄直頼、
新庄城は次男の新庄直忠が相続した。

新庄直頼(1538~1612)
父親:新庄直昌
官途:駿河守
通称:新三郎
正室は前田利太の娘
1570年:「姉川の戦い」で第四陣を務めて織田信長勢と戦った。
1571年:丹羽長秀勢の攻撃を受けて降伏した。
1582年:本能寺の変」後は、羽柴秀吉に仕えた。
1591年:大津城12,000石を領した。
1600年:関ヶ原の役」で石田三成勢に属して筒井定次が守備する伊賀上野城を攻落とした。
役後、改易処分に処された。
1604年:常陸行方郡麻生城27,000石を領した。

新庄直忠(1542~1620)
父親:新庄直昌の次男
通称:刑部左衛門
羽柴秀吉に仕えた。
1591年:枯死した唐崎の松を植え替えて景勝保存に尽力した。
1597年:「文禄の役」で目付として渡海した。
1598年:羽柴秀吉が病没すると京都に閑居した。
1600年:「関ヶ原の役」で石田三成勢に属して、大津城に籠城する京極高次との取次役を務めた
役後、改易処分に処された。

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