立見家武芸帖

克全

第88話家臣11

「最初から多数を斃す必要などない。
確実に一頭を斃せばよい。
我が手本を見せる、よく見ておれ」

「はい」

今日も新吉原の裏にある車屋敷で鍛錬する。
最初は重太郎だけを連れて来ていたのだが、門弟の中に愚かな疑いを抱く者が現れ、重太郎の身の潔白を晴らすために、希望する門弟を連れてくるようになった。
愚かな連中で、重太郎のように死骸を斬ってもいないのに、気を失う不心得者が何人も現れ、面目を失って道場を去っていった。

死骸を斬るのに慣れたので、今日からは豺狼と戦う鍛錬である。
犬追物という、鎌倉から室町にかけて武士の鍛錬として行われ、諏訪大社や下鴨神社や上賀茂神社などでは神事として開催されていた、見物客で賑わった競技だ。
四〇間四方の平坦な場所に一五〇匹の犬を放ち、三組十二騎の計三十六騎の騎士が、馬上から犬射引目と呼ばれる特殊な鏑矢で犬を射るのだ。

だが今回は、そのように広い場所も多くの豺狼も不要だ。
重太郎の練習相手なら、豺狼一匹で十分だ。
最初は我が手本を見せ、ひときわ大きな狼を相手に戦う。
本気になれば、素早く一撃で槍の錆にできるのだが、手本だからそうはいかない。
狼の噛み付きを、時に足捌きでかわし、時に槍捌きでいなす。
重太郎だけでなく、一緒に来ていた門弟達も喰い入るようの見ている。

「重太郎、やってみろ」

「はい」

重太郎には、あまり大きくない山犬を相手してもらった。
今度も初めて死骸を斬った時と同じように、心の問題が一番大切なのだ。
生きているものを、己の手で斬り殺すという心の壁だ。
それを乗り越えられなければ、憎い親の敵であろうと、斬る時に戸惑いが出てしまい、一瞬の遅れが己の死に繋がってしまう。

生き物を命を奪うという壁を乗り越えた後は、供養のために喰らうのが常道だ。
我は奪った命は喰らうのが責任だと思っている。
まあ、人を喰らう事は畜生道に落ちるの、絶対にやらないが。
ただ、今の我は西ノ丸様や諸藩の武芸指南役である。
薬喰いと言い訳をしても、豺狼を喰らうわけにはいかない。

我と重太郎が殺した豺狼は、けだもの屋とか、ももんじ屋とか呼ばれている、四つ足の獣を喰わしてくれる店に売るのか、非人達が喰らうのであろう。
まあ、今回は豺狼だから我慢しよう。
これが山鯨や山親父だったら、我慢できなかったかもしれない。
豺狼は臭過ぎるが、山鯨と山親父には、獣臭さを超える美味さがある。

「お前達はこの足で砂浜に行って魚を突いて来い。
我は仇討ちの相談で少々寄らねばならないところがある」

弟子の中には、まだ疑っている者がいる。
我がこの足で吉原に行くと思っているのだろう。
重太郎の敵、鮫島全次郎の強さを確かめに行くのだが、もう少し重太郎を鍛えるまでは、その事を口にするわけにはいかぬ。

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