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克全

第158話:一八三七年、正月の予言

当初の目的だった一八五三年の黒船撃退は遠い話になっている。
もう今のアメリカに他国に手出しする余裕などない。
一八四〇年のアヘン戦争も、このままの状態だと始まらない可能性すらある。
元々イギリスの東インド会社がアヘンを密輸出していたのだ。
本国で激しい内乱が勃発したら、イギリス東インド艦隊が本国に戻される可能性があり、その状態で清国と戦争に突入する事は不可能だからだ。

そのような事を徳川家慶に話した。
それとアメリカをはじめとした世界各地の戦況も話した。
南蛮列強相手に優勢な戦いを進めている事を話したのだ。
当然だが、優勢だからと言っても油断大敵だという事は繰り返して説明した。
同じ事は父上を通して朝廷にも話してもらった。
他にも来年の火事の予言をして、実際に火事が起こらないようにした。

予言した火事は合計三つで、その一つは天保九年に大阪伊達町で起こる火事だ。
一八三八年四月二六日、天保九年四月三日に大阪伊達町の播磨屋嘉兵衛から火事が起きている。
焼失した軒数は火元の伊達町で二一軒、一二四世帯。
神田町で四軒二四世帯。
衽町で三軒六世帯。
箱屋町で一一軒六三世帯。
船坂町で九軒五一世帯。
中橋町で一〇軒七五世帯。
鉄町で二三軒一七七世帯。
阿波橋町で二四軒一二一世帯。
古金町で二七軒一二二世帯。
帯屋町で二一軒六九世帯。
讃岐屋町で一七軒一五一世帯。
日向町で三五軒二八六世帯。
立売堀一丁目で八軒四八世帯。
立売堀二丁目で三八軒一四七世帯
立売堀三丁目で二九軒七〇世帯。
他にも一八町が焼失していまい、焼失家屋が合計で二八〇軒一五二四世帯だった。
他にも焼失した土蔵が二一棟、納屋が三一軒、空き貸家が三〇七軒、消火のために破壊した家屋が二三軒、道場が四カ所、橋が一橋だった。

(出典:松浦静山著「甲子夜話三篇 5>五十五「阪乱聞蘇」乙・33頁~36頁:戌四月三日出火」)参考参照

もう一つの火事は天保九年に長崎で起きるモノだ。
一八三八年四月二七日、天保九年四月四日の夜、長崎の小川町から出火し内中町、恵美須町など二五カ町を焼いて翌朝鎮火した火事だ。
被災町は内中町、恵美須町をはじめ、豊後町、新興善町、後興善町、本興善町、新町、船津町、堀町、今町、金屋町、本博多町、浦五島町、本五島町、樺島町、平戸町、大村町、島原町、外浦町、今下町、本下町、江戸町、西築町、東築町などだ。
主な建物は中国語の通訳や中国貿易に関する実務と管理を行っていた長崎唐通事会所、対馬、小城、鹿島、諫早、筑前など九州各藩の家老の長崎屋敷、高島秋帆、後藤市之丞、高木清右衛門屋敷が焼失していた。
被害数は、家屋一三九三戸、土蔵六〇棟、消火のために破壊した家屋三五軒35軒で六人の死者を出している

(出典:長崎市編「長崎叢書 下(増補長崎略史>年表 第七>天保九年・293頁~294頁」)参考参照

最後の火事が天保九年に江戸日本橋で起きた火事だ。
一八三八年五月一〇日、天保九年四月一七日、
江戸中に大風が吹いている午の刻過ぎ(午前一二時ごろ)、日本橋小田原町二丁目の湯屋(風呂屋)から出火したのだ。
出火当時、風は北風から強い南風に変わり、炎は吹き上げて、伊勢町から瀬戸物町、本町、石町、本銀町あたりより今川橋通りにかけて延焼してしまった。
西は鎌倉河岸、小川町の武家屋敷、西神田の町々一円を灰としてしまった。
最後に室町にまで延びた炎は、夜戌の刻過ぎ(午後八時半ごろ)同町を灰にしてようやく鎮火した。
焼けた地域の広さは延長およそ二三町(二・五キロメートル)幅およそ九町(一キロメート)の大火だった。
出火の原因は湯屋二階にある仏壇に供えた線香が倒れ、棚板から屋根裏へと燃え上がったものだ言うのだから、神も仏もあったもんじゃない。

(出典:東京都編「東京市史稿>No.4>変災篇 第5>天保九年火災 563頁~579頁:二 四月十七日大火」、池田正一郎編著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>天保九年 643頁」)参考参照

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