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克全

第104話一八三一年、叔父の待遇

祖父の問題は何とか片付いたが、ほっとすると今度は叔父の事が気になりだした。
いないことになっている、松平容住の実子という事になっている、会津藩を継いだ叔父、松平容敬の事は気にする必要はない。
一八二二年に会津藩を継承して藩主となっている。
問題は近江国三上藩主遠藤胤統の養嗣子となっている、胤昌叔父の事だった。

義父の遠藤胤統は才覚があり、水戸徳川家の血統で家康の男系七世孫なのだ。
氏族としての遠藤家は譜代格の一万石大名だが、血統的には親藩になる。
現在は無役だが、一八一二年に江戸城田安門番に任じられたのを皮切りに、日光祭祀奉行、大坂城青屋口加番、江戸城馬場先御門守衛、大坂城雁木坂加番を歴任しているほどだ。

史実では一八三三年に大阪城玉造口定番に就任し、一八三七年の大塩平八郎の乱の時には、京橋口定番の米倉昌寿がまだ着任していなかったので、両口の守備を兼務して、大坂城代土井利位の指揮下で乱鎮圧で武功を挙げている。
その武功により大久保忠真、松平乗寛、水野忠邦の三老中連署の感状が贈られ、将軍家斉からは鞍鐙まで下賜されているのだ。

徳川家斉と徳川家慶の双方から信頼され、一八四一年から一八五一年の十年間若年寄を任されている。
一八五二年には江戸城御勝手掛、西ノ丸造営奉行、海岸防御筋御用掛を兼任し、二千石を加増されている。
徳川家斉の子弟と諸大名の婚姻に関する事務処理を大過なくまとめ、ロシアとの領土交渉や、第十四代将軍徳川家茂と和宮の婚姻をまとめる大功も挙げている。
そのため、和宮の関東御下向の際には、婚姻大礼御用掛まで勤めている。

一八五四年には内海台場築造用掛を命じられ、城主格に出世している。
本丸造営御用掛、国益主法御用掛、外国貿易筋御用掛、外国事務掛を歴任した。
一八五九年に露国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、軍艦七隻を率いて江戸湾の品川に来航し、樺太全土は露領と武力で威嚇主張したが、外国事務掛の胤統と酒井忠毗が完全に退けている。

一八六〇年には諸役を免じられるが、一八六一年に軍制用掛・陸海軍備向の役目を与えられ、従四位下に昇叙され民部大輔に遷任されるという、一万石大名としては異例の高位を与えられている。
一八六三年に七十歳となってようやく老齢を理由に隠居が認められているが、その養嗣子である胤昌叔父は、跡目を継ぐ前に一八五六年に凶年五十三歳で亡くなっているのだ。

胤昌叔父は養嗣子であるために、義父遠藤胤統の娘以外と子を設ける事もできず、可哀想な一生だったと思う。
そんな将来が分かっているから、養子を解消させて、蝦夷新田藩を設けてそこの藩主とすればいいと思ったのだ。
多くの藩が無嗣改易にならないよう、跡継ぎ候補を確保する藩内藩を立藩しているから、俺が同じことをしても問題はない。

遠藤胤統殿には七十七歳まで長生きすると伝えればいい。
一八三八年に跡継ぎの男子が生まれると伝えてやってもいい。
俺の言う事が信じられず、無嗣改易が怖いというのなら、生まれたばかりの四弟鎮三郎を形だけ養嗣子にすればいい。

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