勇者の帰り道

こんぱす

2. 天国に一番近い場所ー神域ダスタニアー  Ambivalent city ~at Destania~

 二日が経った。
 返答はまだない。
 街の外の馬小屋。馬車に乗せていた遺体は冷却したうえで一応棺桶に入れられた。しかし、腐敗は時間の問題だ。
「勇者様」
「……そうだね」
 彼は紅蓮の髪の毛を弄っていた手をとめて、立ち上がった。
「教皇庁に行ってこよう」
「はい」と返事をして立ち上がると「ああ、君はいいよ」と勇者様は言った。
「どうしてですか」
「ぼくひとりで行ったほうがいいと思うんだ。君は、ゲイルと待っててくれ」
「でも」
「大丈夫だから」
 そう言うと、彼は宝剣を持って街に入っていった。
「勇者様…」 
 ゲイルがブルルル……と鳴く。私は白いたてがみを撫でつつ、干し草を飼い葉おけに入れる。小食のゲイルはもそもそそれを頬張っている。
 その様子を見つめつつ、路傍の岩に膝を抱いて座る。ほんとうに行かなくてよかったのだろうか。勇者様は……いや、でも私が行ったら感情的になってしまうかもしれない。勇者様は、それを見抜いていたのだろうか。だったら、勇者様の言う通りにしないと。
 そうは思いつつ、気分が晴れないのは、言うまでもない。傍らに並ぶ棺桶のせいだ。
「っ……ううっ……」
 勇者様の前では、できるだけ我慢しようと必死にこらえてきたけれど、やはりだめだ。
 私は一つ、大きく誤解していた。
 覚悟はできていた。命に代えてでも、大魔王の魔の手から世界を救う。そういう覚悟は。けれど、それは自分一人だけの覚悟だった。自分だけ生き残り、他のみんなが死んでしまうなんて、想像していなかった。そこまでの覚悟は、出来ていなかった。
(勇者様は、覚悟できてたのかな……)
 ローブは便利だ。フードを深くかぶって丸くなれば、泣き顔が見られなくなる。何度もそれに助けられてきた、そんな気がする。
「あー。姉ちゃんいたいたー」
「え……?」
 にわかにあたりが騒がしくなる。瞳をこすってフードの隙間から外を見ると、この間の子どもたちが私のいる馬小屋の周辺に集まっていた。
「あなたたちは…」
 六人くらいの子どもの群れの中、一番背の高い、リーダーらしきあの女の子が歩み出た。背には赤ん坊の顔が見える。
「この前、あの子と一緒にいた女の人でしょ」
 ぶしつけに、少女は言った。あの子、というのは勇者様の事だろう。
「そうだけど」
「これ、返しに来た」
 少女が差し出したのは、サンドイッチの箱だ。同時に、二番目くらいに大きな、長髪の男の子が金貨を差し出す。
 私はゲイルのえさを足しながら言った。馬が珍しいのか、小さな子供たちは瞳を丸くしている。
「いいよ別に。勇者様があなたたちにあげたものなんだから」
 8割が聖職者の町、その残り2割は貧者だという。天国に一番近い街と言われる宗教都市にあるまじき現実だ。暗部ともいえる。
「いいから受け取ってよ」
 少女は短い髪の毛の先をかきあげて言った。挑戦的な態度。なぜこんなに高圧的なのだろう。感謝こそされど、こんなに偉そうな態度をとられる筋合いはない。
「直接勇者様の所に行って。私があげたものじゃないし」
「あの人教皇庁に行ってたから。僕たちは、あそこには近づけないから」
「……」
「あとあなたたち勘違いしてるみたいだけど、私たち貧しいわけじゃないから。お金ならそこらへんの司祭以上に持ってるし」
「え?」
 つい、首を傾げてしまう。しかし少女は何も言わず、「ガキども帰るよ」とだけ言って帰って行った。
「なにあれ……」
 呆然とその背を見つめてしまう。ふと子供たちの服の背に、バツ印のようなものが描かれているのに気づいた。
""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
 午後、勇者様が帰ってきた。多くの聖職者を引き連れて。
「勇者様…?」
「意外と早く説得できたよ」
「いや、その腕の包帯は……」
 勇者様の右腕には、往路にはなかった包帯が巻かれていた。
「ああ。ちょっとこけたんだよ」
「見せてください」
「いいって。ほら早く火葬を……」
「いいから」
 自分で巻いたのだろうか。随分乱雑な巻き方だった。その包帯を取ると、そこには一筋縦にやや深い斬り傷があった。どう見てもこけてできた傷ではない。そもそもこけたくらいで包帯を巻くものか。
「誰がこけたって?」
「うぅん……」
 勇者様は曖昧に微笑んでいる。
 血は止まっているようだが、治癒魔法をかけて傷も塞ぐ。
「おーいい気持ち」
「どうして傷がついたんですか」
「まあ色々あるんだよ。説得する、最終手段というか」
「はぁ?」
「ほら、とにかく、弔いを果たそう。皆さん、どうかよろしくお願いいたします」
 勇者様が頭を下げると、聖職者たちは手を合わせて一礼した。まるで拝んでいるようにも、恐れているようにも見えた。

 木を組んだ、町はずれの火葬場に棺桶を運ぶ。
 待ち望んではいたけれど、ずっとこのまま来なければいいと思っていた時間。
「……」
「ルラ、大丈夫?」
「ええ。……いえ、多分、駄目です」
「そう」
 四隅にたいまつを持った聖職者。その正面には聖書片手に祭詞を告げる高位聖職者。
「戦士、バスティア様の御魂が神の国に辿り着かんことを」
 聖書を閉じ、彼がそう告げると四隅の聖職者たちが、一斉に火を放った。
「っ……」
 バスティアは勇者様との激しい剣戟の末、半ば強引に仲間になった老戦士だった。しかし「老」とは言っても動きは私よりもはるかに俊敏で、幾度も命を助けられた。まるで祖父のようで、本当に優しい人だった。もし彼がいなかったら、私たちのパーティーはまとまりがつかなかっただろう。
 隣でも祭詞を述べ終わったらしい。
「幻術使いディル様の御魂が神の国に辿り着かんことを」
 ディルは、パーティーの中で最年少の男の子だった。魔法とは違って目眩ましの術だが、目眩ましとは思えないくらい大きなドラゴンを映し出したり、一面を火の海に見せかけたりと、驚くほどの幻術だった。この歳で一体どうやってそれを身に着けたのかと思うくらい。根が悪ガキなところは嫌いだったけれど、反面愛おしくもあった。
「……」
「騎士ハインリヒ様の御魂が神の国に辿り着かんことを」
 その隣、勲章が付いた鎧とともに棺桶に入れられて火葬されるのは、ハインリヒだった。彼の国では誰もが知る貴族家の出身で、パラディンと呼ばれていたらしい。私利私欲に走る一般の貴族とは違い、ノブレス・オブリージュを地で行くタイプの騎士で、勇者様が人助けをしようとしたときに私やバスティアが関係ないというのを勇者様と一緒になって押さえつけるのが彼だった。
 誰が相手でも、一度も自分を曲げようとしたことはなかった。だからか、年長者のバスティアとはよくケンカをしていたが、今となってはそれすら懐かしい。「初めて背中に傷をつけた」。大魔王との戦いで、私を庇った彼は、そう言って死んでいった。
「いや……」
 最後の棺桶、祭詞が終わったのだろう。聖書を閉じる音がした。
「武術家ミオ様の御魂が神の国に辿り着かんことを」
 ミオは、戦いの時こそたくましかったけれど、本当は戦うのが嫌いだと、魔王との決戦の前に教えてくれた。そもそも、誰かを倒すために戦っているのではないと、言っていた。じゃあどうしてこの旅についてきたのか。彼女は「勇者に惹かれたんだー」と笑っていた。よくわからなかったけれど、実力は筋金入りだった。勇者様が何歳かは知らないが、おそらく私と一番近い歳だったのは彼女だった。……たまに姉のようにふるまってくるのは少し鬱陶しかったけれど、それでもいいから、戻ってきてほしい。
 フードを目深にかぶり、しゃがみ込んで私は耳を塞いだ。耳さえ塞いでしまえばあとは何も見えない、聞こえない。
 あとは思考も、と思ったけれど、駄目だった。言うまでもなかった。私たちはそんなに密度の薄い間柄ではなかった。時には死線を越え、時には本気で喧嘩をし、時には野営の火を囲んだ仲間だった。
 頭に手が乗っかる感覚を覚えたのは、どれほど経った時だったろう。それに気づくと同時に、肩先が触れ合った。
 耳を覆っていた手を離して横を見ると、勇者様が私の隣に座っていた。
「勇者様……」
「いいよ。耳を塞ぎたければ塞いで。目を塞ぎたければ、塞いでも」
「……」
「仲間の死に向き合えなんて言わないよ。目を逸らしたければ逸らしていい。君は、十分悲しんだ」
「勇者様……」
 水分を含んだ声で、私は問いかける。
「何?」
「みんな、報われますよね……? ここで、弔われたんだから、みんな……みんな」
「ゆっくりでいい」
 勇者様はギュッと私を抱きしめてくれた。そういえばいつかの野宿の時も、こんなことがあった気がする。その温度は本当に暖かくて優しくて、涙が、止まらない。
 泣きじゃくる私。読み聞かせのような声で、勇者様は語りかけた。
「ここは天国に一番近い場所だから。きっと、大丈夫だよ。それに、この街の聖職者たちがみんな祈りを捧げてくれてる。大丈夫だよ」
 頷くしかできない。嗚咽のせいで声が出ない。けれど勇者様はただひたすらに頭を撫でてくれた。
「君は、優しいね」
 皆の魂を乗せた煙が上っていく。霞も霧もない蒼穹へとひたすらに。
 勇者様はずっとその煙を見上げていた。私とは対照的に仲間の死を真正面から受け止めているような、そんな風に見えた。同時に、気のせいだろうか。一瞬、微かに唇を噛んだような、そんな気がした。すぐに涙が瞳を覆って、確認はできなかったけれど。
 火葬は滞りなく進んだ。聖職者たちも嫌悪することなく、真剣に望んでくれていた、そう感じた。

 骨となった皆を、私と勇者様は受け取った。それを馬車に積んでいるときに、勇者様は言った。
「明日の朝、この街を出発するよ」
「はい。勇者様」
 骨壺を馬車にのせ、みんなそれぞれの定位置に固定する。
「今度の旅は、どれくらい長くなるのでしょうね」
「さあ。もし嫌だったら君は先に帰ってもいいんだよ」
「……そんなこと言わないでくださいよ」
 皆を乗せ終わると、ゲイルがこちらに顔を寄せてきた。
「みんな、戻ってきたよ。ゲイル」
 そう声をかけるとゲイルは首を振って、低い声で鳴いて私の方に頭を寄せてきた。多分、すべて理解しているのだろうと思う。頭のいい、彼は。私はそん彼のたてがみを撫でる。
「ごはん置いてくからね」
 飼い葉おけにいつもより多く干し草やニンジンを入れて、私たちは厩舎を後にした。

""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
 宿の一室、勇者様は薄着になってベッドに寝転がっていた。窓の外は
 明日はベッドの上で寝れる保証はない。だからすぐに眠らせてあげたいのだが、今日が終わる前に、聞かなければいけないことがある。
「勇者様。そろそろ教えてください」
「……そうだね」
 勇者様は壁に背中をあずけて、短パンの紐をいじっている。
「どうして、この街で弔おうと思ったのですか。ただ魔界から一番近かったからという理由だけではないでしょう?」
 その手を止めて勇者様は私を見た。
「君には話さないとだね。でも、そんなに特別な考えじゃないよ。一つ目は君とぼくのため、二つ目はみんなのため、三つ目はこの街のため」
「街の?」
 最後のだけはよくわからなかったが、前の二つは理解していた。
「ぼくも、みんなそれぞれの故郷で弔ってあげるのが一番いいと思ってる。けど、それは難しい。それなら運よく一番近くにある、世界一の宗教都市で弔ってあげるのが一番いい。前提はこうだよ。わかる?」
「ええ」
「その上で、障壁は一つ。この街の聖職者たちが死穢に触われないこと」
「はい」
「でも、よく考えたら不思議じゃないか。いくら天国に一番近い場所とはいえ、人間である以上皆いつかは死ぬ。そうだろ?」
「……? はい」
「じゃあ、自分が死んだとき、彼らはどうするんだろう」
「え、それは、特例というか、なんかそういう決まりがあるんじゃないですか?」
「それじゃ死穢を恐れるとは言えないだろ。人が死ぬたびに特例で葬儀を行うなんて、そんなの何も特別なことじゃない」
 確かに勇者様の言う通りだ。死穢を恐れることは、彼らが人間であることとある種矛盾する。それに人の死は、特例と捉えられるほど特別なことではない。しかし、それなら。
「でも、彼らもいずれはいなくなるのでしょう? そのときが、いつかは来るはずです」
「そうだよ。そのときのためにいるのが、化外の民っていう人々なんだ」
「化外の……」
「ぼくも誤解してたんだけど、ほら、この前ぼくがサンドイッチあげた子たちがいただろ。どうやら彼らは貧民じゃないらしい。葬送を専門にする、元異民族だ。もし誰かが死んだら、すぐにかけつけてしかるべき処置をする。そういう役割らしい」
 貫頭衣のような粗末な服に、バツマークが刻まれていたあの子供たちを思い出す。彼らはその「化外の民」の子どもということなのだろうか。
「彼らは差別を受けると同時に、この街で絶対に欠かせない存在になっている。一方の彼らも葬送を行える唯一の存在として、聖職者たちから大金を受け取っている。もちろん、死穢を恐れる聖職者たちは死穢に塗れた化外の民には触れられないけど、そうやってこの街は回っているんだ」
 お金ならそこら辺の司祭より持ってる。あの少女の言った言葉は、そういうことだったのか。
「宗教っていうのは、死についての探求が生み出したものなのに、それを聖職者自らそれを遠ざけるのは、正しいことか?」
「……」
 それはどうだろう。確かに不自然には思える。誰かが宗教は死苦を和らげるためにこそあると言っていた、気がする。それなのに死穢を恐れるといって死を遠ざけるのは、矛盾している。しかし……。
「そこで、ちょっとかまをかけてみた」 
 そう言うと、彼は右腕を左手の側面で斬るジェスチャーを見せた。
「さっきの傷?」
「そう。教皇庁で、もしここで僕が死んだら君たちはどうするって、言ったんだ。脅しだと思われないように、軽く腕を切って」
「なっ……」
 ドキリと、心臓が跳ね上がるほどの寒気を、その瞬間覚えた。
「考えたこともなかったのかもね。これは腕を落とさないといけないかもと思ったけど、思ったより早く教皇様が出て来て、あれくらいの傷で済んだ」
 なんの躊躇もなく、むしろ微笑みながら勇者様は言った。
「じゃあ、それで、あんなたくさん協力者が」
 教皇の命令とあらば、他の神官たちも従わない訳にはいかない。だからあんなに多くの聖職者たちが協力してくれたのだ。
「うん。早く火葬してあげないと、みんなが、いたたまれないから」
「化外の民に頼めばよかったではないですか。かれらは葬送を専門にしてるんでしょう?」
「うーん、確かにそうだけど、この街のことを思うなら、やっぱり神官たち自らやるべきだと思ったんだ」
「なぜ……」
「まあ、ちゃんと死ってものに向き合うべきだっていうことだよ。信仰を大事にするなら、死っていうものが人間にとってどんな意味を持つか、知ってないといけないとぼくは思う。彼らは葬儀をしない。それはつまり、誰かの死に涙も流さないし、供養もしないし、追憶もしないってことだ。それは、どうなんだろうって。宗教とか、それ以前に人として、さ」
「……」
 私が身を引き裂かれる思いで亡き仲間たちを思って嗚咽した、あの過程を彼らは踏まえないということだ。それは、どんな心地だろう。突然消えた、そんな感じだろうか。私たちの常識からすれば、あまりに不自然だ。
 それにしても、たった僅かな滞在で、勇者様はそこまで考えていたのか。最適解を導き出す。私たちだけでなくこの街のためにもなる方法を……。
「ま、化外の民に頼まなかったのは普通に今朝までそういうサイクルがあるって知らなかったことが一番大きいんだけどね。……他の二つは大丈夫だよね? 君とぼくのためっていうのは、説明するだけ野暮だ」
「はい」
 私と勇者様のため、それはつまり天国に一番近い場所でみんなを弔ってあげれば、きっと天国に行った。そう思えるようになるからだ。それなら、多少気が休まる、そういうことだろう。あるいは、皆の親族にとっても同じかもしれない。
「みんな、天国に行けたならいいんだけど」
 勇者様はそう言うと小さく欠伸をした。
 いくつか疑問は残っている。聖職者たち自ら葬送を行うようになったら化外の民はどうなるのか。この街を形成するものの一つに死穢への恐れがあったとするなら、この件でそれにひびが入ったといってもよい。そのことを勇者様はどう考えているのか。いつか死穢への恐れが消えた時にあの子供たちがどうなるかを、どう考えたのか。
 ……いや、きっと考えたのだ。限られた選択肢の中で選び出された勇者様の最善策が、亡き仲間のためにも、勇者様自身や私のためにも、この街に住むマジョリティのためにもなる、あの火葬だったんだ。
「勇者様の、考えはよくわかりました。私はたぶん、一生をかけてもおもいつかない策だと思います」
「いや、そんな大したものじゃない。ぼくは、これが最適解だとは、思えないから」
 やはり、勇者様はわかっていたらしい。自分の行動がこの街のありかたを変えてしまう可能性を秘めていることを。
「しかたのないことだと、そうしておきましょう。勇者様。すべての人間が幸せになれないのは、痛いほど、わかっているでしょう?」
「……ああ」
「でも、お願いですから、自分が死んだら、なんて、もう二度と言わないでください」
 訴えかけたその瞬間、勇者様はばっと私の方を見た。その表情は、不意を衝かれた小動物のようだった。
「私、勇者様までいなくなったら、もう、二度と前を向けなくなりますから。…お願いですから、自分が死んだら、とか言わないで。自分の身体を、もっと大切にしてください」
 勇者様は、俯いた。こんなに暗い表情をしている勇者様は滅多に見ない。それだけ、私の願いは切実だった。最適解の中、唯一私が引っ掛かった箇所。それが、あの教皇庁での狂言の場面だった。
「ごめんなさい」
 呟くように謝った勇者様は、いつものような余裕さや明晰さを持った大人の顔ではなかった。親に怒られた、普通の少年のような横顔だった。
「約束ですよ」
「うん。約束する」
 真剣な表情で、勇者様は差し出された手を握り返してきた。私はその様が愛おしくて、つい、微笑んだ。

 深夜。勇者様は年頃の子どもさながらにすやすやと眠っている。勇者様の歳は知らないけれど。
 その横、微かな蝋燭灯りに照らされた机の上に、私は地図を広げた。
 何処に向かうと言われてもすぐに対応できるように、今のうちに勉強しておこうと思った。いつもは老練のバスティアや博識なハインリヒにまかせて、私やミオは後をついていくだけだったけれど、今度の旅はそうはいかない。
 せめて蝋燭が尽きるまでは、と私は眠たい瞳をこすった。

""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
 早朝、私は一足先に馬車の前に立った。
 馬車には皆の骨とともに、その遺物が積まれていた。彼らが一番大切にしていたものだけ、火葬しないでおいたのだ。みんなからしたらそれも一緒に送ってほしかったかもしれないが、形見が何もないというのは、悲しすぎるから。
 ミオは頭につけていたシニヨンキャップとかいう丸い髪留め。バスティアは相棒と言ってときおり話しかけていた傷だらけの剣。ディルは幻術の源になっているのだという紫の石が埋め込まれたネックレス。ハインリヒは皇帝から賜ったという万年筆。
 これで少しは寂しくない。そう思っていると、寝起きの勇者様が荷物を背負ってきた。
「大丈夫ですか」
「んん。あ、これもいれといて」
 そう手渡されたのは、見覚えのない杖だった。何の変哲もない赤い木製の杖だが、よく見ると真ん中の所に小さな時計が埋め込まれていた。
「何ですかこの杖?」
「んーいいから。さ、ゲイルー、今日は頑張ってよ」
 そう声をかけると、ゲイルは久しぶりに元気な嘶きをあげた。
 釈然としないが、今の勇者様から説明を引き出すのは無理そうだったので、私は仕方なくそれを積み、ゲイルの横に立った。
 勇者様はゲイルの上に乗ろうとして、盛大に失敗し、地面に倒れ伏している。
「もう、しゃきっとしてくださいよ」
「いたた…。でも今ので目覚めた。よし行こう」
 勇者様が言うのと同時に、ゲイルが一鳴きを上げて歩き出す。
「最初の目的地はどこですか?」
「まずはピットの村かな。ディルの故郷」
「わかりました。そしたらこの街道をまっすぐ行けばいいですね」
「どれくらいかかりそう?」
「そうですね……ま、まあ、歩いてれば着きますよ」
「そっか。まあゆっくり行こう。ありがとうね、昨夜確認しておいてくれたんだろ?」
「み、見てたんですか……。別に、迷ったら嫌だったから、ちょっとだけ地図捲ってただけですよ」
「そっか」
 ゲイルの上、勇者様は笑った。私は何とも顔を合わせづらくて、顔を背ける。
 石造りの街を背後に、私たちの旅は始まった。魔物たちの出現に神経をとがらせる必要はないけれど、はるか遠い、帰路だ。
 終わりの始まりなんて矛盾していると思っていたが、今の自分たちにはきっとその言葉がふさわしい。
 
 大魔王を倒した勇者、傷心の賢者ルラ、一頭の駿馬ゲイル。往路とは目的も心持も、何もかもが違う、復路の旅が始まる。

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