お母さんは魔王さまっ~朝薙紗凪が恋人になりたそうにこちらを見ている~

詩一

第47話 良煙寺流

満員電車。二人で電車に揺られていると、紗凪さなぎの後ろに男性が立った。別に痴漢だという訳ではないが、なんだか嫌な気分だったので場所を入れ替わり、紗凪を扉側に立たせた。勝手に痴漢かなと疑ってしまうのは同じ男としていけない事だとは思う。だが、彼が痴漢で無いのなら密着しているのが男の方が安心だろう。俺だって冤罪えんざいは怖いから。

電車から降りて改札を抜け、坂を下りて行くと高校が有る。
校門を抜け、下駄箱へと向かう。その、体育館と校舎の間にある中庭に差し掛かった辺りで、何やら物凄いスピードで駆けてくる男子に呼び止められた。
制服の襟の色から察するに一年上の人だ。近くで見るととても大きい。俺の頭二つ分くらいは背が高く、肩幅も二倍はあろうかと言う。短髪に無精髭ぶしょうひげがとてもワイルドな人だった。
「おはようございます! おや、頬は一体どうされたんですか?」
紗凪の知り合いらしい。
が、彼女は挨拶を返さず俺を見ている。
「誰?」
「いや知らないよ。お前の知り合いだろ」
「誰だろう」
紗凪は首を傾げる。
結構ガチ目に覚えてないらしい。
すると先輩はショックを受けた様に後ずさる。
「ひ、酷いですよ! 朝薙あさなぎさん!」
ほら、やっぱり紗凪の知り合いだ。
「ごめんなさい。本当に解らないの。誰?」
「空手部主将! 谷我城やがしろです!」
おいいいいいい!
お前が倒した相手じゃないかああ!
「お世話になった部活動の主将くらい覚えておけよ!」
「ごめんなさい」
「俺にじゃなくて、谷我城先輩に謝って」
紗凪は先輩に向き直り、うやうやしく頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。後この頬はほんのかすり傷です。それじゃあ」
切り替え早っ!
「ちょっと待ってください」
先輩を置いて立ち去ろうとするが、彼は引き下がらない。そりゃそうだろう。朝練終わってからわざわざ待っていたんだ。その理由が紗凪に挨拶する為な訳が無い。
「朝薙さん! 自分は朝薙さんに負けた後、己を見つめ直し、鍛錬を積み、再戦する日を心待ちにしていたんです! それなのに、なんでいきなり退部するんですか!? 訳を聞こうにも全然学校に現れないし」
「ちょっと古武術覚えに行っていたから」
最寄りのコンビニまで弁当買いに行く軽さで言うなよ。
「古武術!? もしかして、その頬の傷も、稽古の最中に?」
「そう」
嘘だけどな。まあ、親に殴られたって言ったら話がこじれそうだし、仕方ないか。
「もう、空手部に戻ってくることは無いのですか?」
「ない」
あっさり言うなあ。
「自分は主将です!」
「うん」
「ですが初心者の朝薙さんに負けました」
「そうね」
「このままだと他の部員に示しがつきません」
「それで?」
「ですので、もう一度再戦を」
「部員の目の前で戦って、私が負ければいいの。解った」
紗凪の即答に谷我城先輩は言葉に詰まってしまう。
「負けて貰う事が目的ではないです。ただ、もう一度闘って欲しいのです。自分の誇りを掛けて」
「でもどうせ本気でやり合ったら私が勝つ。貴方の誇りを守る為にも出来レースにした方が賢い選択だと思うけれど」
一度負けた事があるからだろう。先輩もすぐに否定はできない。しかし彼が握りめた拳は小さく戦慄わなないていた。
「……しじゃ、なかったんです」
か細い声に、俺も紗凪も耳を傾ける。
それに気付いた先輩が、もう一度言葉を告げる。
「本調子じゃ、なかったんです。あの時は肉離れが治った直後でした。それに朝薙さんは初心者という事でしたし、油断していました。ですから、今度闘えば自分の本当の強さをお見せできるかと思うのです」
「そう。本調子じゃあなかったの。なら尚更なおさら今日もやめて置いた方がいいわ」
「どうしてですか」
「私の怪我に気を遣ってしまうでしょう? それにもしかしたら主将さん、熱があるかも知れないし、咽喉のどがイガイガしているかも。ああ、後頭も痛いかも知れないし、ひょっとすると足首を捻挫ねんざしている可能性もある。そうそう、眩暈めまいや吐き気にも気を付けなければいけないわ」
紗凪本人に相手をあおっている自覚はまるで無いようだが、完璧に馬鹿にして挑発しているように思える。
「朝薙さん、いくらなんでも馬鹿にし過ぎじゃあないですか」
「武術を、武道を、スポーツを馬鹿にしているのはどちらなの? 主将さん、本調子って、何? 万全を尽くせる状態の事? だとしたら人間に万全の状態なんてないから、一生本調子じゃあない。なら貴方がやるべき事は空手の稽古なんかじゃあなく、言い訳を考える事ね。そうやって言い訳ばかり上手くなって、一生その場でグルグル回っていればいい」
良煙寺りょうえんじ理三郎りざぶろうから受け継いだ古武術の基本理念に、恐らくそう言うものがあるのだろう。紗凪は割と冷たい印象を受けるが、決して人を傷付けるような発言はしない。ここまで主将を追い詰めるのも、理三郎さんの信念を受け継いだからに違いない。
「私はもう武術を覚えてしまった。武の道で礼儀作法を学んでいた自分には戻れない。戻るという事はすなわち手抜きなの。手を抜いて闘えと言うのならそうする。本気で戦えと言うのなら、貴方は命を掛ける覚悟で来なければいけない」
「命、と言うのは」
「文字通り。負けたら死ぬと思って。私が覚えた武術は敵の武力を根こそぎ無力化する。すなわち殺し尽くす武術。貴方には空手部主将と言う大役が有る。誇りだか何だか知らないけれど、それは部活動に発揮して然るべきで、私との個人的な関わりに持ち出すものではないと思う」
「ですが、自分は本気の朝薙さんと闘いたい」
「勝つ為なら何でもする。ルール無用のストリートファイトだけれど、それでもいいの?」
紗凪の問いかけに、一度躊躇ためらったように間を置いた先輩だったが、表情を一変させて構えを取った。
「何をしてもいいんですね?」
今一度問う主将の指先の動き方がいやらしい。
どう見ても何かを揉みしだいている動きだ。
「おい、紗凪。やめとけ。なんか谷我城先輩の手がおっぱいを揉んでいるような動きになっているぞ」
「そうなの? 主将さん、私おっぱいちっちゃいけど、いいの?」
「寧ろ好みです」
げへへっと笑い方までスケベだ。
エロガキと化した先輩は放っておくにしても、紗凪は止めないと不味い。
理三郎さんの言う通りなら、紗凪の強さは本物だ。本気で戦ったら、マジで死んでしまう。
俺は二人の間に割って入る。
「谷我城先輩、落ち着いてください。何もこんなところで……」
「素人は黙っていてくれ!」
谷我城先輩に突き飛ばされ、尻餅をいてしまう。
彼からしてみればちょっと押しただけだが、剛腕から繰り出されるそのちょっとは、俺の姿勢を崩すには十分すぎる分量だった。
刹那、垣間見た。
「今のを開戦の合図と取るわ」
紗凪の瞳から光がせるのを。
暗闇色の瞳は何を見ているのか。
大凡おおよその想像さえできない事に震え上がった。
これは俺が知っている紗凪ではない。
紗凪はただでさえ低い身長を更に屈め、バックステップで主将のリーチから逃れる。
谷我城先輩からは消えた様に見えただろう。
更に距離を取り、投球のモーションを取る。
投球?
投げる気か?
何を?
手を見ると石を握っている。
さっきのバックステップで身をあそこまで屈めたのは、単に相手の視界から消える為だけではなかった。
同時に石を拾っていたのだ。
何の躊躇ためらいもなく投石。
空を切る音が聞こえる程の速球。
谷我城先輩は咄嗟とっさに身をひるがえした。
かわされた石が後ろに在った木に突き刺さった。
落ちてこない。
完全にめり込んだようだ。
「わ、わわあ! ちょ、ちょっと待って!」
先輩が両手を上げて降参の姿勢を見せる。
なんでもあり。とは言ったが、まさか武器の使用までありだとは思って無かった様だ。
しかし紗凪は躊躇ためらうことなく、いや、寧ろ敵が避けない事が好都合だと言わないばかりに二石目を構えた。
「待て!」
紗凪の前に入り込む。
タイミングが悪い。
俺がまとになるかも知れない。
そう思ったが、止めないわけにはいかない。
俺のアバラが砕かれて、紗凪の目が覚めるなら、それでも構わないと思った。
しかし、寸でのところで彼女の腕が止まる。
「どいて」
「どかない」
「彼は本気の私と戦いたいと言った。願いを叶えるだけ」
「先輩の事は知らない。ただお前が傷付けられるのも傷付けるのも見たくないだけだ」
「彼は貴方を押し倒した。それが私にとってどういう事なのかも教える必要がある」
俺は今、本当に紗凪と会話をしているのか?
彼女の瞳に俺は映っていない。
底なしの暗闇が、空洞が、彼女の双眸そうぼうが在った位置に、ただ存在しているだけだ。
それでも俺は目の前の少女に届くと信じて抱き寄せた。
「ごめん、紗凪。俺が弱いばっかりに。お前にばかり無理させているよな。ごめんな」
紗凪の手から石がころりと落ち、アスファルトに当たり、乾いた音を響かせた。
同時にチャイムが鳴り響く。
俺は紗凪の手を取って走り出した。
去り際に先輩に一言残す。
「谷我城先輩。もう紗凪に手を出さないでくださいね」
チワワの様に震えている先輩は、尻尾を振れない代わりに首を何度も上下に振った。

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