Kiss for witch
1話
「……………」
──時刻は夜の七時。辺りは薄暗く、まばらに置かれた街灯が進む道を照らしている。
そんな人気のない道を、一人の少年が歩いていた。
ボサボサの金髪に、ズボンに付いたウォレットチェーン。学ランのボタンは全て開けられており、鋭い三白眼は何人か人を殺していると言われても信じてしまうほどの威圧感を放っている。
──百鬼 夜行。『県立玄武高校』に通う高校生だ。
これから夕食を作るのだろう。手には野菜やら肉やらが入った手提げバッグを持っていた。
「チッ……日直のせいで、いつもより遅くなっちまったなァ……早くしねェと、風香に文句言われちまうなァ」
家で留守番をしている妹の姿を想像し、思わず夜行はため息を吐いた。
──夜行は、他人の感情を味覚で感じ取るという不思議な力を持っている。
優しさなどの感情を感じれば口の中には甘さが広がり、嘘や誤魔化しなどの感情を感じれば口の中にはクスリのような苦味が広がる。
前に風香を怒らせ、口いっぱいに広がった強烈な辛味──憤怒の感情を思い出し、夜行は歩くスピードを早めた。
「……ンァ……?」
スッと眉を寄せ、夜行は歩くのを止めた。
──口の中に、強烈な痛みが広がる。
この感じ……怒りではない。これは……そうだ、恐怖の感情だ。
感情の出所は──この先だ。
行くかどうか迷うように、数秒ほど夜行が瞳を閉じ──やがて、意を決したように歩み始める。
感情を辿って進むと──真っ暗な空き地に出た。
──間違いない。感情の出所はここだ。
スマホのライトを点けて辺りを見回し──何かを見つけたのか、ライトの光が一ヶ所を照らし出す。
そこには──血だらけで眠る少女がいた。
「なっ──」
「う、ぐぅ……?」
少女も夜行に気づいたのか、瞳を開けて顔を上げた。
──こんなに暗いのに、こんなに遠くから見ているのに、それでもわかるような出血量。
少女が夜行に意識を向けた──瞬間、恐怖の感情が夜行に向けられた。
──瞬間に、口の中の痛みが増した。
先ほどまでは、夜行ではない何者かに向けられていた恐怖の感情──それを自分に向けられると、先ほどよりも口の中に痛みが広がる。
口の中をナイフでズタズタにされているような感覚に、思わず夜行は口を押さえた。
次の瞬間──口の中いっぱいに、ビリビリと痺れる感覚が広がる。
これは──驚愕の感情?
一体何故──と、そこでようやく、夜行は少女の正体に気が付いた。
「……う、そ……百鬼、くん……?」
「お前……鴇坂かァ?」
少女の正体は、夜行の知っている人物だった。
──鴇坂 雲雀。夜行と同じ高校に通っている。というか、夜行の隣の席に座るクラスメイトだ。
雲雀がここで血だらけになっているのにも驚いたが──夜行は、別の所にも驚いた。
それは──雲雀の格好だ。
なんと説明すれば良いのか……そう、例えるなら、魔法少女のような格好だ。
ピンクを基調とした衣装に、手には雲雀の身長と同じくらいの長さの杖。ミニスカートのせいで、雲雀の太ももが露わになっており──何となく、夜行は視線を逸らした。
その視線に気づいたのか、雲雀が顔を真っ赤にして俯く。
──口の中に広がる、甘い感覚。
これは──羞恥の感情だ。
「……ンで、お前こンな所で何やってンだァ? つーかその傷ゥ……誰にやられたァ?」
「え、ええっと……こ、これはですね……」
茶色の髪を揺らしながら、雲雀が言葉を詰まらせた。
──口を支配する不信感。
おそらく雲雀にも、何か事情があるのだろう。
しかし、それを話しても信じてくれない──そんな感じの不信感だ。
とりあえず、コイツの怪我をどうにかしないと──そう思いながら、夜行は雲雀の前にしゃがみ込んだ。
「えっ……え?」
「傷を見せろォ」
「あ、あえっ?! い、いや、大丈夫ですよ?!」
「大丈夫じゃねェだろうがよォ……ンな量の血、普通じゃ有り得ねェぞォ。見た感じ、刃物でやられたのかァ?
雲雀の体を赤に染める傷口を見て、夜行は目を細めた。
──体の至る所に、鋭利な何かで斬られたような傷がある。
明らかに拳や鈍器で付けられたような傷ではない。間違いなく刃物か何かだ。
「……まさかお前、コスプレプレイ中に相手から──」
「ち、違いますよ?! わ、私は処女ですし、イジメられて興奮するような変態じゃないです! というか、これはコスプレじゃありません!」
顔を真っ赤にして否定する雲雀の姿に──夜行の口から、全ての味が消えた。
──透き通るような感覚。嘘はない。
だとしたら……何故、雲雀はこんな格好で傷だらけなんだ?
「……とりあえず、救急車ァ呼ぶぞォ」
「そ、そこまで重傷じゃないので大丈夫ですよ。それより、早く帰った方がいいんじゃないですか? 多分、今から夜ご飯ですよね?」
「まァ、そうだがァ……」
「それなら、早く行って下さい。私は大丈夫ですから。アイツが戻ってくる前に、早く……」
苦痛に顔を歪めながら、杖を支えにして雲雀が立ち上がろうとする。
──夜行は、他人と関わるのが苦手だ。というか、他人が苦手だ。
理由は──夜行の持つ、他人の感情が味覚でわかる力が原因だ。
過去のとある出来事が原因で、夜行は他人と深く関わろうとしなくなった。
それは、今の高校でも同様。
基本は独り。誰かに話し掛けられる事は滅多になく、誰かに話し掛ける事は全くない。
だが──血だらけのクラスメイトを前にして、無視する事はできない。
例え、あの時のような感情を向けられる事になっても。
「う、ぁ──」
ガクガクと膝が震え、息も荒々しい。おそらく、痛みでまともに動けないのだろう。
そんな状態の雲雀が立てるはずもなく、フラリと体が前に倒れ──
「──悪ィが」
──ぽすっと、雲雀の体が優しく受け止められる。
倒れる体を支えた夜行は──呆然と自分を見上げる雲雀に、真面目な視線を向けた。
「今のお前を放置できるほど、オレは非情じゃねェつもりだァ……救急車を呼ばねェンなら、せめて家まで送らせろォ」
夜行の言葉に、雲雀は黙って体重を夜行へ預けた。
──不愉快な感覚は伝わってこない。どうやら、夜行の行動は嫌ではないようだ。
むしろ、夜行の口の中に広がるのは──安心や安堵などの好意的な甘み。
夜行の手助けを拒絶していたのは、本心ではなかったらしい。まあ、口の中にクスリのような苦味があったので、先ほどの拒絶が嘘だった事はすぐにわかったのだが。
「……百鬼くんって……そんなに優しい方でしたっけ……?」
「あァ?」
「ひ、ひいっ?! な、なんでもないです!」
雲雀に肩を貸す夜行が、鋭い瞳をさらに細めて雲雀を睨み付けた。
──雲雀は、夜行が高校でどんな風に呼ばれているのか知っている。
──最強の不良。それが夜行だ。
生まれた頃から喧嘩で負けなしとか、一人で二十人をボコボコにしたとか、ヤクザと繋がっているとか、ヤバい薬に手を出しているとか、全身に入れ墨があるとか──何個か嘘のような噂が入っているが、夜行がそんな雰囲気を持っているのは事実。
だから──こんなに優しくされるとは思っていなかったのだ。
「……オイ」
「は、はい?」
「何があったのか説明しろォ」
「……いえ、それは……申し訳ありませんが、言えません。それに……言った所で、信じてもらえませんし……」
「言わねェ事にァ嘘かホントかもわかンねェだろうがよォ……早く言わねェと、鴇坂はコスプレプレイが大好きなドMだって噂ァ流すぞォ?」
「ひ、ひどいです! これはコスプレじゃないって言っているじゃないですか! それにドMでもないです!」
「だったら説明しろォ」
「そ、それは……」
顔を俯かせる雲雀の姿に──夜行の口内は、苦々しい味に染まった。
──不安、不信感、疑心、警戒、寂しさ、緊張、悩み。
どれもこれもマイナスな感情ばかりで──思わず夜行は顔をしかめた。
「……そうですよね。この姿を見られてしまいましたし……わかりました。何があったのか、お話しします。ですけど、他の人には内緒にしていただけませんか?」
「あァ」
「…………じ、実は──」
事情を話そうと口を開き──雲雀が固まった。
否──雲雀だけではない。
夜行の進む先に立ち塞がるようにして、空から降りてきたソイツ──その気配を感じ取り、夜行も歩みを止めていた。
──雲雀から感じられる、恐怖の感情。舌をナイフで斬り刻まれているかのような痛み。
間違いない。コイツが雲雀を傷だらけにした犯人だ。
「──戦いから逃げ出した上、一般人まで巻き込むとはな」
「うっ……」
「……なンだアイツゥ……?」
「……ごめんなさい、百鬼くん。私の事はもう良いですから、逃げて下さい」
「はァ? 何を言って──」
「ふん。逃がすと思っているのか?」
──雲雀の恐怖を上回る、男の放つ殺意。
口の中の感覚が、痛みから辛味へと変わる。
──こんな痛いほどの殺意、初めてだ。
しかも──殺意の矛先は、夜行に向けられている。
「……仕方がない。俺の姿を見た一般人は、消すと決めていてな」
「だ、ダメ──」
男が持っていた指揮棒のような杖の先端を夜行に向け──杖の先端に、風が集まり始める。
──嫌な予感がする。
「──死ね」
集まった風が形を成し──風の刃が作られる。
男が杖をヒュッと振り──それと同時、風刃が夜行に向けて放たれた。
──ヤバい。死ぬ。
そんな思考とは裏腹に、夜行は反射的に雲雀をドンッと突き飛ばし──思い切り身を低くして、風刃を避けた。
まさか避けられるとは思っていなかったのだろう。男が驚いたように眉を上げた。
だが──それも一瞬の話。
男が指揮棒のような杖を振り──再び杖に風が集まり始める。
「な、百鬼さん!」
「テメェはこれ持って大人しくしてろォ!」
「あ、えっ──」
スーパーの袋を雲雀に投げ付け、夜行が男に向かって駆け出した。
──早い。
だが──夜行が男を殴るより、男が風刃を放つ方が早い。
夜行の体を斬り刻まんと迫る、三本の風刃。
男も雲雀も、夜行が惨殺される光景を幻視した──が。
その場から上に飛んで足元に迫る一発目の風刃を避け、続いて迫る二発目の風刃を素早く横に転がって躱す。
そして、夜行が少しだけ首を傾け──三発目の風刃が夜行の頭の真横を走り抜けた。
「なっ──」
「……足、腹、頭ァ。狙う場所に芸がねェなァ? ンな雑な攻撃、当たる方が難しいぞォ?」
「お前っ──手加減は終わりだ、本気で殺す」
──夜行の口の中に、さらに辛い感覚。
男の殺意が増し──先ほどよりも大量の風が集まり始める。
──次の一撃は本気。おそらく、避けられない。
ならば──相手よりも早く攻撃するしかない。
「食ら──えッ?!」
──男の顔面に、夜行の靴が迫る。
咄嗟に靴を避け──次の瞬間、男は自分の懐に何者かの気配を感じた。
「しィ──ッ!」
「はっ──がッ?!」
男の顎を、夜行のアッパーが打ち抜いた。
思わず体勢を崩す男──その腹部に、華麗な連撃が叩き込まれる。
「く、そが──ぶふッ?!」
「おるァッッ!!」
──ドズンッッ!!
夜行の掌底が男の顔面を穿ち──男が勢い良く吹き飛ばされる。
──男が何かをする前に、夜行が自分の靴を男に向かって投げ付けた。
それを男が避ける──その僅かな間に男との距離を詰める。
そしてそのまま懐に飛び込み──というわけだ。
夜行は地面に転がる靴を素早く履き、呆然と固まる雲雀の手を掴むと、無理矢理立ち上がらせた。
「ボケッとしてンじゃねェ、とっとと逃げるぞォッ!」
「あっ、あ──」
「あァクソ、お前今は痛みで動けないンだったかァ……チッ、しょうがねェ。文句は言うなよォ──!」
「わ──きゃ?!」
今にも倒れそうな雲雀を見て、夜行がその場にしゃがみ込んだ。
そして──スーパーの袋ごと、雲雀を持ち上げる。
──お姫様抱っこ。
顔を真っ赤にする雲雀から、羞恥の感情を感じ取れるが──今は構っている時間はない。
痛みに悶えている男に背を向け、夜行たちはその場を逃げ去った──
──時刻は夜の七時。辺りは薄暗く、まばらに置かれた街灯が進む道を照らしている。
そんな人気のない道を、一人の少年が歩いていた。
ボサボサの金髪に、ズボンに付いたウォレットチェーン。学ランのボタンは全て開けられており、鋭い三白眼は何人か人を殺していると言われても信じてしまうほどの威圧感を放っている。
──百鬼 夜行。『県立玄武高校』に通う高校生だ。
これから夕食を作るのだろう。手には野菜やら肉やらが入った手提げバッグを持っていた。
「チッ……日直のせいで、いつもより遅くなっちまったなァ……早くしねェと、風香に文句言われちまうなァ」
家で留守番をしている妹の姿を想像し、思わず夜行はため息を吐いた。
──夜行は、他人の感情を味覚で感じ取るという不思議な力を持っている。
優しさなどの感情を感じれば口の中には甘さが広がり、嘘や誤魔化しなどの感情を感じれば口の中にはクスリのような苦味が広がる。
前に風香を怒らせ、口いっぱいに広がった強烈な辛味──憤怒の感情を思い出し、夜行は歩くスピードを早めた。
「……ンァ……?」
スッと眉を寄せ、夜行は歩くのを止めた。
──口の中に、強烈な痛みが広がる。
この感じ……怒りではない。これは……そうだ、恐怖の感情だ。
感情の出所は──この先だ。
行くかどうか迷うように、数秒ほど夜行が瞳を閉じ──やがて、意を決したように歩み始める。
感情を辿って進むと──真っ暗な空き地に出た。
──間違いない。感情の出所はここだ。
スマホのライトを点けて辺りを見回し──何かを見つけたのか、ライトの光が一ヶ所を照らし出す。
そこには──血だらけで眠る少女がいた。
「なっ──」
「う、ぐぅ……?」
少女も夜行に気づいたのか、瞳を開けて顔を上げた。
──こんなに暗いのに、こんなに遠くから見ているのに、それでもわかるような出血量。
少女が夜行に意識を向けた──瞬間、恐怖の感情が夜行に向けられた。
──瞬間に、口の中の痛みが増した。
先ほどまでは、夜行ではない何者かに向けられていた恐怖の感情──それを自分に向けられると、先ほどよりも口の中に痛みが広がる。
口の中をナイフでズタズタにされているような感覚に、思わず夜行は口を押さえた。
次の瞬間──口の中いっぱいに、ビリビリと痺れる感覚が広がる。
これは──驚愕の感情?
一体何故──と、そこでようやく、夜行は少女の正体に気が付いた。
「……う、そ……百鬼、くん……?」
「お前……鴇坂かァ?」
少女の正体は、夜行の知っている人物だった。
──鴇坂 雲雀。夜行と同じ高校に通っている。というか、夜行の隣の席に座るクラスメイトだ。
雲雀がここで血だらけになっているのにも驚いたが──夜行は、別の所にも驚いた。
それは──雲雀の格好だ。
なんと説明すれば良いのか……そう、例えるなら、魔法少女のような格好だ。
ピンクを基調とした衣装に、手には雲雀の身長と同じくらいの長さの杖。ミニスカートのせいで、雲雀の太ももが露わになっており──何となく、夜行は視線を逸らした。
その視線に気づいたのか、雲雀が顔を真っ赤にして俯く。
──口の中に広がる、甘い感覚。
これは──羞恥の感情だ。
「……ンで、お前こンな所で何やってンだァ? つーかその傷ゥ……誰にやられたァ?」
「え、ええっと……こ、これはですね……」
茶色の髪を揺らしながら、雲雀が言葉を詰まらせた。
──口を支配する不信感。
おそらく雲雀にも、何か事情があるのだろう。
しかし、それを話しても信じてくれない──そんな感じの不信感だ。
とりあえず、コイツの怪我をどうにかしないと──そう思いながら、夜行は雲雀の前にしゃがみ込んだ。
「えっ……え?」
「傷を見せろォ」
「あ、あえっ?! い、いや、大丈夫ですよ?!」
「大丈夫じゃねェだろうがよォ……ンな量の血、普通じゃ有り得ねェぞォ。見た感じ、刃物でやられたのかァ?
雲雀の体を赤に染める傷口を見て、夜行は目を細めた。
──体の至る所に、鋭利な何かで斬られたような傷がある。
明らかに拳や鈍器で付けられたような傷ではない。間違いなく刃物か何かだ。
「……まさかお前、コスプレプレイ中に相手から──」
「ち、違いますよ?! わ、私は処女ですし、イジメられて興奮するような変態じゃないです! というか、これはコスプレじゃありません!」
顔を真っ赤にして否定する雲雀の姿に──夜行の口から、全ての味が消えた。
──透き通るような感覚。嘘はない。
だとしたら……何故、雲雀はこんな格好で傷だらけなんだ?
「……とりあえず、救急車ァ呼ぶぞォ」
「そ、そこまで重傷じゃないので大丈夫ですよ。それより、早く帰った方がいいんじゃないですか? 多分、今から夜ご飯ですよね?」
「まァ、そうだがァ……」
「それなら、早く行って下さい。私は大丈夫ですから。アイツが戻ってくる前に、早く……」
苦痛に顔を歪めながら、杖を支えにして雲雀が立ち上がろうとする。
──夜行は、他人と関わるのが苦手だ。というか、他人が苦手だ。
理由は──夜行の持つ、他人の感情が味覚でわかる力が原因だ。
過去のとある出来事が原因で、夜行は他人と深く関わろうとしなくなった。
それは、今の高校でも同様。
基本は独り。誰かに話し掛けられる事は滅多になく、誰かに話し掛ける事は全くない。
だが──血だらけのクラスメイトを前にして、無視する事はできない。
例え、あの時のような感情を向けられる事になっても。
「う、ぁ──」
ガクガクと膝が震え、息も荒々しい。おそらく、痛みでまともに動けないのだろう。
そんな状態の雲雀が立てるはずもなく、フラリと体が前に倒れ──
「──悪ィが」
──ぽすっと、雲雀の体が優しく受け止められる。
倒れる体を支えた夜行は──呆然と自分を見上げる雲雀に、真面目な視線を向けた。
「今のお前を放置できるほど、オレは非情じゃねェつもりだァ……救急車を呼ばねェンなら、せめて家まで送らせろォ」
夜行の言葉に、雲雀は黙って体重を夜行へ預けた。
──不愉快な感覚は伝わってこない。どうやら、夜行の行動は嫌ではないようだ。
むしろ、夜行の口の中に広がるのは──安心や安堵などの好意的な甘み。
夜行の手助けを拒絶していたのは、本心ではなかったらしい。まあ、口の中にクスリのような苦味があったので、先ほどの拒絶が嘘だった事はすぐにわかったのだが。
「……百鬼くんって……そんなに優しい方でしたっけ……?」
「あァ?」
「ひ、ひいっ?! な、なんでもないです!」
雲雀に肩を貸す夜行が、鋭い瞳をさらに細めて雲雀を睨み付けた。
──雲雀は、夜行が高校でどんな風に呼ばれているのか知っている。
──最強の不良。それが夜行だ。
生まれた頃から喧嘩で負けなしとか、一人で二十人をボコボコにしたとか、ヤクザと繋がっているとか、ヤバい薬に手を出しているとか、全身に入れ墨があるとか──何個か嘘のような噂が入っているが、夜行がそんな雰囲気を持っているのは事実。
だから──こんなに優しくされるとは思っていなかったのだ。
「……オイ」
「は、はい?」
「何があったのか説明しろォ」
「……いえ、それは……申し訳ありませんが、言えません。それに……言った所で、信じてもらえませんし……」
「言わねェ事にァ嘘かホントかもわかンねェだろうがよォ……早く言わねェと、鴇坂はコスプレプレイが大好きなドMだって噂ァ流すぞォ?」
「ひ、ひどいです! これはコスプレじゃないって言っているじゃないですか! それにドMでもないです!」
「だったら説明しろォ」
「そ、それは……」
顔を俯かせる雲雀の姿に──夜行の口内は、苦々しい味に染まった。
──不安、不信感、疑心、警戒、寂しさ、緊張、悩み。
どれもこれもマイナスな感情ばかりで──思わず夜行は顔をしかめた。
「……そうですよね。この姿を見られてしまいましたし……わかりました。何があったのか、お話しします。ですけど、他の人には内緒にしていただけませんか?」
「あァ」
「…………じ、実は──」
事情を話そうと口を開き──雲雀が固まった。
否──雲雀だけではない。
夜行の進む先に立ち塞がるようにして、空から降りてきたソイツ──その気配を感じ取り、夜行も歩みを止めていた。
──雲雀から感じられる、恐怖の感情。舌をナイフで斬り刻まれているかのような痛み。
間違いない。コイツが雲雀を傷だらけにした犯人だ。
「──戦いから逃げ出した上、一般人まで巻き込むとはな」
「うっ……」
「……なンだアイツゥ……?」
「……ごめんなさい、百鬼くん。私の事はもう良いですから、逃げて下さい」
「はァ? 何を言って──」
「ふん。逃がすと思っているのか?」
──雲雀の恐怖を上回る、男の放つ殺意。
口の中の感覚が、痛みから辛味へと変わる。
──こんな痛いほどの殺意、初めてだ。
しかも──殺意の矛先は、夜行に向けられている。
「……仕方がない。俺の姿を見た一般人は、消すと決めていてな」
「だ、ダメ──」
男が持っていた指揮棒のような杖の先端を夜行に向け──杖の先端に、風が集まり始める。
──嫌な予感がする。
「──死ね」
集まった風が形を成し──風の刃が作られる。
男が杖をヒュッと振り──それと同時、風刃が夜行に向けて放たれた。
──ヤバい。死ぬ。
そんな思考とは裏腹に、夜行は反射的に雲雀をドンッと突き飛ばし──思い切り身を低くして、風刃を避けた。
まさか避けられるとは思っていなかったのだろう。男が驚いたように眉を上げた。
だが──それも一瞬の話。
男が指揮棒のような杖を振り──再び杖に風が集まり始める。
「な、百鬼さん!」
「テメェはこれ持って大人しくしてろォ!」
「あ、えっ──」
スーパーの袋を雲雀に投げ付け、夜行が男に向かって駆け出した。
──早い。
だが──夜行が男を殴るより、男が風刃を放つ方が早い。
夜行の体を斬り刻まんと迫る、三本の風刃。
男も雲雀も、夜行が惨殺される光景を幻視した──が。
その場から上に飛んで足元に迫る一発目の風刃を避け、続いて迫る二発目の風刃を素早く横に転がって躱す。
そして、夜行が少しだけ首を傾け──三発目の風刃が夜行の頭の真横を走り抜けた。
「なっ──」
「……足、腹、頭ァ。狙う場所に芸がねェなァ? ンな雑な攻撃、当たる方が難しいぞォ?」
「お前っ──手加減は終わりだ、本気で殺す」
──夜行の口の中に、さらに辛い感覚。
男の殺意が増し──先ほどよりも大量の風が集まり始める。
──次の一撃は本気。おそらく、避けられない。
ならば──相手よりも早く攻撃するしかない。
「食ら──えッ?!」
──男の顔面に、夜行の靴が迫る。
咄嗟に靴を避け──次の瞬間、男は自分の懐に何者かの気配を感じた。
「しィ──ッ!」
「はっ──がッ?!」
男の顎を、夜行のアッパーが打ち抜いた。
思わず体勢を崩す男──その腹部に、華麗な連撃が叩き込まれる。
「く、そが──ぶふッ?!」
「おるァッッ!!」
──ドズンッッ!!
夜行の掌底が男の顔面を穿ち──男が勢い良く吹き飛ばされる。
──男が何かをする前に、夜行が自分の靴を男に向かって投げ付けた。
それを男が避ける──その僅かな間に男との距離を詰める。
そしてそのまま懐に飛び込み──というわけだ。
夜行は地面に転がる靴を素早く履き、呆然と固まる雲雀の手を掴むと、無理矢理立ち上がらせた。
「ボケッとしてンじゃねェ、とっとと逃げるぞォッ!」
「あっ、あ──」
「あァクソ、お前今は痛みで動けないンだったかァ……チッ、しょうがねェ。文句は言うなよォ──!」
「わ──きゃ?!」
今にも倒れそうな雲雀を見て、夜行がその場にしゃがみ込んだ。
そして──スーパーの袋ごと、雲雀を持ち上げる。
──お姫様抱っこ。
顔を真っ赤にする雲雀から、羞恥の感情を感じ取れるが──今は構っている時間はない。
痛みに悶えている男に背を向け、夜行たちはその場を逃げ去った──
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