ブアメードの血

キャーリー

66

 池田敬は目覚めていた。


眩しくて、目が開けられない。


頭が痛く重い。


<そうだ…俺は…>


目が慣れてきた池田は、慌てて目を瞬かせた。


スマートフォンを取り出して時計を見る。


気絶してから十五分経ったくらいだろうか。




<そんなには経ってないな…>


池田は視線をスマートフォンの向こうに移す。


目の前には、木製のローテーブルが置かれている。


あったはずのガラステーブルは、自分が気絶している間に片付けられたのであろう。


向いのソファには、厚手の変わった服を着せられた一志が横たわっており、さらにその向こうで、静と中津が何か話をしている。


その恰好は、静が白のセーターにベージュのチノパン。


中津はパーカー付きのスウェットの上下。


さっき、マリアが言っていた通り、岡嵜母娘の部屋着だろう。




 <着替え、見損ねた…>


目覚めた早々、池田は疚しい考えが頭に浮かんだ。


<もう少し早く気付いていれば、薄目でちらっと…


しかし、静ちゃん何着てもかわいいな。


それに、中津のスーツ以外の姿、初めてみるかも…>


池田は思わず苦笑しながら、起き上がった。


今いるところは先ほど零が横たわっていたソファ、クッションを枕に寝かされていたようだ。


「――あ、池田さん、大丈夫ですか?」


静が池田に気付き、駆け寄って側に座る。


「ああ、なんとか…」


「全く、しっかりしてください」


遅れて近付いてきた中津も声をかけてきた。


「中津、その恰好、中々似合ってるぞ」


池田がからかうように笑みを浮かべると、中津の顔はみるみる赤くなった。


「い、いい加減にしてください!


仕方ないでしょう、これしかないんですから!」


「ほんと、中津さんはツンデレですね」


「ツ、ツンデレって!?」


静の言葉に中津は拳を握りしめて、さらに顔を赤くした。


「ツンデレってなんだ?」


「知りません!」


中津は腕を組み、ぷいっと横を向いた。




「ところで、岡嵜母娘はどこに?」


池田がきょろきょろと周りを見回す。


「あ、お母さんの調子がよくないとかで、地下室に行きました。


撃たれた脚の出血がひどくて…」


静がまだそっぽを向いている中津に代わって答えた。


「そうですか」


「中津、そう怒るな。


それより、さっきはありがとう。


お前がスタンガンで俺を気絶させてくれたんだろう。


じゃなければ、危うく俺もゾンビの仲間入りをするところだった。


ほんとすまない、お蔭で助かったよ」


「き、気絶させといて、お礼を言われる筋合いはありませんが、わかってくれればいいんです、わかってくれれば…」


「ああ、怒ってみっともなかったな。


まさか、親父を殺した仇だとは思ってもみなくて…


偶然と言えばそれまでだが、親父が引き合わせてくれたのかもしれない」


「…改めて、お悔み申し上げます。


私はお父さんが行方不明だったとは知りませんでした。


お亡くなりになったと、お聞きしてたもので」


中津は少し気を取り直す。


「別に隠してたつもりはなかったんだけどな、結局、死んでいたことに変わりはなかった」


「…そうかもしれませんけど…」


「まあ、そうじゃないかとは思っていた。


いなくなって、もう十年以上、音沙汰がなかったんだから。


親父がいなくなってしばらくは、どこかに生きているんじゃないかって、希望を持っていたよ。


そしたらお袋が、最悪の事態を考えておけ、って…


初めはそれに反抗してたけど、今じゃ、俺が依頼者に同じこと言う立場になってしまった。


悪い癖はうつるもんだ」


「…そういうことだったんですか…」


中津は怒るどころではなくなり、顔を下に向けた。




「あ、それで、申し上げにくいんですけど、そのお父さんのお墓、裏庭にあるって、有馬さんが言ってました」


「え!?っいぃっつっ!」


静の言葉に池田は驚いたとたん、頭に鋭い痛みを覚えた。


まだ、スタンガンの衝撃が残っているらしい。


「大丈夫ですか!?」


静が心配そうに両手で池田の背と肩を持つ。


「そ、それはどこに?」


池田はこめかみを手で押さえながらも立ち上がる。


「ボクが教えてあげるよ」


そう言ったのは、戻ってきたマリアだった。


「お母さんはどうした?」


「今、実験室で眠ってる…血が足りなくて、ボクの血で輸血してるところ」


「墓はあとでいい。そこに連れて行け」


「いやだよ、何するかわかんないじゃん」


「さっきは連れて行こうとしたろ。


もう何もしないから、とにかく連れて…」


「絶対だよ、約束だからね」


マリアは踵を返し、ついて来いと言わんばかりに歩き出した。


池田は後を追おうと立ち上がる。


気付くと、上着がいやに軽い。


「銃なら、どちらもここに」


中津がスウェットの上着のポケットから、ふたつの銃を取り出した。


「親父の方だけ、返してくれるか。


なーに、もう頭に来て、使ったりはしないよ」


「それなら…」


中津はニューホクブを池田に返す。


「よく見たら、よく手入れされてるな、これ。


十年以上前のものなのに…」


池田がまじまじと拳銃を見つめた。


「ママは銃の扱いにも慣れてるからね、アメリカで学んでたの。


おばあちゃんが強盗に遭って死んでから、護身用に」


マリアが得意そうに言った。


「岡嵜は医者や科学者って名乗ってるくせに、銃までとは…


身のこなしもかなりのものだったし、どうして、その力を悪い方に使ってしまったんだ…岡嵜…は…


あ、そう言や、お前はどうして、その…岡嵜、と名乗らず、有馬姓のままなんだ?


四年前に噛み付き事件を起こして、射殺されたお前の父親の名前なんだろ?


自分らが発症させた結果だろうが、離婚したならなおさら、母親の姓にした方が…」


「なんか、プライベートなことに土足で踏み込むんだね。別にいいけど」


マリアは相変わらず、相手の言葉を早めに遮り、口の端を上げた。


「有馬利真はね、本当のパパじゃないんだよ」


「え?」


その言葉に、池田だけでなく、静も無言で反応した。


「戸籍上のパパではあることに、間違いないんだけどね」


マリアはそう言って、池田の眼を見つめる。


池田はその小悪魔の眼に少したじろぎ、視線を外した。


「ボクはね、クローン人間なんだよ。


ママと岡嵜恒の娘、岡嵜マリヤの遺伝子を使った…


もちろん、母体はママだけど…」


「クローン人間!?二十年も前に!?


マジかよ、それって…でも、ということは…」


唐突な告白に驚き、声を上げる池田と対照的に、ずっと無言で聞いていた静が、眼を見開いた。


「有馬家の遺産を引き継ぐ時にね、私が有馬姓を受け継ぐことが条件だったの。


有馬家はなんでも、戦国時代から代々続く名家だったらしくって。


ママは当然、嫌がったけど、ボクが別にいいよ、って言って…


結局、その方が、後々も都合が良かったし。


一志君の隣に住んでたことだって、岡嵜姓なら佐藤のパパママに怪しまれたでしょうけど、有馬姓ならありきたりの名前なんで、全然ばれなかったし」


「そうね、私の誕生日にあなたが家に来た時、母に、岡嵜さん、ってもし紹介してたら、きっと母は顔色を変えていたでしょう」


静が一志の顔を見つめたまま、回想した。


「うふ、それも役に立ったのかな。これで話はお終い。


それより、もう行こうよ」


マリアは打ち明け話を明るく終えると、三人を急かした。


「私は兄が心配なので、ここに残っています」


静は一志のソファの側で何事もないように言った。


「わかりました。あ、その…お気を付けて。


何かあったら、すぐにこちらに来てください」


池田は一志から襲われる可能性を飲み込み、注意を促した。


「大丈夫です。この服、こう見えて拘束衣になっているそうなんで」


「ああ、どうりで変わった服だと…それでは」


池田と中津は用心のため銃を取り出して、マリアを追いかけた。




「まだ、そんな物騒なもん持ってるの」


エレベータドアの前にいたマリアが言った。


「このエレベーターもあるけど、電気がもったいないから、階段使ってくださいな」


マリアはエレベーターの隣の階段を降り始めた。


「もう、電力会社の電気は止まってるのは知ってる?


今点いてるライトは、屋上のソーラー発電に繋がった充電池で賄ってるんだ。


ここには、ディーゼルの発電機もあるけど、使えるのは長くて二、三年くらいだろうけどね。


ああ、これも知ってる?


石油燃料って消費期限があって、普通、一年くらいしかもたないの。


ゾンビ映画の中じゃあ何年か経ったあとでも車走ってるシーンあるけど、実際はむずかしい…あ、この奥にいる」


そう言って、ストッパーで開いたままの大きな扉の前で止まる。




「指紋認証で開け閉めできるんだけど、これもさっきママに止められてね」


そう言いながら、その装置の下の小さな隠しボックスを開き、鍵をふたつ取り出した。




「これ、一個あげるよ」


「なんだこれは?」


池田は空いた左手でそれを受け取った。


「それ、ここのマスターキー。


こんな世界になった以上、探偵さんたちもここに留まった方がいいんじゃない?


こっちは別に構わないし、ママも了承済。


電気、節約しなきゃならないし、ここはアナログに戻ろうって」


「な…!?」


池田は躊躇った。


<ここに留まる?…確かに、ここはこいつらが用意周到に準備してきた場所だ…


ゾンビ対策には持ってこいだろう…


だが…何を考えている?俺たちと共に過ごそうと言うのか?>


敵に塩をもらうような、複雑な気持ちで中津の方を向き、鍵を見せる。


「いいんじゃないんですか、いただけるというなら、もらっておけば。


持っておいて困るもんでもないで…」


「地下二階の飼育室と核シェルターの手前のドアもその鍵で全部開くから。


じゃあ、入るよ」


池田たちに構わず、マリアは扉を開け、エントランスに入った。




「右は実験準備室、中には医薬品や資料、実験機材の他に、武器なんかもあるよ。


さっきの銃も、前からここに置いてあった」


マリアは左のドアに向かいながら、話を続ける。


「で、こっちのドアが開いている方は実験室、医療室にもなるけど。


では早速」


そう言って、既に開いてストッパーで止められたドアを通り抜けた。




 そこは白い空間だった。


廊下の天井、壁、床、左右二つずつと正面の計五つのドア全て。


そこにところどころ、血の跡が続き、一番手前のドアの前に続いている。




「ここのドア、開閉するたびに自動的に鍵かかっちゃうから、面倒くさい時はこのストッパー使って」


マリアは足でドアに付いたストッパーを示した。


「真っ白なのはママの趣味もあるけど、節電のためが大きいの。


知ってるでしょ、白は光を反射しやすい色だって」


そう言って進む饒舌なマリアとは対照的に、池田と中津は無言だった。


マリアたちは一番手前の鉄製のドアの前に着いた。


横開きで、やはりストッパーにより開いたままになっている。




 そこは一転して黒の空間だった。


「ここは…」


池田は思わず、生唾を飲んだ。


中津はその怪しい雰囲気に、身構える。


電灯が点いていても、暗く感じ、すぐに目が慣れない。


動画の中で見た、一志や外国人が拷問されていた部屋。


<地下に降りてから、やたら鍵付きの扉があったのは、脱走できないようにするためでもあるのか…>


池田は思った。


部屋の中央には、やはり動画で見たように唯一白い診察台がある。


ドアの方からは見えないが、零はそこに寝かされているのだろう。




「床が落ちたりなんて仕掛けはないよな」


池田が足元を確かめるように、恐る恐る部屋に入る。


「大丈夫、取って食いはしないから。


それより、そっちこそママに何もしないと約束してよ」


そう言って、マリアは診察台に向かう。


側には心音モニターと輸血用の点滴台があり、それぞれの管が診察台に向かって伸びていた。


心音モニターは弱々しい脈動を表示している。


「ママ、大丈夫?ごめんね、探偵さんがどうしてもここに来たいっていうから」


そう言うマリアの横に、池田が意を決したようにつかつかと歩み寄った。


中津の方は扉から顔だけ覗かせて、まだ部屋の中の様子を窺っている。


「岡嵜、俺はここに来るまでの僅かの間に考えたんだけどな、とりあえず、礼を言うよ、親父のことを教えてくれて」


「え?そんなこと、言いたかったの?」


マリアはそう言うが、零は目を閉じたまま、起きているのかどうかもわからない。


中津は何を言い出すのかとでも言いたそうに、池田の方を見た。


「お前は親父を殺したことを言わなくても済んだのに、教えてくれた。


それに墓まで作ってくれてたんだってな。さっき、上で聞いたよ。


お蔭で、胸のもやもやだけはどうにか晴れそうだ。


それに俺の依頼人である静さん、それと、どういう訳か、その捜索人の一志君も殺さずにおいてくれた。


散々、弄ばれはしたがね…」


「うん、それは万が一の為の保険。人質として生かしておいたの。


まさか、あのゾンビの大群の中、静ちゃんたちが生きているとは思わなかったから、捨てちゃったんだけど」


そう言ったマリアを、池田はギロリと睨みつけた。


「ああ、そうかい。それでもそのお蔭で、俺は依頼を果たすことができた」


そう言うと、また零の方に向き直る。




零はいつの間にか目を薄らと開けていた。


「おや、やっとお目覚めか?ちゃんと今までの話は聞いていたよな」


池田の言葉に零は僅かに頷く。


「それで、えっと、なんだっけ…」


池田は少し目を瞑って考え、すぐに開けると、また話し始める。




「そうだ、それに、このお嬢ちゃんからさっき聞いたばっかりなんだが、この場所も俺たちに提供してくれるとか。


この鍵をくれたよ。見えるか?


いたれりつくせりじゃないか」


池田は零の目の前に鍵をぶら下げる。


「そうそう、ここには五年は暮らして行けるほどの食料や物資が溜めこんであるの。


あなたたちがいても、二年はもつから安心して。


核戦争さえ起きなければ、裏庭に畑もあるし、鶏も飼っているし、井戸水もあるから、自給自足も…」


「お前たちがこんな世界にしたことを忘れるな!」


得意そうに言うマリアを池田が遮り、鍵をポケットにしまった。


「で、これはどういう風の吹き回しなんだ?


なぜ、俺たちを殺そうとしない?」


池田は睨みつけてくるマリアの方は向かず、零をじっと見つめる。


すると、零がゆっくりと小さな声で話し始めた。


「――私の目的はほとんど達成しましたぁ…累さんはオメガを発症し、勝さんは死んだのでしょう。


あのゾンビの群れの中、自分がしたことへの後悔と絶望と共にね…」


「え?」


勝が死んだという言葉に中津が反応するが、池田がウィンクして、嘘をついたことをアピールした。


が、中津はなぜか顔を紅くして、そっぽを向く。




「――そして、人類の滅亡…まだ動画がアップされて半日ほどですが、すでにこの有様…


これ以上、望むことは…そうですね、神の証明がまだ残されていますが、それも今となってはどうでもいいことですぅ…」


「余り答えになっていないな。


俺たちがここにいてもいいと理由は?」


「ですから、もう、あなた方を殺す意味がない。


復讐は果たせました。


一志君も静さんも復讐の道具であって、憎むべき相手ではありませんからぁ。


私は基本的に、来る者は拒まず、私たちに危害を加えない限り、お客様としてあなたたちを迎えるということ…」


「ここまでやって来た勇者様ご一行だからね」


マリアが最後に口を挟んだ。


「わかったようなことを…


なら、そのお礼と言ってはなんだが、お前たちにおもしろいことを教えてやる…」


池田は急に意味深な笑みを浮かべた。


「え、何?」


マリアは目を輝かせる。


「もったいぶるわけじゃないんだが、その前にひとつ質問がある」


一志は左手の人差し指を立てた。


「一志君のことだが、お前たち、本当の…何て言うか、その、素性、を知っててやったのか?」


零がはっと目を見開くと同時に


「何を今さら言ってるの?」


とマリアが顎を突き出した。


「知らないはずないでしょ。ボクが誰よりも知っている。


お兄さんのアパートの部屋の隣にずっと住んでたんだよ。


彼のことは調べ尽くした。


小説家を目指してることも、借金してることも。


そうだ、風邪ひいた時には同じ病院にも行った。


あの動画の中に音声が消えていた箇所あったでしょ。


あれ、勝元内科って病院、あの医者にお兄さんの病名聞いたら、あっさり教えてくれたの。


ただの風邪だったけど、聞いてもいないのに、お父さんのこと語り出したりして。


個人情報漏らすなんて、とんだヤブ医者でしょ」


<そうか、あれはそういうことだったのか。


あのおっさんならやりかねんな。


当然ながら、零はそれをマリアから聞いていたのだろう…>


池田は思わず、ドア側の中津の方に向いた。


壁に背を預け、腕を組んで聞いていた中津も、わかるとばかりに頷いた。


「へえ、そうかい。じゃあこれは知って…」


「わかった!


静ちゃんと本当の兄妹じゃないってことでしょ?


そんなこと知らない訳が…」


「ちょっと、黙ってろ、な?」


勇み足を踏むマリアを、池田が迫力のある目と声で嗜めた。




 「…田さん、池田さん!」


急に廊下の奥から静の声がした。


まだ扉の側にいた中津が、声をする方を見て驚きの表情を浮かべ、躊躇いながらも駈け出す。


池田が白く光る出入口を見ると、そこに三人の人影が現れた。


それは、中津と静、そして、その二人に両脇から支えられた一志だった。


一志の拘束衣は解かれている状態だ。


「静さん!」


替わろうとする池田を、静は空いた手で制した。


「大丈夫です。ハアハア、あの、池田さん、ハア、お兄ちゃんの、兄の意識が戻りました」


「何も連れて来られなくても、こちらから行ったのに」


「お、俺が…こいつらのとこに連れってってくれと、たのんら…頼んだので…」


そうしゃべったのは”一志”だった。


「――え?」


池田は驚いた。


「そ、そんな、まさか…」


マリアはそう言ったあと、驚きで言葉が続かない。


「お兄さんは…一志さんは、その、ゾン…じゃなくて、あの、その、大丈夫なんですか?」


「ええ、お兄ちゃんはゾンビになんか、なってなかったんです。


大丈夫、なんだよね?お兄ちゃん」


「ああ、ゾンビになってないっていうことなら、らい、大丈夫だけど、この通りなもんれ…な」


一志は久しぶりに口を開くのが慣れないのか、まだしゃべりにくそうだ。


「ありえない…お前は確かに発症したんだ。


ゾンビから元の人間に戻れるなんて、そんなのありえない!」


マリアは両の拳を握りしめ、最後は叫ぶように大声を上げた。


「ありえないんらろうがなんだろうが、お、俺は、ろう、どういう訳か、ほら、ちゃんと意識がある」


「あ、あなたはあの時、確かに…」


零がかすれた細い声を出した。


「ああ、あろ時…って、静に危害を加えるような話をした時らろ?


あ、あろ、あの時、確かに俺は我を忘れて怒ったよ。


怒りを抑えることが、れき、できなかった。


そのあと、お前に薬を打たれたらろうか…


うっうん、きる、気付いた時は、あ、あの、他の外国人たちがいるところの檻の一つだった」




一志は一歩また一歩とゆっくり前に進み、思い出すように続ける。


「俺はそれでまた絶望したけろ、ゾンビのようになるって言われてたのに、ならないのが不思議だった。


ら、だけど、周り檻にいる外国人たちは、本当にゾンビのようになっている。


そいつらは、俺が起き上がるのを見たら、狂ったように暴れ始め、咄嗟に気絶したふりをしたら、暴れなくなった。


どうして、こいつらは他のゾンビに反応せずに、俺にだけ反応するのか、薄目を開けて、観察し始めたんら」


マリアはいらついているのか、時々、握った拳を震わせながら、黙って聞いている。


零は苦しそうな表情は変えず、目を閉じたまま動かない。


「そしたら、すぐにわかったよ。ゾンビはゾンビのようにふるまっている奴には反応しない。


ゾンビ映画のように、お互い干渉し合わないんだ。


それは、たぶん、ゾンビのようになると催眠術のように言われて、そうなってしまったんらろ…」


「その通りだよ」


マリアは居た堪れなくなったのか、いつものように途中で割って入ってきた。


「催眠術って、おもしろい表現だけど、まあ、合ってるね。


ボクたちは暗示にかけるって言ってたけど。


ゾンビのようになると暗示にかかった人間は、自分で自分に制限をかける。


最初のオメガが遺伝子をそのように変異させたんだよ。


映画で見るゾンビは、仲間同士ではケンカしないようにね。


視界に入った奴が発症してない人間でも、ゾンビのふりをすれば、ゾンビと見做しちゃんだよ」


「それは利用させてもらったよ。な、中津」


「はいはい、ご明察、ご明察」


池田のドヤ顔に、中津は白けた目で言った。


「そりゃあ、その外国人たちには悪いけど、それはある意味、ラッキーだった。


俺は、その外国人たちの観察を続けて、真似をすることができたんだから。


恐らく、お前らは俺が同じようにオメガを発症したと思ってるだろうから、それを利用しようと考えたんだ。


ゾンビのふりをしていれば、俺がまだ正常だと気付かれないだろうから」


一志はしゃべるうちに少しずつ調子を取り戻し、どもらなくなってきた。


「ゾンビの暴れる仕草、攻撃対象がいない時の様子、食べ方、それから…その、排泄の仕方まで…生きるために、そして、いつ出られるかわかんないけど、いつか、家族に会えると信じて、俺は覚悟を決めたんだ」


一志はマリアと零のいる診察台を睨みつけ、二人に支えられた肩から腕を下ろした。




「な、何?」


マリアは一志の気迫に自分でも気づかないうちに、後ずさりしていた。


「お兄ちゃん、大丈夫?無理しないで」


肩を貸す静が気遣った。


「無理はするさ、こいつらに言ってやりたいことがあるからな」


一志はそう言って、静と中津の支えられた肩から腕を下ろすと、一歩、二歩と足を出した。




「マリア、お前をあの檻で初めて見た時は、ほんとにびっくりしたよ。


まさか、隣に住んでいた女の子が犯人だったなんて。


思わず、声を出しそうになるのを、なんとか抑えて、意味のない怒声に変えて叫んだけどな」


「…!?あれが、演技だったなんて…」


マリアが悔しそうに下唇を噛んだ。


「それで、岡嵜教授…」


一志はまた一歩前に出た。


「あんたが俺を発症させようと、オメガの説明をしていた時、プラシーボ効果のことを言ったよな。


あの時、俺は考えたんだよ。


じゃあ、ポジティブに考えたら、どうなのかって。


もしかしたら、それが効果あって…」


「…りえない、ありえないのですよ、なぜ…」


零が少し大きな声でしゃべり始めた。


「ありえないって、だから現に…」


そう言う一志を零は右手を上げて制した。


「ちょっと、待って…マリア、座席を一志君の方に、回してちょうだい」


「わかった」


マリアは診察台の下のペダルを踏み、輸血台のポールを片手で持つ。


そして、零に伸びたチューブに気を配りながら、一志の正面を向くように台を回した。


「ありがとう…」


零は目を開けて言った。




「一志君、あの説明の最中、あなたはしぶとくてね、なかなか、オメガを発症しなかったぁ。


確かに、そのことは、おかしかったのです。


あなたの血液を調べて、確かにオメガの保菌者だと確認しましたし、あなたに焼きごてを当てると言っておいて、実際はアイスクリームを首に押し当てた時、火傷のような跡まで浮かび上がったのに」


その言葉に一志は驚いて、思わず自分の首の後ろを触った。




「それは、オメガを発症しやすいかどうかを測るリトマス試験紙のようなもの。


あなたは、とてもオメガを発症しやすい人間だったのです。


現に発熱して、鼻血が出るという兆候までありました。


だが、時間をかけても発症しない」


「ちょっと待て。そう言や、発症率は半分っていってたよな。なら…」


池田が疑問を呈した。


「おっしゃる通り、オメガの発症率は百パーセントではありませんが、拉致された上に発症について直接言及されて、不安にならない者はいませんよぉ。


実際、被検体十三人の中で発症しなかったのは一志君を除けば、他に二人でした。


一人は拉致を始めた当初で、私もまだ要領を得てなかったこと、そして、もう一人は、私の習った格闘技の師範、とてもポジティブな人間で、先のリトマス試験紙の結果も芳しくありませんでした。


ただ、そうして発症しなかった場合には、活性化したオメガを注射したのですぅ。


そうすると、さすがにその二人も発症しました。


つまり、最終的に発症しなかった者は一人もいない…


なので一志君、あなたにも、もちろん注射しました。


あなたが熱に浮かされて意識が朦朧していた時に…念には念を入れておこうと思ってねぇ…


そしてダメ押しに、予定にはなかった、あなたを怒らせるようなことまでしたのですぅ。


他の外国人にはそんなことはしていません。


確かに、私のプラシーボの説明は余計だったかもしれない…


ポジティブな考えは発症の妨げになりますから。


でも、活性化したオメガは感染者の思考は関係ありません、んんっ…


…どうして、あなただけ…」


「俺もそれは考えたよ。


だから、さっき言ったとおり、少しでも、ポジティブに考えようとしたことが影響していたか…


いや、もしかしたら、たまたま、俺は抗体を持っているとしか、考えられない」


「認めたくはないが、そうかもしれませんね…あなたは、数千人に一人いるかどうか…奇跡的に抗体を持っていたとしか…」


「そんなバカなこと、あってたまるか!」


ドンドン!


マリアが子供のように地団太を踏んだ。


「どれだけ、都合がいいんだよ。


ボクたちが一番憎んでいた奴らの息子だけ、運良く抗体を持っているなんて!」


「あの、ちょっといいか?」


そう言ったのは池田だった。


「よく、わからないが、一志君はその、さっき言ってた、オメガマイナスにかかっていたって…」


「それはありえないよ!」


マリアがいつも以上に喰い気味に反応した。


「オメガマイナスって?」


初めての言葉に静が訊いた。


「簡単に言うと、オメガのいいとこどり。


オメガプラスの前身のウィルスで、我を忘れて狂暴化せずに、力は最大限発揮できる。


そして、マイナスに感染していれば、プラスには感染しない。


どっちにしろ、マイナスは私たちが後からつくったんだから、こいつに感染はありえないよ」


「…そうね、それはありえな…い、ん?いや…」


零がそう言いかけて止まり、一同が零に注目する。




「…いえ、そんな…でも、もしかしたら…ありえなくはないかもしれない…うっうん」


「え、ママ、それどういうこと?」


「考えたことがあるの…オメガの元である原始のウィルス…


それに感染した人間はあなた以外にはいないのかって…」


「それはいないでしょ?ウィルスは厳重に管理されていたじゃない。


私がうっかり、アンプルを割ってケガをしたのは偶然で、それ以外は…


あっ、もしかして、勝の持つウィルスからっていう可能性?」


「いや、俺はそのウィルスのことは当然知っていたけど、アンプルどころか親父の研究室にさえ行ったことがない。


一度、見たいと親父に言ったことがあるけど、親父一人の一存じゃできないと、あっさり断られたよ」


一志はそう言って両掌を上に向ける。




「それなら、勝自身が…」


「待って、マリア」


珍しく、零がマリアの言葉を遮った。


「確かに一志君の言うとおり、ウィルスの管理は厳重で、一般人が触れることはまずできないわ。


それにウィルスの見つかった場所もコンクリートで封じられ、マスコミにも曖昧にして特定されないようにしていた。


でも、その場所は、地震が起きて偶然に現れた地層で…」


「知ってるよ、ママが言ってたじゃ…」


「いいから聞いて…パパがそこを調べた時は、地震が起きてからもう十数年も経っていたとも言ったでしょ、だから他にも…」


「ちょっと待て。パパって岡嵜恒教授のことだろ?


そうじゃない、俺の親父が調べたんだ」


「嘘をつくのではありません!あの男は夫の研究を奪ったのです!」


零ができる限りの大きな声を上げた。


「研究を奪った?嘘じゃない。


その場所って、茨城県の笠間市だろ?」


「なぜ、それをぉ…公表されてない…そうか、勝が漏らしたのね?」


「漏らしたって、まあ、そうだよ、その話を昔、親父から聞かされた。


親父が言うには、弟の…つまり、優叔父さんが持ってきた話だって。


ええと確か、ロシアの永久凍土が解けて、マンモスか何か見つかったってニュースを、望叔母さんと見て…


あ、まだ、結婚する前だったらしいんだけど、それで、叔母さんが小さい頃に地層を見つけたことがあるって話になったらしくって…」


「あの、何が言いたいの?話をまとめて」


マリアがまどろっこしそうに言った。


「だから、叔父さんと叔母さんはその地層を実際に見に行って、場所が場所だけに、どうもすごい古い地層じゃないかって話になって、それを親父に教えてくれたらしいんだよ。


親父は、前から古代のウィルスを探してたから。


だから、少なくとも、そのウィルスが見つかった場所に親父が絡んでるのは間違いない。


笠岡市は叔母さんの田舎だった、とも聞いたよ。


そんな作り話、あえて俺にする意味ないだろ、普通」


「そんな…恒はそんなことは一言も…」


零はマリアの眼を見つめた。


「わからない…ボクも全部が全部、覚えてる訳じゃないから…」




 マリアは思い出せなかった。




 実際は、現地には静の両親に案内され、勝と恒、どちらもが赴いていた。


勝も恒も周りにそれを言わなかったのは、互いの妻に負い目を感じていたからだった。


零も累も、結婚してからもなぜか変わらない二人の仲をおもしろく思ってなかったのだ。




 二人の会話の意味がわからないまま、池田がまた口を開いた。


「と、言うことはだ、そのオメガ発祥の地に、静さんのお母さんが小さい時に行ったことがあり、そこに佐藤教授を案内して、その時に感染した…ってことか?


いずれにせよ、最初のオメガに感染した可能性はその場に行った全員にある。


こうなったら、他にもいるかもしれない」


「それなら、オメガに感染したのは私の母って可能性もありますよね。


だったら、兄は私から感染したとは考えられませんか?」


静が疑問を挟む。


「あなたへの感染は母子感染…ってこと?」


マリアが困惑の表情を浮かべて言った。


「そう。そして、お兄ちゃんへ…」


<え?静ちゃん、まさか、お兄さんとそんな感染するようなことを…>


池田は自分の下劣な妄想を押し込めた。


「心当たりがあるような言い方ね」


マリアがある意味、池田の妄想の真意を測るようなことを訊いた。


「どうやって兄に感染したかはわからないけど、私自身がそのマイナスっていうウィルスに感染している、ってことならあるわ」


静の真っすぐな目でそう言われたマリアは言葉が続かない。




「どちらにしろ、この二人が感染しているかもしれないってのは、偶然っちゃあ偶然だが、必然と言えば必然だな。


静さんの産みの親であるお母さんがその地層を見つけ、本当のお父さんにそれを言って、さらにそれをおとう…佐藤教授に言わなきゃ…あ」


本当のお父さんという言い方で傷つけたのではないか気になって、池田は静に顔を向けた。


静は口を真一文字に結び、無表情に近く、池田が自分を見ていることに気付いて目を合せた。


「もしかして、気遣っていただいているのかもしれませんが、大丈夫です。


それに…それになんか、うれしい…ていうと、ウィルスが感染しておいて変ですけど、お母さんから、そんなものを引き継いでいたのかもしれないって思うと」


そう言って、またマリアの方を向く。


「有馬さん、私ね、子供の頃から不思議な体験ばかりだった。


あまりに変だから、言えないこともあるけど、例えば、速く走りたいって思えば、どんどん足が速くなったり、頭が良くなればいいって思えば、どんどん記憶力が良くなったり。


逆に、私なんてダメな人間だって思ったら、調子悪くなったりしてたの」


マリアは戸惑いと怒りの合さった表情を浮かべ、黙って聞いている。


「小さい頃からそんなことがあって、ポジティブシンキングって言葉を知ってからは、そのせいだって思うようにしてたんだけど…それでも、何か違和感があったの」


「そう言えば、さっきのあの力…」


中津が呟くように言った。


「ああ、静さん、犬並に嗅覚が良かった…」


池田が中津に同調する。


「違!…わないですけど、それじゃなくてさっき…」


「ああ、余裕で一志君を抱いていたことか」


「そっちです…抱えていた、ですけど」


二人の小声のやりとりに構わず、静は話を続ける。


「――運動会とか、試験前とか、ここぞという時には異常に力を発揮できるんだけど、その後、ものすごくだるくなって調子を崩したりとか、何て言うか、極端だったのよね」


静はそう言って、今度は目線を一志に移した。


「ああ、そうそう、俺が火事場の馬鹿力って言ったら、お前、怒ったことあるよな。


バカとは何かって」


二人は目を合わせ、久しぶりの笑顔を交わした。


池田はそれに嫉妬を覚えながら、また口を開く。


「うっうん、だから、どちらにしろ、一志君がオメガマイナスに感染してるとしたら、静さんだけでなく、岡嵜か佐藤教授からの可能性もある訳で、そこで感染して、それが…


うん?それだと累さんが発症したのは辻褄が合わなくなるな。


それによく考えたら、父子感染ってないだろうし、やっぱり静さんからか…」


「ちょっと待って、佐藤教授からっていうのはわかるけど、岡嵜ってボクのパパだよね?


父子感染も何も、そこから感染る訳がないじゃない」


マリアが雲行きが怪しくなってきた場を取り替えそうと、馬鹿にしたように笑みを浮かべた。




「やっぱり…」


池田も同じように笑みを浮かべる。


「何よ、やっぱりって…」


そう言うマリアのそばで、零も興味深そうに池田の目を見て、次の言葉を待つ。


「さっき言いかけて、話が止まってしまったが、この一志君の素性とは、そのルーツ、つまり、父親のことだよ」


「父親?佐藤勝が何だって言うの?」


マリアが頬を膨らませる。


「静さん、一志君、言ってもいいですよね?」


「はい、もちろん」


「ええ…いや、じゃあ、俺から言わせてください」


静のあとに答えた一志が、さらに一歩前に出ると、その両隣に池田と静が並んだ。




「俺の血縁上の父親の名前は、岡嵜恒。


俺は、岡嵜と母さんが別れる前にできた子だ」

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