ブアメードの血

キャーリー

56

 成瀬里奈は焦っていた。




 ここは、警視庁屋上のヘリポート。


十八階建て、発症者が溢れる地上から、百二十三メートル上に広がる、一般人はほとんど見ることのできない視界。


谷津田らが乗ったヘリコプターと同様の、十人乗りのスズ412が待機している。


 ◇


 特別捜査本部の設置してある大会議室に乗り込んだ成瀬は片本警視を捕まえて、事件の鍵を握る、ウィルス発見者である勝の必要性を説いた。


何かと前例踏襲、事なかれ主義で済まそうとする他のキャリアと違い、理解力があって話の通じる相手は、片本を置いて他にいなかったのだ。


それと合せ、国立感染研究所から、ほぼ同時刻に同様の依頼を受けた本部は、勝を最重要参考人と位置付け、やっと重い腰を上げてヘリコプターでの搬送を決定。


しかし、人員が足りないことから、ヘリコプターで勝を迎えに行く要員に、言い出した成瀬も選ばれた。


 ◇


 <よりによって、ヘリなんて…私、高所恐怖症なのに…>


ヘリコプターに搭乗するのは、成瀬の他に、志田と落谷という、坂辻発症の現場に立ち会った際にいた、捜査一課の刑事二人だ。


「また、お会いするとは何かの縁ですかね。


さあ、佐藤教授のところまで一飛び、一緒にお向かいに参りましょうか」


ローター音に負けない大きな声を出したのは落谷だった。


優男の雰囲気に違わず、気障な台詞回しをする。


「よ、よろしくお願いします」


成瀬にとって、普段なら苦手を通り越して嫌悪するタイプだが、ヘリコプターでの移動、という難題を抱えている今、それどころではなかった。


志田が先に黙って乗り込むと、落谷がレディファーストと言わんばかりに、先に乗るよう促した。


「ど、どうも…」


成瀬は向かい合った四席二列シートの後ろに乗り込むと、落谷もその隣に続いた。




 ヘリコプターは屋上を離れると、ぐんぐん加速して、高度を上げていく。


「きゃ!」


初めてヘリコプターに乗る成瀬は思わず、声を上げた。


「大丈夫ですか。顔色が悪いですよ」


落谷が心配しているのかどうか、口元に笑みを浮かべて声をかけた。


「だい、大丈夫です。


ちょっと高い所が苦手なだけで…」


「高所恐怖症ですか?


誰にでも苦手なものはありますよ。


そうだ、外を見ずに、僕と今回の事件のことについて話でも…」


「おい落谷、たいがいにしておけ、お前の悪い癖だ」


前のシートに座っていた志田が口を開いた。


「いえ、僕は彼女を心配しているだけで、そんなつもりは…」


「自分らの任務は、佐藤勝教授の随行、成瀬捜査官は専門的な知識の聞き取りだ。


我々と彼女にそれ以上の確認事項はない」


「はい、了解しました」


落谷は悪びれる様子はない。


「あの、その間に二つほど、お伝えしておきたいことがあります」


「なんですか?」
「なんだね」


成瀬の言葉に落谷と志田がほぼ同時に応じた。


「まずひとつは…その、発症者に対してなんですが、ゾンビの、いえ、あの、発症者の真似をすると襲ってこない…という、未確認ではりますが、そういう情報がありました」


「発症者の真似をすると…」
「襲ってこない?」


今度は志田の言葉に落谷が続けた。


「はは、成瀬さんもおもしろいことを言うなあ」


「私も俄かには信じられませんが、現場の八塚刑事からの情報です。


嘘を言っているとも思えませんので、あくまでそういう情報があった、と…」


「わかった。八塚が出鱈目をいう人間には思えん。


実際にやるかどうかは置いておくが、心得ておこう」


「あの、どうして、成瀬さんは八塚刑事から直接情報を…」


「もうひとつは、例の動画を見てはいけない、と言うことです」


成瀬は落谷の言葉を塞ぐように話を進める。


「これも未確認ですが、動画を見ると、発症してしまう可能性が否定できません」


「それも、八塚刑事からの情報か?」


「はい」


「動画を見るな…か。


どちらも、映画にあるような台詞だが、了解した。


ひとつは、発症者への対応、ひとつは、発症しない方法、といったところだな」


「はい、おっしゃる通りです。


本部へはさすが言えませんでしたが、お二人にだけでも話しておこうと思いまして」


「ああ、成瀬さん。その気持ちわかりますよ。


他にも遠慮せずに、なんでも言ってください」


そう言って、間隔を詰めてくる落谷に成瀬は身を固くする。


<もう!みんなが右側寄ったらバランス悪くなるじゃない…


ああ、早く着かないかな、あと十分ほどかしら…>




 成瀬にとって長く感じられた十分が経ち、ヘリコプターは多摩川上空へと到着した。


「佐藤教授は一番手前、多摩川通りの橋のすぐそばの野球場に潜んでいるとおっしゃっていました…」


成瀬は恐怖と戦いながら、下を見た。


「おい、聞こえるか!あの橋の付近だ」


志田が振り向き、前に座る操縦士の肩を突いて大声で話しかける。




ヘリコプターが低空飛行飛行を始めると、下に小さな光がいくつか点滅する野球場が見えた。


操縦士は目標を発見すると、あっと言う間に地上との距離を縮める。


<ううっ>


成瀬が重力の変化に声を出さないように耐える中、ヘリコプターはセンター付近の平らな場所に着陸した。




 そこに、四人の人影が近付いて来ると、やがて、それが二人ずつの男女とわかった。


「あの四人で間違いなさそうだな」


「はい、佐藤教授はテレビで一度拝見しておりますし、池田探偵とは一度だけ、会ったことがありますので…」


「へえ、探偵もご存じなんですか。


成瀬さんは顔が広いですねえ」


落谷はそう言うと、ドアをスライドさせて開いた。


「よくぞ、ご無事で。さあ、どうぞ」


相変わらず、愛想良く四人を出迎える。


その奥で、成瀬がシートから腰を浮かせ、中腰で頭を下げた。


「お電話しました成瀬です。


この度は大変な時に、ありがとうございます」


「この度は無理を言ったようで、恐縮です」


先頭に立って来た勝が成瀬に挨拶した。


「ただし、条件は条件です。


こちらの探偵のお二人と、私の娘もお願いしますよ」


「伺っておりますが、大丈夫です。


さあ、お乗りください」


志田も身を乗り出すようにして言った。




 後ろの席、ドア側に座る落谷と奥の成瀬の間に静と中津、前の席、やはりドア側に座る志田の奥に勝が、次々に乗り込む。




「まずい、早く出しましょう!」


そう言ったのは、最後に乗った池田だった。


外を見ると、ヘリコプターを見た群衆の一部が、自分も助からんと走ってこちらへ迫っていた。


中には、発症者もいるようだ。


「急いで出せ!」


志田の声に、落谷がドアを閉め、操縦士は機体をすぐに浮かせて飛び立つ。


「きゃっ」


成瀬だけ、恐怖心を押さえられずに声を上げたが、正面に座った池田は、それをわざと見ないかのようにそっぽを向いている。




 その後、しばらくは沈黙が続いた。


民間人を助けずに置いて行く。


どうしようもないこととはいえ、そんな後ろめたい気持ちが、皆、多かれ少なかれあった。




 「――ところで、あの、条件がもうひとつあるのですが…」


そう沈黙を破ったのは、勝だった。


「条件…と言いますと?」


志田が怪訝そうに眉間に皺を寄せた。


「警視庁へ同行するのは、私だけにしてもらいたい」


「いや、今さら何をおっしゃる…」


「探偵のお二人と娘は途中…と言いますか、少し迂回していただき、降ろしてほしいのです」


「ですから、それはできません。


先ほどの…うん、ああ、野球場へのヘリの着陸も、要人救出、という建前で、なんとか許可が下りたくらいです、これ以上はご勘弁いただきたい」


志田が慎重に言葉を選んで言った。




「おい、中津」


「本当にやるんですか?」


「無理を言ってすまんな」


池田と中津が聞こえるように会話をする。


「やるって何を?」


志田がさらに眉間に皺を寄せる。


「あの、すみません。


改めまして、我々二人は池田探偵事務所の者です。


お二人からご依頼を受けまして、こちらの佐藤家のご長男を捜索しているところです」


「はあ、ある程度は聞いておりますが…それで?」


「ご長男の居場所が判明しましたので、教授以外はそちらに伺いたい、ということです」


「ですから、それはできないと申し上げたでは…


ちょっと、待って、今、ご長男の居場所がわかったと?」


志田が目の色を変えた。


「はい、恐らく警視庁の方は、まだ掴んでいない情報でしょう」


「それは…どこなんです?」


「そこに向っていただけるのでしたら、申し上げます」


「そう来ますか。


それは、本当に確かな情報なのですか?」


志田は一瞬、困り顔を見せたが、すぐに凄みを含んだ表情に変える。


「確かでしょうね。警察庁の方は既に動いているようですから」


「警察庁?外事課ですか?」


「さあ、どちらにしろ、こうしてお話している間にも、その居場所からどんどん離れています。


犯人である、岡嵜零の居場所、からもね」


「ちょっと、小塚さん、ヘリを旋回してホバリング状態にしていただけますか?」


志田は振り向いて、操縦士にそう声をかけた。


「了解」


小塚と呼ばれた操縦士は、ヘリコプターを右に旋回させると、速度を急激に落とした。


「知っていることを話していただけたら、考えなくもありません」


「――わかりました」


態度を変えた志田の言葉に、池田はそう言って、一呼吸ついた。


「岡嵜はマンションにいなかったことは、越智警部の班から聞いていました。


そこで考えてみました。


こんなウィルスをつくるからには研究施設が必要なのでは?


であれば、そういった研究資材を扱う業者が…」


「なるほど、つまり、その筋から情報を得たということですか」


「さすが、話が早い。簡単に言えばそうです。


佐藤教授がご存じだった、トレジャーバイオという会社の営業に当たると、すぐにわかりました」


「で、そこはどこなんです?」


成瀬が前のめりなって話に入ってきた。


「――向っていただけますね」


池田の言葉に、成瀬が顔を向けた志田は黙って頷いた。

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