ブアメードの血

キャーリー

45

 池田敬は訝しんでいた。


越智警部の言動に。


<何か企んでいる。


あの時のあの目線、その一瞬に何か考えた。


拘束されたくない、それは本人のその後の言葉で確かだろう。


だが、その裏にあるのはなんだ?


普通なら…そうだな、たぶん…


ただ、そうは言っても相手は警察でここを管轄している人間、何もできはしないが…>


池田はそう思いながら、越智の後ろに張り付くように玄関を出た。




 門に向かって、四台の警察車両が並んで停まっている。


その内のバンタイプの一台に、累が運び込まれているところだ。


佐藤父娘が心配そうにその様子を見守る。


静の方は、涙ぐんでいた。


越智はその脇を抜けるように何気ないそぶりで進む。


池田は静に掛ける言葉も見つからずそこで立ち止まり、越智の様子を窺った。


「どうしたんです?」


池田の様子を見て、後ろからついて来ていた中津が言った。


「あの越智警部、これから何かやらかしそうでな」


「え、それはどういうことですか?」


「まあ、見てなって」


池田は自分のバイクに向かう体で、越智からは目を外さず、ゆっくりと歩き始める。


越智は一番入口に近い警察車両の運転席側まで行く。


そして、少し周りを気にする素振りをすると、車に乗り込み、すぐに発車させた。


門のところに野次馬だろうか、人だかりができていて、出て行く車に道を空ける。




「ちょ、ちょっと警部!」


それに気付いた一部の警官はあっけにとられていた。


お互いに顔を見合わせつつ、そのまま走り去る車を見送ることしかできない。




「ほらな」


「あれ、稀に良く当たるものですね」


得意そうに言った八塚に、中津が感情なく言った。


「稀に良く当たるってなんだよ」


「でも、どうしてわかったんです?」


「勘かな、って、正直言うと、目の動き」


池田はオーバーに目玉をぎょろぎょろしてみせた。


「そんなところだとは思いましたけど、越智警部、どこ行っちゃったんでしょうね?」


「たぶん、家族のとこだろう。


自分にも家族がいたらそうするだろうから」


「え、それは…ああ、つまり覚悟した、ということでしょうか」


「だろうな。


恐らく、警察では箝口令が敷かれているだろうが、ウィルスのことを知れば、たいていは自分の家族にだけでも知らせたくなるだろう。


ましてや、自分が累さんのようになるかもしれない、しかも時間がない、と思えば尚更ね」




 池田の推測は当たっていた。


越智はすぐに自分の妻に電話し、今回の事態を伝え、すぐ逃げるように諭していた。




 同じような行動をしている警察関係者は、戸井や越智のように続出していた。


その情報はインターネットのSNS、Eメール、コミュニケーションアプリ…


それらを通じてまさに網の目のように広がっていく。


『ここだけの話…』


『本当は秘密なんだけど…』


『信じられないかもしれないが…』


そんな枕詞から始まって。


零とマリアが公開した動画と共に、急速に世界へと…




 警察の関係者が騒然となる中、城は松谷に平謝りしていた。


「――本当にすみません、やはりすぐに拘束するべきでした。自分のミスです」


「しょうがないよ、まさか、越智さんが逃げ出されるとは、俺も思わなかった」




<俺はわかったけどね>


松谷の言葉に池田が内心突っ込んだ。


「上司には立て付けんし、それを言うなら、俺も同罪…」


「お話し中、失礼します」


重装備の警官の一人が松谷に話しかけた。


「なんだ」


「その、さっきから課に何度も電話しているのですが…どういう訳か繋がりません」


「繋がらない?車の無線はどうだ?」


「やっていますが、そちらも応答がなく…」


「もう一度、やってみろ」


「はい」


そんな様子を見ている池田たちに気付いた城が近付いてきた。


「失態を見せたようで申し訳ないが、やることに変わりはありません。


今から佐藤一家に同行いただくということで、ここから先は我々に任せていただきます。


どうも、お疲れ様でした」


城は事務的に冷たく言った。


「わかりました。


お疲れ様です…ああ、あの」


「何か?」


「あの、万が一ですが、この先、渋滞とかでゾンビに囲まれたらどうするんですか」


「ゾンビとは、、発症者のことで?いずれにせよ、心配ご無用、我々で対処します」


「いや、その、これだけ警官の方がいらっしゃったら、その中からも…」


「所長、やめておきましょう」


中津が池田の言葉を止めた。


「何をバカな。そんなことを言い出せば、切りがないでしょう。


あなた方こそ、発症しないとも限らない。


ではこれで」


城は足早に松谷の方へと去って行った。




 池田は釈然としないまま、この先どうしたものかと考える。


<何か胸騒ぎと言うか、落ち着かないな。


このまま、黙って事務所に戻るってのも…


先を見据えた行動をしないと取り返しのつかないことになりそうな…>




 その時、


「やはり応当ありません!」


と、先ほどの警官が警察車両の側で大きな声を上げた。


「どういう訳だ、ったく」


松谷は自分の携帯電話を取り出すと、ボタンを操作してどこかに電話をかけた。


「ああ、俺だ。


さっきから、そこにかけて…え?なんだって!?」


松谷の方は電話相手に繋がったが、何を言われたのか、急に慌て始める。


「わ、わかった。切る、切るよ。


善処してくれ」


「どうしたんです?」


面食らったような顔をしている松谷に池田が近付き、声を掛けた。


「ああ、いえ、その、なんでもありません。ちょっと、署の方もごたついているようで、まあ、大丈夫です…」


松谷は取り繕おうとしているのが見え見えの答え方をした。


「とにかく、大丈夫ですから、お引き取りを」


城は事態が呑み込めぬまま、池田を下がらせようとする。




 「なんだ、君たちは!帰りなさい!


ここは立ち入り禁止だ!」


今度は門に近い方から、誰かを牽制する声が聞こえた。


池田たちが声のする方を見ると、先ほどの野次馬の何人かと警官が押し問答しているのが見えた。


<今度はなんだ、一体…>


池田は城から離れるように門に向かうと、中津もその後ろを付いて行く。


「――早くしょっぴけよ、何やってんだ、警察は」


「まあ、こうして来てんだから、素早い対応なんじゃないの、警察も」


「町中をゾンビにしようなんて、ひどい夫婦だな、ここのうちは」


野次馬は十人近くいて、その中の数人からそんな声が聞こえてきた。


<どういう意味だ、これは?>


池田は野次馬の方に向かった。


「あの、すみません。


皆さんって野次馬でしょうか?」


「所長、ストレート過ぎです…」


中津の突っ込みは当然間に合わず、声を掛けられた六十代くらいの男の顔はみるみる真っ赤になった。


「なんだ、あんた!失礼な奴だな」


「あの、すみません、ほんとにすみません。


それで、皆さん、何かおっしゃいたいことがあって、お集まりなんでしょうか」


中津が下手に出て、池田の前に歩を進めながら質問をした。


「ああ?あんた、刑事かなんかか。


何やってんだよ、まどろっこしい。


早く捕まえてくれよ、ここの夫婦を。


ウィルスなんかばら撒きやがって」


「え?それはどういう意味です?」


「どういう意味って、あんたらここの夫婦捕まえようと思って、こんなに押しかけて来てんだろ?


近所なんで文句言ってやろうと思って来てみたら、警察がもういるからよ、捕まえんだと思って見てたら、もたもたしてっから」


「いえ、私たちは警察では…」


「ウィルスがばら撒かれたって…もしかして、ネットかなんかで、ここの夫婦がやったって、そう書いてあったとか?」


池田が中津の前にまた出てきて訊いた。


「そうだよ、ったく。


だから、それで来てんじゃないの?あんたらは」




<まずい、そうきたか>


池田は状況を理解した。


<恐らく、あの親子のどちらかがSNSを通じて、デマを書き込んでいるのだろうが…


恨みを買うとは恐ろしいもんだな…>


「それはデマです。犯人は別にいます。


犯人のデマに踊らされないでください」


池田は毅然とした態度で、声を上げた。


「なんだよ。信じられるか!」


「もう、ゾンビになった奴だっているんだぞ!」


野次馬の何人かが言い返してきた。


「ネット上に書かれていることと、目の前の警察の言うこと、どちらを信じるのですか。


犯人はもうわかっています。


ここはもう引き揚げますので、皆さんも自宅へお戻りください」


池田は自分の身分を偽りつつも、引き下がらない。


「その通り!犯人は既に判明しており、元大学教授の女です!


じき、ニュースで発表されるでしょうから、すぐにお引き下がりください!」


大声を上げたのは、いつの間にか来ていた松谷だった。




 その後、多少の押し問答はあったが、野次馬たちが 渋々引き返そうとした時だった。


「…こいつらがあ、犯人ったら犯人だああああ」


野次馬の奥の方にいた一人の若い男が急に叫んだかと思うと、警察とは関係もない隣の若い女の首元に噛み付いた。


オメガの発症は明らかだ。


「きゃー!」


「逃げろ!」


側にいた野次馬は叫び声をあげながら逃げ出す。


残りの野次馬は恐ろしそうにその光景を見守るが、誰も助けに入らない。


中にはスマートフォンでその様子を撮影している者もいた。




「おいおい、マジかよ」


池田は加勢しようと近付こうとしたが、中津に止められた。


「ここは警察の仕事です」




中津の言葉通り、松谷と近くの警官がすぐに動き、男を後ろから取り押さえようとするが、儘ならない。


「おい、全員加勢しろ!


それから救急車!」


様子がおかしいことに気付いた城ほか、武装した警官たちも加勢する。




 「所長、これはまずい状況なのでは…」


中津が遠巻きにその様子を見て言った。


「ああ、岡嵜の目論み通りのことが起こり始めた…」


「それもそうですが、その先を考えてみてください。


私たち、ここから無事に帰られるかどうか、そして、最悪の事態を考えるとその先は…」


「わかってる…ゾンビはねずみ算的に増えるんだろ?


いずれ、ここだけでなく、世界もやばいかもな」


「――意味、わかってたんですか?」


「そうバカにするなよ。


これでも、ゾンビ映画は好きな方でな、話の流れでだいたいわかった。


警視庁に連絡が取れないらしいから、あっちもやばいようだし、この調子ではほんとにこっち側の警官もゾンビになってしまうかもしれん…


――それでだ、中津、頼んでおいた例の物、持って来てくれたよな」


「ええ、持ってきましたとも。


まさか本当に使うことになるとは思いませんでしたけど」


そう言うと、中津の方は車庫前の事務所の車に、池田は玄関前にそれぞれ向かった。




 玄関前では佐藤父娘が不安そうにこちらを見ていた。


「取りあえず、警視庁へ行くのは、なしになりそうです。


一旦、家の中へ戻りましょう」


池田は、城の言葉に反することを言った。


「あの騒ぎはなんですか」


勝が訊いた。


「ああ、越智警部が逃げ出して、野次馬が騒いで、その中の一人がゾンビになって…と、大変なことが立て続けに起こりまして…


まあ、とにかく、家に入らせてください」


池田は努めて冷静に言った。


「どういうことですか、よくわかりませんな、もう少し…」


勝がそう言っている間に静が玄関の鍵を開けた。


「お父さん、池田さんの言うことに間違いはないから、従いましょう」


静は涙を拭って扉を開き、中へ一歩入る。


「さあ、入ってください」


「――とりあえず、状況が変わったということですね」


「そういうことです」


そう言って、勝と池田が静に続く。


「中津がすぐに来ますので、少々お待ちを」


池田は扉を開けたまま、スマートフォンを取り出して、マップを開く。


<やはりな>


そう思って眉を少ししかめた時、中津が大きなスーツケースのようなものを持ってやってきた。


「お待たせしました」


「よし、ありがとう」


池田は扉を閉め、鍵をかけた。




「え-、これから言うことをよく聞いてください」


池田は改まって言った。


「これからは、最悪の事態を考えて動かなくてはならないと思います」


「最悪の事態?」


勝が眉間に皺を寄せる。


「はい。災害の時に使われる言葉を借りれば、これまでに経験したことのないような異常事態です。


それが、今回の場合は天災ではなく、生物災害、所謂バイオハザードという形で起こってしまいました。


私が警察学校に行っている時に、少しだけですが、習いましてね。


ただ、これは、お父さんの方が良くご存知なのでは?」


「ここは、お父さんではなく、佐藤教授と言った方が説得力ありませんか?」


中津が小声で言った。


「どちらでお呼びいただいても結構ですが、言われてみれば、恐ろしくなってきました。


正常化バイアスとは、こういうことかもしれない」


勝が顔色を変えて言った。


「正常化バイアスって…」


「いいから話を」


中津は池田の質問をいつも以上に冷たく切った。


「認めたくはありませんが、この状況はオメガウィルスの…そうだな、小規模、いや、大規模の流行と言ってもいいかもしれない。


パンデミックの一歩手前の状態…発症という面に限って言えばですが…


それが、動画が投稿されてから一時間もしないうちに起こったことになる」


「あの、難しいことは私にはわかりませんが、要は時間を追うごとにゾンビが急速に増えていっているということですよね」


「ええ…いやまあ、そういうことです。


それで?」


勝は一瞬、釈然としない顔付きになったが、次を促した。


「こういった事態が起きた場合、最悪の事態を想定して、なるべく早く行動に移すべきです。


今回の場合、最悪の事態というのは、えー、佐藤教授、のおっしゃったパンデミックという奴がそれにあたるかと思います」


池田は「佐藤教授」と言った時に中津をちらりと伺い、中津はそれでいい、というように頷いていた。


「パンデミックが起こらなければ、勇み足ってだけで済みますが、起こってからでは遅過ぎます。


迷っていても、その時間だけ、遅れをとることになります。


今すぐに逃げる、これにつきます」


「そうおっしゃいましても…


越智さんは逃げられたとのことだが、他の警察の方がそう提案されているのですか?」


「…いえ…実は、これは私の独断です。


警察の方には悪いですが、このことは知らせずに黙ってここを脱出します」


「え?そ、それはどうかと…


うーん、今まで我々を守っていただいたのに…警視庁へは行かないとなると…


ともかく、警察の指示に従わないだけでなく、黙って逃げ出す、というのはどうかと思いますが…」


勝は自分の道徳観と現実の狭間に立たされた思いを吐露した。


「おっしゃいたいことはわかりますが、このまま車に乗って向かったとして、どうなります?


すぐに渋滞に捕まって身動き取れなくなったところを、発症者たちに取り囲まれて…


あとはご想像がつくかと思いますが」


「いや、しかし…」


「私だって、こう見えて元警察の身です。


仲間を騙しているようで、気が引けます。


でも、逆を言えば、彼らの立場がわかる。


こちらの勝手を言って、そうですかと引き下がってくれるはずもない。


説得する時間はありませんし。


それで、従って警視庁に向かったとして、先ほどいったような取り囲まれる状況になれば、使命感から彼らはあなたたち親子を守ろうとするはずです。


そうした場合、彼らの命も危険になるし、最悪、皆共倒れです。


私たちがいなければ、彼らも襲われても逃げるだけで済むんで、生存の可能性が高まります。


越智警部がそうされたように、ここは黙って出ていくのが、互いのためかと」




 池田の説得を、静は時々相槌を打ち、勝は黙って聞いていた。


そして、最後は俯いて首を大きく横に振ったかと思うと、今度は天を見上げて辛そうに唇を真一文字に結ぶ。




「累は…累はどうなるんです?


連れて行ける…」


「いや…それは…」


「――連れては、行けないでしょうな…」


池田が答えるより先に、勝はそれを悟った。


「そんな…」


静は両手で鼻と口を覆って俯く。


「感情的になってはいけないとは言えませんが…」


池田はそこで黙った。


「現実問題、この状況とあの状態の累では無理…」


勝が観念したように、池田の言えなかった言葉を続けた。


「――で、行動とは具体的にどうするんですか?」


「奥様にはお気の毒ですが…先ほど言った通り、とにもかくにも、ここを離れます。


それもなるべく、郊外に向かって、人のいないところです。


先ほどスマホで確認してみましたら、都内の至るところで渋滞が発生しているようなので、これを避けて動きます」


池田は手に持って、さきほど渋滞情報を調べたスマートフォンの画面を突き出した。


リアルタイムの渋滞情報が青く太い線でいたる所に示されている。


「警備会社のセキュリティも契約されているとのことでしたから、ここに隠れて籠城することも考えましたが、こんな状況では何かあっても警備員がかけつけて来るのは遅くなりますし、来れたとしても発症者相手は無理でしょう。


それに、先ほどの野次馬の騒ぎ、実は、佐藤夫妻がこのウィルスを撒いたんじゃないかって言っていた人がいまして…」


「な、何を、バカなことを!」


勝が思いもしなかった池田の話に憤った。


「間違いなく、岡嵜母娘の仕業でしょう。


ネットで嘘の情報を流している。


そして、それを信じて怒りを爆発させた一人が発症してしまった。


こんなことが続けば、発症者よりも先に、暴徒化した連中に襲われるということも有りうる。


とにかく、ここは危険過ぎます。


くどいようですが、三十六計逃げるに如かず、です」


池田は零に襲われた時に思った、数少ない知っている諺を口にした。


「――そうかもしれません…わかりました」


まだ、黙って逃げる、という行為と葛藤していた勝だったが、最後は唸るようにそう言って、決意を固めた。


「という訳で…おい、中津」


その様子を見計らったように言った池田に、中津は黙って持ってきた大きなケースを渡す。


「別にこんな事態が起こると想定してわけではないのですが、この探偵道具の一部がお役に立つかと…」


池田はそう言いながら、ケースを開けた。


中は、大きさ別に小分けされた様々な道具が適度な隙間を保って、整然と収納されいていた。


池田はそこから、細いマイクが飛び出した小さなヘッドフォンのようなものを取り出す。


「これは、インカムといって、双方向型のトランシーバーのようなものです。


理論上は一キロメートル離れても通信が可能で、ちょうど四つあります」


そう言って、耳に付けるふりをする。


「そして、これはただのマグライトに見えるかもしれませんが、充電バッテリー付きのLEDライトです。


スマホにもライトがありますが、スマホは節約モードにして、なるべくこちらを使ってください。


で、これがソーラーパネル付の充電バッテリー、とにかく、電気の確保が大事です。


これらでスマホが何回も充電できます。


ああ、そうそう、スマホはマナーモードにして音が鳴らないようにして。


それから…」


と中身をひとつずつ出して、見せてはしまう。


「これは腕に付けるタイプのプロテクターです」


池田は甲の部分まである黒いプロテクターを取り出し、軽く手にだけはめる。


「こういう仕事をしていると、気の荒い人とトラブルになる場合がたま~にありましてね、それに備えたものです。


我々は探偵と言えども、武器を携行することができませんが、こうした防具なら法に触れることがありません。


それに、防具っていうのは、使いようによっては武器にもなります」


そう言って、殴る動作をした。


「すごいですね」


先ほどまで涙ぐんでいた静が、気を取り直して興味を持った。


「このプロテクターは佐藤教授と静さんが身に付けておいてください。二セットありますので」


「今すぐですか?」


静の問いに


「そうですね、善は急げ、ってことで、上着を脱いで付けてくださいますか」


と池田は佐藤父娘にプロテクターを差し出した。


「いや、そんな大げさな、私は結構…」


「お父さん、池田さんの言うことを聞いて。


さっきのお母さん…見たでしょ?」


静の言葉に累の発症を思い出した勝は、はっとした。


観念したように、荷物を玄関の框に置くと、池田からプロテクターを受け取る。


「これをお貸しいただけるのはいいのですが、あなたたちの分は?」


「私はスクーターのボックスにバイク用のレザープロテクターがありますので、あとで付けようと思いますが…


こいつの分は…ないです」


池田が中津の方は見ないようにして言った。


「私はどうなってもいいと?」


「そんなこと言ったって、しょうがないだろ、数がないんだから。


それにお前、これ嫌がってたじゃないか」


「ええ、結構です。


自力でなんとかしますから」


中津は腕を組み、ふん、と顔を横に向けた。


「じゃあ、私のを片方使ってはどうですか。


私は左利きでして」


「ありがとうございます。


そういうことなら、遠慮なく」


中津はそう言って、勝からプロテクターの片側を受け取った。


「お気遣い、すみません。


では、身に付けながら聞いてください。


これから、いろいろご準備いただくことになります。


まず、脱がれた上着ですが、そうですね、静さんの服…


それは脱いで、なるべく暗い色のものに着替えてください。


できれば黒がいいですが、なければ近い色で。


佐藤教授のは紺色なので、そのままでも結構です。


それから、非常袋はお持ちですか?」


「いや…ええと、確かあったような…」


勝は右腕に付けたプロテクターの位置を調節しながら、静の方を見た。


「お父さん知らないの?


お母さんが毎年九月一日に中身を交換してくれてたのに」


「ああ、そうだったか」


「良かった。じゃあ、それをお持ち願えますか」


池田は静の顔色を伺いながら言った。


「じゃあ、あとで持って来ます」


「お願いします。


で、それとは別に、鞄は今お持ちの手提げではなく、背負えるか、たすき掛けができるタイプのものに変えてください。


それで、中身を入れ替えるのは財布ぐらいにしてもらって、他は下着と靴下を一日分でいいので用意して、ああ、それから雨合羽があれば、なおいいです。


それと、財布とスマホは鞄に入れずに、なるべく内側のポケットに入れて、落とさないように十分気を付けてください。


なるべく、両手を塞がず、身軽なのが大事です。


他の貴重品はこの際、ここに置いておきましょう。


こんなお宅ですから、金庫はありますよね?」


「はい、二階にあります」


静がプロテクターを付けながら言った。


「じゃあ、あとでいいので、持っていけない大事なものはそこに入れておいてください。


準備ができたら、トイレに行っておくことをお忘れなく。


用を足している時にゾンビに襲われるとか想像したくもないでしょう。


それが終わってからで構いませんので、身内にことの事態を連絡してください。


リネ、メール、SNS、なんでも結構ですが、ただ電話はなるべく避けてください。時間をとりますから」


「名古屋のおばあちゃんはネット使っていないんで、電話でもいいですか?」


静が心配そうに訊いた。


「ええ、それはしょうがないですね」


「良かった、おばあちゃん、まだ起きてるといいけど…」




 池田のこまごまとした説明が終わり、二人は荷物を持って二階に上がる。




「よく、あんな説明、すらすら言えましたね」 


中津も付け終わり上着を着ながら、呆れたように言った。


「さっき言ったろ、俺、ゾンビ映画好きなんだって。


もしこうなったらって、妄想してたことがあってな」


「バカな妄想も時には役に立つことがあるんですね」


「バカが余計だよ。


実際は、地震があった時に逃げる算段をしててだなあ、それに肉付けを…あっ」


池田は急に何かを思い出したように言った。


「なんですか?」


「そうだ、お前とこんな”バカな”話をしている暇はない。


俺もプロテクター取ってくる」


池田は扉に近付いた。


「お、これいいじゃん」


中津が見ると、池田が扉の側の傘立てから何かを手に取った。


杖とスキーのストックだ。


「さっき入った時にはさすがに色々あって気付かなかったな。


これ、軽いし、武器にもなる」


池田は慣れた手付きで片手に持ったストックを振ってみせた。


「変なところに目ざといですね」


「また、変なところってのは余計…」




 その時、外が急に騒がしくなった。


奇声、そして、怒声。


池田と中津は顔を見合わせる。


「ちょっと合わせて様子を見てみる、鍵は一旦かけておいてくれ。


あ、そうだ、さっき佐藤教授が奥さん拘束するのにガムテープ持ってきてたろ?


あれ、結果的に使ってなくて、リビングのどこかに置いてあるはずだから、それ持ってきておいてくれ」


池田はストックを傘立てに戻すと、扉の鍵を開けて外に出た。




 外に出ると、すぐに異常な事態に気付いた。


武装した三人が取っ組み合っているのだ。


重装備で引き返してきた警官の一人が発症し、それをもう一人の警官と城が抑え込もうと悪戦苦闘しているところだった。


「があああ!」


「おい、お前、いい加減にしろよ!」


「なんでうちの者までこうなるんだ、まったく!」


不幸中の幸いか、暴れる警官は顔半分を覆うマスクをしたままなので、上手く噛むことができない。


しかも、噛もうとするだけの単調な動きなので、襲われた警官はなんとかそれをしのぐことができていた。


「そいつはもう正気じゃない、早く取り押さえろ!」


松谷の方は、先ほど暴れていた野次馬をやっと取り押さえたのだろう。


門の警官二人と一緒に手錠をかけながら怒鳴っている。


<おいおい、早速予想的中とは言え、マジかよ…


これはいよいようかうかしていられないな。


悪いが、依頼人を優先させてもらうしかない。


ほんとに申し訳ない…>




池田はポケットから鍵を取り出すと、玄関わきに停めていたスクーターの荷台のボックスを開けた。


急いで、中からレザー製のプロテクター一式を取り出す。


バシン!


突然、大きな音がした。


見ると、城が暴れる警官のヘルメットを取り、警棒で頭を殴っている。


池田は恐ろしくなって扉まで戻ると、ヘルメット二つとプロテクターで塞がった手の代わりに扉を足で”ノック”した。


が、扉が開かない。


「おい、中津、中津!」


池田は焦って、今度は肘をドアにぶつけた。


すると、ようやく扉がすぐに開き、池田はするりと中に入る。


「何やってんだよ!いっ…」


一瞬疑った、という言葉はどうにか飲み込む。


「ガムテープを持って来いと言ったのは所長でしょう。


すぐに見つからなかったもので」


中津がガムテープを指でくるくる回してみせた。


「そんなことより、いよいよ、やばいやばい。


武装した警官の一人が発症した」


池田は動揺を抑えるように言った。


「ええ!どうしましょうか?急がないと…」


「わかってるよ。ちょっと、待って。


すぐにこれ付けないと、お前も手伝ってくれ」


池田はプロテクターを少し持ち上げてみせた。


「はいはい、人使いがあらいこと」


中津はガムテープを框に置いていたケースに放り込むと、底の方に何かあるのに気付き、それをごそごそと取り出した。


それは、九十リットルサイズの黒いポリ袋十枚入り一パックだった。


「ところで、こんな物、なんに使うんです?」


「お前に言ったことなかったけ?


それはとっておきの秘策だ」


「秘策?」


首を傾げる中津に池田は片方の口角だけ上げ、にやりと笑った。

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