ブアメードの血

キャーリー

22

 岡嵜零は微笑んでいた。


ラフな白いスウェットの部屋着で、空調のほどよく効いたリビングのソファで寛ぎながら、見ていたタブレット端末を低いガラステーブルの上に置く。


 その画面にはインターネットニュースが表示されていた。


『警察車両とダンプカーが正面衝突、五人死傷』


速報の見出しの後に、ダンプカーの運転手が軽傷、警察車両に乗っていた四人が死亡、という内容の記事が続く。


「帝薬大の学生…恐らく発症したせいね。何もかも思い通り、うっうっうっ」


零から発せられる声は、その容姿に似付かぬものだった。


 短くまとめられた茶髪、色白の肌、彫刻の様に鼻筋は通り、その先にある唇は薄い。


化粧っ気はなくても、銀縁の眼鏡の奥に潜む美貌は、歳を感じさせない。


その声を聞かなければ、齢が五十をとうに過ぎていると気付く者は、まずいないだろう。


中性的な顔に似合わない太い首、細長い筋肉質の手足、引き締まった長身の体は、バレリーナを思わせる。


日頃の鍛錬の賜物だ。




 ここは小高い丘の中腹にある邸宅。


裾野に閑静な住宅街が広がっているが、何本か枝別れたした道を進んだここに住宅があることを知っている住人は少ない。


両親の遺産、遺伝子の編集技術の発明による特許料、前の夫と娘の保険金、それらを足してもまだ追いつかない再婚相手の遺産…


その金にものを言わせ、元あった別荘を解体して、二十年ほど前に建設。


四百坪の敷地は三メートル近くの高い塀で囲まれており、中央奥に二階建ての家屋が建っている。


その敷地の広さにしては、一見、こぢんまりとした小洒落た家だが、一人暮らしにしては持て余すほどの大きさだ。


その下には、さらに二階分の地下室が広がっており、地下一階が研究室、地下二階の半分が"実験動物"の飼育エリア、残りは核シェルターになっていた。


敷地の奥にはさらに、零が”厩舎”と呼ぶ、掩体壕のようなかまぼこ型の建物がある。




 そんな家の大きな鉄製の門が今、光に照らされた。


SUV型の黒い高級車レクスのヘッドライトだ。


門は自動で開いた。


 カチャッ。


リビングの白いドアが開き、入って来たのは一人の若い女だ。


「マリア、お帰りなさい。


久しぶりね、誰にも見られなかった?」


「大丈夫だよ」


「スマホとタブレットのGPSは切って…」


「だから、大丈夫だって」


「夕食は済ませ…」


「まだだけど、すぐ出て行くから、いらないよ」




 いくつか確認が済ませたところで、零は改まった態度をとる。


「ここに来たということは、何かあったということね」


「うん、警察がさっき、映研の部室に来たの。


って言っても、例の角野さんの事件のことで。


適当にあしらっておいたけど。


それからこれが本題、ついに静ちゃんがお兄さんを探しに来た。


大げさに探偵なんか連れて、ふふ」


「あら、そう。


わからないかとも思っていたけど、やっぱり来たのね。


それは想定内ではあるけど、探偵とは想定外…」


「こういう話はリネでしちゃ駄目なんでしょ。だから来た」


「そうそう、どこで警察の網にかかるかわからないから。


でも、警察があなたに会ったのよね…


あの事件と絡めて捜査しているみたいだから、感のいい人間なら気付くかもしれない。


探偵の方が私たちを見つけられるとは思えないけど、そろそろ、始めま…」


「え!やっと始めるの?やったー!


月曜からじゃなかった?」


マリアはのんびりしているようで、零の話が終わる前に被せて言う癖がある。


零は自分の言わんとすることをマリアが瞬時に解釈して、先回りしてしまうからだと、理解していた。




「そう思ってたけど、明日は金曜日、なんとか平日だからいいでしょう。


あの映画を見て、発症したのは、ニュースを見る限り、まだ三件。


観客は…」


「ちょっと待って。三件目って何?」


「ああ、まだ知らないのね。


今日、あなたの大学の神木美香って娘が、母親と警察車両に乗っていて、刑事二人と事故死した…」


「えー、美香ちゃんが。


今日、体調不良で休んでたと思ったら、もうゲームオーバーか、かわいそー」


「それで、観客は二日間で七百人ちょっとだったのよね。


今回の発症率は一パーセント未満の予測とは言え、もう少しあってもおかしくないはず。


狩尾や神木って娘は映画を見て直接発症したのか、発症した誰かから感染させられたのかもわからないけど、ただ、もう様子を見ている時間はない…」


「前にも言ったけど、あれも結局、何も知らずに前の方に座ってて、触られた人だけが反応したんだと思うよ。


やっぱり、そういうきっかけがないと、あくまで映画として見たんじゃあ、よほど想像力が強くて怖がりじゃないと反応しないんだよ、きっと。


美香ちゃんが触られたかどうかは見てなかったから、わかんないけど…


そうそう、誰かが勝手にあの映画盗撮して、ヨウツベにアップしてたんで、削除申請しておいたから」


「お利口さん、えらかったわね…でも、どちらにしろ、もう時間はない、やりましょ…」


「え、もう今、早速?


ね、ボクがアップしてもいい?」


「ええ、お願いします。どのフォルダに入ってるか、わか…?」


「わかってるー」


マリアは二階の部屋に走って行った。


零がその後ろを歩いて追う。





 零の発症確率の見立て通り、まだ発覚していない事件が、他に三件あった。


時系列で辿ると、一件目は学園祭が終わった翌日、映画を見た薬科大学の女子学生が付き合っている男のバイクの後ろに乗っている時に起こった。


後ろから抱きしめた彼氏を文字通り「食べてしまいたい」と思い発症、ヘルメットを被ったまま噛もうとするも、それに気付いた男が暴れて、バイクが転倒。


二人とも、結果的に事故で死亡したことになっており、事件になっていない。




 二件目は、狩尾の後頭部を消火器で殴って殺害した斎場のスタッフ、常松容疑者の発症。


この常松は狩尾に肩を噛まれていたが、留置所で発症したため、事なきを得た。


今は、精神科病院に拘留され、検査を受けている。




 三件目は、学園祭に来て映画を見た地方の女子高生で、つい先ほど自宅での夕食中に起こっていた。


両親と進路のことで揉め、いらついて発症、二人を噛み殺した。


この女子高生は家に留まっており、世間にはまだ判明していない。


 ◇


 零は二階の寝室に入った。


ベッドの側のビンテージ風の机の上にデスクトップ型のパソコンが置いてある。


二つの大きなディスプレイが起動したままになっており、既にマリアが手慣れた手付きでマウスを操っていた。


表示されているのは、他のパソコンを操作するエミュレーター画面だ。


後ろに来た零が満足そうに、その様子を眺める。




「そう、そのフォルダ…


その中の十三個を一時間毎で順番に…


ただ、フランス人を最初に、そう…


と、一つ戻って…


それ、その中の全部は、まとめて同時刻に、最後に回して」


「わかってるって。


あ、これ、ちゃんとクシ通してるよね」




 クシとはプロキシサーバーの俗称で、ログ解析を回避するための迂回先のようなものだ。




「大丈夫。それに感染させた端末をいくつも通るルートにもしてる」


「ママ、なんでも感染させるの得意だもんね」


「まあ、この子ったら」


「でも、万が一、警察にここがばれたとしても、その頃、世界はどうなってるのかな」


マリアはしゃべりながら、ヨウツベに次々と動画をアップしていく。


『№1 Chinese Subject P1.mp4』


『№2 American Subject P1.mp4』


『№3 Arabian Subject P1.mp4』


『№4 Japanese Subject P1.mp4』


『№5 French Subject P1.mp4』


『№6 German Subject P1.mp4』







 「リベリクスにも投稿完了、と。


ここは最後の砦になるかもね」


全ての動画を複数の投稿サイトにアップし終えたマリアが言った。


リベリクスとは表向き、リークサイトだが、実際は生々しい事故や殺人グロテスクな動画の投稿が多い。


言わばなんでもありで、どんな動画でも削除されることがない無法サイトでもある。


ここには、ヨウツベには規約で掲載できないであろう、これまでオメガを発症させた外国人たちの、その後の暴れ回る様子を収めた動画を追加でセットした。


「じゃあ、ボク、行くね。先輩と会う約束してるの」


「大丈夫?動画が投稿されても少しの間は平気だ思うけど、気を付けて。


最後はここに戻って来るのよ」


「ボクを誰だと思ってるの。誰にも負っけないんだから」


「その力はなるべく使わないようにしてって言っているでしょう、反動が…」


「わかってる、じゃあ」


屈託のない笑顔でマリアは言うと、部屋を出て行った。




 零はその様子を見送ると、窓際に近づき、白いチェストの上に置いてあるアクリル製の写真立てを手に取った。


それは、若い頃の零と一人の男、そして赤ん坊の三人が映っている家族写真だった。


「いよいよね、恒、マリヤ…」


写真を見つめながら、零は呟いた。




 窓の向こうでエンジン音がして、車が門を出て行く。




 カウントダウンは始まった。

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