ブアメードの血

キャーリー

 狩尾李華は迷っていた。


目が覚めて、スマートフォンを手に取ると、午前八時半を過ぎていた。


角野和花から彼女の通う大学の学園祭に誘われていた。


急げば、十時の待ち合わせにはどうにか間に合うだろう。


ただ、朝が弱い狩尾には、どうにも体がだるく、気乗りしない。


それに…




<約束は約束だしなあ>


狩尾は自分に言い聞かせるように起き上がると、ふらふらとトイレに向かった。




 結局、狩尾が角野の大学の正門前に着いたのは、約束の時間を過ぎた十時半。


狩尾はショートの髪に、派手目の化粧、コートは羽織っているが、胸元の広く開いた服にホットパンツ。


角野はロングの髪に、地味目の化粧と服、黒いロングパンツ。


対象的な二人だった。


「 もう、遅いー」


待っていた角野は口を尖らせるが、目は笑っている。


「ごめーん、髪、全然まとまらなくて」


嘘の言い訳をして、狩尾は謝った。


「で、遅れて来ておいて悪いんだけど、先になんか食べない?


朝ごはん食べてないから、お腹空いちゃって」


「いいわよ、じゃあ早速バザーに行ってみようよ」




 角野が通っているのは、山の斜面に沿って広がる薬科大学だ。


学園祭は毎年十一月二週目の土日に開催されていた。


角野が入学して、初めての学園祭。


勉強はできても人付き合いの苦手な角野は、幼馴染の狩尾を半ば強引に誘った。


狩尾はそんな角野に悪い気はしない。




 賑わい始めたバザーで一通り腹ごしらえした二人は、学園祭のパンフレットを見ていた。


角野お目当ての声優のステージにはまだ時間がある。


「どうする?ステージ始まるまで席取って待ってる?」


角野が狩尾に聞いた。


「うーん、どうしようか。まだかなり時間あるし」


狩尾は学園祭のパンフレットを見ながら、気のない返事をした。




狩尾にとっては、声優にまるで興味がない。


それがこの学園祭に来るのを迷った理由だった。


<いい男でも探した方がマシなんだけどね…>


内心そう思いながらも、それは言わないでいる。




「じゃあ、これ先に見とく?


あと少しで始まるみたいだし」


角野が切り出したのは、映画研究部の上映会だった。


「恐怖の館…映画館では味わえないこの恐怖、あなたは一人で帰れますか?


って、何これ、ホラー系?


こんなのおもしろいの?」


「うん、映研が作った短編とかで、かなり怖い?みたいな。


評判いいから、ここ三、四年、ずっと同じのやってるらしいの。


他の大学の学祭でも、上映されるようになったほどなんだって。


見るなら絶対一年の時がいいって言われたし。


噂とかでオチがばれると、おもしろくないから」


「言われたって、誰に?」


「ミカって子、ミカは先輩から聞いたって」


「友達できたんじゃん」


「そりゃ、私だって少しくらい話する子もいるわよ。


まあ、学番近いから、たまに話す程度だけど。


とにかく、超怖くて、泣いて飛び出してくるコもいるんだって」


「ふーん、そんなにすごいんなら見てみようか」




<声優のステージを待つくらいなら、こっちの方がまだましか。


きゃーきゃー言ってりゃ、男子がナンパしてくるかもしれないし>




狩尾は、ホラー映画は苦手ではない。


映画全般が好きなので、有名なのは見ることもある。




「じゃ、決定」




二人は上映会場へ向かうことにした。


 二号棟、一階、講義室A。


きつい坂を登った先にある、古い棟だ。


山の斜面を削って建てているため、敷地が狭い分、上に伸びた五階建て。


メイン会場のグラウンドから少し離れただけで、人ごみはすぐになくなった。


「こんな上の方だったの。やっぱ、やめときゃ良かったかな」


ちょっと歩いただけで、狩尾はすぐに愚痴をこぼした。


「もうすぐだから、ほら、あそこ…」


角野の指差す先の建物の出入口に『映画研究部プレゼンツ 人体実験の館』と書いてある赤茶けた看板が見えた。


字体は血が垂れたような装飾で、その文字の下には香取線香に似た螺旋のような模様があり、いかにも、おどろおどろしい。


<タイトルがちょっと違う?>


狩尾は思ったが、口には出さなかった。




 二人は開放されたドアから中に入った。


入ってすぐの狭いエントランスロビーに、折りたたみ机を二台並べた受付。


そこに、白衣を着て、銀縁のメガネをかけ、口にはマスクをした映研の部員が一人立っていた。


医者のコスプレだろう。


その後ろには同じ格好をした部員が二人、パイプ椅子に座り談笑している。




「こんにちはー、お二人ですかー?


お一人三百円いただいております」


立っている白衣の男が、丁寧に声をかけてきた。


「お願いしまーす」


狩尾は上目使いで言った。


<スーツ姿のメガネ男子も好きだけど、白衣も中々ね…>


そう思いながらバッグから財布を出して、入場料を払う。


「ありがとうございます。


もうすぐ、前が終わりますから、あちらの列の後ろにお並びください。


待ってる間に、こちらの裏に書いてある注意事項を読んでおいてくださいね」


白衣の男は二人にチケットを渡して、ロビー奥の廊下に手を向けた。


見ると、ずいぶんと行列ができている。


「何、結構並んでんじゃん」


狩尾が言い、二人は列の後ろに並んだ。




 列の先頭には、廊下を塞ぐように暗幕が取り付けてあった。


その向こうが講義室Aの入口のようだ。


狩尾は待つ間に、もらったチケットをカバンに入れようとして、受付の言葉を思い出した。




【お願い】


・携帯電話・スマートフォンはマナーモードにするか電源をお切りください。


・私語は謹んでください。


・録音・録画はもちろん禁止です。


◎鑑賞後のネタバレは厳禁です。←ここ特に大事




チケットの裏にはそう書いてあった。


<ネタバレ禁止はどの映画にも言えることだけど、ここまで用心深いのは、きっとオチに何かあるタイプね>


狩尾はそう思いながら、チケットを表に反した。


映画のタイトルの後ろに、看板にもあった螺旋模様が印字されている。




 「きゃーっ!」


突然、廊下の奥から悲鳴が聞こえてきた。


二人は顔を見合わせた。


悲鳴は次々聞こえ、しばらく列にはどよめきが続く。


と、暗幕の向こうから、悲鳴と一緒にばたばたと走る音が近付き、女子学生が一人、飛び出して来た。


顔面は蒼白で、暗幕を出たところでへたり込む。


目には涙を浮かべている。


「うわーやばい、怖そう…」


「マジで…」


列がざわつく。


受付の後ろに座っていた白衣の男二人が、その学生の側にかけよった。


両脇を抱えて立ち上がらせ、何か声をかけている。


「何、ガチじゃーん」


狩尾が驚き半分、笑い半分で言うと、


「聞いてた通りね」


と角野が身をすくめた。




 「えー、今日はご来場いただき、本当にありがとうございます。


我々、映画研究部は、学校の創立とほぼ同時にできました。


初めはサークルとしての活動でしたが、先輩たちの努力により…」


キャピっとした声優のような声の女子学生が司会者だった。


少し背が低く、ナースの恰好でマイクを握り、映画の説明をしている。


口元には大き目のマスクをしており、ピンクのスカートは必要以上に短い。




 会場は、二百人ほど座れる席で、半分以上埋まっていた。


狩尾と角野は、部屋の真ん中より少し前辺りの席。


他の入場者は何を遠慮してか、多くが後ろの方に座っている。


講義室のホワイトボードの前には、備え付けの大きなスクリーンが降ろされ、上映を待っていた。




 「…と、皆さんに我々の映画を楽しんでいただくために、今言ったことをしっかり守っていただけたらと、


特に、くれぐれもネタバレ禁止ということで、よろしくお願いします。


それでは、お待たせしました。


上映開始です!」


前口上を言い終えたナースが退いた。


部屋の照明が落とされ、天井に取り付けられているプロジェクターが静かに動き始める。




『人体実験の館』




 黒地に赤い題字が徐々に浮かび上がる。


それがフェードアウトして、次に映し出されたのは、薄明りの灯る暗い部屋だ。


監視カメラの映像のような、画質の良くない部屋の斜め上からの固定アングル。


窓は見えず、壁、床、全て真っ黒だ。


画面奥にうっすらと引き戸らしい扉が見えるが、それも黒。


その部屋の中央にだけ、白く浮かんで見えるものがある。


椅子型の診察台だろうか。


無機質な幅の広い、歯医者にあるようなものだ。


それが、こちら向きに置かれ、誰か座っている。


額付近にチケットにあった螺旋模様が白く印字してある黒い覆いを被され、半袖のくすんだ緑色の検診衣に同じ色のズボン。


体格や覗く腕の太さから、まず男であろう。


直角に曲がった手足は、それぞれ肘、膝まで覆われたベージュ色の細長い箱に入れられている。


いかにも拘束されたという感じだ。




 男は目覚めた様子で、もぞもぞと動き出す。


が、手足は箱で固定され、抜け出せないようだ。


そのうち、頭を大きく振り始めるが、覆いは服に付けられているようで、外れない。




 そのわずかな動きから聞こえてくる音声は荒く、シャーという小さなノイズが混じっている。


そんなところが、素人作りのようで、返ってリアルに感じられた。




「おおぃ…」


男の上げたその声は小さく、覆いのせいでくぐもっている。


「おおぃ」


男は、今度は少し大きい声を出した。


その直後、奥の壁に縦一筋の光が見えたかと思うと、ガラガラと音がした。


引き戸がゆっくり開いた瞬間だった。


引き戸から見える向うは部屋に反して明るいのか、白く光って窺い知れない。


そこから白衣を着たいかにも医者と思しき恰好をした人影が、病院にあるようなワゴンを押して入ってくる。


引き戸は半自動のようで、ゆっくりと勝手に閉じていった。


医者は痩せ形で、頭髪を覆う手術帽を被り、口元には大きなマスク。


僅かに覗いている目元から、少し彫りの深い鼻筋が見え、そこに銀色に見えるフレームの細い眼鏡を乗せている。


受付の部員たちはこの医者の真似をしていたのだろう。


「あなたをこれから拷問します」


医者が男に近づきながら発したのは、酒焼けしたようなかすれた声だった。




<変な声>


李華は思った。




 医者はワゴンを椅子の左側に止めると、顔を男の耳元に近付ける。


「あなたをこれから拷問します」


もう一度、同じことを言った。


止めたワゴンには、銀色のトレイとその中のピンセットのような器具、注射器、薬が入っているような茶色の小瓶が見てとれる。


そして、なぜか、アイロン、棒付のアイスクリームのようなものまで。


医者はその中からアイロンを左手に取り、男の顔の前に近付ける。


「これは焼きごてです。感じるでしょう」


「やめろ!」


男は顔をそむけながら叫んだ。


医者は執拗に動かす男の顔をアイロンで追いかける。


「やめろ、何をするんだ、やめろー!」


男は何度も叫んだ。


医者はアイロンを右手に持ちかえ、半袖の下から覗く男の二の腕に近付ける。


「熱っ!!」


男が一際大きな声を上げた。


「今度は首の後ろです」


医者が痛みで体をよじっている男にまた顔を近付けて言った。


「あまりに熱いと、時には冷たく感じることもあるようですよ」


「やめろ、やめろー、やめてくれぇ、頼むからやめて、なんでこんなことを…」


上ずった声をあげる男の演技力は抜群だ。


体をくねくね動かしながら、医者に必死にやめるよう訴えている。


「今度は長めにいきます。ちょっときついですよ」


医者は男を無視して、今度はアイロンを男の頭の後ろに近付けていく。


「いきますよぉ」


そう言いながら、医者はワゴンに左手を伸ばし、アイスクリームを取る。


そして、男の後ろに完全に回り、そのアイスクリームとアイロンを男の首元に近付けていく。


「ぐぁあああああああ!!!!」


アイロンが当たったかに見えた直後、男が叫び声を上げた。


医者はアイロンを一瞬で離し、アイスクリームの方を首に押し当てているようだ。


男の前方斜め上からの映像なので、本当に当てているのかはわからないが、男は叫び、もがいている。


会場から小さな悲鳴や、どよめきが起こる。


「あなたは合格です」


男の絶叫の後に、医者が言った。


それを聞いた男の動きが少し鈍り、呻きながら顔を医者の声の方に傾ける。


「では、次です」


「あんたは誰だ…なぜこんなことをする…」


「私は医者です。これは実験です。


さて、今度は注射をします。


これはあるウィルスの入った注射です。


あなたは今まで一つくらい、ゾンビの映画を見たことがあるでしょう。


今からする注射はそのゾンビのようになる恐ろしいウィルスです。


ゾンビがどうのような行動をとるか、思い出してみてください」


「ゾンビって…一体何をするんだ?」


「当然ながら映画のようなゾンビそのものにはなりませんよ。


あくまで、わかりやすく説明しただけで、死人が生き返るようなものではありません」




<人体実験ってゾンビの実験っていうこと?>


狩尾はストーリーとタイトルをここで結び付けた。




 医者は椅子の周りをぐるぐる回り始める。


「少し長くなりますが、聞いてくださいぃ、いぃ、


このウィルスは私が長い年月をかけて開発しました。


とても、長い年月をかけて。


さて、あなたはウィルスや細菌などの病原菌がどこから生まれて来ると思いますか。


あぁ、ノロウィルス、エボラ出血熱やエイズ、人間を苦しめる菌はどこからやって来るのか。


ジャングルの奥地の深い沼の底から湧いているのか、洞窟の奥か、それとも、猿などの動物を介して突然変異してできるものなのかぁ。


…私が思うに、ウィルスは、人がつくっているんですよぉ。


もちろん、全てが、とは言いません。


ただ、ウィルスの一部は、人が脳で想像し、体内で製造しているのです。


わかりますかね?」


「なんとなくわかったよ。


つまり、あんたは頭のおかしい医者だってことだろう」


男が言った。


強がりであろう、声は少し震えていた。


「それは否定しませんよぉ、うっうっうっうっ」




 その時、急に映像が切り替わる。


画面全体に、剥き出しの歯に口元を真っ赤な血に染め、目を剥いたグロテスクな女の顔が映し出された。


「きゃあーー!!…ぁぁっ!…」


講義室に女子学生の叫び声と男子学生の驚きの声が混ざって響く。


画面はすぐに元の場面に戻った。


「えー、何これ、こういうドッキリ系?」


驚きを抑えた狩尾は小声で隣の角野に話しかけた。


「そこまでは聞いてないよー、私も」


思いっきり叫び声を上げていた角野は、言わなくてもわかる内容をまだ怯える声で答えた。


「こういうのは、あんま好きじゃないのよねえ」


狩尾が言うも、映画は関係なく進んでいる。




「…絶対に聞こえませんがぁ…」


何が聞こえたのだろう。


狩尾は会話中だったので、なんのことかわからない。




 「ああ、ちょうどいいので、説明を続けます。


あなたにこれから打つウィルスは、今の叫び声の主の製造物なんですよ」




<叫び声、って周りからしてたから、スピーカーからのは聞こえなかったのかな?>


狩尾はよくわからないまま、そう解釈した。




 「まあ、唐突にこんなことを言って理解いただけるとは思っていませんので、二、三、例を挙げましょう」


医者は男の正面で止まった。


「まずは、想像妊娠、というのは聞いたことがありますか。


あれは実際に月経が止まって、お腹もある程度まで大きくなるんですよ。


想像によって皮下脂肪が増える。


これも物理的な作用です。


まあ、実際に子供が産まれたという話は聞きませんがねぇ、ええ。


それから、プラシーボ効果というのはご存知ですよねえ。


あー、睡眠導入剤だと言って偽薬を渡したら、よく眠れるようになったとか、痛み止めと言ったら、痛みがひいたという患者はいくらでもいましたぁ。


調べてみると、睡眠導入剤と称したビタミン剤を飲んだ被験者は、メラトニンのバランスが良くなっている。


痛み止めの方は、明らかに疼痛物質の減少が見られます。


被験者のただの思い込みではないんですよ。


その期待が体内の物質に直接作用してコントロールしているのですぅ」


医者は少し興奮した様子を見せた。


時々、語尾を伸ばして声が上ずる癖があるらしい。


狩尾にはそれが過剰な演技のようで不快に感じる。


医者は続けて、幼稚園児への実験について、さらに遺伝子と意志が影響し合うことについて、懇々と説明していく。


「…あなたの性欲はどうしてあるのですか。どうして、あなたは同性を求めず、異性を求めるのでしょうか。


いくら考えても理論立てた説明はできないでしょう…」




<どうしてって、気持ちいいからよ、理屈じゃないわ>


と、狩尾は心の中で答えた。




 「…私は医者であり、科学者でもあります。


仮説を立てたら証明したくなるじゃあないですかぁ。


しかし、どんな実験で証明すればいいんでしょうかぁ?


動物実験では、”そうぞう”なんていう人間だけに与えられる条件を加えることはできません。


困りますよねぇー、ええ。


それで私は仕方なく、人体実験を試みることにしました」




<で、こいつでそれを確かめるってことか。


しかし、話が長いわね>


狩尾は理屈っぽい医者の話に飽きてきた。




 「…まあ、幸い、私の周りには、あなたのような扱いやすい人たちが大勢いますから、今までどうにか捕まらずにやってこられたのですけどねぇ、ええ」


「扱いやすいってなんだよ」


「あなたはこれからたぶん、世間では夜逃げしたことになるでしょうぅ、うう、体よくいえば、行方不明者扱い、いぃ?


私がそう仕掛けておきましたからねぇ。


全国に行方不明者が毎年何万人いると思いますかぁ、ああ。


あなたのような借金まみれの人間が一人いなくなったとしても、警察は決して動きませんよぉ。


それくらい、わかるでしょうぅ、うっうんっ」


医者は最後にまた咳払いをして説明を終え、ワゴンから注射器を取り上げる。


「あんた、……先生か?」


男が言ったが、名前に雑音が入って、よく聞き取れなかった。


「うん?あなたの近所の病院の?


あれと間違えますか。


ふふ、あれはヤブ医者でろくな奴ではありませんが、こんな真似はしないでしょうねぇー」


語尾を必要以上に上げて医者は答えた。


「話を元に戻します。


今から打つ注射はゾンビのようになるウィルスが入っています。


要は理性や自制心がなくなって、幻覚を見るようになりますぅ、うう、食欲や性欲が怒りと共に暴走して、剥き出しになった状態と言いますかねぇ。


特に女性は男性、男性は女性を襲うようになります。


本来、恋愛対象のはずなんですけどねぇ。


それがどう影響するのか、攻撃対象へと変わります。


それから理性があるうちに憎んでたり、妬んでいたりしていた相手には、特に凶暴になって、相手の顔を喰い千切ることだってありますよぉ。


これはこの数年前、ニュースになりましたから、あなたもご存じじゃありませんかぁ」




<そんなニュース、あったの?


映画の中の設定ということ?>


狩尾はそのニュースを知らなかった。




 「彼は警官まで襲おうとして、射殺されました。


まあ、本当のゾンビじゃありませんから、別に頭を撃ち抜かなくても、普通の人間が死ぬことをすれば、死にますからね。


それでは、さあ行きますよぉ」


医者が男の左腕を掴んだ。


先ほど、アイロンを当てた辺りだ。


「やめろ、頼むからやめてくれ!!」


男が暴れ始めた。


「暴れても無駄ですよ、ほら、腕の芯まで突き刺して、針が折れてもしりませんよ。


ウィルスは体のどこに入っても時間の問題ですから」


「俺が何したって言うんだ、やめろー!」


男は言うことを聞かない。


「わかりました。やめましょう」


医者がそう言ったとたん、男の動きが鈍る。


「サンプルは十分に取れましたし、もういいかとは思ってたんですよ」


男の顔が声のする方に向く。


医者はおもむろに持っていた注射器を男の首に近付ける。


男が少しびくりとした。


医者は注射しているようだが、今回もまた、カメラのアングルで直接は見えない。


「はい、注射は終わりですぅっと。騙してすみませんねぇ。


いやあ、子供相手には良く使う方法なんですけどねぇ。


やめるという、自分にとって都合のいい情報は誰でも信じたくなって、聞く耳を持つんですよぉ。


その隙にちくっ、とやる。


あなた、さっき私が合格と言った時、少し動きが止まりましたよね。


次の私の言葉を待っていたぁ、ああ、私は心理学もかじってましてねぇ…」


男は何も言わず、うなだれている様子だ。


「さて、それではこれより経過観察に移ります。


筋肉注射ですので、効き目、いや失礼、症状が現れるのは早くて五時間後というところでしょうか。


接触感染はすぐに認められるようになりますから、頭の覆いはそのままにしておきますね。


ちょっと、息苦しいでしょうが、まあ、そのうちにそんなことは考えもしなくなるでしょう」


医者はそう言って、佐藤の後ろ側に回り、何やらごそごそやっている。


「本当、大合格です」


医者は作業を終えると、頬の右側を上にゆがめて言った。


ワゴンから溶けかけたアイスクリームを取り、マスクを浮かせて食べている。




「気持ち悪ーい」


狩尾は身震いした。




「それでは、診察は以上です」


医者はそう言い残し、ワゴンを押して部屋を出ていった。


男は部屋に取り残されたままだ。


少しの間、時間が流れた。




<よく考えたら、ずっと一カットよね、あの女の顔が入った以外は。


もう始まって二十分くらい経つかしら?>


狩尾は少し感心した。




 その時、暗い部屋に光が点滅し、一気に明るくなった。


天井の照明が付いたようだ。


すると、男の両手の箱の上部の蓋がなぜか開き、解放された。


遠隔操作で錠が解ける仕組みなのだろうか。


男はそれに気付き、手を顔にやって、必死に覆いを取ろうとする。


が、服に一部が縫い付けられているのか、それが取れないようだ。


男は一旦あきらめたのか、今度は腰に巻いてあるベルトに手をかける。


見えているのかどうか、男は下を向いて慌てた様子だったが、ベルトはあっさりと外れた。


続いて、男は足の箱に手をかけ、留め金を外す。


とうとう、男は自由になった。


男は立ち上がると、急いだ様子で画面奥の黒い引き戸へ走って出て行き、姿が見えなくなった。




 ここで突然、シーンが変わる。


どこかの廊下を進む映像。


「はあ、はあ」


男の息を切る声と、走る音がしている。


走って逃げている男の目線ということか。


手持ちカメラなのか、映像が上下に揺れ、なお廊下を進む。


画質が先ほどと明らかに違って、鮮明だ。




 「この廊下、うちの大学のだね」


角野が小声で言った。


「ああ、なるほど、ここで撮影したんだろうね。


っていうか、これってさっきいたところじゃない?」


映像は狩尾らが先ほどいた廊下の暗幕まで映し、向きを変えて、自分たちがいるであろう講義室のドアの前で止まった。




 急に上映会場の電灯が灯り、一気に明るくなった。


前のドアが開き、今、映像で見ていた男が飛び込んできた。


「きゃーー!!」


「うおー!」


一斉に男女の叫び声が響き渡り、会場は騒然となった。


どういう訳か、黒い覆いを被った同じ格好の男が他に四人、会場の中に次々に入ってきた。


「いやーー!!」


狩尾と角野も叫んだ。


「助けてくれー」


男たちのうちの二人が口々に低い声で言いながら、狩尾たちの座る席を挟むように近付いてくる。


大学の講義室の机は横に長く伸びており、挟まれては逃げることができない構造だ。


両手を前に突き出して進んできた男たちは、頭を抱える二人に襲いかかる。




…といっても、頭や肩をぺたぺた触るだけ。


会場に『盆回り』という曲が流れると、観客はようやく、事態を理解し始めた。


後ろにいた一部の男子学生たちは、けたけた笑っている。




「何これ~、もう~」


狩尾は事態を飲み込んだが、角野の方は、まだ頭を抱えたまま、泣いている。


いつの間にか、映画に出ていた医者の格好をした男たちも数人、入って来ていた。


覆いを被った男たちを連れて、入って来た前のドアから引き上げて行く。




 「さて~、いかがだったでしょうか~?」


後ろにいたナースの司会者がマイクを持って前に出てきた。


「とっても怖かったですね~。


特に前にいたお二人、大丈夫でしたか?」


「最低~」


泣いている角野を慰めていた狩尾は小さい声で言ったが、司会者は聞くか聞かずか、話を続ける。


「でも、もう大丈夫です。


マッドサイエンティストたちがゾンビを連れて行ってくれましたね。


と言っても、あの人たちの方が本当は悪いんですけどね~、うっうっうっ」


ナースは医者の真似をして笑うが、観客の反応は今一つだ。


「さあ、皆さん、驚かして申し訳なかったんですが、最初に言ったネタバレ禁止、これは必ず守ってくださいね。


この次の上映会はもちろん、また来年もやるかもしれませんから、ご協力、お願いいたします~」


ナースは頭を下げた。




 誰からともなく、拍手が起こって広がり、それにつられて狩尾も気のない拍手をする。




「さて、上映会はこれにて終了です。


本日はご来場、誠にありがとうございました。


お忘れ物のないようにお帰りください。


それから、映画はもちろんフィクションでしたが、明日の朝、起きてみたら、皆さんほんとにゾンビになってるかもしれませんよ~。


ゾンビに襲われた方は、お気を付けて~」




 二人は二号棟を後にした。


途中の自販機で、狩尾はコーヒーを、角野は紅茶を買い、それを飲みながら、今度は声優のステージに向う。


「和花、映画のオチは聞いてなかったんだよね?あれはないよねー」


「え?実は知ってたんだけど…」


まだ涙目をこすりながら、和花が答えた。


「え~、それなのにあんなに泣いたの?


まあ、あれはほんと怖かった。迫真の演技ってか、リアルガチ?ふふ、マジやばい。


ってか、知ってたなら教えておいてよ」


「遅れてきた罰って思ってたんだけどね、へへ。


でもね、ほんとのこと言うと、結果的にオチは一緒だったけど、聞いてた内容と違ってたんだ」


「そう言えば、タイトルって、パンフのと違ってなかった?」


「そうだっけ?」


「確か…ちょっと、これ持ってて」


狩尾は缶を角野に預けると、バッグからパンフレットを取り出した。


「ほら、こっちは恐怖の館、でも、会場じゃあ人体実験の館だったじゃん」


「ああ、なるほど、そういうことか。


私が聞いてたのは、幽霊屋敷の話で、スクリーンの後ろから映画の幽霊が飛び込んでくるって話だったんだよ。


テレビのドッキリでありそうな奴。


そしたら、内容が違うから、オチも当然違うって思うじゃない。


あれはほんと、自分もゾンビになっちゃうって、焦っちゃった。


今年からゾンビに変わったんだろうね」


「急に変わったのかな?」


「さあ、それは知らないけど…


もう、ネタバレしてきてるから、そこもあえて観客を騙そうとしたとか…」


角野はそう言って、自分の紅茶を一口飲んだ。


「あ~、ありえる。って、それより、私のコーヒー返して」


「え、じゃあその前に」


角野は狩尾のコーヒーをわざと長めに飲んだ。


「あ、そんなに飲まないでよ~」


「だから、遅れて来た罰だって」


「まだ言う、それ~」




 それは、後に本当の"罰"となった。

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