異世界の愛を金で買え!

野村里志

血闘の末に











 ザシュ、ザシュ、ザシュッ


 互いの爪が肉をえぐり、振り上げた拳が内臓を痛めつける。最早獣と呼ぶにもあまりに恐ろしいその姿は、化け物と言わしめるに十分であった。


「…………」


 二人の決闘を前にして、マトはただ静かにその様子を見守っていた。


(この女……いい女だな)


 佐三はマトを横目で見ながらそう感じた。


 それは別に容姿からくるものではない。その容姿も人を惹き付けるだけの優美さを持ち合わせていたがそれはあくまで内面から来る副産物であった。おそらく今までの経験、そして持ち合わせてきた信念に基づくものであろう。その女性には確かな決意と、男達を邪魔しない分別がある。佐三はそれを称えていた。


「グワァアアア!!」
「グラァアァラアァ!!」


 雄叫びをあげながら、互いの身を削り合う。それは純然たる殺し合いだっただろう。少なくとも相手を生かすつもりなど互いに毛頭なかった。


(こればかりは理屈ではないからな)


 佐三は地面に腰を下ろし、狼たちを見上げる。二つの影は互いに削り合い、血が月明かりを反射していた。


 公正を期すのであれば、アゾフは処罰され今回の件は終了である。基本的に非は完全にアゾフにあり、この点においては疑いの余地は無い。


 だが問題は別にある。それはあの人狼、ベルフは親友を許したがっているのだ。


 彼はかつての村を夢見ていた。変わらぬ世界、いつまでも続いていく日常を。もし事態が許せば、彼はそうしていたかもしれない。


(だが、そうはならなかった……か)


 佐三は大きく息を吐きながら紙とペンを取り出す。書くという作業はいつも自分の頭を整理させてくれる。


 アゾフが人間と手を組んだ代償として、森の多くを失ってしまった。勿論比率としては三割程度なのだろうが、動物たちの生態系のバランスを崩すには十分だったのかもしれない。現に食糧に困り始めたのだから。


 あの人狼達が生きていくためには、少なくともより効率的な食糧の供給方法を見つけなくてはならないだろう。そしてその答えは人間達の技術にある。飼料を育て、家畜を育て、その恩恵にあずかる。それは自然にまかせるよりはるかに効率的だ。


(薄々気付いているんじゃないかな。あの人狼も)


 きっともう自分の居場所がないことに気付いているだろう。自分の所為でもなく、何も自分に非がないのにもかかわらず、理不尽に居場所を失う。それがたまらなく悔しいからその怒りを今ぶつけているのだ。


 理不尽。あまりにも理不尽。佐三はそう思った。


 親友は裏切り、愛した女もとられ、あまつさえ居場所も失った。そして何よりその憤りを相手にぶつけることもできない。そんな自縄自縛の心の内が佐三には痛いほど理解できた。


 この決闘で勝ったとて、何も残らないだろう。親友に勝ったところで、親友を殺すか追放するかしなくてはならない。追放すればきっと思慮深い彼女はついていくだろう。それでは負けたのと変わりない。しかし負ければ自分が出て行くのだ。もし仮に村にいて良いと言われても、そんなプライドを捨てるような真似、男なら人狼でなくても断る。


「これじゃ八方塞がりじゃないか」


 拳をふるうその男は、ただ行き場のない憤りをその拳に乗せつつも、どこか煮え切らない表情をしていた。




















 どれほど拳を交えただろうか。不意に人狼の拳が止まった。


「……もう、止めよう」
「え?」


 拳が止まったことでアゾフは不思議そうな顔をする。完全に拍子抜けであったがそれ以上に目の前の男には闘志が失われていた。


「どうした、ベルフ!俺を恨んでいないのか!」
「もういい。そんなこと」


 アゾフの挑発めいた言葉にもまったく表情が変わらぬまま、更に冷めたトーンで人狼は返答した。


「やっと気付いた。いや、とうに気付いてはいた。俺にとって欲しかったものは別に長としても称号でも、名誉でもないことを」
「だから、何だ!俺はそれ以外の全ても奪ったぞ!」
「もういいんだ。アゾフ」


 人狼は腕を下ろし、完全に戦闘態勢を解いた。


「お前が何を欲しかったのかは知らない。ちょっとした出来心だったのか、それとも積もり積もった恨みがあったのか。いずれにせよもうどうでもいいんだ」
「……どういうことだ?」
「俺はお前と、そしてマトがいる。そんな日常で良かったんだ。それ以上を望んではいなかったのさ」


 人狼は完全に脱力した様子で空を見上げる。かつてと変わらない月が自分を照らしていた。


「だから、もういいんだ」
「ふっ、ふざけるな!」


 アゾフが怒鳴る。


「何故だ、何故俺を責めない!何故俺を殺さない!自らの安いプライドのために、長を裏切り、親友を裏切った俺を!何故殺さないんだ、ベルフ!」
「…………」


 鬼気迫るアゾフの表情に対して、人狼は静かに微笑んでいた。それはきっと一種の諦めであり、同時に認めることでもあった。


(どんなにお題目を並べても、結局自分に嘘なんてつけない。自分自身、村の掟やら誇りやらにこだわっていたのも、結局この場所が居心地よかったからなんだろうな)


 人狼はふと丘を降りた先に二つの人影があるのが見えた。


(マト……それとサゾーか)


 彼女がアゾフと番になったのは、きっと何か事情があったのだろう。彼女も村で一目置かれている存在だ。だからこそアゾフを助ける意味でも、そういうことが必要だったのだ。


 だが自分が戻ってきたからといって、「やっぱりやめます」とはならない。彼女は今更自分の所に戻ってきたりしないし、そんな彼女を好きでいられるかと言われるとそれもまた分からない。


「何もかも上手くいかないな」


 人狼は人間の姿に戻り、外套を羽織る。今丘の下でこちらを見ているあの男、松下佐三にもらった外套である。


それはどこか暖かく、それでいて不思議と勇気をもらえた。


「待て、ベルフ!俺はっ!」


 それ以上の言葉が発せられることはなかった。ベルフの鋭い突きがアゾフの鳩尾に入り、言葉が出なくなったのだ。


「弱いくせに、文句言ってんじゃねえよ」
「カハッ……」
「この一発で許してやる。わざわざ人間の姿で打ったんだ。優しいだろ?」


 そう言うと人狼は丘を下りていく。そして佐三の前で止まった。


「もう良いのか?」
「ああ」
「そうか」


 そう言うと二人は歩き出す。


「ま、待って!」


 堪えられなかったからだろうか。マトが呼び止める。


「ベルフ、私……」
「寄るな!」
「っ……!?」
「俺を捨て、別の男に靡いた女に謝られるほど落ちぶれちゃいねえよ」


 人狼は振り向くこともないまま言う。


「愛している」。その言葉が喉元まででかかったが、それ以上言うことはやめた。


「村の皆に伝えておいてくれ。ベルフは死んだと」
「そんなっ……」
「あと遺言を残しておく。『これからは人間と手を取って暮らせ』」


 佐三は何も言わずに紙とペンを取り出し、人狼に渡す。人狼はひとしきり書いた後、自らが流している血で血紋をつけた。


「ほらよ。皆、血の臭いは覚えているだろ?これで証拠にはなるはずだ」
「…………」


 人狼はそう言うと背を向けて歩き出す。佐三もその隣を歩いて行く。


「ベルフッ!」


 マトの声が聞こえる。「幸せにな」。隣の佐三がかすかに聞こえるぐらいの小さい声でそう呟いた。
































「しかし裸に外套一枚ってのも、なんだか変だな」


 しばらく歩いて森を出た後、佐三が話しかける。既に日が昇っており、草原の緑が気持ちいいほどに映えていた。


「……それもそうか」
「おいおい、だからって脱ぐなよ」


 人狼は外套を脱ぎ、文字通り素っ裸になる。そして大きく吠えて狼の姿へと変身した。


「しかし目の前で見るとまた、不思議な感覚だな」
「恐ろしいか?」
「馬鹿言え。見かけの恐ろしさなんて、人の欲に比べれば可愛いもんさ」


 佐三は皮肉めいた様子でそう言うと、「にしし」と笑ってみせる。この男は冷酷でありながらどこか子供じみたところがある。人狼はそう感じた。


「なあ、サゾー」
「なんだ?」
「マトの代わりが……いると思うか?」


 人狼が尋ねる。その声はどこか弱々しく、そして寂しそうであった。人狼が小さな声で続ける。


「俺は……痛っ!」


 人狼が何かを言いかける前に、佐三がその横っ腹を殴る。


「何する……」
「いるさ」
「っ!?」
「必ずいる」


 佐三は狼の目を見てはっきりと言う。


「どんなにいい女でも、代わりはいる」
「……いるわけがないだろ」
「何故?」
「何故って……」


 それ以上の言葉はでてこなかった。まっすぐこちらを見つめてくるその男の瞳がそれ以上人狼に口を開かせなかった。


「世界を見たわけじゃないんだ。言い切れないだろ?」


 佐三はそう言って笑う。人狼も軽く笑って答える。


「……馬鹿言え。マト以上の女は、世界中どこ探してもいねえよ」
「いーや、いるね。絶対にいる」
「いーや、いないな。アイツが世界最高の女だ」


 ひとしきり言い合った後、二人で笑い出す。巨大な狼と風変わりな商人が笑っているその様子はきっと不思議な光景であったろう。しかしそれを見た人間はこの田舎道にはいなかった。


 佐三が懐から丸めた書類を取り出す。見ると一番上に『雇用契約書』と書いてあった。


「俺と一緒に世界を回り、あの女が世界一か確かめるといい。俺の正しさがわかるはずだ」
「バカな理屈だな。しかしお前の間違いを証明するのは楽しそうだ。だが俺は安くないぞ?」
「安心しろ。ウチは従業員を思いやるホワイトな職場だ」
「……嘘つけ」
「まあ、いずれにせよ行くところがないんだろ。暫定的で良いから契約書読んでサインしとけ……って狼の姿じゃ書けないか」


 佐三はそう言って頭をかく。何事も熱いうちに決めてしまいたい性分なため、後回しにするのはなんとなく嫌であった。


「サインなどいらん。宣約でいい、それが人狼の流儀だ」
「……まあ、今はそれでいいか」


 佐三はそう言って契約書を見せる。しかし人狼は首を振った。


「狼の姿ではあまり視力がよくない。呼んで聞かせろ」
「なっ……バカ犬のくせに面倒だな。そもそも奴隷契約も終わっては……」
「……ベルフ」
「あ?」
「ベルフだ。次、犬と呼んだら契約はなしにする」


 ベルフはそう言って口角を上げる。それは笑顔と呼ぶにはあまりに武骨だが、ベルフにとっては初めての笑い方であった気がした。この男がある意味で特別である。主に悪い意味で。しかし初めて対等に笑えた気もしていた。


 佐三はやれやれといった形で両手の平を見せるような動作をすると、大きく深呼吸をして続ける。


「わかった。よく聞いとけよ、ベルフ」
「ああ」


 そう言うと佐三は契約書の内容を読み上げていく。


「『雇用契約第一項。一つ、イエスマンはいらない………』」





















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