アビシニアンと狡猾狐

篠原皐月

第17話 予行演習

 大晦日の午後、軽めに昼食を済ませた幸恵は台所を片付け、各部屋の窓の戸締まりや各所の不要な電源を落としてから、収納棚からキャリーバッグを引っ張り出した。そしてその中に手早く衣類を詰めながら、この二日連絡を絶っている人物に向かって心の中で悪態を吐いた。


(いつも定期的にメールや電話してきてたのに、話をしようと思った時に限って二日間全く音沙汰無しって、どういう了見なのよあいつはっ!? さり気なく聞き出そうと思ってもできなくて、気になるじゃないの!)
 八つ当たり気味に小物を詰め込みながら、それでも一応、事態の打開策を考える幸恵。
(かと言って、こっちから電話をかけるって言うのも。今までそんな事した事は無いし……)
 そこまで考えた幸恵は両手で頭を抱え、錯乱した様に叫び声を上げた。
「うぁあぁぁっ、腹が立つ! もう、どうしてくれるのよ! このままじゃ心穏やかに、年越しなんてできないじゃないの!!」
 そんな幸恵の叫びに重なって、玄関のチャイムの音が「ピンポ~ン」とやや間抜けに鳴り響いた。


「こんな慌ただしい時に、誰よ? 全く」
 ブツブツと文句を言いながら玄関に向かった幸恵は、覗き穴から慎重に廊下を確認したが、「え!?」と驚きの声を上げて慌ててロックを外してドアを開けた。
「やあ、こんにちは、幸恵さん。今日はあまり冷え込まなくて良かったね」
 今現在幸恵の苛立ちの原因となっている男は、にこやかに来訪の挨拶をしたが、幸恵は顔を引き攣らせて応じた。


「どうして前触れ無しに、いきなり現れるのよ。それに私、そろそろ出かける所なんだけど」
「分かってるよ。だから一緒に行こう。荷物は持ってきたし」
「……は? どこに?」
 和臣が持参したボストンバッグを軽く持ち上げて幸恵に示すと、当惑した幸恵に事の次第を語った。
「荒川の伯父さんの家。この前電話で幸恵さんが『大晦日に実家に帰る』って言うから、『じゃあ俺も正敏さんに誘われてるから、今年は広島に帰らないで一緒にお邪魔しようかな』って言っただろう? そうしたら『一緒に行くなら荷物持ちよ』って快諾してくれたから、伯父さんの家に泊めて貰える様に、電話でお願いしておいんだ。ひょっとして忘れてた? 幸恵さんその電話の時ビールを飲んでるって言ってたし、酔ってる感じだったから」
 飄々とそんな事を言ってのけられ、幸恵は額に手をやって項垂れた。


「……良く覚えてないわ。それに快諾なんかしていないと思うけど?」
「まあ、そう言わずに。まだ荷造りが終わって無いなら手伝うよ?」
 そこで幸恵は、下着などがまだ完全に詰め終わっていない荷物の事を思い出した。
「そんな事良いわよ! それに荷造りって言っても二泊なんだから! ちょっと詰め込んで終わりよ。取り敢えず入って、ちょっと待ってて!」
「分かった。お邪魔します」
 外で待たせるのもどうかと思った幸恵は取り敢えず和臣を中に入れ、自分は寝室に飛び込んだ。そして慌てて荷造りを終わらせる。


(何で、いきなりこんな事態に……。そう言えば確かに缶ビールを飲みながら電話を受けて、何か年末の予定を聞かれた様な気がしないでもないけど……)
 幸恵は(家でもお酒を飲んでいる時は、あいつからの電話に出ないようにしよう)と決意を新たにしながらキャリーバッグのファスナーを閉め、そのままの姿勢で愚痴を零した。
「……最近、迂闊過ぎる事ばっかりだわ」


 それから二人は一緒に電車を乗り継いで幸恵の実家へと向かったが、宣言通り和臣が幸恵のキャリーバッグの上に自分のボストンを置いて引きながら歩いた。流石に荷物を持って貰って知らん振りも出来ず、和臣が振ってくる話題に笑顔で応じながら、幸恵は密かに悩んでいた。
(うぅ……、チャンスと言えばチャンスだけど、さり気なく聞けないわ。真っ正直に聞いたら『そんなに気を遣わなくて良いから』って断られるか、『そんなに気にしてるなら、代わりに俺の頼みを聞いてくれないかな?』とか言って無理難題をふっかけられそうで)
 そんなこんなで並んで座っている和臣の横顔を何となく黙って凝視していると、視線を感じたらしい和臣が幸恵の方に顔を向けて、軽く笑いながら尋ねてきた。


「……幸恵さん、急に黙ってどうかしたかな? 俺って、そんなに見惚れる程良い男?」
 そのどこか照れくさそうな表情に、幸恵は何となく恥ずかしさを覚えて狼狽しながら言い返した。
「ばっ、馬鹿言ってんじゃ無いわよ!? 本当にあんたの実家に帰らなくて良いのかって、考えてただけだから!」
「それは、ちゃんと実家には話をして、了解は貰ってるから大丈夫だよ」
「それなら良いんだけど」
(私的にはあまり良くないけど……。そんな事より、実家と言えば!)
 そこで話を終わらせて前を向いた幸恵だったが、ここで重大な事を思い出し、慌てて再度和臣の方に向き直った。


「ちょっと! お願いだから、実家で例の話をしないでよ!?」
「例の話って?」
 きょとんとした顔になった和臣に、幸恵は和臣の腕を掴みながら訴える。
「この前の誘拐事件の事! 無事解決したし、変に心配かけたくなかったから、実家の方には話して無いの。係長に確認したら、会社の方でも実家に連絡はしていなかったし」
 それを聞いた和臣は、些か気まずそうに頷いて請け負った。


「……ああ、そうだね。分かった。俺としても自分のせいで、幸恵さんを危険な目に合わせたなんて事を伯父さん達に知られたくは無いしね。黙っているよ」
「よろしく」
(はぁ……、疲れるし、落ち着かないわね)
 そして再度椅子に座り直した幸恵だったが、横から「はぁ……」と溜め息を吐いた気配が伝わってきた為、思わず顔を向けた。


「何? 疲れてるの? そう言えば二日間連絡が無かったし、休みじゃ無くて忙しく仕事してたとか?」
「確かに休日返上で仕事をしてたのは確かだけど……、嬉しいな。連絡が無かったから、気にしてくれていたとか?」
 そう言って嬉しそうに表情を緩めた和臣に、幸恵はムキになって言い返した。
「そっ、そんなんじゃないわよ! 一応社会人として、ちょっと心配してあげただけじゃない。自惚れないでくれる!?」
「そんなに力一杯否定しなくても。傷付くな……」
「それはっ……」
 片手で口元を覆って悲しげに呟いた和臣に、咄嗟に次の言葉が出ずに幸恵が口ごもる。しかし彼女の困惑顔を見て、和臣はすぐにいつも通りの飄々とした笑顔になった。


「冗談だよ。それにさっき溜め息を吐いたのは、疲れからじゃなくてちょっと緊張してるからだし」
「緊張? どうして。だって私が知らなかっただけで、実家には君島さんと同様これまで何度も出向いているんでしょう?」
 納得できない上、わけの分からない事を言い出した相手に幸恵は首を捻ったが、和臣は淡々とその理由を説明した。
「それはそうだけど、幸恵さんと一緒に荒川家に出向くのは初めてだし。予行演習になって良いけど」
「予行演習? 何の?」
「所謂『お宅のお嬢さんを下さい』ってやつ」
「なっ!?」
 言葉を失い、口を虚しく開閉させている幸恵に、和臣は満面の笑顔で付け加えた。


「あ、安心して。俺の実家への挨拶の時は、幸恵さんがなるべく緊張しないように、俺が事前に根回ししてできるだけの配慮を」
「年の暮れに、何を馬鹿な事口走ってるのよっ!! ふざけるなぁぁっ!!」
「幸恵さん、電車の中だから。周りの迷惑だから静かにしようね?」
「誰のせいだとっ……」
(全く全く全くぅぅ~っ!! 何を一人で先走って……、いや、そうじゃなくて! そもそも私達、付き合ったりしてないから!)
 勢いのまま和臣のセーターの喉元を掴み上げ、盛大に怒鳴りつけた幸恵を、和臣は苦笑気味に宥めて何とかその場を落ち着かせたが、それから幸恵は微妙な空気を醸し出したまま実家に到着した。


「じゃあ入るわよ?」
「ああ」
 一応和臣に声をかけてから玄関のチャイムを押すと、待ちかねていた様にすぐに戸が開いて香織が顔を出した。
「お帰りなさい幸恵さん。和臣さんもいらっしゃい。待ってたのよ!」
「ただいま」
「お邪魔します」
 上機嫌で二人に道を譲りながら、ここで香織が唐突に告げる。
「うふふ、今日はご馳走よ? 一杯食べてね? 今年は君島さんから沢山頂いちゃったし」
「親父から?」
「君島さんから? 毎年頂いてたの?」
 揃って怪訝な顔になった二人だったが、香織は事も無げに説明した。


「勿論、暮れには毎年頂いてたけど、今年は『愚息が大変ご迷惑おかけしました』のお詫びの言葉と共に、昨日いつもより大量に送って下さって。あ、そうそう、幸恵さん、三日前に誘拐されたんですって!? 本当にびっくりしたわ~。何でも和臣さんの元顧客の逆恨みですって? とんだとばっちりだったわね。酷い怪我とかしなくて何よりだったわ」
「……え?」
「しまった。親父経由で漏れるとは、想定外だった……」
 胸を押さえて安堵してみせた兄嫁に幸恵は顔を引き攣らせ、和臣は思わず片手で顔を覆って呻いた。そんな二人に構わずに、香織が真顔で話を続ける。


「本当に世の中物騒よね。幸恵さんは一人暮らしだし、気をつけなきゃだめよ?」
「……はい、注意します」
「それから和臣さん。今回は無事に済んだけど、今後幸恵さんに危害が及ばない様に、十分に配慮して下さいね?」
「十分留意します……」
 年長者の立場から言い聞かせてきた香織に反論できる筈も無く、二人は素直に頷いた。そして幸恵は一応確認を入れてみる。


「あの、香織さん。それって当然、兄さんや父さんや母さんも……」
「勿論知ってるわよ? 電話を受けたのがお義母さんだもの。さあ、入って入って」
「はい」
「失礼します」
 明るい表情の香織とは裏腹に、幸恵と和臣は気まずい空気を漂わせながら荷物を持って上がり込み、座敷へと進んだ。そして気合いを入れて襖を開けながら、中に居る人間に声をかける。
「戻りました……」
「お邪魔します……」
 二人は叱責の言葉の一つは投げつけられるだろうと身構えていたのだが、予想に反して陽気過ぎる声が返ってきて面食らった。


「おう、幸恵。戻ったか。この生牡蠣と純米大吟醸がムチャクチャ旨いぞ? 目一杯食って飲め! こんな旨いのが飲み食いできるのはお前のおかげだ!」
「父さん……」
「君島さんが『帰宅した時、幸恵さんに食べさせてあげて下さい』って、色々送って下さってね。もうあんな立派などんこや数の子や昆布、滅多にお目にかかれないわよ? 御節料理が助かったわ~。どうせならこれからも年に一回位、誘拐されてくれない?」
「母さん……」
「新巻鮭もイクラも相当なもんだったよな~。どうせ幸恵が和臣さんに迷惑かけて暴れた挙げ句に、巻き込まれたってオチじゃないのか? 君島さんに気を遣わせてしまったみたいで、却って申し訳無いよな~」
「……他に言う事は無いわけ? 兄さん」
「あぁ? 他に何を言えと? 大丈夫だ、お前の食べる分はたっぷりあるから。香織の実家にも配ろうかと、皆で話してた位だし」
「幸恵さん、皆、悪気は無いから。話を聞いた時、何事も無くて良かったなって言ってたし。怒らないでね?」
「……分かりました」
 既に出来上がっているらしい両親と兄の暴言に幸恵は握った拳を震わせたが、妊娠中で酒を控えている為素面の香織が申し訳無さそうに横からとりなしてきた為、取り敢えず怒鳴りつけるのを止めた。それを見た和臣が、疲れた様な表情で幸恵を促す。


「幸恵さん……、取り敢えず中に入ろうか」
「そうね」
(心配させるかと気を配った私が馬鹿だったわ……。香織さんはちゃんと心配してくれたのに、血が繋がった親兄弟の態度がこれってどうなのよ!?)
(うん、やっぱり荒川家の人間は、うちとは違った意味で豪胆な人間の集まりらしいな)
 色々思うところはあったもののそれを面には出さず、幸恵と和臣は香織に促されて大人しく座卓を囲んだのだった。





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