企画推進部二課の平穏な(?)日常

篠原皐月

飲み合わせ

「失礼します」
 襖を開けて室内に入ると、一番近い所に座っていた高須が、座卓に両手を付いて俯いていた。明らかに沈没寸前のその状態に、美幸は抱えたお盆を座卓に置いて座り、父と義兄を軽く睨む。


「もう! こんなになるまで高須さんに飲ませるなんて! お父さんもお義兄さんも、いい加減にして! これ以上は高須さんに飲ませちゃ駄目だって、美子姉さんが言ってたわよ? 後で叱られますからね」
「いや、それは分かったが……」
「美幸ちゃん、それは……」
 幾分きつく言うと対する二人は何か言いかけたが、美幸は弁解は聞かないとばかりに無視して、軽く高須の肩を揺すりつつ声をかけた。


「高須さん、しっかりして下さい。大丈夫ですか? もうお酒は飲まなくて大丈夫ですよ?」
 すると、高須はのろのろと顔を上げ、如何にも安堵した様に僅かに顔を綻ばせる。
「藤宮? そうか……、助かった……」
「そういう訳ですから、酔い覚ましにお好きなだけこれを飲んで下さい。遠慮なさらず、さあ、どうぞ!」
「…………」
 明るくそう言って、持ってきたスポーツ飲料のペットボトルとグラスをドンと高須の前に並べると、室内の空気が凍った。


「……美幸」
「美幸ちゃん、それは」
「え? 何ですか? お義兄さん」
 何やら言いかけた父と義兄の方に顔を向けた美幸だったが、いきなり肩を掴まれて驚いた。
「と、とうのみやっ……、お前だけは、おまえだけは俺の味方だとっ……」
「え!? あ、あの! どうしたんですか? 急に気分でも悪くなりました?」
 振り返ると、高須が滝の様に涙を流しているのを目にした美幸は驚愕したが、更に困惑する事態になった。


「お前っ! 俺に何か恨みでもあるのか!? そりゃあ、時々きつい言い方だったかもしれないが、俺はお前の為を思って必要な指導をしてきたつもりでっ!!」
「分かってます、それは分かってますけど! 一体何がどうしたんですか!?」
「おい! 錯乱するな!」
「高須君! 美幸ちゃんに悪気は無いんだ!」
 殆ど泣き叫びながらガクガクと肩を揺さぶりつつ訴えてきた高須に美幸は狼狽し、昌典と秀明も彼を止めようと腰を浮かせた。しかしその前に酔っているとは思えない素早い動作で、高須がペットボトルに手を伸ばし、美幸が気を利かせて既にキャップを開けておいたそれを掴む。


「そんなに飲ませたきゃあ、飲んでやろうじゃねぇか! こんちくしょうぅぅぅーっ!!」
「え? あの、高須さん!? グラスはっ!」
 そう叫ぶなり唖然とする美幸の前で、高須は500mlペットボトルをラッパ飲みして瞬く間に飲み干した。そして固まっている美幸達の目の前で、勢い良く元の様にお盆に空のボトルを置いてから、畳に両手を付いて低い声で呻く。


「……こ、これで、……文句はねぇ、な?」
「あ、あの……、文句って……、え? 高須さん!? ちょっと、どうしたんですか! しっかりして下さい!」
 俯いたまま凄んだと思ったらいきなり前のめりになり、気を失ったらしい高須が畳に倒れ伏した為、美幸は慌てて声をかけた。すると出遅れた感の秀明が、珍しく狼狽気味に駆け寄って美幸に叫ぶ。


「美幸ちゃん、そこ退いて!」
「は、はいっ!」
「おい! 高須君、大丈夫か!?」
 慌てて横に退いた美幸の前で、秀明が手慣れた様子で高須を仰向けにし、その顔を軽く叩きながら彼の反応を見る。すると昌典も心配そうな顔付きで、側に膝を付いて覗き込んできた。


「どうだ、秀明。指を突っ込んで吐かせた方が良いか?」
「いえ、今の意識が朦朧としている状態では、無理に吐かせると危険です。吐瀉物が気道に入り込んで窒息したり、誤飲性肺炎を引き起こす危険性もあります」
「それなら救急車を呼ぶか?」
「この状態なら経験上、そこまではしなくても良いかと。取り敢えず風呂場に連れて行って、水をかけてでも意識をはっきりさせましょう。トイレにも近いですし。吐かせるにしても、その方が都合が良いです」
「よし、分かった。それじゃあ手を貸す。救急車を呼ぶにしても、ここは奥まっているしな」
「お願いします」
 男二人でさっさと話を纏めると、秀明と昌典は両側から高須の腕を取り、肩を組んでゆっくり移動を始めた。


「ほら、しっかり歩け! 若いのにだらしがないぞ!」
「美幸ちゃん。風呂場にタオルはあるから、新聞紙とボックスティシュを持って来て。それと水を多めに」
「はい! 今すぐ準備します!」
 意識が朦朧としている高須を半ば引きずる様に連れて行く二人に背を向け、動揺のあまり美幸は持って行ったお盆を再び手にしてリビングに向かう。そして言われた物を揃えていると、子供を寝かしつけた美子と、客間の準備を終えた美野がリビングに戻ってきた。


「美幸、何をバタバタしてるの?」
「ねえ、美幸。座敷に誰も居ないんだけど、優治さんはどこ?」
 怪訝な顔の姉二人に問われた美幸は、まだ少し狼狽しながら事情を説明した。
「あ、それが、高須さんが急に意識を失って倒れちゃって。お父さんとお義兄さんが、高須さんをお風呂場の方に連れて行ったの。具合が悪そうなら吐かせるって」
 それを聞いた美野は、忽ち血相を変えた。


「それ本当!? 様子を見てくるわ!」
「あ、じゃあこれと、台所からミネラルウォーターを持って行って!」
「分かったわ!」
 美幸から新聞紙とボックスティシュを受け取った美野は、バタバタと廊下を駆け出して行った。そして美幸は(高須さんの事は心配だけど、傍で騒いでてもお義兄さん達の邪魔だし、片付けの方をしておこうかしら)などと考えていると、無意識に美幸が座敷から持って帰って来たお盆を見た美子が、不思議そうに美幸に問いかけた。


「美幸、どうしてこんな所に空のペットボトルがあるの?」
「あれ? ああ、無意識に持ってきちゃったのね。高須さんの酔い覚ましにと思って、お水の代わりに持って行ったんだけど」
 それを聞いた美子の顔が、傍目にも明らかに強張った。
「……美幸? あなたまさかこれを全部、高須さんに飲ませたの?」
 何やら咎める口調のそれに、何が拙かったのか分からないまま、美幸が慎重に答える。


「飲ませたというか……、何か錯乱して『俺に何か恨みでもあるのか!?』って叫んだと思ったら、自分でボトルを掴んで一気飲みしちゃった直後に、意識を失ったんだけど……」
 そこで美子は疲れた様に溜め息を吐いた。
「秀明さんに、あなた達にお酒の飲み方を教えてくれと頼んだけど、きちんと教えてくれなかったみたいね」
「そんなことないわよ? お酒の種類からカクテルの作り方から、アルコール度数の強弱から、ソフトドリンクとすり替えられそうな危険性のある組み合わせまで、懇切丁寧に教えて貰ったもの。お義兄さんの手ほどきのお陰で、不埒な馬鹿男の毒牙にかかったどころか、かすった事もありません!」
 義兄の指導内容に胸を張った美幸だったが、美子は再度溜め息を吐いてから、真顔で質問を繰り出した。


「美幸。スポーツドリンクって、どういう時に飲むことを想定しているかしら?」
 いきなり問いかけられて戸惑った顔になったものの、美幸が律儀に答える。
「え? それはやっぱり、運動して汗をかいたりして、水分やミネラルを速やかに補給したい時? 体調を崩したりとか、お風呂上りとか、あとは気分?」
「じゃあ、その特徴は?」
「だから……、吸収されやすい様に、調整してある事だと思うけど」
 姉の言わんとする事が良く分からず、思いつくまま口にしていた美幸に対し、美子は冷静に言葉を継いだ。


「そうね。汗をかいた時とかに失われた水分やミネラル・糖分を効率良く、急速に体内に吸収させる為に、体液と同じ浸透圧に調節しているわよね。……それをお酒と一緒に飲んだら、一体どうなるのかしら?」
「……え?」
 そこで漸く、美子の言いたい事がおぼろげに分かってきた美幸は、思わず顔を引き攣らせた。そんな美幸には構わず、美子は淡々と独り言の様に続ける。


「確かにね、アルコールの代謝を進める為に水分は必要だから、二日酔いの時とかに飲むのは有効かもしれないけど。それに飲み始める前に、予め多目に飲んでおく分には問題ないと思うし」
「あの……、ちょっと待って、美子姉さん」
「だけどね……、今まさに血中アルコール濃度が上昇している状態の時に、お酒とほぼ同時にそんな物を飲ませたりしたら、一体どうなるのかしら? どれだけお酒の吸収率が良くなって、アルコールの血中濃度が急上昇する事になるのか、想像できないわ」
「いえ……、わざと飲ませたわけじゃ……」
「高須さん、散々お父さんと秀明さんに苛められた後だったでしょうに、そんな物を目の前に出されて、あなたにとどめを刺された気持ちになったんじゃないかしら? 可哀相に」
「…………」
 そして些かわざとらしく溜め息を吐いた長姉を見て、美幸が無言で冷や汗を流していると、廊下の方から慌ただしく駆けてくる足音がしたと思ったら、勢い良くドアを開けて乱入してきた美野が般若の形相で美幸に駆け寄り、胸倉を掴み上げて盛大に揺さぶりつつ怒鳴りつけた。


「よしゆきぃぃぃーっ!」
「え!? ちょっと待って、何!?」
「あんた何て事してくれたのよっ!! お父さん達から聞いたわよ! 優治さんを殺す気っ!? 普段散々世話になっておきながら、恩を仇で返すとは何事よっ!!」
「悪気は無かったのよ! こっちの方が早く酔いが醒めるかなって」
「優治さん、何とか意識が戻ったけど、『とおのみやがおれをいじめる~』って、お父さんに抱き付いてしくしく泣き出しちゃったのよ!? 心の傷になったらどうしてくれるのよっ!」
「本当にごめんなさい! 高須さんにも謝るから! もう二度としません、誓うから!!」
「謝って済む事だと思ってんの!? 大体あんたは昔から」
「美野、落ち着きなさい。取り敢えず高須さんの命に別状はないんだし」
「別状なんかあってたまりますかっ!!」
 それから藤宮家のリビングでは、美野の泣き喚く声とそれを宥める美幸と美子の声が、暫く入り乱れていたのだった。


 ※※※


「それで、高須さんは大丈夫ですか?」
 一連の話を聞き終えた清人は、軽く手を組みながら淡々と美幸に尋ねた。


「はあ……、何度か吐いた後は、何とか眠れたみたいです。ですが二日酔いの程度が、尋常では無いもので。本人は這ってでも出社すると言い張ったんですが、家族全員で言い聞かせて、今日は無理せずにそのまま私の家で休んで貰う事にしました」
「そうですか。急性アルコール中毒にならなくて、良かったですね。それで高須さんに伝言を頼まれたと?」
 何気なく確認を入れてきた清人に、美幸がボソボソと言い難そうに告げる。 


「いえ……、朝に目を覚ました高須さんに謝ったら『悪気は無かっただろうから良い』と言ってくれたんですが、激怒したすぐ上の姉に『優治さんの体調管理がなってないなんて、職場の人に思われるなんて冗談じゃないわ! 電話で済ませるとか休む旨の連絡だけじゃなくて、きっちりしっかりあんたに非がある事を、二課の皆さんに説明しなさいよね!?』と鬼の様な顔で厳命されたものですから……。99%はお父さんとお義兄さんのせいなのに……」
 最後は小声でブツブツと恨みがましく呟いた美幸に、清人は重々しく頷く。


「そうですか。良く分かりました。ご苦労様です。ですが……」
「……何でしょう」
 思わせぶりに言葉を途切れさせた上司に、美幸が嫌な予感を覚えながら問いかける。すると清人は、薄く笑いながら短く告げた。


「…………意外と鬼ですね」
「……っ!?」
「日々、面倒を見てきた後輩にとどめを刺されるとは、高須さんも何て不憫な」
 含み笑いをしてから、わざとらしく目尻を拭う仕草をする清人に、美幸のこめかみに青筋が浮かび上がる。 


「誰に言われても、あんたにだけは言われたく無いわ! どの面下げて言ってんのよっ!!」
「落ち着け、藤宮!」
「課長代理も、からかわないで下さい!」
「ほら、藤宮! さっさと席に着きなさい、始業時間よ!」
 激昂した美幸が清人に掴みかかろうとしたが、はらはらしながら事の推移を見守っていた二課の面々によって二人は引き離され、何とか表面上は穏やかにその日の業務が開始されたのだった。


(完)







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