企画推進部二課の平穏な(?)日常

篠原皐月

姉達の帰宅

 とある月曜日の朝。いつも通り始業時間に余裕がある時間帯に出社した美幸は、壁際のロッカーに私物を入れて自分の机を軽く整理してから、軽く息を整えて課長席に向かった。
「課長代理、今ちょっと宜しいでしょうか?」
「はい、藤宮さん。何でしょう?」
 自分より早く出社し、始業時間前でも既に何かの書類を精査していたらしい目下の彼女の上司である柏木清人は、何気ない顔で問い返した。その顔を正面から見た美幸は、思わず用意していた内容ではない事を口走る。


「その……、係長から、土曜日にお子さんが無事お生まれになった事を伺いました。おめでとうございます」
「ありがとうございます。それで用件は何でしょうか?」
(くっ……、もう少し子供の話題で引っ張ってくれても……)
 にこやかに続きを促してくる相手に、美幸は底意地の悪さをひしひしと感じた。しかしこのまま言いよどんでいても解決しない事は確かであり、思い切って口を開く。
「その、ですね。本日高須さんは体調不良の為、有給休暇を取得したい旨を言付かりまして……」
 もの凄く言い難そうに本題を切り出すと、既に出勤していた周囲の者達は怪訝な顔を美幸に向けたが、清人は真顔で頷きながら淡々と応じた。


「それは構いません。高須さんの有休残日数は十分ありますし、必要な業務はチェックして他の方に振り分けましょう」
「幸いと言うか何と言うか……、高須さんのお話では、今日は外回りや商談は無かったそうです」
「一応、商談スケジュールの確認はします。……城崎係長。高須さん関連の業務で、急ぐ必要性がある物が存在するかチェックを。必要なら対応をお願いします」
「分かりました」
 清人の呼びかけに応じ、城崎は早速共有のスケジュ-ルファイルを開いてチェックを始めた為、美幸は心の中で(係長! ちょっとはフォローして下さいよ!)と八つ当たりじみた事を考えた。対する城崎も突っ込みどころ満載の美幸の申し出に興味を引かれたが、清人に知られたら色々とからかわれそうな事柄がこの間有った為、沈黙を保つ事にする。
 すると清人は机の上で両手を組みながら、それはそれは楽しそうに美幸に詳細を尋ねてきた。


「それで? どうして高須さんの有休取得申請を、本人からの電話連絡等ではなく、藤宮さんが口頭でしなくてはいけないのか、その理由を是非聞かせて頂きたいのですが?」
 予想通りの流れに(やっぱり……)と美幸は項垂れたが、既に室内中の好奇の視線を一身に浴びている事を自覚した美幸は、誤魔化すのを諦めて正直に話し始めた。
「それは……、すぐ上の姉から、私への罰だと厳命されましたもので……」
「罰とは穏やかではありませんね。高須さんは土曜日のボウリング大会は普通に参加されていた筈ですが、土曜の夜から日曜にかけて一体何が有ったんですか?」
 如何にも白々しくそんな事を言われて、美幸は思わず胡乱気な視線を目の前の男に向ける。


「……義兄あにや係長経由でご存知では無いと?」
「ええ、勿論です。説明して頂けませんか?」
 そこで清人がそれまで以上に楽しげで清々しい笑みを振り撒いた為、美幸はがっくりと項垂れた。
(嘘臭っ! でもやっぱり言わなきゃ、解放して貰えないのよね……)
 そして黙秘権の行使を完全に諦めた美幸は、しぶしぶ自宅で起こった騒動の一部始終を語り始めた。


 ※※※


「……お前と二人きりで過ごすのは、滅多に無い事かもしれんな、美幸」
「そ、そうかもね……」
 日曜の昼下がり。客人を招き入れる広い和室では無く、家族で集う為の庭に面した日当たりの良い洋間で、美幸と父である昌典は向かい合ってソファーに座り、静かにお茶を飲んでいた。
 それは一見和やかに見える光景ではあったが、昨夜末娘が無人の自宅に上司である男を泊めようとした所に遭遇した上、もう1人の娘が連絡を絶ったまま朝帰りならぬ昼を過ぎても帰って来る気配が無いとすれば、昌典の機嫌が悪くなるのは当然である。
 室内に満ちている空気は限りなく重く、朝からずっとこの調子で過ごしてきた美幸は、さすがに神経がすり減っているのを自覚したが、ここで口調だけは穏やかに昌典が促してきた。


「美幸。いつも人一倍賑やかな癖に、今日は妙に静かだな。話したい事が有ったら、何でも遠慮なく喋って良いぞ?」
 そんな事を言われてしまった為、美幸は少々焦りながらも無難な話題を口にした。
「そ、そう? ええっと、ねぇ……。あ、そうだ! 昨日産休中の課長が、無事に出産されたの。元気な双子ちゃんだって! ボウリング大会を観戦中に産気づかれちゃって、びっくりしちゃったわ~」
 心の底から安堵しながら美幸が告げると、さすがに昌典が厳めしい顔付きを和らげて応じる。


「ほう、それは何事も無くて良かったな。美幸の所の課長さんと言えば、秀明が大学時代の後輩と結婚したと言って披露宴にも出ていた筈だし、あいつの話しぶりからすると今でも親交がある様だから、出産祝いを贈るんじゃないか?」
「そうね。美子姉さんは可愛い物好きだから、一緒に嬉々として選びそう」
「そうだな。特に新生児用は、どれも小さくて可愛いからな。男1人ではああいう空間に入って行くのは躊躇うものだし」
「秀明義兄さんだったら、物ともせず入店して吟味しそうだけど?」
「違いない」
 思わず顔を見合わせて笑い合った二人だったが、ここで気が緩んでしまった美幸が口を滑らせてしまった。


「出産祝い、何にしようかな~。ニ課の皆で何か贈る事にしてるんだけど、就職する時にお世話になったから自分もお祝いしたいって美野姉さんが言ってたから、一緒に選びに行く事に……」
「…………」
 この場に居ない美野の名前を口にした途端、父親が綺麗に表情を消し去ったのを見て、美幸は心の中で自分自身を罵倒した。
(ああああたしの馬鹿馬鹿馬鹿ーっ! せっかくお父さんの意識が美野姉さんから逸れてたのに、どうして戻しちゃうのよ!)
 そこで昌典が押し殺した声で美幸に呼びかける。


「……美幸」
「はいっ!」
「まだ美野は連絡を寄越さないんだな?」
「は、はぁ……、メールも留守電も入れたんだけど。あ、ちょっと待って!」
 冷や汗を流しながら弁解しようとした美幸だったが、タイミング良く傍らに置いておいた携帯がメールの着信を知らせてきた為、それに飛び付いた。そして新着メールの送信者を確認し、安堵の為落涙しそうになる。


(高須さんから!? うわぁぁん! 天の助け!! これで気まずい空気とオサラバできるっ!)
 しかし送信内容を確認した美幸は、微妙に顔を強張らせた。
「…………」
「美幸、どうした?」
 無言で固まっている美幸を不審に思った昌典が声をかけると、美幸はぎこちない動きで顔を上げ、画面に表示されている内容を告げた。


「あの、それが……。高須さんが夕方、美野姉さんを家まで送って行くので、お父さんの都合が良ければ是非ともお会いしたいから、私から都合を聞いて欲しいとか何とか……」
「……見せて見ろ」
「はぁ……」
 ピクリと片眉を動かした昌典が低い声で右手を差し出しながら促してきた為、美幸は恐る恐る携帯を差し出した。
(何てタイミング……。美野姉さん達は昨晩からお父さんが帰って来てるのは知らないし、係長を泊めようとして私が大目玉食らった後で、お父さんの機嫌は最悪に近いのに……)
 そして無言で文面を凝視していた昌典は、携帯を美幸に返しながら淡々と告げた。


「私は構わない。お待ちしていますと相手に返信しろ」
「あの、それはまた今度改めてという事にし…………、いえ、分かりました。今すぐ打ちます」
(ごめんなさい高須さん、美野姉さん。後から現状報告のメールを打っておかないと)
 昌典の機嫌が最悪に近い為、控え目に日延べする事を提案してみた美幸だったが、常には見られない昌典の鬼気迫る一睨みで、あっさりと説得を諦めた。そして憂鬱になりながら返信文を打っていると、昌典が尋ねてくる。


「美幸、有る物で夕飯の準備ができるか? 必要なら買い物に行って来い。あと出入りの酒屋に、ビール瓶を1ダース注文しておけ。冷えた奴だぞ?」
「……分かりました。早速準備します」
(1ダース……、もう無事に終わる気がしない……。支度しながら、お父さんに分からない様に高須さんと姉さんに連絡しておかないと)
 立ち上がって部屋を出た美幸は、言い付けられた内容をこなすべく、項垂れながら奥へと歩いて行った。


「ただいま、美幸。お留守番ご苦労様」
 夕刻、玄関の方から物音がした為、小走りに向かうと、長姉の美子が明るく帰宅の挨拶をしてきた。それに笑顔で返しかけて、姉一家の後ろに更に二人が佇んでいるのが目に入る。
「お帰りなさい、美子姉さん! ……と、美野姉さん。いらっしゃい、高須さん」
「……ただいま」
「お邪魔します……」
 お互いに微妙な顔付きで、すぐ上の姉の美野と職場の先輩である高須を出迎えた美幸だったが、家を留守にしていた為事情が分からなかった美子は、不思議そうな顔で尋ねてきた。


「門の所でばったり二人に会って、ご挨拶したのよ。高須さんは、美幸とご一緒の部署にお勤めなのよね? 聞いていなかったけど、今日いらっしゃる事になってたのを美幸が話し忘れていたの?」
「ええと、急遽そういう事になって……。あ、夕飯とかはもう準備を始めてるから、心配しないで」
「ありがとう、美幸」
 以前美野の付き合っている相手として高須の事を調べ、既に知っている筈なのにしらばっくれている美子とそんなやり取りをしていると、秀明が靴を脱いで上がり込みながら、高須にさり気なく問いを発した。


「それで高須さんは、今日はどういった用向きでこちらに来られたのかな?」
 何となく、全てお見通し的な微笑みを浮かべている秀明に顔を向けた高須は、傍目にも緊張しているらしい顔付きで、神妙に申し出る。
「今日は美野さんのお父さんに、是非聞いて頂きたいお話が有りまして。できればお義兄さんにも同席して頂ければ幸いです」
「ちょっと優治さん!」
「良いから黙っててくれ」
「でも!」
 きっぱり言い切った高須に、動揺した様に美野が何か言いかけたが、高須が何やらぼそぼそと小声で言い聞かせる。それを見た長姉夫婦が「ほう?」「あらあら」などと面白そうに顔を見合わせてから、落ち着き払って答えた。


「そうか……。それなら俺も、是非とも聞かせて貰わないとな。美樹、美久、お父さんの荷物を部屋に持って行ってくれないか?」
「分かったわ。任せて」
「おかあさんのも、もってくよ?」
「あら、ありがとう。じゃあ私はお茶の準備でもしましょうか」
 荷物を子供に預けて振り返った秀明は、楽しげに尋ねてきた。


「美幸ちゃん、お義父さんはどこかな?」
「えっと、今は書斎に居る筈ですが……」
「じゃあ呼んできてくれるかな? 俺達は一足先に座敷に行ってるから。じゃあ美野ちゃん、高須さん。行こうか」
「……はい」
「お邪魔します」
(何かもの凄く波乱の予感……。大丈夫かしら?)
 義父とは違ってすこぶる上機嫌な秀明が、美野と高須を従えて座敷に向かって歩いて行くのを見送りながら、美幸は不吉な予感を覚えていたのだった。



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