企画推進部二課の平穏な(?)日常

篠原皐月

仲原理彩の場合

 その日も企画推進部内では、ここ最近常態化した光景が展開されていた。


「蜂谷! これ全員分コピーして配っておいてくれる?」
「はいっ! お任せ下さい! 今すぐやります!」
「仕事早いわね~。助かるわ~」
「あ、蜂谷君悪いけど、手が空いたらこの商品サンプルの仕分け、手伝って貰えない?」
「おう、任せとけ。確かにこれだけあれば、大変だよな。ちゃちゃっと終わらせて、残業しないで帰ろうぜ」
「ありがとう。どう見ても終業時間まで終わらない時間に届いちゃって、困ってたの」
「蜂谷く~ん、ちょっとここのソフトの操作が分からないの。教えて貰えるかしら?」
「そうですね、後からゆっくりお教えしますので、今日の所は俺が全部入力作業しておきますからお任せ下さい!」
「ごめんなさいね? アナログなおばさんで。今度お弁当を作って来てあげるわ」
「蜂谷君、悪いけどこれ、使ってみてくれない? 取引業者が開発した、健康グッズなんだけど」
「何ですか? これ。なんか変にビリビリきますけど?」
「何か微弱な電流を流してるみたいよ? 私も付けてみたんだけど、ちょっと合わないみたいだから、暫く付けてて感想を聞かせてね?」


 室内で飛び交う会話の内容を、他の者達は半ば意識的に聞こえないふりをして自分の仕事に没頭しており、柏木課長代理によって蜂谷が人格改造されて以降の、自分以外の女性社員の蜂谷のこき使いっぷりに、理彩は密かに頭を抱えていた。


(何か駄目……、ちょっとこの空気、どうにかして欲しいんだけど。どうして私以外の女性が皆、嬉々として蜂谷君をこき使ってるのよ。そして蜂谷も、嬉々として従うな!)
 そして理彩がディスプレイを睨みつつ、蜂谷に対して八つ当たりじみた事を考えていた時、至近距離から声をかけられた。


「……仲原さん」
「ふえっ!? あ、はい、な、何かしら? 蜂谷君?」
 慌てて声のした方を見上げると、書類の束を抱えた蜂谷が、手元から一部を抜き出して理彩に差し出した。


「明日の会議の資料です。どうぞ」
「あ、ありがとう……」
 素直に受け取った理彩だったが、ここで蜂谷はすぐに立ち去らずに、物言いたげな顔で理彩の顔を見下ろしてきた。当然それに気付かない理彩ではなく、怪訝な顔で相手を見上げる。


「蜂谷君、何か他に用事でもあるの?」
「あの……、仲原さん。ちょっとお聞きして宜しいでしょうか?」
「ええと、……はい。何かしら?」
「仲原さんは、俺の事がお気に召しませんか?」
「……は?」
 どこか切羽詰った表情で始まった会話に、理彩は一瞬思考が停止し、周囲の者達も思わず手の動きを止めて二人に目を向けた。そんな周りの戸惑いなど全く意に介せず、蜂谷は切々と理彩に訴える。


「仲原さんは、殆ど俺に仕事を言いつけてくれませんし」
「え、あの、ちょっと」
「何か仲原さんが生理的に受け付けられないような欠点が俺に有るんじゃないかと、毎夜気になって夜も眠れず」
「ちょ、ちょっと待って! お願いだから落ち着いて! 別に生理的に受け付けられないとかじゃなくて、ただ単にお願いする様な仕事がないだけで!」
「そんなに俺は頼りないでしょうか? 言いつけられる仕事が皆無だなんてっ……」
「あの、そうじゃなくてね」
 顔を引き攣らせて弁解しようとした理彩の背後を、書類を抱えた美幸が通り過ぎながら茶化す様に呟いていく。


「頼りないんじゃないの~?」
「……っ」
「ちょっと藤宮! 横から煽らないで!」
 途端に涙目になって哀願の眼差しで自分を見下ろしてきた蜂谷に、理彩は完璧に頭痛がしてきた。


(ちょっと! なんでそんな捨てられた子犬の様な目で、上から見下ろしてくるのよ!? 何? 悪いのは私? 私なの? だって私、むやみやたらに仕事を押し付けたりしないで、常識的な範囲で接してる筈なんだけど!?)
 そんな理彩の前で、蜂谷が手の甲で目尻を拭いながら、涙声で訴える。


「俺は、世の中の全ての、女性のお役に立ちたいんです……。それにはまず、同じ職場の女性のお役に立たなくては」
「ええと……、十分役に立ってると思うわよ?」
「でも仲原さんが、全然指名してくれません……」
「指名って……、あのね、ここは接客業のフロアじゃ無いんだから」
 冷や汗を流しながら(どう言ったら納得してくれるわけ!?)と心の中で悲鳴を上げた理彩だったが、ここで少し離れた机から、蜂谷を呼ぶ声が聞こえた。


「あ~、その、蜂谷? 話の最中悪いんだけど、この納品データの分析をやってくれたら、助かるんだが……」
 その声に、忽ち顔を輝かせた蜂谷が顔を上げ、声をかけてきた瀬上に向かって満面の笑みで応じた。


「はい、瀬上さん、お任せ下さい! 何でもやります!」
「……うん、宜しく。やり方は今、説明するから」
「それでは仲原さん、失礼します」
「……どうも」
(た、助かった……。どうして仕事を押し付けないからって、哀れっぽい眼差しで半ば責められなくちゃいけないのよ……。何かが激しく間違ってるわ……)
 取り敢えず纏わり付かれるのを回避できた理彩は無言で項垂れ、それを見た周囲の男性社員達は、気の毒そうな視線を送った。


「お疲れ。今日は随分ぐったりしているな」
 退社時、瀬上と一緒に居酒屋の暖簾をくぐった理彩は、注文もそこそこに頬杖を付いて溜め息を吐いた。その理由は分かっていた瀬上が、向かい側から気遣わしげに声をかけると、理彩が思わず愚痴を零す。


「……仕事中に、面と向かって『俺の事がお気に召しませんか?』と言われた日にはね。何か理不尽だわ。普通に接しているだけなのに」
 そう言って中ジョッキを煽った理彩を見て、瀬上は一応提案らしき事を口にしてみた。


「ええと……、いっその事開き直って、他の女性陣と同様、蜂谷の事を些細な事でこき使うとか?」
「無理」
「だよなぁ……、理彩の性格だと。というか藤宮さんはともかく、田辺さんや大岡さんや渡部さんまで、あそこまで蜂谷を顎でこき使う様になるとは思わなかった。つくづく女性って予測不能だ」
「課長代理も、なんであんな風に極端に性格改造したんだか。勘弁してよ」
 しみじみした口調で瀬上が呟くと、蜂谷をこき使う事について割り切れない理沙が、テーブルに突っ伏して呻いた。すると瀬上が思い出した様に、自分の鞄を開けて中を漁り始める。


「あ、課長代理と言えば、俺今日、課長代理から個人的に、理彩に預かって来た物があるんだ」
「個人的って何? もの凄く嫌な予感しかしないんだけど?」
 反射的に顔を上げ、胡乱な顔を向けてきた理彩に、瀬上は困った表情で説明する。


「俺もそれは思ったし、第一どうして俺経由なのか尋ねたら、『仲原さんと付き合ってますよね? まあ、メッセンジャーが嫌なら私から直接渡しますが、どうしますか?』と含み笑いで言われたから、その場で素直に受け取って来た」
「……うん、ありがとう。流石に得体のしれない物を、あの人から直接受け取る勇気は無いわ」
 胡散臭すぎる課長代理の表情をばっちり想像してしまった理彩は、うんざりしながら瀬上に礼を述べた。それに小さく肩を竦めてから、瀬上は緑色のビニールの手提げ袋に入った、四角い物を差し出す。


「えっと、これなんだが」
 それを眺めた理彩は、率直な感想を述べた。
「何か本っぽいけど?」
「持った感じもそうなんだよな。開けてみるか?」
「お願い」
 そしてガサガサと微かな音を立てて、瀬上が慎重に中から取り出した物を見て、二人は無意識に呟いた。


「どう見ても本だな」
「本以外の何物でもないわね」
 そして理彩は無言で瀬上から受け取った《愛犬のしつけ方》とタイトルが付いている本を眺め、付箋が付いているのを発見した。そして何気なくそこを開いてみると《愛犬との信頼関係が築ける褒め方》とのタイトルの章が現れ、それを眺めてから瀬上に視線を合わせ、一応問いかけてみる。


「何? まさかこれを、私に読めと言っているわけ?」
 その問いかけに、瀬上は明らかに理彩から視線を逸らしながら、同意を示した。


「……そうだろうな」
「それで蜂谷への対応の、参考にしろとか?」
「…………多分」
「職場がっ、益々訳が分からない空間に……。柏木課長、早く復帰して下さいぃ」
 そうして開いた本の上に突っ伏して悲哀を訴え始めた恋人の頭を、瀬上は気の毒そうな表情で暫く撫で続けたのだった。


 そんな事があってから数日後。
 その日も朝から女性陣の細々とした用事を言いつかって、コマネズミの様に働いていた蜂谷に、理彩が意を決して声をかけた。


「蜂谷君、お願いしたい事があるんだけど、ちょっと良いかしら?」
「はい! 今行きます!」
(ええと……、課題行動を躾ける事と、問題行動の躾け直しが必要、と)
 声をかけた途端、弾かれた様に立ち上がって嬉々としてやって来た蜂谷を見て、理彩は溜め息を吐いた。そして気合を入れ直して彼を迎える。


「何でしょうか、仲原さん!!」
「蜂谷君、こちらから呼んでおいてなんだけど、今は村上さんから言いつかった顧客リストの整理をしている所だったのよね? その仕事を放り出して、ここに来て良いと思ってるの?」
「あ、いえ、それはそうですが、仲原さんの用事が済めばすぐに再開しますので……」
 尻尾が有るなら千切れんばかりに振り回しているであろうテンションでやってきた蜂谷だったが、理彩は冷静に現状を指摘した。それに相手が怯んだのを見て取って、更に畳み掛ける。


「フェミニストを気取るのは結構ですが、それは却って職場内の女性社員と男性社員の軋轢を生むことになりかねないわ。現に村上さんだって、自分が頼んだ仕事を蔑にされて、私に対していい気分じゃないでしょう」
「いや、別に私は気にしてはいないが」
「気分悪いですよね?」
「……はい」
 村上が自分の席から取り成してきたが、理彩からの(何か文句有るんですか?)的な一瞥を食らって、早々に引っ込んだ。そして理彩が蜂谷に向かって、重々しく告げる。


「この様に、仕事を手伝ってくれるのはありがたいですが、何でもかんでも女性に呼びつけられたら飛び付く態度は改めて下さい。やらなければいけない事の優先順位を、きちんと見極める事。分かりましたか?」
「……はい。重々気を付けます」
「それでは村上さんから頼まれた仕事の後で良いので、この覚書の清書をお願いします」
「分かりました。少々お待ち下さい」
 やって来た時とは雲泥の差で、受け取った書類を手にしつつ萎れて自分の席に戻って行った蜂谷に、室内の殆どの者が同情の眼差しを送った。その一部始終を隣で見ていた美幸が、驚いた表情で理彩に囁いてくる。


「仲原さん、何なんですか? いきなり」
「あんた達が容赦なく蜂谷君をこき使ってるからでしょうが」
「そんな事言われても……、嬉々としてすり寄って来ますから」
「限度って物を考えなさい!」
 小声で美幸を叱り付けつつ、理彩はその日も理不尽な思いを抱えつつ業務に励む事になった。
 そして終業時間間際になって、蜂谷が理彩の元にやってきた。


「あの、仲原さん……、午前中に頼まれていた文書の清書ができました」
「ああ、ご苦労様。ありがとう、助かったわ」
「それで……、差し出がましいとは思いましたが、誤字と計算ミスと思われる箇所がありまして、そこに付箋を付けて訂正して打ってありますので、仲原さんにチェックして貰いたいのですが……」
「え?」
 恐る恐る蜂谷が口にした内容に、理彩は一瞬きょとんとしてから、慌てて原本に目を落とした。すると確かに付箋が付けてあった三ヶ所をミスしていた事が分かり、自分らしくないそれに溜め息を吐く。


(本当だわ、うっかりしてた……)
 そして自分の前で直立不動で理彩の次の言葉を待っているらしい蜂谷を見上げて、思わず笑い出したいのを堪えた。


(先輩のミスを指摘したからって、そんなにビクビクしなくても……。犬の褒め方の基本は、声がけ・なでる・ごほうび、と。うん、ここは無条件に褒めてあげる所なんでしょうね)
 そんな事を考えた理彩は真面目な顔を装いながら蜂谷を手招きした。


「蜂谷君、ちょっと」
「はい。なんでしょうか?」
 思わず上半身をかがめてお伺いを立てた蜂谷の頭を、理彩が手を伸ばして撫で始める。


「良くできました。先輩の仕事だからって遠慮して、ミスを指摘しないで済まそうなんてしちゃ駄目なんですからね?」
「仲原さん……」
 周囲の者達が驚いた視線を向ける中、理彩は机の引き出しにストックしておいた、個包装のクッキーを取り出して蜂谷に手渡しながら告げる。


「はい、ご褒美。これからも頑張ってね?」
「はい! 頑張ります! ありがとうございます!」
 そして感極まった様子でクッキーを押し頂きつつ「失礼します」と断りを入れてその場を後にした蜂谷を後ろ姿を見ながら、理彩は思わず(あら、ちょっと可愛いじゃない)と思ってしまった。
 そんなやり取りの一部始終を課長席の前で見てしまった城崎は、目の前に座っている男が笑いを堪えているのを見て、眉間に皺を寄せつつ声を潜めて尋ねた。


「課長代理……、また何か蜂谷にしたんですか?」
「直接にはしてないぞ? キャラ設定はしてやったが」
「……何ですかそれは?」
 最近の蜂谷の女性社員への従属ぶりに、何となく異常を感じ始めていた城崎が疑惑の眼差しを目の前の仮初めの上司に送ると、清人は飄々と言ってのけた。


「あいつにとって、真澄は不動の女神様だと刷り込んでやったが、あんまり真澄べったりだと他の女性陣から顰蹙を買うと思ってな」
「本当にあんたって人は、課長至上主義ですよね……」
「因みに『田辺さんは祖母、大岡さんは伯母、仲原さんは母親、藤宮さんは姉、渡部さんは妹のつもりで接する様に』と厳命しただけだ。頭がスカスカだと、何でもすぐに詰め込めて楽しいな」
「今の……、くれぐれも当人達に向かって公言しないで下さい。流血沙汰になりかねません」
 頭痛を覚え始めた城崎だったが、清人は更にそれを増長させる様な事を口にした。


「ここの女性陣は皆自己主張が強いタイプで、容赦なくあいつをこき使っていたが、仲原さんが母性本能に目覚めた様だから、今後は大丈夫だろう。周囲からの理不尽な要求からは庇いつつ、程良くこき使っていく筈だ。蜂谷は基本的にマザコンだしな。真澄が戻るまで、あいつと周囲の手綱を上手く取ってくれるだろうさ」
「要は、課長が戻るまでの職場環境の保持と、使える下僕の調教と言うわけですか……」
「何か言いたい事でも?」
「……いえ、失礼します」
 そんなやり取りがあった事など、当人達以外は誰も知る者は居らず、企画推進部は今日も一見平和そのものだった。


(完)



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