企画推進部二課の平穏な(?)日常

篠原皐月

あらぬ疑惑

 仕事中、課長代理から声をかけられた美幸は、内心の溜め息を押し隠しつつ立ち上がり、いつもの表情を取り繕いながら課長席に歩み寄った。そしてその席に座って仕事をしている課長代理に、「お呼びでしょうか」と冷静に声をかける。
 すると相手は静かに顔を上げ、以前に美幸が提出していた書類を差し出しながら、淡々と説明してきた。


「藤宮さん。この高科繊維の不織布を売り込む予定の会社ですが、ここには既に競合社の類似品が納入されています。それを覆すのは難しいですし、この不織布の特性を本当に活かすつもりなら、新たな販路を探った方が良いのでは無いでしょうか?」
「はぁ……」
 書類を受け取りながら美幸が不満げな表情をすると、彼は更に言い聞かせてくる。
「これまでは高科繊維の商品納入先は衣類メーカーに限定されていましたが、この強度と均一性を特性として売り込むなら、医療用基材、インテリア用品、手工業品素材としても使用できる可能性はある筈です。先方の開発担当者と、再度売り込み先の検討をお願いします」
「……分かりました」
 確かに従来の販路では大幅な需要増加は見込めないと思っていた矢先であり、美幸は書類片手に大人しく引き下がった。そして自分の席に戻るなり参考になるデータを探し始めたが、その合間に窓際に座る男をこっそりと横目で見やる。


(くうっ……、何か笑顔が胡散臭くてどこかいけ好かない奴だけど、仕事はできるのよね。有り得ない事に。本当に作家なんてやってたのかしら?)
 忌々しげにそんな事を考えつつ、美幸はふと手を止めて考え込んだ。


(でも……、何かどこかで会った様な気がするのよね。いつだったかな? 学生時代ではないと思うんだけど……。そうすると就職して、皆さんに付いて外回りに行った時とかかしら?)
 そこで美幸の記憶は、一年ほど前に遡った。


 ※※※


「藤宮さん! 明日、明後日の予定は何かあるかな!?」
「城崎係長?」
 仕事を終え、自社ビルから出て来た所を、もの凄い勢いで追い縋られて肩を掴まれた美幸は、息を切らした直属の上司を胡乱気な視線で見上げた。対する城崎はそんな視線には全く構わず、焦り気味に確認を入れてくる。
「まさかとは思うが二日の間、一人でどこかに出掛ける予定とかは無いよな!?」
 その切羽詰まった感の問い掛けに(何事?)と思ったものの、別に隠す必要は無いかと思った美幸は、週末の予定を正直に口にした。


「……いえ、明日は高校時代の友人と、共通の友人の結婚祝いを探しながら食事もして、旧交を温めようと思っていましたし、明後日は同居している姪の誕生日パーティーなので、一日家に居りますが」
 それを聞いた城崎は途端に安堵した様に大きく息を吐き出し、「悪い」と謝りながら美幸の肩を掴んでいた両手を離して言葉を継いだ。
「そうか。それなら良いんだ。本当に良かった。心ゆくまで買い物を楽しんでくれ。それじゃあお疲れ様」
「お疲れ様でした」
 美幸が素直に頭を下げると、城崎は何やら「高須にもゴムの蜘蛛程度だったし……、流石にあの人も、女性相手にそうそう無茶な事は……」などとわけが分からない事を呟きながら、残業をする為か再び社内に戻って行った。それを見送って、美幸は一人首を捻る。


(何? 一瞬誘われたのかと思ったんだけど、予定があるって言ったら露骨に喜んでたし、違うよね? それならどうして予定なんか聞いてきたのかしら?)
 しかし考えてみてもしっくりくる理由が思い浮かばず、美幸は早々に考える事を放棄した。
「まあ、いいわ。やっぱり二課って、課長を初めとして、一筋縄ではいかない人間ばかりなのね。これから頑張らないと」
 そんな風に配属されたばかりの部署を、奇人変人の巣窟如き物言いをしてから、美幸は何事も無かったかの様に家路を辿ったのだった。


 明けて土曜日。
 当初の予定とは異なり、昼に近い時間帯、美幸は一人で雑踏の中を歩いていた。
「全くぅ~、香苗ったら! 幾ら遠距離恋愛の彼氏が急に東京に来たからって、約束をすっぽかす事は無いんじゃない!?」
 憤然としながら広い歩道を歩いている美幸は、ひたすら今日待ち合わせていた友人に対する文句と愚痴を零していた。
「まあ、他人の恋路を邪魔して馬に蹴られたくはないから、百歩譲って約束を反故にした事は仕方がないとしてもよ? 彼氏が昨日の夜帰って来たのなら、今朝までに幾らでも連絡できたでしょうが!」
 怒りを隠そうともせず前方を睨みつけている為、美幸とすれ違う人物は揃って恐れをなして両脇によけて歩いていたが、美幸はそんな事には気が付かないまま歩き続けた。


「待ち合わせ時間を過ぎても音沙汰無しで、電話をかけてみたら『連絡忘れてたわ、ごめんね~』の一言で済ますか!?」
 そんな事を怒り心頭で吐き捨ててから、美幸はピタリと足を止め、がっくりと項垂れる。
「……もう友達付き合い、止めようかな? 本当に男が絡むと、女の友情なんて脆いものね……って、きゃっ! な、何っ!?」
 いきなり背後から誰かが抱き付く様にぶつかって来た為、美幸は体勢を崩しながら背後を振り返った。すると美幸のすぐ目の前で、クセのないロングヘアーの二十代後半と見られる女性が、胸元を押さえる様にして崩れ落ちる様に歩道に座り込む。


「……っ、す、すみませ……、んっ」
「え? ちょっとあなた! どうされたんですか?」
(あら、美人。でも顔色が悪いし、額に変に汗をかいてるし……)
 慌てて声をかけながらも女性の様子を観察し、急病人かと思った美幸は、携帯をバッグから取り出しつつ再度声をかけた。


「大丈夫ですか? どこか具合が悪いんですか?」
「ちょっと持病が……、急に悪化した、らしく、て……」
「救急車を呼びますか?」
「いえ、近くに停めてある……、車内、に……、薬が……」
 そう言ってよろめきながら何とか立ち上がった女性の腕を取り、その体を横から支えながら美幸が申し出た。
「それを飲めば大丈夫なんですね? 危ないのでそこまでお付き合いします」
「ありがとう……、ござい、ます」
(胸が苦しそうって事は、息苦しさは喘鳴は無そうだし喘息とかじゃなくて、心疾患関係?
 本当に薬を飲むだけで大丈夫かしら?)
 美幸は不安に思いつつも女性と連れ立って歩き出し、心配そうに足を止めて様子を窺っていた周囲の者達も、それを見て安心した様に目的地へ向けて歩き出した。
 そして歩き出してすぐ角を曲がって路地に入り、一分もしない所で女性が「ここ、です」とコインパーキングを指差した為、美幸は心底安堵した。そして女性の目線を追って、奥の方の駐車スペースに停めてあるレクサス・LSかと見当を付けて、そこまで連れて行く。


「えっと、これですか?」
「は、い。助手席の、背中側のポケットに……、ピルケースが……」
 そこでバッグからキーを取り出した所で、如何にも辛そうにアスファルトに膝を付いた女性を見て、反射的に美幸がその手からキーを取り上げる。
「分かりました、私が取りますから、ちょっとお借りしますね?」
 そう断りを入れてロックを解除し、勢い良くドアを開けた美幸は、(この人が乗るには随分ゴツイ感じの車よね)などと埒もない事を考えつつ、軽く身を乗り出して手前にある助手席の背後のポケットに目をやった。


「えっと……、ああ、これね? って! ちょっと、何っ!?」
 ピルケースに手を延ばしかけた時、いきなり背後から力一杯突き飛ばされ、後部座席に転がった美幸は、ドアが閉まる音が聞こえたと思ったら肩を掴まれ、半ば強引に仰向けの体勢にさせられた。
「ありがとう。優しいのね、あなた。顔も可愛いし、益々好み」
 そんな台詞を美幸の身体を覆う様な四つん這いの体勢で、先程までとは打って変わった笑顔で見下ろされながら言われた事に、美幸の顔が盛大に引き攣った。


「あの……、病気じゃ無かったんですか?」
「あら病気よ? あなたに狂ってるの」
「……サヨウデゴザイマスカ」
 嫣然と微笑まれながら告げられた言葉に、美幸は思わず遠い目をしながら棒読み口調で応じた。すると先程まで消え入りそうな雰囲気を醸し出していた女は、嫣然とした笑みを浮かべながら美幸の顔に右手を伸ばしてくる。


「やっと二人きりになれたわ。私の事、もっと知りたくない?」
 すると、美幸もにこりと人好きのする様な笑顔を浮かべた。
「そうですね。私もあなたの事、ほんのちょっと知りたいです」
「あら、嬉しい。それじゃあ遠慮無く」
「ええ。遠慮無く……くたばれ女狐!!」
 女が美幸の顔に自分の顔をゆっくり近付けてきたその時、美幸は隙を突いて拳を力一杯相手の喉に叩き込んだ。


「ぐっ……、ぐはっ」
 流石に喉を抑えて身体を丸めた女の横をすり抜け、ドアのロックを外して全開にさせた美幸は、躊躇う事無く女の肩を外に向かって突き飛ばし、とどめとばかりに脇腹を力一杯足で蹴り付ける。
「……っ! きゃあぁっ!! ……いつっ」
 全く避ける事ができず、女がまともにアスファルトの上に転がって呻くと、美幸はその前に仁王立ちになり、力任せに後部ドアを閉めながら言い放った。
「あんたの体重は平均程度って事は分かったわよ、オ バ サ ン!」
「…………」
 無言で見上げてきた女のこめかみにビシッと青筋が浮かんだのが分かったが、美幸は臆する事無く傍若無人な台詞を続けた。


「はっ! 私位見た目も性格も良い女に惚れるのは分かるけどね、私には燦然と輝く目標が有るのよ! それに向かって驀進してる時に、男だろうが女だろうが一切必要無いの。分かった? 一昨日来やがれこのド変態!!」
 すると女は怒りからか、身体を僅かに震わせながら、地を這う如き声で呻いた。


「誰が好き好んで、こんな事するもんですか……」
「知るわけ無いわよ。変態の心理なんて」
 そこで唐突に第三者の声が割り込んだ。
「何をやってるんだ……。あんなに無様に転がされるなんて。俺はちょっと誑し込んでみろと言ったが、まともに反撃を食らえと言った覚えは無いぞ?」
 どこからともなく女の背後に現れたサングラスをかけた男が、呆れ気味にそんな事を口にしながら女を見下ろすと、弾かれた様に女が立ち上がって食ってかかった。


「何も好きで食らったわけじゃ有りませんよ! 第一、こんなくだらない事をさせたのは、そっちでしょうが!?」
「女好きの女を男が口説いても意味がないだろ。取り敢えず見境の無い女好きって感じでは無さそうだから、まあ良いがな」
 すると何故か女が含み笑いで応じる。
「……他の女には目もくれなくても、特定の女性にだけ惚れ込んでるかもしれませんがね」
「この女がか?」
「別に女とは言っていませんが?」
「何を言っている」
「別に? 一般論ですよ、一般論。女に嫉妬する男って、ヘタレですよねぇ……」
「俺は危険性云々を問題にしてるだけだ。何の話をしているんだ」
「さあ? 何でしょう?」
 何となく険悪な雰囲気になってきたやり取りに、今度は美幸が割り込んだ。


「ちょっと。そこの痴女と美人局つつもたせ変態カップル! 人を無視して、何痴話喧嘩してんのよ?」
 そう美幸が叫んだ途端、サングラス越しでも察せられる、冷たい視線が突き刺さった。
「……何だと? 貴様、自分が何を言ったのか分かってるのか?」
「はっ! 変態を変態と言って何が悪いのよ!!」
 美幸がそう啖呵を切ったのとほぼ同時に、女がががっくりと崩れ落ち、両手を地面に付いて呻いた。


「酷い……、あんまりだわ」
「おい、どうした。何もそこまで落ち込む事は無いだろう?」
 そんな男の取りなしなど耳に入らなかったかの様に、女は両方の握り拳をプルプルと震わせた。
「こんな屈辱、初めてだわ。オバサン呼ばわりだけならともかく、よりにもよって、こんな非常識鬼畜野郎と一括りだなんてっ……!」
「……お前も相当言うようになったよな」
 そう言って乾いた笑いを漏らした男に、女が再度立ち上がってまくし立てた。


「ええ、言うようになりましたよ! これ位言ったって罰は当たりませんよ!! 結構痛かったんですよ? ちゃんと特別手当は割増しで出してくれるんでしょうね!?」
「喚くな、守銭奴が」
「諸悪の根源が、何を平然と言いくさってやがるんですか!」
「今更だろう。しっかり稼ぐんだな。下手したら死んでも完済できないかもしれんぞ?」
「ええ、ええ、承知しておりますとも! どんな馬鹿馬鹿しい仕事でも、これまで通り気合い入れて稼がせて頂きます!」
「それじゃあ用は済んだし行くぞ」
「分かりましたっ!」
 端から見ると痴話喧嘩を通り越して仲間割れの様相を呈してきた男女は、そこで素早く行動に出た。


「え? ちょっと……」
 女が憤然として美幸の目の前を横切り、荒々しく助手席側のドアを開けて中に滑り込んでドアを閉めたと同時に、いつの間にか車体を回り込んでいた男が運転席に乗り込む。
 ふと美幸が車の下に目をやると、男が現れる直前に清算を済ませていたのか、車を押さえておく鋼板が地面対して水平に下りており、美幸が呆気に取られているうちに勢い良くレクサス・LSが発進し、瞬く間に走り去って行った。


「何だったの? 今の……」
 美幸が呆然と見送った車内で、自分の前をすり抜けざま男がサングラスを外し、女がロングウィッグをむしり取る様に外す姿が辛うじて見えたが、美幸はこれ以上関わり合いになるのはごめんだとばかりに、その出来事を記憶の奥底に沈める事にしたのだった。


 ※※※


「ああぁぁぁっ!! そうよ! いつかどこかで見た顔と、聞き覚えのある声だと思ったら! やっと思い出した!! あの時の痴女と美人局つつもたせ変態カップルの片割れじゃない、あんたっ!!」
 いきなり美幸が椅子から立ち上がりつつ、そんな台詞を企画推進部の隅々にまで響き渡る声量で発した為、城崎が瞬時に顔を蒼白にして勢い良く立ち上がった。それ以外の者がギョッとして一斉に美幸に視線を向ける中、美幸は課長席に座る清人を指差しつつ詰問する。


「ちょっと、この変態! 白昼堂々女に女を車に引っ張り込ませて、一体何をする気だったのよ!?」
「……藤宮さん。申し訳ないが、何の事を言っているのか皆目見当が付かないんですが? 取り敢えず、自分の仕事をして貰えませんか?」
 しかし清人は余裕の笑みで椅子に座ったまま書類を処理し続け、それが余計に美幸の勘に障った。
「白々しいわね。じゃあはっきり思い出させてあげるけど、去年……、ぅぐっ。もがぁっ! って、きゃあぁぁっ!!」
 慌てて美幸の元に駆け寄った城崎が、美幸の後ろから抱き留める様にしながら片手で口を塞ぎ、背後にずるずると引きずった。そしてスペースが空いている場所まで来ると、素早く美幸を肩に担ぎ上げ、清人に申し出る。


「柏木課長代理! 申し訳ありません! 藤宮は朝から体調が悪いらしく、意識が朦朧としている様なので、このまま医務室に連れて行きます!」
 周囲の者達は唖然としてその光景を見やったが、清人はそれを見ても微塵も動揺せず、鷹揚に頷いてみせた。
「ああ、そうだったんですか。体調ではなく、頭が悪いのかと思っていました。これ以上騒がれると他の方の仕事にも支障が出ますので、ゆっくり休ませてあげて下さい」
「なぁんですってぇぇぇっ!?」
「失礼します!」
 その物言いに、城崎に担がれたまま美幸は顔を上げて憤慨したが、城崎は軽く頭を下げてそのまま部屋を足早に出て行った。


「ちょっと係長! 降ろして下さい!! どうして私が荷物担ぎされなきゃいけないんですか!? ふざけないで下さいよっ!!」
 怒りに震える美幸の声が徐々に廊下の向こうに消えていき、室内に静けさが満ちてから、再びいつものざわめきが戻った。そして仕事を再開しながらも、二課の面々は近くの者同士で囁き合う。
「……課長代理、絶対何かやってるよな」
「一体何をやってたんだか」
「痴女って……、なんなんだよ、おい」
 そんな風に頭を抱える部下たちの視線を涼しげな顔で受け流し、企画推進部二課課長代理である柏木清人は、その日も滞りなく業務をこなしていたのだった。





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