藤宮美子最強伝説

篠原皐月

(1)一月二日の異変

 結婚して初めて迎えた正月。もっと正確に言えば、一月二日の午前中。秀明は結婚してから最高に不快な思いをした上、妻に対する最大の疑惑と直面する事になった。


「やあ、明けましておめでとう、美子ちゃん!」
「明けましておめでとうございます、鹿屋さん。今年も宜しくお願いします」
「そんな堅苦しい挨拶は抜き抜き。俺と美子ちゃんの仲じゃないか。もう俺は丸ごとありのままを、美子ちゃんに見られてるんだしね」
「そうでしたね」
 色黒で精悍な感じの五十前後の男が美恵に案内されて広間にやって来ると、上機嫌に両腕を広げて芝居がかった台詞を口にした。すると当主である昌典の代わりに客間で年始客を出迎え、接待していた着物姿の美子が立ち上がり、その男に歩み寄って軽く見上げながらおかしそうに笑う。彼女に続いて立ち上がり、彼女達のやり取りを斜め後方から観察する事になった秀明は、無言で目つきを険しくした。


(何だ、このチョイ悪オヤジっぽい馴れ馴れしい男は。確か披露宴の時に見かけたが、全国展開しているステーキチェーン店で有名な《クラウス》社の社長だったよな? あの時にも思ったが、お義父さんの知り合いと言うよりは美子の知り合いという感じだが、年齢が離れ過ぎているしどういう関係だ?)
 そんな内心の疑問に答える様に、美子が秀明の方を振り返って男を紹介した。


「秀明さん、披露宴にも来て頂いたけど、こちらはステーキチェーン店も展開している、精肉卸売業クラウス社社長の鹿屋佳久さん。良くお肉を贈って下さっているでしょう?」
 そう説明された秀明は、先月末に家に送りつけられた物の事を思い出した。


「ああ、年末にも見事なローストビーフを頂きましたね。結構な物をありがとうございました。大変美味しく頂きました」
「いやあ、美子ちゃんに贈ったついでに、君の口にも入ったわけだからね。気にしなくて良いよ」
(……この野郎、俺に喧嘩を売ってやがるのか?)
 へラッと笑って片手を振った鹿屋に、秀明の口元がぴくりと引き攣る。そんな夫の反応に気付いているのかいないのか、美子は笑顔で話を続けた。


「鹿屋さんから頂くローストビーフが美味しくて、毎年お節に入れてるの」
「それは光栄だ」
「だけど、あれを食べた後では、他のお店の物が食べられなくて。どうしてくれるんですか?」
 ちょっと恨みがましく口にした美子に、鹿屋が途端に真顔になって彼女の両肩を掴みつつ、力強く宣言した。


「それは悪かった。それじゃあ俺が責任を持って、美子ちゃんに一生美味い肉を食わせてあげよう。だがその代わり、浮気なんかしちゃ駄目だよ?」
「そんな心配しないで? 私、一途な女だから」
「それは勿論、分かってはいるが。俺を差し置いて、こんな若さと見た目だけっぽい男と結婚してしまったから、流石に悔しくてね」
「あら、主人は若さと顔だけの男じゃ無いわよ?」
「それは失敬」
 下手をすると恋人か元恋人同士の会話に聞こえる内容を口にしつつ、「あはは」「うふふ」と自分を無視して目の前で楽しげに笑い合っている二人を見て、秀明は珍しくキレそうになった。


「美子……」
「何? あなた」
「鹿屋さんとは、どういう知り合いだ?」
 常より低い声で問い掛けた秀明だったが、美子は全く気にする素振りをみせずに、鹿屋と顔を見合わせた。


「どういう、って……。ちょっと年の離れたお友達?」
「うん、砂場で運命の出会いをした、年の差友だな」
「そうですね~」
「ね~」
 それ以上は口にせず、同じ方向に軽く首を傾げて、意味ありげに微笑み合っている二人を見て、秀明のこめかみに青筋が浮かんだ。


(『ね~』じゃねぇし、年の差が有り過ぎだろうが! それに砂場で運命の出会いって、一体何だ? 後でこいつとの関係を、美子に問い質さないと)
 内心で向かっ腹を立てつつも、客の手前最後まで微笑を崩さなかった秀明だったが、その努力をあざ笑う様に、その後も次々と秀明の神経を逆撫でする客がやって来た。


「美子ちゃん、今年も正月から君の笑顔が見れて嬉しいよ。これで今年も、泉の如く創作意欲が湧き出るというものだ」
「まあ、越路さんの創作意欲を尽きさせない為なら、幾らでも笑ってみせますわ。だって越路さんが描けなくなったりしたら、日本画壇の損失ですもの」
 四十代後半に見える、サラサラの髪を肩より少し長めに伸ばし、背中で一つに括ってある痩せ型の男性が美子に挨拶しているのを聞いて、秀明は意外な思いに駆られた。


(この男は披露宴には来ていなかったが、この顔は確か日本画で有名な越路美舟? 玄関に飾ってあるこいつの銘が入った作品はてっきり複製品だと思っていたが、本人が出入りしているという事は、あれは本物か?)
 雑誌で見かけた顔写真を思い出しながら密かに驚いている秀明の前で、美子達が楽しげに話し出す。


「そんなに俺の才能を認めてくれるのは、美子ちゃんだけだよ。はい、今年の御進物。見て貰えるかな?」
 そこで越路が持参した平たいダンボール箱を美子がいそいそと開けてみると、そこには額に入れられた二羽の鶴の絵が存在していた。


「まあ、素敵な雌雄の鶴。お正月にぴったりです。早速玄関に飾らせてもらいますね。美実、今掛かっている絵と変えてきてくれる?」
「分かったわ」
 美子が少し離れた所に居た美実に声をかけ、絵を持って行かせると、越路は笑顔で話を続けた。


「喜んで貰えて嬉しいよ。結婚して初めての正月だし、おめでたい画題にしようと思ってね」
「ありがとうございます」
「今回の結婚で、芸術を解さない無粋な馬の骨がこの家に入ったんじゃないかと気がかりでね。不安が筆に出てしまったのか納得できない仕上がりになって、三回ほど描き直してしまったよ」
「まあ、それならあれは、渾身の力作ですね。大事にさせて貰います」
 暗に『無粋な馬の骨』呼ばわりされても、秀明は無言で平静を装っていたが、そんな彼を完全に無視しながら、越路はとんでもない事を言い出した。


「いや、美子ちゃん。後生大事になんかしなくて良いから」
「どうしてですか?」
「離婚する時はこのケチが付いた絵を、慰謝料替わりに旦那に押し付ければ良い」
「まあ」
 美子は軽く驚いてみせ、秀明は片眉をピクッと上げたが、越路は真顔で話を続けた。


「この号数だと、日本画に詳しい画廊に持ち込めば数百万にはなる。ろくでもない元旦那のせいで、君の資産が一円でも減るのは耐えられないんだ。必要なら適当にあと数枚書いてあげるから、遠慮無く言うんだよ?」
「ありがとうございます。その時はお願いしますね?」
「ああ、約束だよ? じゃあ指切りげんまん」
「ふふっ、懐かしいですね」
「…………っ!!」
(このうらなりオヤジ……、帰り道で息の根止めてやろうか? しかも美子まで、どうして仲良く指切りなんかしてるんだ!?)
 完全に頭に血が上った秀明は、越路が名残惜しげに離れて他の顔見知りの年始客に挨拶しに行ったと同時に、美子の肩を掴んで険しい表情で迫ったが、ここでハイテンションな声が割って入った。


「美子。さっきの奴は」
「よ~し~こ~ちゃ~ん! 明けましておめでとう! 今年も宜しくねっ!!」
「山瀬さん。明けましておめでとうございます」
 ベリッと秀明の手を剥がしつつ、美子に抱き付いた五十代半ばの煌びやかに全身を飾っている女性は、挨拶もそこそこに大きめのハンドバッグから、ビロードに覆われた長方形の箱を取り出した。


「う~ん、今年も素敵なお着物! そんな美子ちゃんに、ぴったりの帯留めがあるの! はい、これ!」
(何だ、このイカレたババァは?)
 秀明が唖然とする中、彼女がいそいそと箱の蓋を開けて差し出してきた物を見て、美子は感嘆の声を上げた。


「まあ、素敵! 山瀬さんのデザインですか?」
「勿論よ。美子ちゃんを想いながら、デザインしたの! 本当はプレゼントしたいんだけど、絶対受け取ってくれないから一万円で買って?」
(思い出した。確か、宝飾デザイナー兼大手宝石店社長夫人の山瀬則子だ。しかしあの石……、大きさも色調も相当良いし、周りのダイヤも小粒でもグレードが良い上、台はプラチナの筈。どう安く見積もっても二・三十万はするよな?)
 さり気なく中身を確認しつつ、年始に来た先で商品を売りつけようとする非礼さと、品物と提示額の落差に秀明が唖然としていると、どうやらこの様な事には慣れっこだったらしい美子は、苦笑しながら相手に苦言を呈した。


「もう、山瀬さんったら……。商売になりませんよ?」
 しかし山瀬はびくともせずに主張を繰り出す。
「良いのよぅ! 美子ちゃん絡みでは、損得抜きで作らせて貰ってるんだから! 年の初めに美子ちゃんに買って貰えるかどうかで、その年の運試しをしてるんだもの!」
「そう言われてしまったら、買わないわけにはいきませんね。一万円で買わせて頂きます」
「良かったぁ! 頑張ってデザインした甲斐があったわ!」
 苦笑を深めて応じた美子に、秀明は無意識に眉根を寄せた。


(さっきの画家の絵はそのまま受け取って、この女の帯留めは破格の値段で買い取りするって、どういう事だ? そんな事より)
 それまで女二人のやり取りを傍観していた秀明だったが、ここで美子の横に並んで、山瀬に向かって穏やかに申し出た。


「山瀬さん、そういうお話であれば、私が買い取って美子に贈らせて貰います」
「あら、居たのねご主人。影が薄いから居ないのかと思っていたわ」
 美子に対して振り撒いた愛想の欠片もなく、素っ気なく言葉を返した山瀬だったが、秀明は僅かに目元をひくつかせながらも、礼儀正しく年始の挨拶を口にした。


「…………明けましておめでとうございます、山瀬さん」
「そういう事なら、あなたに買って頂こうかしら? ……百円で」
 サラッと言われた内容に、秀明の表情が僅かに険しくなる。


「先程、一万円と仰っておられませんでしたか?」
「美子ちゃんには一万円で売るけど、あなたには百円で売るって言ってるのよ」
「………………」
 挑発的に告げた山瀬と、無言になった秀明との間で睨み合いが勃発したが、彼等から少し離れた所で会話を聞いていた美野と美幸が、こそこそと囁き合った。


「え? あんな素敵な物が百円で買えるの? お義兄さん、お正月早々ラッキーだね!」
「しぃっ! 美幸黙って! 全然ラッキーじゃないわよ。お義兄さん、喧嘩売られてるのよ?」
「え? 安くして貰ってるのに、どうして?」
「だって美子姉さんには一万円で売るって言ったのに、お義兄さんには百円でって事は『あんたの懐具合では、これ位出すのが精々でしょ? 美子ちゃんに手元不如意な思いをさせて、甲斐性無しのご主人ね。何て情けない』って言ってる様なものじゃない」
「秀明義兄さんは、金銭的に美子姉さんに不自由させて無いわよ? あ、でもそうすると『美子ちゃんと比べると、あんたは百分の一程度の価値しか無い男よ。だから買い値はこの位が妥当よね、はははん』って鼻で笑って、喧嘩を売ってる事になるのかな?」
「どっちでも良いけど、要するにそういう事よ」
「ふぅん……。私もどっちでも良いけど、美子姉さんが飽きたら、あれ貰えないかなぁ」
「あ、ちょっと美幸! 私が譲って貰おうと思ってたのに!」
 そうして何やら揉め始めた二人に背を向けたまま、秀明は溜め息を吐いた。


(美野ちゃん、美幸ちゃん、丸聞こえだから)
 そんな義妹達の会話で秀明が怒気を削がれていると、美子が苦笑しながら山瀬と秀明双方に申し出た。


「山瀬さん、せっかくですから、主人に十万で買って貰いますわ。あなた、私、これを気に入ってしまったの。駄目かしら?」
「……いや、気に入ったのなら、買おう。百万でしたね?」
「いえ、十万です。ありがとうございます」
 さり気なく値段を吊り上げた秀明と、美子の言い値を繰り返した山瀬との間で、バチバチッと火花が散りつつ一応商談が成立したところで、今度が丸々とした恰幅の良い四十代半ばに見える男性が美子の元にやってきた。


「美子ちゃん! マイ、スィートハート!」
「おい! いきなり何をする!!」
 突然正面から美子に抱き付いて来たその男を、秀明が即行で引き剥がした。しかし美子は何事も無かったかの様に、笑顔で挨拶の言葉を口にする。


「あら、瀧田さん。明けましておめでとうございます」
「おめでとう。それはそうと、結婚してから元気にしてたかい? 横暴なご亭主に虐められてないかい? ご亭主の呑む打つ買うで泣かされてはいないかい? ああ、もうおじさん美子ちゃんの事が心配で心配で、夜も眠れなくて痩せてしまったよ!」
(どこが痩せたんだ。このビヤ樽親父がっ!? 披露宴で見かけた時も思ったが、転がして道路に放り出してやるぞ!?)
 自分の前でハンカチ片手に、わざとらしく涙ぐんでいるスキンヘッドの男を、秀明は憤怒の形相で睨み付けた。しかし美子は秀明を一顧だにしないまま、和やかに目の前の男と会話を交わす。


「確かに、ちょっとウエスト辺りが少し引き締まったみたいですね」
「そうだろう? 分かるよね?」
「ご心労をかけてしまって、申し訳ありません。でも主人との関係はいたって良好ですから、これからは心配しないで下さいね? ねえ? 秀明さん?」
「……ああ、そんな心配は無用ですから」
 漸く自分に目を向けた美子に、秀明は内心の不満を覆い隠して瀧田に宣言した。しかし彼は再び美子に向き直り、その手を両手で包み込む様にしながら、真顔で言い聞かせる。


「美子ちゃん、旦那と別れたくなったら、遠慮無くいつでもおじさんに相談するんだよ? こいつの荷物を放り込む部屋なんか二時間で用意できるし、仕事柄トラブル解決の為に弁護士事務所とも専属契約をしてるから、すぐ弁護士を手配できるから」
「ありがとうございます。その時はお願いしますね?」
 手広く不動産業を営んでいる瀧田が力強く請け負うと、美子が嬉しそうに微笑んだ為、秀明は内心で怒鳴りつけた。


(『その時は』って、どういう事だ美子! そもそも笑顔で頷くな!! 全くどいつもこいつも、披露宴の時にはまともな対応をしてやがった癖に、人目があるからって猫を被ってやがったな!?)
 普段巨大な猫を被っている自分の事は棚に上げ、自分に美子と仲の良い所を見せ付けつつも、決して彼女との関係について明確に語らない者達に向かって心の中で悪態を吐きまくった秀明は、その日一日、夕刻になって年始客が全員引き揚げるまで、常に無い程の怒りを溜め込む羽目になったのだった。



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