猪娘の躍動人生

篠原皐月

4月 切実な問題

 城崎の半ば強制的な招集で、中華料理屋の個室に集まったニ課の若手の面々は、それぞれ微妙な顔つきで微妙に席を譲り合いながら、円卓を囲んだ。そして前菜の皿が運ばれると同時に、全員の前にビール瓶とグラスが置かれたのを見てから、城崎が声をかける。


「皆、急に呼び立てて悪い。ここの支払いは全額俺が持つから、好きなだけ飲んで食べてくれ」
「ええと……」
「でも」
「それは……」
 さすがに皆が恐縮する中、ひときわ明るい声が室内に響いた。


「はいっ! 遠慮なくご馳走になります、係長!」
「うん……、蜂谷。お前の素直さと物怖じしなささが、今の俺には眩しい位だ……」
「ありがとうございます!」
 どこか遠い目をしながら呟いた城崎に、蜂谷が満面の笑みで頷く。それを見た周囲は、疲れた様に溜め息を吐いた。


「……やっぱりあんたって動じないわね」
「取り敢えず、始めましょうか」
「そうだな」
 そして互いにビールを注ぎ合い、偶々隣に座った事で美幸は由香と注ぎ合う事になったが、取り敢えず両者とも無言でそれを済ませた。


「それじゃあ企画推進部二課の、更なる躍進を願って、乾杯」
「乾杯」
 そして城崎の音頭で乾杯してから、すぐに美幸が本題に入る。


「それで? この間、係長と瀬上さんと仲原さんの様子がおかしくて、精彩を欠いていた理由を、ここで説明して頂けるんですよね?」
「…………」
 途端に口を閉ざした城崎を見て、高須は(こんな早くから話題に出すな!)と咎める視線を送ったが、美幸は(だって気になってビールが美味しくないじゃないですか!)と目線で訴えた。すると城崎が静かに告げる。


「今日、谷山部長に、了承の返事をした」
「したんですか……」
「するしかないですよね。サラリーマンとしては」
 事情を知っているらしい瀬上と理彩は、同情する呟きを漏らしたが、当然美幸は問いを重ねた。


「返事って、何に対する返事ですか?」
「……課長に昇進する」
 そこでぼそりと告げられた内容に、美幸と高須は目を見張り、次に明るく祝いの言葉を述べた。


「えぇ? 本当ですか? 凄い!」
「おめでとうございます!」
「あれ? でも二課は今、ご主人様が女神様の代理を務めていらっしゃいますよね? どちらの課長になられるんですか?」
「…………」
 前菜をもぐもぐと食べる合間に、何気なく尋ねてきた蜂谷の台詞で、再び室内が静まり返った。それを受けて、城崎が再び口を開く。
「人事部環境調整支援第二課課長だ」
 それを聞いた途端、美幸は険しい表情になって怒りの声を上げた。


「人事部!? どうして入社以来ずっと営業畑の係長が、そんな所に行かなきゃならないんですか!?」
「ちょっと、あんた五月蠅いわよ?」
「何ですって!?」
 顔を顰めた由香に注意され、美幸が益々ボルテージを上げる。するとここで少し考え込んでいた高須が、冷静に城崎に問いかけた。


「係長。その部署名は、課長代理の本来の所属部署の肩書きと酷似しているんですが、どういう事ですか?」
「そう言えば……」
 その指摘に、美幸が驚きながら城崎に視線を向けると、彼が重々しく頷く。


「ああ。俺が所属する事で課長が二人になるから、以後はあの人が第一課課長、俺が第二課課長になる」
「……是非、詳細な説明をお願いします」
 高須の切実な申し出を受けて、城崎は淡々と説明し始めた。


「つまり、この間のあの人の業績が、社内で高く評価されているんだ。社長とあの人がごり押しして設けた部署を当初批判していた面々も、認めざるを得ない位にはな」
「それは確かに」
「そうでしょうね」
 人格的にはともかく、能力的には認めざるを得ない為、美幸も由香も素直に頷く。


「それに伴って、本社支社に関わらず複数の部署から、自分の、または部下の代行として、同様に人員を派遣して貰えないかとの要望が、何件か上がっているそうだ。だがあの人は、元から課長が復帰したら後腐れ無く退社するつもりでいるからな。他にフリーハンドで動ける人材を確保して、部署を存続させると言う決定を上層部が下した」
「それで係長の名前が上がりましたか……」
「確かに企画推進部は、色々な職種や業種に関わる仕事に携わっているしな。固定したスペシャリストよりも、柔軟に対応できるだろうと思われたらしい」
 思わず漏れた高須の呟きに、瀬上が解説を加える。城崎はそんな彼を見ながら、話を続けた。


「そして俺の異動後は、瀬上が昇進して二課の係長になる」
「本当ですか?」
「ああ……」
 高須の問いに瀬上は何故か暗い表情で頷き、頭を抱えながら俯いた。


「確かに昇進は嬉しいんだが、色々有り過ぎるこの二課の係長に……。あの課長代理やあの課長の下で、しかも経歴や年齢が遥かに上の脛傷社員と、問題有り過ぎる後輩社員ばかりの中で、俺は本当にやっていけるんだろうか……」
「…………」
 苦悩しているらしい独白に、その場の誰もがコメントを避けた。すると彼の隣で、理彩が怒りの声を上げる。


「そうしたら、あの課長代理。私にも異動話を持ちかけやがったのよ。いえ、半ば親切面した押しつけよね!」
「何があったんですか……」
「仲原さんまで異動? 因みにどちらにですか?」
 驚きながら美幸が尋ねると、彼女は予想外過ぎる内容を口にした。


「人事部環境調整支援第一課係長に昇進よ! 辞令後は仲原係長と呼びなさい!」
「……うわぁ」
「何か、三人の中で一番の無茶振りの気配が濃厚です」
 途端に美幸と高須がうんざりした顔になり、由香も驚きで固まる中、理彩は怒りをぶちまけ始めた。


「あのくそったれ課長代理がぁぁっ! 係長と孝太郎の昇進話を説明したあと、『仲原さんは瀬上さんと近々ご結婚予定とか。そうなると社内規定で同じ部署に在籍できませんし、この際、昇進がてら城崎係長と同様に異動しませんか? 幸い古巣の総務部で係長が一人長期休養を願い出ていて、それに便乗して係長に昇進させた上で、係長代理として押し込んであげます。それの任期が済んだら特に責任ある仕事は無くて暇ですから、その間に産む様に子供を作れば、係長の肩書きのまま気兼ねなく産休育休を取れますよ? 復帰したら、またどこかの部署に突っ込んであげますから』とこうよ!? まだ結婚もしていないカップルの家族計画に、赤の他人が平気で口を挟んでんじゃ無いわよ!!」
「…………」
 その微妙にも程がある話題によって、再び室内に沈黙が満ちた。


(確かにセクハラとかモラハラとかに該当すると言われても、反論できないかも。本当にあの課長代理、ろくでもないわ)
 美幸がしみじみと清人に対する評価を新たにしていると、理彩が憤然としながら瀬上に同意を求めた。


「全く! 本当に冗談じゃないわよね、孝太郎?」
「……やるぞ」
「は? 何を?」
 相変わらず頭を抱えていたと思ったら、何やら据わった目をした瀬上が顔を上げ、理彩に向かって宣言した。


「俺も腹を括った。どこに飛ばされるか分からない城崎さんより、まだどんな面倒事や問題社員を抱えていると分かり切ってる二課で、係長をやる方が数倍マシじゃないか。さっさと昇進して結婚して子供を作るぞ」
「孝太郎! あっ、あんたねえっ!」
「ちなみに俺の希望は、子供は女、男、女の順で三人で、全員八年以内に出産するのがベストだと思うんだが、理彩はどう思う?」
「何、あのろくでなしに洗脳されてんのよっ!! それともビール一杯でもう酔ったわけ? さっさと目を覚ましなさい!!」
 思わず無言で額を押さえた城崎の隣で、瀬上が顔を真っ赤にした理彩から往復ビンタを食らった。そんな混沌とした情景を眺めた高須が、思わず呟く。 


「真顔で子作り宣言……」
「それは聞き流しましょう。それより係長? どこに飛ばされるか分からないって、どういう事ですか?」
「本社内に限らず、要望が出てると言っただろう? 先方の事情と緊急性を鑑みて、仙台の東北支社に行かされるのが濃厚らしい」
「……東北支社? どうしてまたそちらに?」
 話を元に戻したのは美幸だったが、何か思う所があったのか由香も尋ねてきた。その疑問に城崎が淡々と答える。


「東北支社の営業第二課長の三田村さんは、三年前まで本社勤務だったんだが、俺が知っている範囲でも相当運が無い人だったんだ」
 その名前を聞いた途端、由香以上の世代の面々が、記憶を辿りながら口々に言い出す。


「その名前、何か聞き覚えが……。確か同期に優秀な人が多くて、昇進が後回しになっていた方じゃないですか?」
「それは私も聞いた事があるわ。偶々査定の時期に交通事故に巻き込まれて、長期入院する羽目になって昇進を逃したとか」
「俺が聞いたのは、大口の契約を取り付ける直前に、他社に情報を流した同僚のせいで契約がご破算になった話だが……」
 そう言って微妙な顔を見合わせた面々だったが、美幸は呆れ気味に感想を述べた。 


「うわ、何ですかそれ? その人自身は全然悪く無いみたいなのに」
 それに由香が、思わずと言った感じで応じる。
「私もそれを聞いた時は、とことん運が悪い人っているのねと、同情したわ」
「……何か渋谷さんと同じ感想って、嫌なんですけど」
「私だって、あんたと同じ感想だなんて真っ平御免よ!」
「二人とも静かにしなさい!」
 早速言い合いを始めた二人を理彩が一喝し、目線で城崎に話の続きを促した。それを受けて城崎が説明を続ける。


「その三田村さんは有能だし人格者で、周りからも好かれて気の毒がられて。当時の上司が係長のまま長年据え置くのは勿体ないと、四十代半ばの彼に『東北支社の課長職が空いたから、そちらに行かないか』と声をかけたんだ」
「そうでしたか。でも本社勤務の方が支社に異動って、嫌がらなかったんですか?」
 美幸はそんな素朴な疑問を口にしたが、城崎は首を振って答えた。


「いや、元々彼は岩手の出身だから、そちらへの転勤に異論は無かったそうだ。寧ろ、実家で二人だけで暮らしている両親の面倒も見やすくなると、喜んでいたらしい。そして異動の時は勤務部署全員で、笑顔で送り出したそうだ」
「そうですか」
「それは良かったですね」
 美幸と由香は安堵した顔つきで感想を述べたが、すぐに城崎が暗い表情で付け加えた。


「その栄転話で終われば、良かったんだがな……」
「……そうですよね」
「順風満帆なら、係長にお呼びがかかる筈ありませんね」
 気まずい思いで二人が頷くと、城崎は溜め息を吐いてから話を続けた。


「一年ほど前、三田村さんの母親が玄関先で躓いて転倒して、大腿骨を骨折した事を契機に寝たきりになって、半年ほど前に父親が認知症を発症したらしい」
「今まで、どうしてたんです?」
 いきなりの展開に付いていけず、美幸が半ば茫然としながら尋ねると、城崎が真顔で説明した。


「母親は当初入院していたが、外科治療が終わったら退院しないといけないからな。介護施設を探したが、すぐに入れる所が見付かる筈も無し、自宅介護するしか無かったそうだ。それで退院と同時に三田村さんの奥さんが、週に何回か仙台から実家に通っていたらしいが、それから二月もしないうちに父親に痴呆の症状が出て、殆ど目が離せない状態になったとか。その後は奥さんが実家に移って、三田村さんは子供と仙台で生活していたそうだ」
「修羅場ですね」
「他に介護する方とかは……」
「三田村さんは一人っ子だ。それで他県出身の奥さんは、見知らぬ人達の中で公的サービスを使いながら頑張ってたらしいんだが、先月過労で倒れて入院した」
「何かもう……」
「……言葉がありません」
 その女性がどれだけ無理をしていたのかと、その課長がどれだけ運に見放されているのかを思って、美幸と由香は揃って項垂れた。


「その為ケアマネジャーが緊急措置として手配して、今はご両親とも入院させて貰っている状況なんだが、それも長くは続かない。それで三田村さんが家族の介護を理由に、辞表を提出してきたんだ。『今まで散々苦労させた妻に、これ以上負担をかけるのは忍びない』と言って」
「課長なのに、潔いですね」
「偉いですよ」
「実は母親の自宅介護が始まって少しした頃から、三田村さんは辞職を考えて上司に相談していたらしい。だが、東北支社長が彼を惜しんでね。三田村さんが来てから、落ちていた支社の業績が明らかに上向きに回復したから」
「それは引き止めますよね」
 有能な社員だったら当然そうだろうと美幸は頷いたが、城崎は再度溜め息を吐いて話を続けた。


「今回奥さんの入院を契機に、正式に辞表を出したらしいが、上としてはできれば社に残って欲しい。だが期間の分からない休職では、課長職に就けたままにはできない。だが失態や違法行為をした訳でも無いのに降格人事などできないしで、相当困っていたらしい」
「本人の意向はどうなんですか?」
 そこで確認を入れてきた由香に、城崎が神妙に答える。


「未練はあるらしいが、『自分の事情と我が儘で、これ以上周囲に迷惑をかけられない』と言っているそうだ。だから俺が了承の返事をしたら、来月とは言わずに来週にも東北支社に行かされる可能性がある。それに俺が躊躇して悩んでいる間に奥さんが倒れているわけだし、それについての責任を感じるな」
「そこまで責任を感じなくても良いんじゃないですか?」
「そうですよ。いきなりそんな異動話を聞かされたら、悩まない方がおかしいですって」
 僅かに顔を顰めながら由香と美幸が宥めると、城崎は由香と視線を合わせて謝罪の言葉を口にした。


「そういう昇進と異動に関する内容を、通常業務の合間にずっと考えていて。この間、色々課長代理が無茶振りをしていたのは分かっていたが、突っ込んだり意見を口にする気力や精神的余裕が無かった。渋谷さんには、本当に申し訳無く思っている」
「いえ、まあ……。そういう事情があると分かりましたから。見ず知らずの所で、いきなり課長職を務めるとなったら、相当大変だし覚悟が要ると思いますし……」
 真摯に頭を下げられて、流石に文句を言う気も失せたらしく、困った顔をしながら由香が応じた。すると彼の横で、瀬上も真顔で申し出る。


「俺からも先に謝っておく。あの課長代理の下で係長を務めるなんて、正直荷が重い。城崎係長以上に君の事を庇えないと思うから」
「いえ、もう他人を当てにしない事に決めましたので。私も腹を括りました。柏木課長は八月に復帰予定ですし、それまで頑張ります」
「…………」
 由香がそう決意表明すると、何故か室内が微妙な空気で満たされ、他の者達が無言で顔を見合わせる。それを不審げに見やりながら由香が尋ねた。


「何ですか?」
「その……、課長は課長代理みたいにえげつなくは無いが、あの人以上に人使いは荒い。俺に言えるのはこれだけだ。後は課長復帰後に体感してくれ」
「……え?」
 僅かに顔を引き攣らせた由香の横で、蜂谷がいつの間にか来ていた海老チリの大皿を左手で掴み、右手で大きな金属製のスプーンを持ちながら、事も無げに言い出す。


「でも係長が交代しても、当面はご主人様がニ課の責任者なのは変わらないですし、いつも通りですよね?」
 その発言を耳にした面々は一斉に彼に視線を向け、ある者は嘆息し、ある者は怒りの声を上げた。


「うん。まあ……、確かにそうなんだがな?」
「蜂谷! それであっさり話を纏めるなっ! しかも話の間中、一人で食べまくってたわね!?」
「何一人で大皿を空にしてるの! 少しは常識を考えなさい!」
「すっ、すみません、藤宮先輩! 渋谷先輩!」
 殆ど空になった海老チリの皿で余計に女性陣の怒りを買ったらしく、その剣幕に蜂谷はへこへこと頭を下げた。その光景を見て、瀬上が再び顔を覆って項垂れる。


「……不安だ」
「もう、なるようにしかならないわよ。腹を括ったんじゃなかったの?」
 横から理彩が彼を宥めるのを見ながら、城崎は今後の二課を本気で心配した。


 それからは皆で飲んで食べながら、普通に仕事に関する事や世間話などをして過ごした。
 美幸は由香とも角突き合わせず、それなりに大人の対応をして店を後にし、城崎に自宅まで送って貰いながら、色々と話し込む。


「今日は本当にご馳走様でした。でも係長、ちゃんと食べてましたか? 蜂谷ったら、片っ端から食べまくるから……。全く、場を弁えないのと空気を読まないにも程があるわ」
 本気で怒りながら美幸が口にすると、城崎が庇う様に言い出す。
「あいつも悪気は無いんだから。気になった事は、これからも美幸が注意してやってくれ。れっきとした先輩だしな」
 そう言って困った様に城崎が微笑んだ為、美幸は言葉に詰まりながらも、自分自身に言い聞かせるように応じた。


「う……、ま、まあ……、確かに蜂谷はれっきとした後輩ですし、面倒を見るのは仕方が無いですよね。ええ、頑張ります」
「頼む。渋谷さんは自分の事で精一杯で、他人の事に構っている余裕は無いだろうしな」
「確かにそうですよね」
 最寄駅からの道を並んで歩きながら、そう同意を示した美幸だったが、ふと疑問を覚えた事を口にした。


「渋谷さんと言えば……、今日は何だかいつもより、大人しかった気がしますね。城崎さんが一時的にも本社から出るなんて話を聞いたら、それこそ『ドサ回りご苦労様です』とか、嫌みの一つもぶつけてくるかと思ったんですが」
 それを聞いた城崎は、少し考え込んでから推測を述べた。


「う~ん、三田村さんの話を聞いて、身につまされたとか? 移動する時に見た個人データでは、確か彼女も地方出身だし、家族構成も両親だけだったような気がする」
「そうなんですか? じゃあ一人娘とか?」
「そこまでは分からない。ただ俺達の年代だとまだ親世代は元気だが、十年二十年後にはどうなっているか分からないしな。俺は地元に姉が残っていて親と同居しているから、比較的安心していられるが」
 それを聞いて、美幸がしみじみと言い出す。


「確かに、不安かもしれませんね。遠くに親だけで暮らしているとなると。それを考えると、私は恵まれてますよね。実家が都内だし、姉夫婦が同居していて後々も心配要りませんから」
「そうだな。東京の大学に入学する為に上京して、そのままこっちで就職するってパターンは多いと思うし」
「うん。その分も、他の人より頑張って仕事をしないと。仕事を続けたくても、どうしようもない事情があって辞めなきゃいけない状況に陥る人もいるんだなあって、今回の話で実感できました」
 真顔で美幸が口にすると、城崎も少々強張った表情で応じる。


「そうだな……。今後は国内の労働人口が減少するのは明らかだから、有能な人材には少しでも長く勤務して欲しいと言うのが、企業の本音だ。その対応策として立ち上げた部署だから、ここであっさりコケるわけにはいかない」
 そこで微妙に空気が重くなったのを感じた美幸は、なるべく気分を明るくしようと声を張り上げた。


「大丈夫ですよ! 城崎さんならできますって! むしろ城崎さん以上に上手くできる人なんて、存在しませんから!!」
「そうか?」
「はい! 城崎さんが居なくても、二課の事は全然心配要りませんから、向こうでも頑張って下さい!」
「……そうだな」
 美幸の激励に、苦笑いしながら微妙な反応をしてきた城崎を見て、美幸は一瞬(あれ?)と考え込み、すぐに慌てて付け足した。


「あのですね、別に城崎さんが居ても居なくても変わらないとか、幾らでも替えが利くから大丈夫とか、全然寂しくないし寧ろ清々するとか、そういう事を言っているわけじゃなくてですね!?」
「分かった。分かったから。そう興奮するな」
「はぁ、すみません……」
 必死になって弁解してくる美幸を見て、城崎は笑いを堪えきれずに吹き出し、苦笑しながら宥めた。そして面目なさげに謝ってから、美幸が声をかける。


「ええと、勿論城崎さんがニ課から抜けるのは寂しいですし、戦力的にも不安ですよ? 皆、口には出さないだけで」
「ああ、分かってる。『行かないでくれ』と言われたいとは思ってないさ」
「でも困った事が有ったりしたら、これからも相談に乗って貰っても良いですか?」
「勿論、構わないが? と言うか、勤務場所が変わっても、プライベートで何か変える必要があるのか?」
 ちょっと不思議そうに尋ね返された事で、美幸は安堵して言葉を返した。


「そうですよね~! じゃあ異動前後はさすがにバタバタしているでしょうから遠慮しますが、落ち着いたら電話とかメールしても良いですか?」
「その時期でも、電話やメールならいつでも構わないけどな。落ち着いたら仙台に遊びに来るか? 俺の派遣期間は、三田村さんが両親の介護をしながら入所先を探してお願いするまでになるから、どうしてもある程度纏まった期間になるだろうし、色々調べておいて案内するから」
「本当ですか! 是非!」
「分かった。調べておく」
 嬉々として頷いた美幸に、城崎も笑顔で応えた。


(うん、そうだよね。何か話を聞いてからもやもやとしてたけど、職場が別になっただけだし、別に変わりないよね? 私は私の仕事を、これまで通り頑張ろうっと)
 妙にすっきりした気分になった美幸が、上機嫌で最後の角を曲がって藤宮家の門が見えて来た所で、そこで何やら喚いている男が居る事に気が付いた。


「……だから! お前じゃ話にならないって言ってんだろ! さっさとここを開けるか美実を出せ!」
 微かに聞こえてきたその声に、城崎は反射的に美幸を背中に庇おうとしながら呟く。


「何だ? 酔っ払いか不審者か?」
「いえ、そうじゃなくて……」
「あ、おい、美幸?」
 何やら呟いたと思ったら、自分の横をすり抜けて美幸が駆け出した為、城崎は慌てて後を追った。するといち早くその男の至近距離に到達した美幸が、驚いた様に声を上げる。


「やっぱり小早川さん! どうしたんですか?」
「げっ!?」
 近づいた事で相手の顔がはっきり認識できた城崎は、記憶にあるその顔を見て一言呻いてピタリと足を止めた。すると美幸の声を耳にして、インターフォンの端末から視線を移した男が、笑顔で美幸に声をかける。


「美幸ちゃん? 今、帰って来たのか? 助かったよ。ちょっと中に入れて欲しいんだが……。って、まさか城崎? お前、何でこんな所に居るんだ?」
「あれ? 二人は知り合いですか?」
 懇願してきた次に、美幸の背後を見て怪訝な顔になったかつての先輩に向かって、城崎は深々と頭を下げた。


「ご無沙汰しています、小早川先輩」
「あ、そう言えば小早川さんは大学時代からの秀明義兄さんの友人ですし、同じサークルの城崎さんとも知り合いだったんですね?」
「ああ、そうなんだ。ところで美幸ちゃん、城崎とはどういう関係?」
 好奇心を隠す事無く尋ねてきた義兄に、美幸は素直に言葉を返した。


「城崎さんは、私の所属課の係長です」
 するとどうやら門の外の様子をそのまま聞いていたらしい秀明の声が、インターフォンのスピーカー越しに聞こえてくる。
「それと“一応”、美幸ちゃんとお付き合いしているみたいだがな。美幸ちゃん、お帰り。夕方美実ちゃんが、子供達と猫を連れて帰って来ていてね」
 どう考えても面白がっている様にしか聞こえないその声に、城崎は本気で頭を抱えたが、それを聞いた美幸は、呆れ返った視線を小早川に向けた。


「また夫婦喧嘩ですか……。『喧嘩するほど仲が良い』って言葉は、美実姉さん達の為に存在するみたいですね。年に一回のペースって、多いのか少ないのか分かりませんが」
「はは、面目ない」
 苦笑いした相手に、(本当にしょうがないなぁ)と諦めつつ、美幸は城崎に向き直って改めて義兄を紹介した。


「城崎さん、小早川さんは私の三番目の姉の結婚相手なんです」
「ああ……、会話の内容で分かった。それじゃあ、また明日」
「はい。送って頂いてありがとうございました」
「ちょっと待った。ここでお前と会ったのも、何かの縁。これから飲みに行くぞ」
 必死に小早川と視線を合わせないようにしながら、美幸に短く別れを告げて立ち去ろうとした城崎だったが、そんな彼の腕をがっちりと掴みながら、小早川が宣言した。それを聞いた城崎が、僅かに顔色を変える。


「これからって……、先輩は何やら大事な用事がおありですよね?」
「いや、あいつはへそを曲げたらなかなか直らないからな。今日はもう良い。さあ、行くぞ! 可愛い義妹の美幸ちゃんとの事を、色々聞かせて貰おうか」
「いえ、別にお話する程の事は何も」
「全く秀明の奴、こんな楽しい事を俺に話していなかったとは許せん!」
 そして上機嫌な小早川に引きずられる様にして、城崎が角の向こうに消えるのを見送っていると、中から出て来たらしい秀明が、門を開けて姿を現した。


「美幸ちゃん? 城崎と淳は?」
 その場に義妹一人しかいないのを見て、秀明が不思議そうに尋ねてきた為、美幸は困った様に説明した。
「それが……、小早川さんが拉致して行きました」
「……そうか。じゃあ入ろうか」
「はい」
 笑いを堪える表情の秀明に促され、美幸は家の中に入ったが、(結構飲んでいた様に見えたけど、大丈夫かしら?)と城崎の翌日の体調を心配した。


 案の定、翌朝城崎は生気の無い顔つきで出社し、それを見た他の面々は(よほど仕事の事で心労が溜まっているんだろうな)と涙を誘われたが、真実を知っていた美幸だけは(美子姉さんと美実姉さんに頼んで、小早川さんに制裁決定!)と即決し、密かに姉達に向けてメールを打ったのだった。





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