猪娘の躍動人生

篠原皐月

3月 爪を隠して牙を研ぐ

「こんにちは。皆、久しぶりね。ちょっとお邪魔します」
 頭上から不意にかけられた声に、一瞬美幸は誰の声かと訝しみ、次の瞬間勢い良く立ち上がって歓喜の叫びを上げた。


「課長!? 一体どうされたんですか?」
 その声に、その場にいた企画推進部の殆どの者が、いつの間にか入室していた二課課長の柏木真澄に目を向けると、真澄は微笑みながら答えた。


「事務手続きに必要な書類を、提出に来たの。夫に頼んでも良かったんだけど、他にも色々と職場復帰前にする事で、直に確認する必要のある物があったから」
「そうでしたか」
「お元気そうで何よりです」
 笑顔で部下達と言葉を交わしながら室内を進んだ真澄は、差し入れらしい紙袋を無人の課長席に置いてから、まっすぐ由香の机に歩み寄った。


「ええと……、あなたが渋谷さんかしら? 夫から話を聞いていたのだけど、お会いできて嬉しいわ。企画推進部二課課長の柏木真澄です。現在育児休業中ですが、復帰後は宜しくお願いします」
 そう言って真澄が差し出してきた手を、椅子を引いて立ち上がった由香は、握り返しながら挨拶した。
「渋谷由香です。先月、営業三課からこちらに異動になりました。宜しくお願いします」
 そして初対面の挨拶が問題無く済んだと周囲の者が思った瞬間、握手した手を解きながら、由香が何気ない素振りで問いを発する。


「ところで柏木課長にお会いできましたので、一つ質問があるのですが」
「何でしょうか? 業務に関する事なら、今現在この課を管理している、柏木課長代理に質問した方が良いと思いますが」
「いえ、個人的な事ですので」
「そうですか? 時間はありますし、私は構いません」
 不思議そうな顔をしながらも真澄は快諾し、その様子を机越しに眺めていた美幸は、無言で眉間にシワを寄せた。


(あの女、課長に向かって一体何を言い出す気なの?)
 美幸同様、室内にいた者は揃って心配そうな視線を向ける中、由香は遠慮なく尋ねた。
「柏木課長は、自分が自社トップの娘で美人である事で、有益性を感じた事は全く無いんでしょうか?」
 その問いに、真澄は真顔でちょっと考えてから、確認を入れる。


「有益性……。仕事上で、何らかのメリットが有ると言う事かしら?」
「はい、そうです」
「それなら山ほど有るわよ?」
「……そうですか。それはさぞかし、色々な方から便宜を図って頂いたんでしょうね」
 サラッと答えた真澄に一瞬呆気に取られながらも、すぐに由香ははっきりと皮肉と分かる口調で感想を述べた。しかしそれに対して、勢いよく立ち上がった美幸が盛大に噛みつく。


「ちょっとあんた! 幾ら何でも課長に失礼でしょうが!」
「仮にも先輩に向かって、あんた呼ばわりする方が、はるかに失礼よね!?」
「敬える先輩には、こんな口きかないわよ!」
「何ですって!?」
 忽ち女二人の舌戦が勃発したが、慌てて周囲が止めに入る前に、真澄が楽しげに笑いながら会話に割り込んだ。


「だってテンプレみたいなんだもの。美人な社長令嬢はコネ入社で仕事ができなくて、将来の婿候補を社内で漁りに入社するって」
 そう言ってクスクスと笑い出した真澄を見て、由香と美幸は呆気に取られた。


「え? テンプレ?」
「あの……、課長?」
「何? 藤宮さん」
 笑うのを止めて不思議そうに問い返してきた真澄に、美幸が困惑顔で理由を尋ねた。


「どうしてそんな風に見くびられたり馬鹿にされるのに、メリットが得られるんでしょうか?」
「ええと、分かり易く説明すると……。あ、ちょうど良い所に! 広瀬君、ちょっと手伝って?」
 その時、ちょうど外から戻ったらしい一課課長の広瀬の姿を認めた真澄が、気安く手招きする。対する広瀬も、今はまだ真澄が育休中であり、プライベートでの長年の友人として、気軽に声をかけてきた。


「おう、久しぶりだな、柏木。こんな所で何をやってんだ?」
 それには直接答えず、真澄は広瀬の腕を取って半ば強引に横に並ばせ、由香と美幸に向かって問いかける。
「さて、ここに同期入社の男女がいるとします。一人は美人の社長令嬢、もう一人は有名大学を優秀な成績で卒業したけど、コネも伝手も無いド庶民。さあ一見、仕事ができると思うのはどっち?」
「…………」
 室内が途端に静まり返り、由香が顔を引き攣らせていると、にこやかに笑いながら真澄が答えを催促してくる。


「ほら、さっさと答える。時は金なりよ」
「相変わらず、容赦ないなぁ」
 真澄の横で広瀬が苦笑した所で、少し離れた所から勢い良く右手と共に声が上がった。


「はい! 相手の基本データが全く無い状態では、どう見ても広瀬課長の方が仕事ができると思います!」
 自信満々でそう答えた蜂谷に、(お前は自分の直属の上司に向かって、仕事ができなさそうに見えると言ってる事が分かってないよな?)と、周囲の生温かい視線が突き刺さる。しかし真澄は気を悪くするどころか、微笑みながら彼を誉めた。


「蜂谷さん、良くできました。正直なのは良い事よ?」
「はいっ! ありがとうございます!」
 もしも彼に尻尾があったなら、きっとちぎれんばかりに左右に振っているであろうテンションに、美幸は本気で頭痛を覚えた。


(確かに正直なのは美徳かもしれないけど、このシチュエーションで馬鹿正直に答えるのは、あんたくらいだわ)
 そんな事をしみじみと美幸が考えていると、真澄が話を続けた。


「それで周りの期待度としては、女側は最低ランクの1、男側は最高評価の10とします。そして二人に同じ仕事をさせた場合、どちらも同レベルの期待度5程度の仕事をしたとすると、二人の相対的な評価はどうなるでしょう?」
 にこやかに、再度真澄が由香と美幸に尋ねると、二人は互いに顔を見合わせて口ごもった。


「それは……」
「さすがに……」
「はいっ! 端的に申し上げれば、女性側の評価は『思っていたよりやるじゃないか』と上方修正。逆に男性側の評価は『期待外れだな』と下方修正されると思います!」
 美幸達がはっきり口にするのを躊躇っている間に、再び蜂谷が元気良く答えた。それに再度真澄は笑顔で誉めたが、チクリと釘を刺しておくのを忘れなかった。


「今回も良くできました。ですが蜂谷さん。今は渋谷さんと藤宮さんに対して質問していましたので、勝手に横から答えないで下さいね?」
「もっ、申し訳ございません! 課長、渋谷先輩、藤宮先輩!」
「別に……」
「うん、気にしてないから」
 指摘された途端、自分達にペコペコと頭を下げ始めた蜂谷を、由香と美幸が素っ気なく宥めると、この間不思議そうにやり取りを聞いていた広瀬が、苦笑いしながら言い出した。


「そうなんだよな~。阿呆で使えない奴程、柏木の見た目と肩書きに惑わされてたし。挙げ句の果てに、俺に向かって『柏木君を立てる為に無理に能力を抑える必要は無いんだよ?』とか親切ごかして言ってきた、底抜けの馬鹿も居たぞ」
「あら、それは初耳」
「あまりにも阿呆らしくて、口にする気にもならなかったからな。そいつ、絶対お前のブラックリストに載ってるぞ?」
「じゃあ、確認してみる?」
「そうだな、久しぶりに」
 気安くそんな会話を交わしていた二人に、美幸が恐る恐る声をかけた。


「あの……、ブラックリストって何ですか?」
「知らないのか? 柏木が役に立たんと判断した、社内外の人間の一覧表だ」
「はい?」
 目を丸くした美幸や由香に向かって、広瀬はおかしそうに笑う。


「実際にそいつが失脚したり飛ばされたり不祥事が発覚したりした時に、そいつの名前を黒く塗り潰すのが、柏木の知られざる趣味だからな。それ位の女じゃなきゃ、『柏木の氷姫』なんて二つ名がつくかよ」
「…………」
 そして周囲が静まり返るのとは裏腹に、課長二人は楽し気に話を続けた。


「俺が知る限り、リスト抹消率は八割弱か?」
「八割五分に迫ってるらしいわよ? 清人が地道に情報収集をしてくれているし」
「相変わらずおっかねえなぁ……」
「あ、ごめんなさい。そう言えば入れてある引き出しの鍵は清人が持ってるから、今は見れないわ」
「ああ、それなら良いぞ。ところでなんで俺とお前が、たとえ話の例になったんだ?」
「渋谷さんから、私が美人で社長令嬢だから、さぞかし色々な恩恵を受けてきたのではないですかって言われたものだから」
「へえ? なるほどな」
「……何か?」
 そこで含み笑いで自分を眺めた広瀬に対し、由香は警戒の視線を向けたが、彼はそんな事には構わずに笑いを堪える表情になって言い聞かせた。


「一言言っておくが、こいつの最大の能力は人物鑑定眼だ。その判断を基準にして使える者は取り込む、使えない者は蹴落とす、邪魔な者は叩き潰す、どうでも良い者は放置。こいつと出会って以降、それは全くブレてない。覚えておいた方が良いな。俗に『能有る鷹は爪を隠す』と言うが、こいつを言い表す場合『猫皮被って爪を隠した虎は巣穴で牙を研ぐ』が妥当だから」
 それを聞いた美幸達が唖然とする中、真澄が笑いながら広瀬の肩を軽く叩く。


「嫌だ、広瀬君。酷い事を言わないで」
「真実だろうが。お前が、媚び売った男が靡いて喜ぶ女じゃ無い事だけは確かだろ」
「まあね」
 そこで真澄は急に真顔になって、改まった口調で広瀬に軽く頭を下げた。


「広瀬課長、お仕事の邪魔をして、申し訳ありませんでした。もう少し育児休業は続きますが、復帰後は宜しくお願いします」
「こちらこそ。完全復帰をお待ちしています、柏木課長」
 広瀬も心得たもので、同様に同僚の課長の立場で静かに一礼して、何事も無かったかのように自分の机に向かう。それを見送った真澄は、そのままの口調で由香に確認を入れた。


「それでは渋谷さん。途中で大幅に話が逸れましたが、私が美人で社長令嬢である事で、十分メリットがあった事はご理解頂けましたか?」
「……はい」
「それは良かったです。それでは皆さん、そろそろ失礼します。お仕事頑張って下さい」
「もうお帰りになるんですか」
「ええ、母に子供達を預けていますし」
 最初から長居はするつもりは無かったらしい真澄が、挨拶をしてあっさりと立ち去ろうとしたところで、その背中に鋭い声がかけられた。


「柏木課長!」
 その声に、真澄が足を止めて振り返る。
「どうかしましたか? 渋谷さん」
「私、負けませんから」
「何に?」
「……え?」
 気負い込んで言ったものの、真澄は素っ気なく言い返した。それに由香が戸惑っていると、真澄がたたみかける。


「課長の私に? 今現在の上司の課長代理に? 社内で自分に下された評価に? 自分を馬鹿にした同僚や後輩に? 尤も……」
 そこで言葉を区切った真澄は、不敵に笑いながら由香を見下ろした。
「一番負けているのは、あなた自身にかもしれないけど」
「どういう意味ですか?」
 完全に上から目線での挑発に、由香が表情を険しくしたが、真澄は朗らかに笑いながら言い放った。


「分からない? それなら、私が復帰するまでの宿題とします。安易に他人に答えを求めては駄目ですから、ある知恵を振り絞って考えておいて下さい。それじゃあ皆さん、お邪魔しました」
 そうして真澄が立ち去った後には、茫然とした由香が取り残された。
「何なの? あの人……」
 周囲の者も何と言ったらよいのか分からないまま黙り込んでいると、ここで会議に出ていた清人が戻って来た。


「どうしたんですか? 何か妙に静かですが」
 微妙な室内の雰囲気を察して、不思議そうに彼が尋ねてきた為、近くにいた美幸が簡単に説明した。
「課長代理。つい先程、課長がお見えになりました」
 それを聞いた彼は、机の上の紙袋も確認し、笑顔で問い返す。


「ああ、そう言えば、今日辺り顔を見せると言っていましたね。何か言っていましたか?」
「その……、渋谷さんがちょっと絡みまして……」
「絡んだって何よ!? 質問しただけでしょう?」
「因みに、どんな質問を?」
「それは……」
 清人がどこか愉快そうに、美幸と口論を始めた由香に尋ねたが、由香は気まずそうに口ごもり、美幸も無言になった。しかし空気を読まない事にかけては社内一と言っても過言ではない蜂谷が、ここでもしゃしゃり出る。


「ご主人様! 渋谷先輩は、自社トップの娘で美人である事で有益性を感じた事は無いのかと、女神様に尋ねていらっしゃいました!」
「そうですか」
「ちょっと蜂谷! あんたは黙ってなさい!」
 真っ青になって美幸は叱り付けたが、忽ち清人は不気味な笑みを浮かべながら、由香に確認を入れた。


「それであなたは、課長の答えに納得されましたか?」
「はあ……、一応は」
「それだけですか」
「はい、それだけで」
「いえ、女神様に向かって勝利宣言をされましたが、女神様は何に負けないつもりなのかと切り返され、一番負けているのは自分にだろうけど、この言葉の意味が分からないなら自分が復帰するまでの宿題にするので、自力で考えておくようにと仰いました」
「蜂谷!! もうあんたは黙って仕事してなさい!!」
 さくっと真澄の言葉を纏めて伝えた蜂谷に、美幸は頭を掻きむしりたくなったが、由香が更に顔色を悪くする中、清人は如何にもおかしそうに笑った。


「ほう? 宿題、ですか……。そういう事なら真澄の復帰まで、遠慮なくこき使ってやるぞ、渋谷。安心しろ、過労死なんてさせない。生かさず殺さずこき使うのは、俺の十八番だ。安心しろ」
「……え?」
 急にガラッと口調と声音を豹変させてきた清人に、由香は本気で困惑したが、何回か同様の極悪オーラを目の当たりにしてきた周囲の者達は、慌てて視線を逸らして自分の仕事に没頭するふりをした。


「真澄が何の為に、わざわざここまで出向いて来たと思ってるんだ。お前の品定めに来たに決まってんだろ。それ位分かれ。それなのに喧嘩吹っ掛けるとは、底抜けの馬鹿だな。しかもまともに相手にされもしないとは、道化もいいところだ」
「何ですって!?」
「ああ、道化だったら自分で動いて笑いは取れるからな。できそこないの操り人形と言うのがせいぜいか。道化に失礼だ」
「…………っ!!」
 明らかに冷笑された挙句にぶった切られ、由香は顔を強張らせた。


「やっぱりあの人、鬼だ」
「普段、丁寧な口調なだけに、毒を吐き出すと強烈ですよね」
 こそこそと机仕切りの陰で課員達が囁き合う中、清人が冷たく言い放つ。


「宿題を出すっていうなら、取り敢えず育休明けまでは扱いを保留って事だ。辞めたいって言っても辞めさせないからな。一応お前は、真澄から預かってる部下だ。良かったな。取り敢えず八月までは給料が貰えるぞ。真澄が要らんと判断したら、即座に退職金無しの懲戒免職で放り出されるがな」
「そっ、そんな事が」
「俺と真澄にできないとでも? お前が言う通り真澄は社長令嬢で、俺は社長の義理の息子でれっきとした取締役だ。お前の生殺与奪の権限なんてとっくに握っているのを、その足りない頭でもそろそろ理解しろ。懲戒免職なんて事になったら再就職もままならない上、縁談なんか持ち上がっても調相手に調べられた時に、面白おかしく噂が上がるだろうな。お前の人生、詰んだも同然だ」
「…………」
 全く同情などしていない口調で淡々と清人が述べた為、由香の顔色が蒼白になる。周囲も清人の顔色を伺いながら黙り込んでいると、彼がいつも通りの口調で部下達に声をかけた。


「皆さん、手が止まっているようですが、仕事の進み具合は順調ですか?」
「はっ、はいっ!! 順調です!」
「課長代理。戻られたので、早速目を通して頂きたい書類があるのですが」
「分かりました。持ってきて下さい」
 それからは通常運転に戻った二課だったが、どこかふらつきながら椅子に座って仕事を再開した由香の顔色が悪かったのを見て、美幸は自業自得とは思いながらも、ほんのちょっとだけ同情した。




「そういう事があったのか……。外回りから帰ったら室内が微妙な空気だったから、ただ課長が来て帰っただけではないなとは思っていたが……」
 その日、退社後に美幸と待ち合わせて和食の創作料理の店に入った城崎は、差し向かいでお通しに手を伸ばしつつ、しみじみとした口調で感想を述べた。それに美幸が一つ頷いてから、話を続ける。


「本当に、肝を冷やしましたよ。渋谷さんが絡んだのは予想通りと言えば予想通りでしたが、蜂谷があのタイミングで要らん事をペラペラと」
「あいつもある意味、忠犬だからな。それを上手く使うのも、上の力量って事だろ」
「それはそうなんでしょうけど……」
 苦々しい顔つきで訴える美幸に、城崎がガラス製の徳利を傾けながら苦笑する。それを見ながら、美幸は思い出した事を尋ねた。


「ところで係長は、あの話を知ってましたか?」
「あの話って?」
「課長が作っていた、ブラックリストの話です」
「ああ、勿論知ってる。以前見せて貰った事もあるしな」
 そこで城崎は小さなぐい飲みの中身を一気に飲んでから、真顔で言い出した。


「確かに課長は、俺が耳にした限りでも、入社直後から相当色眼鏡で見られていたらしいからな。だから逆に、純粋に課長の能力や人格を評価していた人物は、貴重だと言えるんだが」
「そうですよね。課長は有象無象の中から、きちんとそれをより分けたと」
「勿論、友人や知己の範囲が幅広くて多い、美幸の様な付き合い方が悪いと言っているわけじゃないぞ? 周囲とどういう人間関係を築くにしても、大事な所を外さなければ良いわけだから」
「そうですよね。城崎さんも誤解されやすいタイプですけど、周囲とは良い信頼関係を築いていますし」
 うんうんと納得した様に頷く美幸に、思わず城崎が尋ねる。


「誤解されやすいって……、どこら辺が?」
「ちょっと鋭すぎる目つきとか、武道をある程度極めた故の自然に醸し出される迫力とか、大抵の男の人の目線が上になる上背とか」
「……それは否定しないが」
 微妙に落ち込んだ城崎を、美幸はフォローするつもりで話を続ける。


「でもこれまで城崎さんが付き合って来た人達から、『最初は目つきが怖くて遠巻きにしていたけど、話してみると気さくだった』とか、『仕事で利害が対立している相手を容赦なく論破するのを見て、情け容赦ない人かと思ったら、実際は思慮深い人だった』とか、様々なパターンの誉め言葉を聞い」
「ちょっと待った! 付き合っていた人達って、一体誰から聞いた?」
 慌てて話を遮ってきた城崎に、美幸はサラリと答えた。


「誰って仲原さんと、夏江さんと、真柄さんです。あ、戸越さんも城崎さんの事を誉めてましたよ? 別れても元カノがべた褒めしてくれるなんて、よほどの人格者じゃ無かったら無理ですよ。流石ですよね! 思わず同期の友達に、城崎さんの自慢をしちゃいました!」
 彼女に元カノの情報をしっかり握られている上に、その周囲にそれが広まっている事を知って、城崎はどうして過去に社内で付き合う相手を見繕っていたのかと後悔し、がっくりと項垂れた。


「その同期の人達……、何か言って無かったか?」
「『美幸も負けない様に、女を磨きなさいね』でしたか?」
「そうか……。ところで、どうして彼女達から俺の話を聞こうと思ったんだ?」
 素朴な疑問を覚えた城崎が尋ねてみると、美幸は真顔で答えた。


「どうしてと言われても……。家で城崎さんと付き合う事になった話をした時に、一番上の姉が『じゃあ恋愛は真剣勝負だし、城崎さんの人となりとか恋愛遍歴を、これまで以上に徹底的に調べないとね』と言ったら、それを聞いた義兄が『そうだな。『己を知り敵を知れば百戦危うからず』と言うし』と笑ってましたから、色々皆さんから詳しい話を聞いてみようかと思い立ちまして」
「本当に、夫婦揃ってろくでもない……。皆も、何をどこまで喋ったんだ」
 本格的に頭を抱えてしまった城崎に、美幸は徳利を持ち上げて宥めながら酌をした。


「まあまあ。企画推進部二課は、周囲からの人望や信頼の厚い管理職が控えていて、安泰ですよね!」
「そう言って貰えると、嬉しいがな」
 それからは頃合いを見ながら出される料理を次々と平らげながら、二人で会話を楽しんでいたが、暫くして皿が下げられてテーブルが空いた時に、城崎が鞄から小さい箱を取り出した。


「じゃあ美幸、これはバレンタインのお返しなんだが、受け取って貰えるか?」
 そんな事を言われた美幸は、本気で驚いた。
「え? ああ、今日はホワイトデーでしたね。何か色々あって、すっかり忘れていました。でも、中身は何ですか?」
「開けて確認して良いぞ?」
「はぁ、それでは失礼します」
 そして美幸は掌に乗るサイズの箱に手を伸ばし、包んでいる包装紙を慎重に剥がし始めた。


(何だろう。こんなに薄くて小さいなら、お菓子の類じゃ無いよね? アクセサリーの類でも無いと思うんだけど……)
 そんな事を考えながら、包装紙の中から現れた箱の蓋を開けた美幸は、そこに意外な物を見つけた。


「名刺入れ、ですよね?」
「ああ」
「でも、これって本皮のしっかりした造り……。肌触りも良いしブランド品だし、相当高い物なんじゃありませんか? こういうのって、もっと偉くなってから使う物なんじゃありません!?」
 箱から取り出して詳細を確認した美幸が、些か狼狽気味に述べた台詞を聞いて、城崎がおかしそうに笑った。


「俺も昔、同じ様な事を言ったな」
「え? 昔?」
 キョトンとした顔になった美幸に、城崎が笑いながら事情を説明した。
「営業三課時代、課長と組んで仕事をしていた時の話なんだが、初めて一人で担当する会社を任された時に、課長から『記念と祝い』だと言って、これを貰ったんだ」
 そう言って城崎が内ポケットを探って取り出した名刺入れを、美幸はしげしげと眺めた。


「使い込んでますね。でも縫い目がしっかりしててほつれたりなんかしてないし、皮に良い感じに滑らかになって光沢が出ている感じがします。結構しますよね?」
 思わず金額を尋ねてしまった美幸に、城崎は笑って頷いた。


「ああ。当時でもそれなりにしたと思う。入社二年目の平社員が持つ様な物じゃ無いからと固辞したんだが、課長、勿論当時は俺と同じ平社員だったんだが、笑ってこう言ったんだ。『名刺入れもお財布も、安い物を使っていると、それなりの名刺やお金しか入って来ないものよ。分不相応な位が丁度良いの。気後れするなら、それにふさわしい名刺を入れる立場に、一日も早くなる事ね』ってな。それで改めて気が付いたんだ。課長と一緒に出歩いている時に見た名刺入れは勿論、財布もハンカチも一目で高価な物だと分かる代物だったって事に」
 それに美幸は、控えめに反論した。


「あの、でも……。確かに課長は、服も鞄も良い物を使っていたと思いますが、そんなに高い物を使っていたわけでは……」
 それに城崎は、苦笑して言葉を継いだ。
「言い方が少し悪かったか。勿論、金に飽かせた使い方をしていたわけじゃない。商談先で相手に不快感を与えるわけにはいかないからな。そこら辺のバランス感覚も、絶妙だと思うが。要するにどんな小物でもそれこそボールペンや万年筆に至るまで、値段に相応しい、本当に良い物を厳選して使っているという事だ」
「それはそうですね」
 説明を聞いて素直になった美幸に、ここで城崎が問いかけた。


「でも大抵の人間だって、周囲の目につく服や小物に関しては気が付くだろう? 現に美幸だって、身だしなみには気を付けているし」
「当然です」
「確かに、靴とかネクタイとかに気を付けている人間は多いが、咄嗟に商談先で出した名刺入れやハンカチが、とんでもない安物だったりくたびれている物だったら、それを目にした相手はどう思うかな? まあ、そこまで細かく見ている人間は、ごく少数だとは思うが」
 そこで言われた内容を真顔で考え込んだ美幸は、神妙に問い返した。


「……そこで、差が付きますか?」
 しかし城崎は、小さく首を傾げる。
「さあ……、どうだろう。幾ら立派な物を持っていても、所詮はそれを使う人間次第だ。だが逆に、本当にできる人間っていうのは、どんな些細な事でも自分の価値を下げるかもしれない行為は、自然と慎むものじゃないのか? 俺はそれを、課長から教わった。同時に、この人は本物だと思ったな」
 当時の事をしみじみと語った彼を見て、美幸は少し前にあった事を思い出した。


「それでこの前、私の名刺入れを見てたんですか?」
 それに城崎は、小さく頷いてから話を続ける。


「今使っている物は確かに可愛いし美幸らしいが、これから上を目指すなら、今からこれ位でもおかしくは無いかと。現に大企業の社長や会長とも、名刺交換する機会があるんだし。だが好みもあるだろうし、気に入らなければ引き取るから」
「いえ、ありがたく頂きます」
「そうか? 無理しなくて良いが」
 僅かに心配そうに申し出た城崎だったが、美幸はさっそく自分の名刺入れを取り出し、貰ったばかりの新しい方に中身を入れ替える作業をしながら、力強く宣言した。


「無理してませんよ。絶対これに入れるに相応しい立場の名刺を、きっと手にしてみせますから!」
「そうか。それなら良かった」
「本当に良い物をありがとうございます。大事に使わせて貰いますね」
 笑顔で改めて礼を述べた美幸に、城崎も満足そうに頷く。それから最後まで楽しく食べ終えた美幸は、城崎に送って貰って気分良く帰宅したのだった。


 ※※※


 三月も後半に突入し、年度末という事もあって何となく慌ただしく過ごしていた美幸達だったが、そんな時期に新たな不安要素が持ち上がった。


「城崎、瀬上、仲原。悪いが手が空き次第、部長室に来てくれ」
「はい」
「すぐ伺います」
 廊下から清人を引き連れて室内に入って来た部長の谷山が、若干険しい表情で二課に揃っていた三人に向かって呼びかけた為、彼らは何事かと思いつつも立ち上がり、連れ立って部長室へと向かった。そして広い室内の一角に、透明な壁で仕切られている部長室に入った後は、谷山は自分の席に着き、傍らに清人を立たせて何やら話を始めたが、その様子を眺めながら、高須と美幸が囁き合う。


「一体、何事だ?」
「部長、課長代理と一緒に、合同管理職会議に参加して来たんですよね? なんだか顔色が悪くありません?」
「絶対何か、面倒事だよな。課長代理はいつも通り、飄々としてるが」
 そして注意深く観察していると、ちょっとした異変に気付く。


「あの……、係長達が動揺して何か言ってるみたいですし、表情が険しくなってる様な気がするんですけど?」
「今度はどんなトラブルなんだよ……。個人的にも不安を抱えてるってのに、仕事で面倒事を増やしたくないぞ」
 高須が本気で呻いて頭を抱えた為、美幸は不思議に思って問いかけた。


「個人的な不安って何ですか?」
「今年中に、お前が義妹になる事だ」
「え? じゃあ美野姉さんとの結婚が本決まり……、ちょっと待って下さい。どうして私が義妹になる事に不安を感じるんですか? 納得できません」
「自覚しろよ!」
 一瞬喜色を露わにしたものの、すぐに不満そうな顔になって抗議してきた美幸に、高須は思わず叱り付けてから、重い溜め息を吐いた。
 そんな風にどこか不穏な気配を漂わせながら、美幸の社会人生活二年目が幕を閉じようとしていた。



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