猪娘の躍動人生

篠原皐月

8月 怒涛の幕開け

 組合主催のボウリング大会当日。美野と一緒に会場となっているボウリング場のフロアに入った美幸は、どこからともなく現れた高須に美野を任せ、キャリーバッグを引っ張ってロビーの隅から手を振りつつ呼びかけてきた晴香の元に向かった。


「美幸、こっちよ!」
「晴香、今日は頑張ろうね! 桑原君も田村君も」
 傍らにいた総司と隆にも明るく挨拶すると、彼等も笑って返す。
「ああ、豪華賞品が目白押しって噂だからな」
「ボウリングにはちょっと自信があるんだ。良いのを取ったら藤宮にやるよ」
「そんな気遣いは無用よ。欲しい物は自分で奪い取るわ!」
「奪う取るって、お前な」
 気合十分の美幸に総司が呆れた口調で窘めようとした所で、晴香が美幸の足元を見ながら怪訝な顔で尋ねてきた。


「美幸? 随分大荷物ね。二次会に出ないで、この後どこかに出かけるの?」
「違うわよ。マイシューズとマイボールを持参したのに決まってるじゃない」
 平然と言い切られて、美幸以外の三人の顔が僅かに引き攣った。
「……そんなもの、持ってたの?」
「あれ? 話した事無かったっけ? 二番目の義理の兄が、無茶苦茶上手で教えて貰って嵌っちゃって、揃えちゃったのよね。あ、でも浮きまくるから、ウェアは持って来なかったわよ?」
「ああ、そう……、うん、本当にあんたって、意外性の塊よね」
 溜め息を吐いた晴香の横で、総司が隆の腕を軽く引き、ボソボソと囁く。


「こいつの前で格好いいとこ見せたかったとは思うがな、今回は潔く諦めろ」
「……分かった」
 隆が暗い顔で頷いた時、そこにクリップボード片手にロビーを回っていた蜂谷が、美幸達の所にやって来た。


「失礼します、藤宮先輩。もう受付はお済ですか?」
「ううん、まだよ。今回幹事なのね。頑張って」
「ありがとうございます。ええと、藤宮先輩はシューズは持参されてますから、他の方はシューズの引換チケットが必要ですね」
 そうして三人の名前を確認して名簿にチェックを入れた蜂谷が、チケットを三枚渡し、最後に組み合わせ表を四枚美幸に渡した。


「これが今回の使用レーンの一覧表です。一人一枚お持ち下さい」
「ご苦労様。えっと、私はどこで誰と……」
 渡された用紙に早速目を通し始めた美幸だったが、挨拶をしてその場を立ち去ろうとした蜂谷を、鋭い声で呼び止めた。
「それでは失礼しま」
「蜂谷」
「なんでしょうか?」
「私、課長代理と同じ組で間違いないのよね?」
 その声に、他の三人が慌てて一覧表を凝視する。


「え? あ、本当だわ」
「しかもその他に浩一課長と、城崎係長?」
「何なんだ、この組み合わせは」
「はい。藤宮先輩なら、絶対直接対決を望まれると思いましたから」
 淡々と蜂谷がそう告げた瞬間、美幸はその用紙を放り出し、両手で蜂谷の肩をがっしりと掴んで、満面の笑みで彼を褒め称えた。


「グッジョブ、蜂谷!! この気配りを忘れなかったら、あんたは二十年後には柏木産業のポープよっ!!」
「ありがとうございます! 頑張ります!」
「見てらっしゃい!! 職場では敵わないけど、今日こそは打ち負かしてやるんだから!!」
 そうして今度は両手を腰に当てて高笑いし始めた美幸を、周囲の幾つかのグループが(何事?)と怪訝な顔で見やる。流石に恥ずかしくなって晴香が笑うのを止めさせようとした所で、蜂谷がボソッと呟いた。


「あのね、美幸」
「あ、先輩。柏木課長がいらっしゃってます」
 それを耳にした美幸は、弾かれた様に蜂谷の視線を追って顔を向けてから、彼にキャリーバッグを押し付けた。
「え? 本当だわ! 悪い、蜂谷、ちょっとこの荷物持ってて!」
「じゃあ使用レーンまで運んでおきますから」
「助かる! お願いね!」
 そして迷わず真澄の元に駆け出して行った美幸を見送った三人は、深い溜め息を吐いた。


「……完全に駄目だわ」
「もう誰にも止められないな。柏木課長と課長代理しか目に入ってないぞ」
「…………」
 同期三人から嘆かれている事など思ってもいないし気にも留めない美幸は、傍らに立つ女性と何やら話し込んでいた真澄の前に立ち、元気に挨拶をした。


「課長! お久しぶりです! 予定日は再来週ですよね。体調はどうですか?」
 既に臨月であり、はちきれそうに大きくなっている腹部を見て、思わず心配になった美幸だったが、真澄は穏やかな笑顔で言葉を返した。
「ええ、経過は順調よ。藤宮さんも変わりは無い?」
「はい。課長の抜けた分をフォローするなんておこがましい事は口に出来ませんが、二課は一丸となって頑張ってますので安心して下さい」
「それなら良かったわ」
 以前と変わらない上司の笑顔を見て、美幸の心も和んだが、ふと真澄の隣に佇んでいる女性に気が付いた。
 (そう言えば、課長代理が「万が一に備えて、観戦にくる真澄に付き添いを付ける」とかなんとか言ってたっけ。課長の御親戚とかだとも言ってたから、失礼のない様にしないと)
 そこで美幸は、その女性に軽く頭を下げて声をかけた。


「課長のご親戚の付き添いの方ですよね? 課長代理から話は聞いています、ご苦労様です。今日は課長のお世話を宜しくお願……」
 礼儀正しく挨拶をしようとした美幸の声が途切れ、そんな美幸を見て相手の女性の笑顔も強張る。
(あれ? この人、以前にどこかで見た様な記憶が……。どこでだっけ……。ナチュラルメイクだけど、もう少し明暗をはっきりさせて、ネイルとかピアスとか。あと、髪をショートじゃなくてロング……)
 数秒のうちに脳内をフル回転させて該当する記憶を探った美幸は、ある出来事に到達して目の前の女性を勢い良く指差しつつ、場所を弁えずに絶叫した。


「あぁぁぁっ!? あんたあの時の、課長代理の片割れの変態痴、むぐがぅっ!」
 かつて自分が目の前の女に押し倒されそうになった事実を、力一杯暴露しそうになった美幸だったが、いきなり口を塞がれると同時に背後から抱き付かれて拘束されたと思ったら、その人物が真澄に向かって焦りまくった口調で謝罪してきた。
「お久しぶりです課長! 付き添いの方もご苦労様です! お騒がせしてすみません。藤宮はゲーム開始前から興奮気味なので、ちょっと向こうで落ち着かせて来ますので、失礼します!!」
「お願いね、城崎さん」
「……ご苦労様です」
(係長!? 何するんですか! 離して下さいよっ!!)


 美幸の無言の訴えなどに配慮する気は毛頭なかったらしい城崎は、力任せに美幸を引きずり、周囲が唖然としている中その場から離れる。そして城崎は《STAFF ONLY》と書かれたプレートが貼られているドアを迷わず押し開け、従業員用の通路に押し入った。
 偶々通りかかった何人かのスタッフがギョッとした顔で何か言いかけたが、城崎の一睨みで蜘蛛の子を散らす様に逃げ去る。そして人気が無くなってから、慎重に美幸の口を塞いでいる手を離した。


「その……、何となく事情は分かった気がするが、一応聞かせて貰おうか」
「あの女! 入社一か月後に、課長代理と組んで私を押し倒そうとした痴女ですよ! あんな女を課長に近付けていているなんて、冗談じゃありません!!」
「やっぱりそうか……」
 自分の服を握り締めつつ怒り捲っている美幸を見て、城崎は額を押さえて呻いた。そんな中、美幸が盛大に訴える。


「係長! あんな得体の知れない女、即刻排除して下さい!」
「……それは無理だ」
「係長!」
 重々しく断言されて美幸は憤慨したが、城崎は美幸の肩を掴みつつ、真顔で言い聞かせてきた。


「彼女だったら俺は以前、課長達の結婚披露宴でも顔を合わせているし、先程課長と一緒に現れた時にも見たが、課長と随分仲良さ気に会話してる。課長に相当信用されている女性なのは、間違いないだろう」
「旦那同様、課長を騙して丸め込んでいるんじゃないんですか!?」
 思いつくまま美幸がそう叫んだ途端、城崎は目つきを鋭くさせた。


「藤宮。今の発言は、課長に対する侮辱にもなるぞ? あの人が下心ありありの人間を、そう易々と懐に入れる人だと思うのか?」
「……それは、そうかもしれませんが」
(う、係長、ちょっと怖いかも……)
 眼光鋭い城崎を見て若干頭が冷えた美幸に、彼が淡々と話を続けた。


「例の押し倒されかけた話を忘れてくれとは言わん。だが事実だろうが、あの人と彼女にとっては、軽い悪ふざけ程度だった筈だ。……百歩譲って、仮に彼女が女好きな女だったとしても、これまで課長が実害を受けているならあんな風に親しげに接していない筈だし、今日は俺達は同じグループだから、変なちょっかいは出させないから。ここは一つ不満を押さえて、余計な事は何も言わずにゲームしてくれ」
 静かにそう訴えられた美幸は、暫く無言になって城崎の顔を見返していたが、相手も至近距離から目を逸らさずに自分を凝視しているのに気付いて、何となく照れ臭くなってしまい、横を向きながら気の進まない口調を装いつつ呟いた。


「もう……、仕方ないですね。分かりました。係長がそこまで仰るなら、余計な事は一言も口にしません。約束します」
「そうか、そうして貰えると助かる」
 そこで如何にもホッとした表情になった城崎を見て、美幸は思わず笑ってしまった。


「あの女とは、初対面で、見ず知らずの女性ですから。その代わり、何かあったら、係長が責任持ってフォローしてくれるんですよね?」
「ああ、任せておけ」
 力強く請け負って明るく笑い、自分の頭を軽く撫でてきた城崎に、美幸は改めて安心感と親近感を感じた。
(仕事の時ならともかく、勤務時間外で係長をこんなくだらない事で煩わせちゃ駄目よね。それに、係長に任せておけば、変な騒ぎも起こらないわよ)
 そして何とか自分を納得させた美幸は城崎と連れ立ってフロアへと戻り、そのままボウリング場へと入って行った。そしてシューズを借りる城崎とカウンターで別れて奥へと進むと、先程の話題になっていた女性二人に出くわす。
 真澄と笑顔で会話している相手の女性に、一瞬気分を害したものの、真澄はいつもの顔を装って二人に近付いて行き、控え目に声をかけた。


「……課長」
 すると、話し込んでいた真澄が、美幸の方に振り返る。
「あ、藤宮さん。清人と浩一と同じグループなのよね? 今日は宜しくね」
「はぁ、それはともかく……。そちらの方は本当に課長の遠縁でご友人でしょうか?」
「ええ、以前からの友人よ?」
 如何にも仲良さ気に二人で微笑まれた為、美幸は(平常心、平常心)と自分に言い聞かせながら頷いてみせた。


「分かりました。こちらの方に色々問い詰めたい事はありますが、課長と係長の顔を立てて不問にします。その代わり……」
 そこで胡散臭い事この上ない相手にズイッと詰め寄った美幸が、低い声で恫喝する。
「見学中に課長に何かあったら、承知しないわよ? あんたそこの所、分かってるんでしょうね?」
「……肝に銘じておきます」
「宜しい」
 女性が殊勝に応じた為、美幸は取り敢えず納得する事にし、意識を試合に集中する事にした。


「それでは課長、申し訳ありませんが、今日は絶対に優勝して、あの嘘臭い笑顔を粉砕しますから! 私の勇姿を見ていて下さいね!?」
「……頑張ってね」
「はい!」
 そして真澄の応援の言葉に満面の笑みで頷いた美幸だったが、踵を返して自分のレーンに向かって歩き出した途端、険しい表情になった。


(そうよ。大事を控えているってのに、些細な事にこだわってちゃ駄目でしょう、美幸。それにあの課長代理の事だから、ひょっとしたら私が動揺してペースを乱す様に、わざとあの女を課長の付添いなんて口実をつけて、呼びつけたかもしれないわ。なんて姑息な奴なの!?)
 もの凄く勘ぐった挙句、清人に対する対抗心をこれまで以上に燃やし始めた美幸は、近くのベンチで並んで座り、何やら話し込んでいた城崎と浩一を認めて、硬い表情のまま歩み寄った。


「係長、浩一課長。今日は宜しくお願いします」
「やあ、こちらこそ宜しく藤宮さん。お手柔らかに」
 殊勝に挨拶をすると愛想良く笑いかけてきた浩一に、彼女は顔付きを改めて申し出た。
「それでお二人とも、ちょっと宜しいですか?」
「何だ?」
「どうかしたかな?」
 真剣極まりないその表情に浩一と城崎が僅かに身を乗り出すと、美幸は怖い位の表情で続けた。


「勝負は時の運です。引き分けは恥じゃありませんし、あと一歩及ばず1点負けで終わっても、誰も責めたりはしません。ですが……」
 そこで浩一と城崎の隣り合った肩を勢い良くガシッと両手で掴んだ美幸は、押し殺した声で恫喝した。
「もし、万が一、あの似非紳士野郎に2点以上差をつけられて負けたりしたら……、私がフルボッコにするのでそのおつもりで。通常ならともかく、今日は勝利あるのみです」
「…………」
 そして黙り込んだ男二人から手を離し、美幸は意気軒昂と叫ぶ。


「さあ、やるわよ! 今日こそは、あの陰険詐欺師をギャフンと言わせてやるんだから!」
 そんな美幸を浩一は驚いた様に眺めてから、城崎に心底同情する視線を向けた。そして城崎は(間違っても先輩達や、彼女以下のスコアなんか取れない)と悲壮な覚悟で試合に挑む事になるのだった。



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