猪娘の躍動人生

篠原皐月

7月 似非紳士の面の皮

 柏木清人が課長代理に就任し、二課を取り仕切る様になってから約三週間後。仕事中呼びかけられて課長席に歩み寄った美幸は、目の前の仮初の上司から前日提出した書類を返されつつ説明を受けた。
「藤宮さん。この高科繊維の不織布を売り込む予定の会社ですが、ここには既に競合社の類似品が納入されています。それを覆すのは難しいですし、この不織布の特性を本当に活かすつもりなら、新たな販路を探った方が良いのでは無いでしょうか?」
「はぁ……」
 書類を受け取りながら美幸が不満げな表情をすると、彼は更に言い聞かせてくる。


「これまでは高科繊維の商品納入先は衣類メーカーに限定されていましたが、この強度と均一性を特性として売り込むなら、医療用基材、インテリア用品、手工業品素材としても使用できる可能性はある筈です。先方の開発担当者と、再度売り込み先の検討をお願いします」
「……分かりました」
 確かに従来の販路では大幅な需要増加は見込めないと思っていた矢先であり、美幸は書類片手に大人しく引き下がった。そして自分の席に戻るなり参考になるデータを探し始めたが、その合間に窓際に座る男をこっそりと横目で見やる。


(くうっ……、何か笑顔が胡散臭くてどこかいけ好かない奴だけど、仕事はできるのよね。有り得ない事に。本当に作家なんてやってたのかしら?)
 忌々しげにそんな事を考えつつ、美幸はふと手を止めて考え込んだ。
(でも……、何かどこかで会った様な気がするのよね。いつだったかな? 学生時代ではないと思うんだけど……。そうすると就職して、皆さんに付いて外回りに行った時とかかしら?)
 そこで一年ほど前の記憶を丹念に掘り起こした結果、今まで完全に忘れ去っていた、とある出来事を記憶の底から引っ張り上げた美幸は、清人を指差しつつ勢い良く立ち上がり、室内の隅々にまで響き渡る大音響で叫んだ。


「ああぁぁぁっ!! そうよ! いつかどこかで見た顔と、聞き覚えのある声だと思ったら! やっと思い出した!! あの時の痴女と美人局つつもたせ変態カップルの片割れじゃない、あんたっ!!」
 その台詞に城崎が顔を蒼白にして勢い良く立ち上がり、他の者達もギョッとして一斉に美幸に視線を向ける中、美幸は課長席に座る清人を指差しつつ詰問する。
「ちょっと、この変態! 白昼堂々女に女を車に引っ張り込ませて、一体何をする気だったのよ!?」
「……藤宮さん。申し訳ないが、何の事を言っているのか皆目見当が付かないんですが? 取り敢えず、自分の仕事をして貰えませんか?」
 しかし清人は余裕の笑みで椅子に座ったまま書類を処理し続け、それが余計に美幸の勘に障った。


「白々しいわね。じゃあはっきり思い出させてあげるけど、去年……、ぅぐっ。もがぁっ! って、きゃあぁぁっ!!」
 そこで素早く美幸の元に駆け寄った城崎が、美幸の後ろから抱き留める様にしながら片手で口を塞ぎ、背後にずるずると引きずった。そしてスペースが空いている場所まで来ると、素早く彼女を肩に担ぎ上げて清人に申し出る。


「柏木課長代理! 申し訳ありません! 藤宮は朝から体調が悪いらしく、意識が朦朧としている様なので、このまま医務室に連れて行きます!」
 周囲の者達は唖然としてその光景を見やったが、清人は微塵も動揺せず、鷹揚に頷いてみせた。
「ああ、そうだったんですか。体調ではなく、頭が悪いのかと思っていました。これ以上騒がれると他の方の仕事にも支障が出ますので、ゆっくり休ませてあげて下さい」
「なぁんですってぇぇぇっ!?」
「失礼します!」
 清人の物言いに、美幸は担がれたまま顔を上げて憤慨したが、城崎は軽く頭を下げてそのまま部屋を足早に出て行った。


「ちょっと係長! 降ろして下さい!! どうして私が荷物担ぎされなきゃいけないんですか!? ふざけないで下さいよっ!!」
 怒りに震えながら自由になる両手で城崎の背中を叩きつつ絶叫した美幸だったが、城崎は無言でそのまま廊下を進んだ。
「係長! いい加減降ろして下さい!」
「分かったから、そう喚くな」
 すれ違う社員達の驚きの視線に構う事無く城崎は歩き続け、フロアの端、昼前の時間帯では人気の無い休憩スペースに辿り着いた。そこで漸く肩から慎重に美幸を降ろしたが、その途端に彼女が盛大に喚き出す。


「あの変態似非紳士野郎! 何涼しい顔してんのよっ!」
「だから落ち着け! 一体課長代理が何をした!?」
「女を使って私を待ち伏せしてその女に車に引きずり込まれて襲われそうになった所を殴り倒して撃退しました!」
 真顔で一息に報告された内容に、城崎は盛大に顔を引き攣らせた。


「それはいつの話だ?」
「入社して1ヶ月後位だったかと思います。その挙句『見境の無い女好きじゃないらしいから良い』とか何とか訳の分からない事を言って、女と二人で逃走しまして。私とした事が……、サングラス如きで誤魔化されて、三週間も気付かないなんてぇぇぇっ!!」
「そんな話、今まで職場でした事はなかったよな?」
 悔しさの余り再び絶叫した美幸に、城崎は一応確認を入れてみたが、素っ気ない答えが返って来る。
「余りにも馬鹿馬鹿しくて話す気にもなれませんでしたし、実害は無かったですし、それ以降は影も形も無かったので、別に支障は無いかと思いまして」
「……そうか」
「あの時は、単なる通りすがりの《痴女と美人局の変態カップル》だと思ってたのに……」
 もう色々諦めた城崎の横で、美幸がプルプルと拳を振るわせてから、怒りが再燃した様に城崎に掴みかかった。


「その片割れが、どうして課長と結婚してるんですか!? 納得のいく説明をして下さい! 絶対何か知ってますよね? と言うか、係長は何年も前からあの課長代理の手下ですよねっ!! 是非、納得のいく説明をっ!!」
 両腕を掴まれてガクガクと揺すぶられながら、城崎は哀願の眼差しを美幸に向けた。
「手下…………。確かにそう見えるかもしれないが、あの人と十把一絡げにしないでくれ。頼むから」
「じゃあ取り敢えず、パシリと言う事で」
「…………」
 ここに第三者が居たなら(手下とパシリとどう違うんだ?)と盛大な突っ込みが入りそうであったが、生憎二人きりの上、美幸が大真面目だったので、それに対するコメントを城崎は慎重に避けた。そして言い難そうに口を開く。


「藤宮があの人にちょっかいを出されたのは、ひょっとしたら、と言うか……、九割位は俺の責任だ」
「どうしてですか?」
「当時、あの人に『最近職場で何か変わった事は無いか』と聞かれて、つい正直に『危ない位課長が大好きな新人の女性が入った』と報告をした経緯があって……」
 美幸から視線を逸らしながらそう述べた瞬間、城崎は彼女に渾身の力でネクタイを締め上げられた。


「係長! 私は純粋に課長を尊敬して敬愛しているのであって、疚しい気持ちなんか当時も今もこれっぽっちも有りませんけど!? 」
「今は分かり過ぎる程分かってる! だがやっぱり当時、君の課長に対する熱愛ぶりが気になってたんだ!」
「それのどこが悪いんですか!?」
「いや、どこも悪く無い。本当にすまん!」
「って言うか、それ以前にあのろくでなしに私を売った事になりますよね? 私の事が好きだとか一目惚れした云々は口からでまかせですか!?」
「でまかせなんかじゃないから! 現に口を滑らせた後、酷い事はしない様に自爆覚悟で懇願したし! 君も職場で何も言ってなかったから、本当に何も無かったと思ってたんだ!」
「言い訳になりますか!!」
「すまん! あの人は本当に、昔から病んでるから!」
 美幸の手を押さえつつ、結構切羽詰った叫びを城崎が上げると、美幸は途端に怪訝な顔になった。


「はぁ? 課長代理ってどこかどう悪いんですか? と言うか、それが今の話に何か関係があるんですか?」
「あの人は課長に関して徹底的に頭の中が病んでるから、課長に少しでも不穏な臭いのする人間が近付くのは看過できないんだ」
 城崎が真顔で断言した内容を頭の中で反芻した美幸は、一拍遅れて半眼になりつつ城崎のネクタイから手を離した。


「…………なんだか、もの凄く納得できました」
 そう美幸が呟くと、城崎がネクタイを直しながら、あからさまにホッとした様な顔で話を続ける。
「そういう事だから、あの人は《そういう人間》だと諦めてくれ。だが基本的に優秀な人だし、下手に刃向かったりしなければ、俺達は《課長の部下》で《課長の手足》だから、今後さっき言った様な手出しはされない筈だ。それは保証する」
「はぁ……」
 美幸がそれを受けて曖昧に頷くと、城崎は慌ただしく財布を取り出し、そこから五千円札を一枚取り出して美幸に握らせつつ早口で指示を出した。


「とにかく、君は医務室で休んでいる事にしておくから、二時間位外で気分転換して落ち着いたら戻って来てくれ。もうじき昼時だし、これは好きに使って良いから。友達とでも食べてくれば良い。じゃあ悪いが俺は戻る」
「係長? ちょっと待って下さい!」
 そうして引き止める隙も無く、城崎は走り去って行った。
「行っちゃった……。どうしよう」
 確かに今職場に戻っても、以前の事を蒸し返しそうで冷静に仕事はできないかもしれないと思った美幸は、手の中のお札を見下ろしながら少しの間考え込んだ。


「……それでこれ? いきなり奢るなんて言われて、変だとは思ったけど」
 そんな城崎とのやり取りを、社屋ビルに近いレストランで一緒に二千円のランチコースを食べる事にした晴香に告げると、彼女は盛大に溜め息を吐いた。
「うん……。晴香、お願い。共犯になって?」
「共犯って……。後ろめたいならこんな使い方しないで、そのまま返せば良いでしょうが?」
 呆れて指摘してきた晴香に、美幸が常には見せない困惑した表情で言い返す。
「だって、なんか係長、色々切羽詰まった顔で言い聞かせてくるし、当時のお詫びもの意味合いも兼ねてお金を渡してくれたと思うから、綺麗に使い切った方が気が楽かなぁと思って」
 考え考えそう説明した美幸に、晴香もちょっと首を傾げてから賛同した。


「……それもそうね。じゃあランチで余った分で、レジで売ってるここの特製フィナンシェでも係長さんに買って行きなさいよ。それと私の分もお礼言っておいてね? 勿論、直に顔を合わせる機会があったらお礼は言うけど」
「うん、そうする」
「じゃあせっかくだから、美味しく頂きましょうか。食べ終わったら得体の知れない課長代理さんに言いたい事のあれこれは、きちんと封印しなさいよ? 係長さんに必要以上の気苦労をかけないように」
「それ位分かってるわよ。子供じゃないんだから」
「どうだか」
 それから女二人で楽しく会話しつつ、滅多に食べないコースを昼から堪能し、美幸は機嫌よく職場に戻った。
 しかし室内に入る直前、自分がした事が職場放棄とも言える行為である事を思い返し、若干気後れしたものの、美幸の顔を見るなり「藤宮先輩、もう大丈夫ですか!?」と吹っ飛んで来た蜂谷が大騒ぎした為、それを宥めているうちに却って落ち着き、周囲の者達も苦笑いで見守る中、すんなりと業務に入る事ができた。そして持ち帰った紙袋を素早く鞄にしまった美幸が机で仕事に没頭していると、課長席から「藤宮さん、来て貰えますか?」と呼びかけられ、自分に(平常心、平常心)と言い聞かせながら美幸はそちらに出向いた。


「接待、ですか?」
 先程から何やら清人と話し込んでいた川北から簡単に説明を受けた美幸は、意外に思いながら問い返した。それに川北が頷いて説明を続ける。
「ああ。外回りの経験を積ませるために回った先で、宮崎ダイオードにも商談で何回か出向いただろう?」
「はい、覚えています」
 するとそこで川北が、何故かあまり気が進まない様な口振りで話し出した。


「今回そこの部長さんと課長さんを招いて一席設けようかと思ってるんだが、先方が是非藤宮さんに同席して欲しいと言ってきて……。今度の木曜だけど、予定が有って無理なら構わな」
「とんでもありません! 予定は有りませんし、有っても空けます。だってこれはれっきとしたお仕事ですよね?」
 自分の台詞を遮って了承してきた美幸に、川北が気圧されながら頷く。
「うん……、まあ、仕事、なんだけどな……」
「何でもやります。お任せ下さい!」
「課長代理……」
 力一杯叫んだ美幸に、川北が困惑気味に清人に顔を向けたが、対する清人はにこやかに笑って話を終わらせた。


「やる気があって結構ですね。それではお二人にお任せしますので、上手く場を盛り上げて下さい。くれぐれも粗相の無い様にお願いします」
「誰が粗相をすると」
「分かりました。それでは失礼します。ほら、藤宮さん、行こう!」
「分かりました」
 清人の物言いに思わず喧嘩腰になった美幸を引き剥がし、川北は自分の机に戻った。そして別な列の向こう側で、美幸が何やらブツブツと悪態を吐いているらしいのを小耳に挟みつつ、溜め息を吐いていると、空いている手近な椅子を引き寄せてその横に座りながら、城崎が声をかける。
「川北さん、宮崎ダイオードに何か問題でも?」
「いえ、会社自体に問題は無いのですが……」
 何故か言い渋る川北に城崎が怪訝な顔になったが、ここで川北の隣に座っている清瀬が、椅子を滑らせて近寄りながら囁いてきた。


「ひょっとして……、接待する部長ってのは、あそこの営業部の鎌田部長か?」
「そうです」
「あれか……。川北君が渋るのも分かるな」
 横を通り過ぎ様として足を止め、唐突に声を潜めて会話に加わってきた清瀬に、城崎は益々困惑した表情になる。
「林さんも清瀬さんも、良くご存知の方なんですか?」
 その問いかけに、二人はチラリと互いの顔を見合わせてから、真顔で城崎に報告した。
「仕事ぶりは知らないが、同業者の間では女好きで有名だな」
「社内でも有名で、そいつの下に女性社員が居付かないとか」
「…………」
 途端に眉間に皺を寄せて険悪な表情になった城崎を宥めようと、川北が慌てて弁解してくる。


「ま、まあ、同席する宮部課長は良心的な方ですし、俺もできるだけ気を配ります。あまり心配しないで下さい」
「ですが……」
 納得しかねる顔つきで城崎が何か言いかけたが、そこで清瀬が口を挟んだ。
「そう言えば、川北君はさっき藤宮さんを呼ぶ前に、課長代理と何やら話し込んでいたな。ひょっとしてその事を?」
「はい、一応課長代理の判断を仰ごうと思いまして」
「それで、課長代理は何と言ったんだ?」
 その林の問い掛けに、川北は城崎の視線を気にしつつ、控え目に告げる。
「それが……、『彼女が簡単に喰われるタイプだと? いつかは接待の席を自分で取り仕切らないといけない時が来ます。経験させておくのに早過ぎる事は無いでしょう』と、あっさりスルーされました」
「…………」
 それを聞いた城崎は益々憮然とした顔になったが、清瀬と林は逆に考え込んだ。


「……そうだな。確かに課長代理の考えにも一理ある」
「少し早いかもしれないが、本人はやる気十分だし。世の中にはもっと質の悪い輩がゴロゴロしているから、ここら辺で経験させておくのも良いだろう」
「そういう訳だから、係長」
「気の毒だが、今回は手出しや口出しは一切無しと言う事で、様子を見ようか」
「……分かりました」
 年長者二人に口々に言い諭され、城崎は内心はともかく表面上は素直に頭を下げた。


「だが、何をされても良いと言う訳じゃ無いからな」
「川北君、そこの所のさじ加減は間違えない様に」
「それは心得てます。任せて下さい」
 そんな会話が自分の知らないところで交わされているなどとは夢にも思わない美幸は、新しい仕事を任された事で、その日1日機嫌良く業務を進めた。
 その日、帰り支度を始めた所で、美幸は昼に買い込んだ物を思い出したが、まだ残業している人間が半数程居る中で城崎に渡すのを躊躇った。密かにどうしようかと悩んでいると、どこかの部署に届けるのか城崎が書類を手に席を立った為、美幸も「お先に失礼します」と周囲に声をかけながら鞄を手に廊下へと出た。そして前を歩く城崎に駆け寄りつつ声をかける。


「係長!」
「うん? どうかしたのか?」
 すぐに足を止めて振り返った城崎に、美幸は鞄から取り出した紙袋を差し出した。
「これ、今日のお昼に、友達とお昼を食べに行った先で買って来たんです。美味しいので宜しかったらどうぞ。それと、御馳走様でした。友人からもお礼を言っておいてくれと言われましたので」
 そう言って美幸が頭を下げると、城崎は嬉しそうに微笑んで紙袋を受け取った。
「分かった。ありがたく貰うよ」
 そしてそのまま別れの挨拶をしようとした美幸だったが、その気配を察しながら城崎が声をかけた。


「その……、藤宮。接待の件なんだが……」
「はい、何でしょうか?」
「その……、あまり無理はするな」
「え?」
 かなり抽象的な物言いに美幸は怪訝な顔になったが、城崎は(正直にセクハラを受けるかもしれないからなどと言ったら変な先入観を植え付けて、上手くいく接待も上手くいかなくなるかも)などと懸念した為、どうしても奥歯に物が挟まった様な言い方になった。当然城崎の意図を読めなかった美幸が、些か的外れな事を言ってくる。


「段取をつけるのは主に川北さんがしているので、私は当日同席するだけですから、大して煩わしい事はありませんが」
「いや、確かにそうだろうが……、色々難癖を付けてくる質の悪い接待先もあるし……」
 城崎はさり気なく言外に匂わせてみたものの、予想通りそれは美幸には伝わらなかった。
「それって、料理が不味いとか、部屋のグレードが駄目だとかそういう事ですか? 有りそうですよね~。大丈夫です。ちょっとやそっとの嫌味でブチ切れたりしませんから。ご安心下さい」
「ああ……、大丈夫だとは思うが」
 そこで曖昧に笑って頷いた城崎に、美幸は元気良く挨拶をした。


「それではお先に失礼します」
「お疲れ」
 そして城崎に背を向けて歩き出した美幸は、(よぉぉっし、初接待、頑張るわよ!)と意欲を漲らせつつ家路についたのだった。





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