猪娘の躍動人生

篠原皐月

6月 年齢差

 課長の真澄が急遽産休入りし、社内の大部分の人間は当面二課の業務に支障が出るだろうと予想していたにも関わらず、課長代理に就任した柏木清人の下、二課の面々は滞りなく業務を執り行っていた。
「林さん、テイクアースの輸入申請の件はどうなっていますか?」
「双方の意見を摺り合わせた条件で、契約書を作成しました。チェックをお願いします」
「課長代理、今度の経営会議の資料です。特に大和総研との契約が今回話題に上るかと思いますが」
「それはこちらのファイルですね。目は通しました」
「課長代理、今日の挨拶回りは?」
「私だけで三社回って来ます。アポも取ってありますし、何かあったら連絡を」
「分かりました」
 そんな中、美幸は何とも言えない表情で課長代理を眺め、さらにそんな美幸の様子を城崎が密かに観察していたのだった。


「……おかしい」
「客観的に見ておかしいのはあんたよ、美幸。食事時に箸を握り締めて、しかめっ面しないでくれない?」
「だよな。飯が不味くなる」
「何がおかしいんだ?」
 久しぶりに同期四人で待ち合わせ、社員食堂で食べていた時唐突に眉間に皺を寄せて呟いた美幸に、晴香は溜め息を吐いて文句を言い、総司がそれに同調した。隆だけは真面目に仔細を尋ねると、美幸が箸を握り締めたまま三人に向かって僅かに身を乗り出しながら同意を求める。


「何で急に課長が交代したのに、滞りなく業務が回ってるわけ? いきなり現れたど素人の課長代理が、社内の関係部署の主だった面々の顔と名前を一致させてるわ、ニ課が扱う事業の詳細をきっちり把握済みだわ、取引先に妙に知り合いが多いわ、確かに以前から二課の情報を入手していたらしいけど、どう考えてもおかしくない?」
 そんな事を問い掛けられた三人は、美幸から微妙に視線を逸らしながら応じた。
「それは……、まあ、あれだ。その課長代理が優秀だからって事だろ?」
「その他にも、元々色々な意味で超越しているメンバーが揃っている部署だし? 何と言っても柏木産業の魔窟だし?」
「だけど業務が回ってるなら、喜びこそすれ、文句を言う筋合いじゃ無いと思うんだが」
 総司があっさり纏めに入ったが、美幸は納得しかねる顔つきで呻いた。


「それはそうなんだけど、何かもう課長代理のあの笑顔が胡散臭くて胡散臭くてしょうがなくて。あいつがニ課に来てから、頭の中で警戒警報が鳴りっ放しなのよね! あああ、何かムカつく!」
 一人で勝手に腹を立てている美幸を見て、晴香と総司は(やれやれ困ったものだ)と言いたげに肩を竦めたが、何故か隆だけは安堵した様に呟く。
「……そうか。藤宮は、ああいうタイプはお呼びじゃ無いんだ」
「は? 田村君、何言ってるの?」
 それを耳にした美幸に怪訝な顔で問いかけられ、隆は狼狽しながら答えた。


「あ、いや、その……、二課の課長代理は有名な作家だし見た目も良いし、入社して以来女子社員達が騒いでるだろ? だから藤宮がどう思ってるのかと思っててさ」
「どう思ってるって……、だからもの凄く胡散臭い男だと思ってるけど?」
 平然とそう言い切った美幸に、晴香と総司は本気で頭を抱えた。
「美幸……、あんた仮にも《上司の旦那》についてのコメントじゃ無いわよ?」
「加えて《現上司》だろ? 社内では『既婚者でも良い』って目の色変えてる女達もいるってのに……」
「ちょっと何よそれ。聞き捨てならないわ。まさか課長代理に浮気の誘いをかけた女が、社内に居るとか言わないわよね?」
 顔色を変えて美幸が問い質すと、三人はちょっと顔を見合わせてから、口々に言い出した。


「俺が聞いた話では玉砕してたぞ? アタックしたら『頭の中に教養と知識を詰め込んで、顔と胸と尻を整形手術したら、友人を紹介してやっても良い』とかなんとか言われたらしい」
「私が聞いたのは『今の君に一番必要なのは、自分を見つめ直す謙虚な心だ。それで真澄と張り合おうなんて笑止千万だな』と高笑いされたとか」
「俺も小耳に挟んだけど……、『俺と付き合いたいと言うのは冗談か? せめて笑える冗談を言ってくれ』と冷笑しながらぶった切られたとか……」
 そこで四人で顔を見合わせ、美幸と晴香は目を細めて悪態を吐いた。
「……最低野郎」
「容赦ないわね」
「でもほら、見方を変えればそれだけ愛妻家だって言える訳だし?」
「そうそう。妻が妊娠中って一番浮気に走り易い時期なのに、あっさり誘いを袖にするなんて偉いよな?」
 対する男二人は何とかフォローしようとしたが、隆が発言した途端、美幸に眼光鋭く睨まれる。


「偉い? 勘違い女を袖にするのは当然でしょうが! それとも何? 田村君は結婚相手が妊娠したら、これ幸いと浮気に走るタイプな訳!?」
「い、いや! そういう訳じゃないけど」
「じゃあどういう意味なのよっ!!」
(……馬鹿が)
(一言余計よね)
 美幸に怒鳴りつけられ、涙目になりつつある隆を見ながら、総司と晴香はとことん要領が悪い同期の事を、心の底から憐れんだのだった。
 そんなやり取りがあった週末、城崎から映画に誘われた美幸は了承し、二人で出かける事になった。


「はぁ~、面白かった。あのシリーズはずっと見てますけど、やっぱり今日のが一番ですね。カーチェイスもアクションも磨きがかかってましたし、話の流れも先が読めなくてドキドキしました」
 映画を観終わってから近くのカフェに入り、カフェラテを飲みながら美幸が笑顔で感想を述べると、向かい側でコーヒーを飲んでいた城崎が静かにカップをソーサーに戻した。
「そうか。それは良かった。少しは気分転換になったか?」
「はい、バッチリです! 前売り券をありがとうございました、係長」
「いや、知り合いから半ば押し付けられた物だし。正直こういうアクション物は人によって好き嫌いが有るからどうかと思ったんだが、楽しんで貰えた様で良かった」
 微笑みながらそう言って再びコーヒーを飲み始めた城崎を観察しながら、美幸はつい難しい顔になって考え込んだ。


(貰ったって本当かしら? 何かタイミング良いし。でも係長って私に一目惚れしたとか好きだとか宣言した後、職場で全然そんな事匂わせないし、こういうプライベートな時でも淡々として変に口説いたりしてこないし、一体何考えてるんだろう?)
 そんな事を真剣に考えていると、城崎が困った様な表情になって口を開いた。
「やっぱり気分転換にならないか?」
「え? 何がです?」
 我に返って問い返した美幸に、城崎が申し訳なさそうに話を続けた。
「俺が一緒に居ると、嫌でも職場の事を思い出すだろうしな。最近課長代理の事で色々あって、職場で始終難しい顔をしてるから誘ってみたんだが…。券だけ二枚渡して、誰か他の人間を誘って貰った方が良かったかな」
 そこで漸く誤解された上、変な気遣いをさせてしまった事に気付いた美幸は、慌てて両手を振りながら否定した。


「いえいえ、そういう事じゃ無いですから。今の今まで職場の事なんか綺麗さっぱり忘れてましたし」
「そうか? それなら良いんだが」
「そうですよ。第一、今考えてたのは、係長が……」
 そこで美幸は視界の隅に入って来た人影に反応し、店のガラス越しに通りの向こうを眺めながら、不自然に言葉を途切れさせた。当然美幸の異常に気が付いた城崎は、怪訝な顔で美幸の視線の先を目で追いながら尋ねる。


「俺がどうかしたのか? それに、外に何か」
「あのすけこまし野郎! 決定的瞬間を押さえてやるっ!!」
「え? ちょっと待て! どうした、藤宮!」
 いきなり怒鳴り声をあげながら美幸がバッグ片手に立ち上がり、何の断りも入れずに外に駆け出して行った為、城崎は仰天した。そして慌てて自分も後を追おうとしたが、店員に控え目に引き止められる。
「あの、お客様。お支払をお願いします」
「あ、ああ、申し訳ありません」
 流石に無銭飲食の真似はできないと城崎が焦って会計を済ませている間に、歩道に出た美幸は車が行き交う車道を一直線に駆け抜け、バッグから取り出した携帯を素早く操作しながら、少し前を手を繋いで歩いている一組の男女に追い縋りつつ、その背中に怒声を浴びせた。


「こら、そこのバカップル止まれーっ!!」
「え?」
「うん?」
 ひょっとして、自分達の事か? とでも言う様な表情で手を繋いだまま二人が背後を振り返った時、その姿を携帯のカメラ機能で撮影した美幸が、清人を指差しながら憤怒の形相で宣言した。


「早々に馬脚を現したわね、この八方美人すけこまし野郎! 課長が妊娠中にそんな若い愛人侍らせて、豪遊とはいい度胸よね!? 即刻課長に報告してやるわっ!!」
 すると手を繋いでいた、明らかに学生と分かる雰囲気と服装のポニーテールの彼女が真っ青になり、清人と繋いでいた手を離し、千切れそうな位手を振りながら否定してきた。
「あああ愛人!? いえ、あの、違います! 私そんなんじゃ!」
「現場を押さえられたのに言い逃れする気? 往生際が悪いわよ!?」
「そうじゃなくて、そ、そうだ身分証! 免許証はまだ持って無いし学生証……、ああぁ今日持って無かった!」
 狼狽しまくって手荷物を漁り始めた彼女を、清人が平然と宥める。
「落ち着け清香。仮に学生証を持ってても、お前が『佐竹清香本人』だと証明できても、『柏木清人の妹』の証明はできないぞ?」
「じゃ、じゃあどうすれば! 愛人に間違われたなんて真澄さんに知られたら怒られちゃう!」
「怒りはしないと思うぞ? 寧ろ腹を抱えて爆笑しそうだ。その場合早産とかしそうだから、確かに耳に入れない方が良いかもな」
「だからお兄ちゃん、どうしてそう冷静なわけ!?」
「……え? お兄ちゃん……、妹?」
 二人のやり取りを聞いて固まっていた美幸に、漸く車道を横切って追いついた城崎が切羽詰った声で叫んだ。


「藤宮、誤解するな! その子は課長代理の妹さんだ!! 披露宴に出席した時に顔を見たから!」
「やあ、城崎。休日も何かと騒がしいな、お前達は」
「……申し訳ありません」
 早速皮肉を飛ばしてきた清人に、城崎が顔色を悪くしながら頭を下げる。そんな中、美幸は恐る恐る清人の連れの女性に声をかけた。
「あの……、本当に妹さん?」
「はい、柏木清人、旧姓佐竹清人の妹の佐竹清香です。初めまして」
「その、……今現在、お兄さんの下で働いています。柏木産業企画推進部ニ課の、藤宮美幸です。初めまして」
 そうして何とも気まずい初対面の挨拶を済ませてから、お詫びに奢りますと美幸が強硬に申し出た為、先程のカフェに戻ってテーブルを挟んで向かい合う事になった。


「本当にとんでもない勘違いをして、申し訳ありませんでした」
 注文した飲み物が来てから(穴が有ったら入りたい……)という心境の美幸が改めて頭を下げると、清香は明るく笑って宥めた。
「あの、本当に気にしなくて良いですよ? 藤宮さん。私とお兄ちゃんは年が十歳以上離れてるし、顔立ちが全然似てないから、初対面の人に兄妹って見られる事の方が少ないんです。一番多いのが叔父と姪あたりで。流石に愛人って言うのは初めてで、ちょっと驚きましたけど」
「本当にごめんなさい。でも随分仲が良いんですね? 成人してからも手を繋いで歩いてるなんて」
 そう殊勝に口にしたものの、内心では(手なんか繋いで無かったら、そうそう変な誤解をしないで、様子を見てから追及したのに)と恨みがましく思っていたが、ここで清香が重い溜め息を吐いた。


「私は恥ずかしいから止めて欲しいと思ってるんですけど……、お兄ちゃんは《真澄さん大好き人間》であると同時に《筋金入りのシスコン》なので。この二十何年で諦めてます」
「そうなんだ。大変そうね……」
 そこで清香と美幸は揃って清人に何とも言えない視線を送ったが、本人は清香の隣で、そ知らぬふりでコーヒーを飲んでいた。すると何を思ったか清香がクスリと笑って話を続ける。


「二人で暮らしてた頃はもっと酷くて、正直ウザいと思ってたんですけど、お兄ちゃんの結婚を期に知り合いのお宅に下宿させて貰って、お兄ちゃんと会う機会も少なくなったので、偶に会った時位纏わりつかれてもしょうがないなと思う様になりました」
 それを聞いた美幸は、納得した様に力強く頷く。
「あぁ~、分かる分かる! それってあれでしょ? 所謂『亭主元気で留守がいい』って奴」
「そう! それです! まあ、偶にしか会えないから、その時位優しくしてあげようかな~って奴ですね。今は私の代わりに、真澄さんが纏わりつかれてるんだろうし」
「そうか~、清香さんが構われてる時、課長が『鬼の居ぬ間に命の洗濯』とかで羽根を延ばしてるのね。課長は産休に入って環境が変わって何気にストレスを溜めてるかもしれないから、土日にウザい旦那に纏わりつかれて鬱陶しい思いをしない様に、時々課長代理を呼び出して相手してあげてくれない?」
「はい、真澄さんの為に頑張りますね!」
 年が近く、妙に意気投合した清香と美幸が真澄や二課の話題で盛り上がっている横で、僅かに身を乗り出した清人が、向かいの席に座っている城崎に低い声で囁いた。


「……城崎」
「はい」
「俺は二ヶ月ぶりの妹とのデートを、堪能していた所だったんだが?」
 薄笑いを浮かべた清人に、冷え切った声音でそんな事を囁かれた城崎は、全身から冷や汗を流した。
「重ね重ねすみません。ですがこれは不可抗力で」
「後で覚えてろよ?」
「…………」
 もうそれ以上弁解する気力など無かった城崎は、表面上は平然としてコーヒーを飲み続けている清人共々、彼女達の話が一区切り付くのを、無言で見守ったのだった。


 そして表面上は無事にカフェを出て、笑顔で二手に分かれてから、美幸はしみじみと清香についての感想を述べた。
「さすが課長の従妹さんなだけあって、可愛いかったですね~、清香さん。あの得体の知れない課長代理と血が繋がってるとは、とても思えません」
「確かに一見似てないよな」
「…………」
 苦笑するしかない城崎がそう応じると、何故か美幸は無言で城崎を見上げた。その視線を感じた城崎が不思議そうに足を止め、美幸を見下ろしながら尋ねる。


「何か俺の顔に付いているか?」
 その問いかけに、美幸は軽く首を傾げながら言い出した。
「何も付いていませんけど……。私と係長って身長差が三十センチ近く有りますし、年も八歳離れているじゃないですか」
「それが?」
「課長代理と清香さんみたいに、並んで歩いてたら叔父と姪に間違われたりとか、手を繋いでたら愛人に見られたりするかな? と思いまして」
「…………」
 真顔でそんな事を言われた城崎は無言でよろめき、すぐ近くのビルの壁面に左手を付いて項垂れた。それを見た美幸が慌てて歩み寄り、城崎の顔を覗き込みながら声をかける。


「え? あの、係長。どうかしましたか? 何か急に気分でも悪くなりました!?」
「いや、精神的に色々きただけだ。正直、今のはちょっときつかった」
「え? 叔父と姪とかって、そんなにショックでした!? すみません! そんなに気にされると思わなくて! そう言えば係長って確かに三十過ぎてますけど、まだそんな微妙な年齢じゃ無いですよね!?」
「……何か今、とどめを刺された気分だ」
 城崎が空いていた右手で胸を押さえつつ、暗い声でそんな事を言った為、美幸は益々狼狽した。


「ええぇ!? すみません! これから気をつけます! 謝りますからお気を確かに!」
 美幸が両手で城崎の肩を掴み、揺すぶっていると、何か吹っ切れたらしい城崎が真剣な表情で言い出す。
「……よし、じゃあ二人で手を繋いだらどう見えるか、試してみようじゃないか」
「え? あああのちょっと、係長?」
 いきなり宣言したかと思ったら、城崎は問答無用で美幸の手を握り締め、歩道を歩き出した。
「さあ、早速あのご夫婦に聞いてみよう」
「聞いてみようって……、ちょっ、ちょっと係長、目が本気で怖いです! 正気に戻って下さい!」
(今日は映画を見て食事をするだけだった筈なのに、どうしてこうなるわけ!?)
 涙目の美幸を半ば強引に引き摺って行く様は、客観的に見れば誘拐事件の現場かと誤解されそうだったが、城崎が醸し出す物騒な雰囲気に咎めだてする者など皆無だった。





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