猪娘の躍動人生

篠原皐月

11月 嵐襲来

「おはようございます」
「おはよう、藤宮さん」
 その日、美幸はいつも就業時間に余裕を持って出社してくる真澄を出迎えようと、いつもよりも早目に職場に入った。周囲の皆も同じ考えだったらしく、大体の者が顔を揃えて自主的に手持ちの仕事をこなしているのを見て、美幸も溜まっていたデータに手を付ける。しかしなかなか真澄が出社してこない為、美幸は時計に目をやりながら隣席の高須に声をかけた。


「高須さん、いつもだったらもう課長は来ている時間ですよね。何かあったんでしょうか?」
「確かに遅いよな……、もうそろそろ就業時刻なんだが」
「あ、いらっしゃいました!」
 怪訝な顔を見合わせて二人が囁いていた時、ドアが開いてそこから噂していた人物が姿を現した為、美幸は表情を明るくして高須に声をかけた。そして二人は揃ってドアの方向に顔を向けたが、真澄の表情を見た瞬間ビシッと固まる。


「……おはよう」
「おはよう、ござい、ます……」
 怨念が籠った様な低音での真澄の挨拶に、辛うじて誰かが挨拶を返したが、その他は誰一人として声を発するどころか余計な物音も立てる事もできず、室内に不気味な沈黙が漂った。
「城崎さん、休んだ間の報告をお願いします」
「……分かりました」
 席に着くなり静かに出された指示を受け、城崎が平静を装いつつ予め用意していた書類を手に立ち上がる。そして課長席でそつなく報告を始めたが、他の者達はそれを遠巻きにしながら、不機嫌、かつ物騒なオーラを背負いつつ出勤してきた真澄の様子を、心配げに見守りつつ再び業務に取り掛かった。


「あの……、今日の課長、何か雰囲気が怖くありません?」
 美幸が高須に小声でお伺いを立てると、高須も渋面で返した。
「……怖いっつうより、もはや凶器だな。近寄ったら切れるんじゃないか?」
「どうしたんでしょうね……。土曜日にハッピーバースデーコールをした時は、機嫌は良かったんですが……」
 不思議そうに首を捻った美幸に、高須が呆れ顔で感想を述べた。
「お前そんな事してたのかよ。その時、何か余計な事でも言ったんじゃないのか?」
「ちょっと高須さん。人聞き悪い事言わないで下さい!」
「高須さん、藤宮さん!」
「はいっ!!」
 いきなり室内に響き渡った真澄の呼び掛けに、二人は反射的に立ち上がって真澄に向き直った。その二人を半眼で見やった真澄が、静かに冷たく告げる。


「仕事中は私語を慎むように」
「……申し訳ありません」
(どうしちゃったんだろう、課長……。謹慎中に何かあったのかしら?)
 とても口答えなどできる雰囲気ではなく、二人は深々と頭を下げて椅子に座り直した。それを見た周囲の者達は真澄の機嫌の悪さを目の当たりにして、黙ってひたすら各自の業務に勤しんでいたが、就業開始三十分で企画推進部二課に招かれざる客がやって来た。


「やあ、柏木課長、頑張っているようだね」
「……どうも」
 企画推進部の部屋は入り口から一番奥の窓際のスペースに、透明な壁で仕切られた部長室があり、そこから順に一・二・三課の順に簡単な仕切りで隔てただけで、所属する全員の机が並べられていた。当然出入り口から入って来て部長室に向かった総務部長の清川の姿は、課員全員が視界の隅に捉えていたが、話を終えたらすぐに出て行くと思っていたところ、真澄の机に真っ直ぐに歩み寄り、絡んできたのである。


(げっ……、清川総務部長)
(また課長に絡むつもりかよ……)
(よりによって、何でこんな時に顔を出すかな)
(とっととてめぇのシマに帰れ!)
 普段から何かと真澄を目の敵にしている清川の登場に、二課に所属する全員が頭を抱えて心の中で盛大に毒づいたが、周囲のそんな心境など分かるはずもない清川は、不自然な程上機嫌に真澄に話し掛けた。


「何やら社長に諭されて謹慎していたらしいが、きちんと気持ちは切り替えられたかね?」
「……お陰様で」
 椅子に座ったまま、PCの画面を見つつ手を動かし続ける真澄に、横に立っている清川は一瞬ムッとした顔をしてから、嫌味っぽく続けた。


「ほう? それは良かった。この前は君の失態で、年間二千万の契約をフイにするところだったからねぇ」
「……ご心配おかけして、申し訳ありません」
「いやいや、偶々先方の部長が、私の大学の同期で助かったよ。彼が穏便に事を収めてくれたから、柏木の名前にも傷が付かなかったからねぇ」
「何言ってやがんのよ、あのど腐れや……、むぅっ!」
「落ち着け、藤宮!」
「清川の前で暴れたりしたら、それこそ課長が何言われるか分からないわ!」
 清川がしたり顔で告げた時、美幸が憤慨して腰を浮かせかけたが、目の前の高須と背後の理彩に羽交い絞めにされ、小声で叱責されて何とか踏みとどまった。他にも何人か仕事の手を止めて剣呑な視線を清川に向ける中、真澄がチラリと清川を見上げて声を絞り出す。


「…………その際には、清川部長にはお骨折り頂き、ありがとうございました」
「これ位の気遣いなど、大した事は無いさ。それよりも柏木課長の今後の事が心配でねぇ」
「心配とは、何がでしょうか?」
 わざとらしく嘆息した清川に、真澄が精一杯忍耐力を発揮しながら静かに尋ねると、清川は半ば嘲笑しながら告げた。
「女だてらに仕事をこなしていたのは、流石に社長の娘だと感心していたんだがねぇ……。この前の事で分かったんじゃないのかな? 所詮女に管理職は無理だって」
「…………」
 そこで真澄が手を止め、黙ってPCのディスプレイを見つめているのを目にしながら、高須は一緒に美幸を押さえている理彩に、心底感心した様な声をかけた。


「仲原さん……、あんなのの下で、良く何年も働いてましたね?」
「今、自分の忍耐力が結構な代物だったと、再確認したところよ」
「……ふぐっ、……ぅうんっ! …………」
 そんな囁き声を交わしていると、真澄のすぐ前の席の城崎が清川に向かって冷え冷えとした視線を向けつつ、ゆっくりと立ち上がった。


「清川部長……、少しお言葉が過ぎると思いますが。仮にも管理職の立場にある方が、性別で能力の有無を判断した上それを公言するなど、柏木産業全体の見識も問われかねません。仮にも人の上に立つお立場なら、それを自覚されて口を慎んで下さい」
 口調こそ丁寧なものの、二課はもとより企画推進部所属の全員が城崎が激怒しているのが分かり、とても口を挟む事など出来ずに慄いた。清川もその気迫に一瞬気圧されたものの、自分の優位を信じて気を取り直し、吐き捨てる。
「はっ! 女の下で嬉々として働く様なプライドの無い人間に、どうこう言われる筋合いは無いな! そっちこそ黙りたまえ!」
「……仰いましたね?」
 剣呑な気配を身に纏わせつつ、自分に向かって一歩足を踏み出した城崎に恐れをなしながらも、清川は精一杯の虚勢を張った。


「ああ、言ったとも。本当の事だ、何が悪い。第一、貰い手が無くて嫁に行けないからって、いつまでも会社にふんぞり返っている女の尻拭いを、毎回させられるなど真っ平御免だな。身の程を弁えて、高望みしないで適当な所に収まれば良いものを」
「うっせぇぞ、このうすらハゲ」
「は? 何か言ったかね、柏木課長」
 城崎を避ける様に後ずさった為、いつの間にか課長席のすぐ横に立っていた清川が、横柄な態度で聞き取り損ねた言葉を真澄に尋ねると、真澄は勢い良くその場に立ち上がり、清川に向かって暴言を吐いた。


「聞こえなかったのか? うすらハゲっつったんだ! このボケチビゴマスリ野郎がっ!!」
「……なっ!?」
「…………」
 常には有り得ない真澄の暴言に加え、睨み殺しそうな視線を受けて流石に清川がたじろいだ。当然真澄の豹変ぶりを目の当たりにした部員全員が固まる中、真澄はすかさず両腕を伸ばし、問答無用で清川の喉を掴み上げて容赦なく絞め上げる。


「し、失礼だろう柏木課、うぐぁぁっ!」
「女は仕事が出来なくて、尻拭いが面倒で困るだぁ? はっ! 誰がてめぇみたいな腰巾着に、『面倒見て下さい』って頭下げた。あぁ!?」
「ぐぇぇっ! は、はなっ……」
「おい! ちょっと待て柏木!」
「柏木、落ち着け! お前達も黙って見てないで止めろっ!!」
 美幸達は完全に目の前の事態に付いていけず、ただ茫然と事の推移を見守っていたが、流石に管理職である一課長の広瀬と三課長の上原、部長の谷山は、肝の据わり方が違うらしく、血相を変えてそれぞれの席から真澄と清川の所まで駆け寄って叫んだ。しかし真澄の手を清川の首から引き剥がそうとした所で、広瀬と上原は城崎に腕を掴まれ、有無を言わせず真澄達から遠ざけられる。


「お騒がせして申し訳ありません、広瀬課長、上原課長。ですがこれは二課の問題ですので、お気遣い無く。すぐに解決しますし、ご自分の業務に専念して下さい」
「ちょっと待て城崎、取り敢えずこの手を離せ!」
「すぐ解決って、一体どうするつもりだ?」
 自分の腕をしっかり掴んでいる城崎の手を引き剥がそうとしながら、広瀬と上原が焦りつつ尋ねると、城崎が事も無げに答えた。
「簡単ですよ。あの小うるさいボケ中年が、息をしなくなったら静かになります」
(嫌ぁぁぁっ! 係長までキレてるっ!!)
 もはや高須と理彩も美幸から手を離して蒼白になる中、二課の面々は微動だにせず固まったままだった。本来ストッパー役だと思われていた城崎が、広瀬と上原をガッチリ捕獲してしまった為、清川から真澄を引き剥がす人員は谷山のみである。その谷山は狼狽しながらも、真澄が渾身の力で絞め上げている手に自分の手をかけて引き剥がしにかかったが、真澄は相変わらず清川に毒吐きながら、ギリギリとその喉を絞め上げた。


「例の二千万の契約だって継続出来たのは、何もてめぇの手柄じゃねえだろうが! したり顔でほざいてんじゃねぇよ!」
「柏木止めろっ! それ以上は拙い! 職場で死人を出す気かっ!?」
「上にはへいこらしまくって、陰で人の上前ばっかりはねてやがる、このコバンザメ野郎がぁぁっ!」
「ぐふぇっ……」
「皆、ボケッと見てないで、誰か内線で浩一課長か社長を呼び出せ! それと柏木課長を止めろっ!!」
 谷山の絶叫が室内に轟いたが、ここですかさず城崎が恫喝する。
「止めるなよ? 課長の好きにさせろ。邪魔する奴は俺がぶちのめす」
「城崎! 頼むからお前位は冷静になってくれ!! 有段者のお前が言うと洒落にならん!」
「俺はすこぶる冷静ですし本気です」
「城崎!!」
 そんな谷山の悲鳴と城崎の恫喝が室内に入り乱れた時、誰かから呼び出しを受けたらしい浩一が、泡を食って駆け付けた。


「……大体なぁ、二千万逃しかけた位でガタガタ言ってんじゃねぇ! あくまでも女が仕事が出来ないってほざくなら、週末までに新規契約で三千万取ってやろうじゃねぇか!!」
「……っ、ぐぅっ……、はっ……」
「何をやってるんだ姉さん!? その手を離すんだ!」
 未だ谷川の妨害をものともせず清川の喉を締め上げていた姉の姿に、浩一は顔色を変えてその手に組み付いたが、真澄は般若の形相で浩一に向かって吐き捨てた。
「冗談じゃ無いわ。こんな胸糞悪いオヤジと同じ空気を吸ってるのすら、もう一秒たりとも我慢できないのよっ!!」
「姉さん、落ち着いて!」
「五月蠅い! 邪魔するなら、次にあんたを絞め殺してやるわ! それまで黙って見てなさい!」
 そこで説得を諦めたのか、浩一は溜め息を吐いて真澄の腕から手を離し、一歩後ろに下がって平然と言ってのけた。


「……分かった。じゃあもう何も言わないで、黙って見させて貰う」
「おい、ちょっと待て!?」
「浩一課長!?」
 傍観の姿勢に入った浩一を見て、間近に居た谷川は絶句し、城崎に捕獲されていた広瀬と上原も狼狽した声を上げたが、浩一は軽く腕を組みながら真顔で告げた。
「その代わり、姉さんが絞め殺す寸前で、腕ずくででも俺に変わって貰う。姉さんを人殺しにするわけにいかないから、清川部長へのとどめは俺が刺す」
 その場を一気に凍り付かせる問題発言を浩一が口にすると、真澄は驚いた様に弟に顔を向けた。


「……浩一? そんな冗談」
「本気だよ? さあ、心置きなく締め上げてくれ」
 薄く笑いながら促された真澄だったが、それで頭が冷えたらしく清川からゆっくりと両手を離した。
「……んげっ。ぐはっ……、はぁっ」
 そしてへたり込んで必死で息を整えている清川を完全に無視して、姉弟のどこかのんびりした会話が交わされる。
「あれ? 息の根を止めるんじゃ無かったのかな?」
「それこそ浩一を人殺しにするわけにいかないわよ。凄く残念だけど止めておくわ」
「そう? それはお互いに何よりだったね」
 そこで苦笑した二人に向かって、清川が非難の声を上げた。


「……ま、全く、何をする気だ! 本当の事を言っただけなのに、二千万をフイにしかけたのも反省もせず逆恨みも甚だしいぞ! 第一、浩一君! 私は君の為にだな」
「余計なお世話です」
 冷たく浩一にぶった切られた清川は、尚も顔を赤くして喚いた。
「それに柏木課長! 大言壮語も大概にしろ! 週末までに新規契約で三千万なぞ」
「取れますよ? 誰かさんじゃありませんので」
 静かにそう述べた真澄に対し、清川は一瞬真顔になってから狡猾そうに笑った。


「……ほう、言ったな? じゃあ取って貰おうじゃないか」
「取れたら何かご褒美が頂きたいところですね」
「はっ! 何でもくれてやろうじゃないか。その代わり、達成できなかったら辞表でも出して貰おうか!」
「望むところです」
 落ち着き払って真澄が断言した内容に、課を問わず企画推進部の殆どの者が顔色を変えたが、清川は鬼の首でも取った様に上機嫌で声を張り上げた。


「言ったな? 後で吠え面かくなよっ!!」
「そっちこそ、後でそんな事を言った覚えがないとは言わせないわよ!?」
「大丈夫です課長。一連の会話は、このICレコーダーに録音済みです。後で清川部長に色を付けて払って頂きましょう」
 淡々とした口調で会話に割り込んできた城崎に視線を向けると、いつの間にか両手を広瀬達から離し、ICレコーダーを手に掲げ持って不敵に笑っているのを認めた面々は、半ば感心し半ば呆れた。
(係長、いつの間に……)
(やっぱりできる男は違う)
「覚えてろよ!」
 そんな捨て台詞を吐いた清川がよろめきつつドアから出て行くと、再度溜め息を吐いた浩一が、谷川達に向かって深々と頭を下げた。


「申し訳ありません、谷川部長、広瀬課長、上原課長。姉は今ちょっと情緒不安定で、今朝から家出してまして……」
「……何があった」
「家出って、おい」
「最悪だな」
 揃って呻く面々に、浩一が如何にも申し訳無さそうに付け加える。
「今週、色々ご迷惑おかけすると思いますが、宜しくお願いします」
 相手がそれに諦めた様に頷くのを見てから、浩一は二課の面々にも黙って一礼してから企画推進部を後にした。
 その間に真澄は自分の席に戻り、無表情でキーボードに両手を走らせながら短く指示を出す。


「……城崎、取るわよ」
「今日の課長が出る予定の興和薬工との打ち合わせは、代わりに俺が出ます」
「宜しく」
 短い指示でも伝わる阿吽の呼吸でやり取りすると、城崎は他の二課の面々に向けて有無を言わせぬ口調で矢継ぎ早に指示を出した。
「全員、金曜までの商談を前倒し。今日と明日午前中までに全て詰め込め。先方がごねるなら、締結金額を百万でも二百万でも、赤字が出ない範囲で値引け。この不況時だ、喜んで食い付いてくる。明日からは新規契約のみの案件にするぞ!」
「了解」
「早速取りかかります」
「課長、決済印をお願いします」
「すみません、柏木産業企画推進部の清瀬ですが……」
 常に年長者に対して敬語を使用している城崎がいきなり命令口調で指示を出した事にも驚いたが、周囲がそれに微塵も動じずにPCや電話に取り付き、慌ただしく部屋を行き交い始めた事に、美幸は呆然となった。そして思わず声を漏らす。


「いっ、一体何事?」
「課長と係長が本気になったんだよ! 五日で三千万取るぞ!」
 見ると隣席の高須まで血相を変えてファイルを捲りつつ受話器を取り上げており、流石に美幸は反論しかけた。


「ちょっ……、幾ら何でもそれは無理」
「藤宮。今日中にこれのデータを項目毎に纏めて、定型書式で作成」
「は?」
 自分の背後を土岐田が通り過ぎながら机に乱暴に放り投げていった書類の束を見て、美幸は固まった。しかしその驚きが醒めやらぬうちに、あちこちから声がかかる。
「藤宮、作成しておく書類のリスト、今メールで送ったからな。明日までやっとけ」
「三十分以内に、宮越精機から預かってるサンプルを揃えとけ」
「はあぁ?」
 思わず間抜けな声を美幸が上げた時、コピーを取りに立ち上がった城崎が、理彩の席の後ろで立ち止まった。


「仲原。明日はバイクで出勤しろ。好きなだけ走らせてやる」
 見下ろしながらのその一言で察したらしい理彩が、盛大に顔を引き攣らせる。
「あの……、まさかバイク便をやれと?」
「ガソリン代も通行料も全部出してやる。山手線内ならどこでも二十分以内に到達できると豪語したのを、証明して貰おうじゃないか。ただし……」
 そこで理彩の机にダンッと乱暴に片手を付きながら、城崎が理彩を冷たく見下ろしつつ念を押した。


「飛ばすのは構わないが捕まるなよ? 追われても手段を選ばずに振り切って、相手に書類を渡し終えてから捕まれ」
「……分かりました」
 強張った顔で辛うじて理彩が返事をすると、城崎は何事も無かったかの様にコピー機に向かい、美幸が理彩に体を寄せて囁いた。


「仲原さん、バイクに乗れるんですか?」
「……ええ、係長もよ。以前は一緒にツーリングしてたし」
「ああ、なるほど。それで知ってたんですね」
 半ば呆然と受け答えする理彩から自分の机に視線を戻した美幸は、今日からの五日間を思って暗澹たる気持ちになった。


(皆、今までに無い位殺気立ってる。それにこの分量。下手すると全員の事務処理が、全部回って来てるんじゃ……。全く、あのボケ清川のせいで!)
 そんな不満を抱えながら、とにかく仕事に取りかかった美幸だったが、午後になって二課に見慣れない人物がひょっこりと顔を出した。


「こんにちは。頑張ってる? えっと……、今年入った藤宮さん、だったわよね?」
「は、はい。あの、どちら様ですか?」
 主だった面々は全員出払い、理彩も他部署に書類を届けに行き、美幸の他は真澄が課長席で微動だにせず作業をしている所に、四十代半ばと思われる女性から明るく声をかけられて美幸は当惑した。すると両手に重そうなビニール袋を提げた彼女は、荷物を空いている机に乗せると美幸に向かって軽く頭を下げる。


「初めまして。加山恵美と申します。いつも主人がお世話になっております」
「い、いえ、こちらこそ、いつもお世話になっております!」
(加山さんの奥さん!? どうしてこんな時にいきなり職場に来るわけ?)
 そんな美幸の戸惑いなど気にしない風情で、恵美はにこやかに話を続けた。


「課長さんがお忙しそうなので、他に人も居ないしあなたにお願いしたいんだけど」
「はい、なんでしょうか?」
「このリストをコピーして、全員に配っておいて貰える? 押さえた部屋番号と、その部屋割りなの。各自の部屋に、夕方までに四日分の着替えと、その他必要品を届けてあるとも伝えてね。独身の三人は自分で持ってくるしかないけど」
「へ?」
 受け取った用紙に目を通すと、そこには柏木本社ビルから徒歩三分のシティホテルの名前と男性陣全員の名前と、その横に部屋番号が書かれてあった。


「それから、主人に伝えておいて欲しいんだけど」
「何を、でしょうか?」
 もう殆ど反射的に美幸が身構えると、恵美はにっこりと笑いつつ容赦が無さ過ぎる台詞を口にした。


「『三千万取るまでは帰って来なくて良いから。過労死しても保険金で当面の心配は要らないけど、死ぬなら来週以降よ』って。それじゃあこれはペット茶で、こっちは各種ドリンク剤。こういうのって、人によって拘りがあるから色々買って来ちゃった」
「えっと、あの……」
「私ができるのはこれ位だし。明日は祥子さんと由佳さんが来てくれるそうだから、私なんかより遥かに役に立ってくれる筈よ。じゃあ頑張ってね!」
「あの、ちょっと! 待って下さい! 祥子さんと由佳さんって誰ですか!?」
 慌てて美幸は立ち上がって引き止めようとしたが、持参したビニール袋の中身を説明し終えた恵美は、疾風の様に駆け去って行った。
 そして美幸が呆然と立ちすくんでいると、戻ってきた理彩が怪訝な顔で声をかけた。


「何突っ立ってるのよ、藤宮。あれだけの量の契約書の作成、もう終わったの?」
「終わって無いんですけど……。今週は、予想以上に過酷になりそうです」
「何を今更な事を……」
 そこで女二人はうんざりとした顔を見合わせつつ、無言でうなだれたのだった。





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