猪娘の躍動人生

篠原皐月

8月 事情と真相

 企画推進部全体での朝礼が済んで、各自が自分の課に戻って行くと、真澄は自分の机の前に部下を集め、先程紹介された二人について再度言及した。
「さて、それでは改めて紹介します。本日からうちに配属になった、仲原さんと瀬上さんです。皆、仲良くして頂戴」
「はあ……」
「宜しく……」
 部下達が引き攣り気味の笑顔や戸惑いの表情など気にもとめず、不気味な位機嫌良さそうに真澄が話を続ける。


「それで、仲原さんは営業関係の仕事の経験は無いから、当面の間は城崎さんが仕事のやり方を教えて下さい。藤宮さんには事務的な仕事は一通り教え済みでしょうから、当面私から仕事の指示を出すわ」
「は?」
「え?」
(ちょっと待って下さい!)
(課長、まさか彼女が係長の元カノだって、知らないのか!?)
 城崎と理彩が揃って固まり、真澄を見ながら間抜けな声を上げた。そんな二人を見て他の課員が互いの顔を見合わせながら、驚愕の視線を上司に送る。


「何か質問でも?」
「いえ、その……」
「城崎係長に、ですか?」
 口ごもった二人に対し、ここで真澄は含みのある笑みを見せた。
「あら、何か不服かしら?」
「いえ、その……」
「不服と言うわけではありませんが……」
「二人とも、まさか仕事にプライベートを持ち込むような、物を知らない新人の様な真似はしないわよね。入社して何年目かしら?」
(うわ、これは絶対知ってる)
(課長……、本当に見かけによらず鬼だ)
(分かってはいたが)


 如何にもわざとらしく小首を傾げて見せた態度で、その場全員が以前の二人の交際歴が、真澄にとっては周知の事実である事を悟った。それはしっかりと当人達にも伝わり、色々諦めて互いに頭を下げる。
「分かりました。ご指導宜しくお願いします」 
「いえ、こちらこそ」
 そうして二人にかなり強引に了承させた真澄は、瀬上を振り返った。


「瀬上さんには私から軽く業務の説明をしてから、すぐに実働要員として入って貰います。取り敢えず高須さん。日農元との提携業務を、瀬上さんと分担して頂戴。その方面には強い筈だから、取りこぼす事は無いでしょう。今後、順次手を広げて貰います」
「は、はいっ!」
「……分かりました」
 動揺著しい高須と苦虫を噛み潰した様な顔付きの瀬上に微笑んでから、真澄は机の並びを指差しつつ、機嫌良く次の指示を出す。


「それでは空いている机のうち、藤宮さんの隣の机が仲原さん。村上さんの隣が瀬上さんと言う事にしますので。説明は以上です。早速、業務を開始して下さい」
「はい……」
 課員全員静かに了承の返事を返したものの、容赦ない真澄の裁定に殆どの者は頭を抱えた。
(うわ……、課長、容赦なさすぎです)
(机の配置が微妙過ぎる)
(藤宮君と仲原君を隣同士にするのは、問題有り過ぎでしょう?)
(瀬上君を係長と背中合わせにするってのも……)
 そこで思い出した様に真澄が美幸に声をかけ、廊下に繋がるドアに向かって歩き出す。


「それから藤宮さん、ちょっと付いて来て」
「はい」
 それに美幸が固い表情のまま頷き、室内全員からの何とも言えない視線を背中に受けながら、真澄の後を追って廊下へと出た。そして角を曲がって人気の無い突き当たりで立ち止まった真澄は、腕組みして壁に寄りかかりつつ、美幸を見下ろして小さな笑いを零す。


「……到底納得できないって顔ね」
「当然です! どうしてあの人が二課に来るんですか!?」
「あなたへのペナルティー代わり」
「はい?」
 盛大に文句を言った美幸に、真澄は平然と答えた。そして咄嗟に意味を捉え損ねて当惑した顔を向けた美幸に、補足説明をする。


「仲原さん、あの件がきっかけで総務部に居辛くなってね。清川部長にちょっと声をかけてみたら、嬉々として私に押し付けてきたのよ」
「あの人が居辛くなったのは、自業自得じゃないですか!」
 鼻息粗く切り捨てた美幸だったが、ここで真澄は幾分目つきを険しくした。
「あなただったら、やろうと思えばあそこまで騒ぎを大きくせず、かつ彼女達をやり込める事は十分できた筈よね? 何と言っても《あの》桜花女学院で揉まれてきたんだから」
「それは……」
 流石に後ろ暗い所が有った美幸が口を濁すと、真澄がその期を逃さずたたみかける。


「この前も言ったけど、爪切りと目薬はやり過ぎだったわ。これに付いては私としても黙認する訳にはいきません。今後、あなたには同じ課の同僚として、仲原さんに接して貰います」
「ですが!」
「これは課長命令です。因みに私は肯定の返事しか聞きたく無いわ。それ以外の言葉を口にしたければ、異動願いを出してからにして頂戴。返事は?」
 反論しかけた美幸だったが、真澄の有無を言わせない物言いに、歯軋りしたいのを何とか堪えた。
「……分かりました。以後あの人と波風を立てない様に、努力します」
「そう、宜しくね」
 そこでいつもの笑顔で鷹揚に頷いた真澄は、何事も無かったかの様に今来た廊下を戻り始めた。


(……っ! 悔しいぃぃっ! 喧嘩を売って来たのは向こうなのにっ!)
 そして後に付いて歩き出した美幸は、傍目には変化が無かったが今までに無いくらい腹を立て、そもそもの原因とおぼしき人間に対して八つ当たりをした。
(そもそもっ! あの人達が変な因縁を付けて来たのは、係長のせいじゃない! 許さないんだから!)
 しかし心中はどうあれ、室内に戻った後の美幸は見事に目の前の仕事をこなす事だけに徹し、誰にも余計な口を挟ませなかった。
 そしてその日、終業時刻を過ぎて美幸が退社すると、表通りを歩き出した所で背後から軽く走り寄る足音が聞こえたと思ったら、聞き覚えの有り過ぎる声が横からかけられた。


「藤宮さん。そこまで一緒に帰らないか?」
「構いませんけど……。何かご用ですか? 係長」
 如何にも胡散臭い物を見るような目つきで見上げてきた美幸に、思わず城崎が苦笑いする。
「そうだな、用はあるな」
「それでは手短にお願いします」
 歩みを止めず、ツンとして正面に向き直った美幸に、城崎は(全く、手強いな)と笑いを堪え、並んで歩きながら話し始めた。


「随分機嫌が悪そうだな」
「今朝からのあれこれで、どうやって機嫌良く過ごせと?」
「しかし業務中は何とか猫を被っていただろう? それが終わった途端にこれだから、露骨過ぎて面白いな」
「仕事しろって課長に言われましたからねっ! 同僚の足を引っ張る程考え無しじゃありません! あまり人を見くびらないで下さい」
「それは悪かった」
 そこで真面目に頭を下げた城崎に顔を向け、美幸は心底嫌そうに言い放った。


「じゃあ珍しく定時で上がれたんですから、さっさと話とやらを済ませて、仲原さんと一緒にお帰りになったら良いんじゃありませんか?」
 追い払う様に片手を振る仕草をして見せた美幸に、一緒に立ち止った城崎が真顔で応じる。
「別に理彩と帰るつもりは無いから」
「無くても帰って下さいと言ってるんです。こっちが大人な対応を心掛けてるのに、またぞろ難癖つけられたらたまりません!」
 それは美幸の本心からの訴えだったが、城崎は口元に手をやりつつ、考える様な素振りを見せながら呟いた。


「それは……、大丈夫だと思うぞ?」
「……どうして断言出来るんですか?」
 益々胡散臭い物を見る様な視線を浴びて、城崎は正直に思うところを述べた。
「今日の昼休みの間に、一応二人で腹を割って話し合ったからな。本人は十分反省してて、これ以上騒ぎは起こさんと言ってたし」
「へぇ? それはそれは」
 ぴくっと片眉を上げた美幸の心境は城崎には手に取る様に分かっていたが、取り敢えず言おうと思っていた事を全て言っておくことにする。


「この前の事もちょっと周りに煽られた感があって、魔が差しただけだし。もともとあいつはネチネチした嫌がらせとは無縁の、結構気のいい奴だから」
「ああ、やっぱり係長は以前お付き合いしていただけで、仲原さんの事を良くご存じで。そうですか。そんな気がしてたんですけどね!」
(あぁぁっ! ムカつく! 何、この彼女の代わりに彼氏が弁解&謝る的展開は!!)
 怒りと苛立ちのボルテージが益々上がってきた美幸だったが、ここで城崎が唐突に話題を変えた。


「藤宮さんの同期の子とか、親しい人にさりげなく話を聞いてみたんだけど、今現在付き合ってる人とか居ないよね?」
「それが何か?」
 取り敢えず怒りを抑えて答えてみたが、城崎の不思議そうな問いかけは更に続いた。
「社内で色々声をかけられてるみたいだけど、後を引かない様に悉く上手くお断りしてるって聞いたけど?」
「誘うのは向こうの勝手でしょうが、こちらにも断る権利はあります。そんな事で仕事上での人間関係にヒビを入れたくありませんから」
「誰か理想の人がいて、お断りしてるとか?」
「そんな人は居ませんが」
「じゃあ俺と付き合わない? どうも直属の上司と部下だと外聞が悪いし警戒されそうだと思って、本当はもう少し時間をおいてから申し込もうと思ってたんだけど、あんな騒ぎになってしまったから、一つはっきりさせておこうと思ったんだが」
 真剣に申し出た城崎だったが、美幸は眉間に小さく皺を寄せてから短く断言した。


「お断りします」
「即答か。理由は? やっぱり上下関係? それとも年齢?」
 苦笑いするしかない城崎が一応理由を聞いてみたが、その答えは城崎の予想の斜め上をいった。
「私、社内恋愛って邪道だと思ってますから。それに女ったらしの係長は好きになれません」
「は?」
「それでは失礼します」
 本気で城崎が困惑している間に美幸は素早く一礼して駆け出し、その場から立ち去って行った。そこで無理に追いかけても意味は無いと思った城崎は、黙ってその背中を見送ってから、右手で軽く前髪をかき上げつつ小さく笑いを零す。


「社内の人間だと駄目っていうのが、意味が分からないが……。まあ今回のあれで腹は据わったし、最初から仕切り直しだと思えば、それほど遠回りでも無いか」
 そんな事を呟きながら、城崎は帰宅の途についたのだった。


 色々な問題を抱えながらも、企画推進部二課が新たに二人を迎え入れてから半月程経過したある日、仕事帰りに高須が半ば強引に城崎を居酒屋に誘い、差し向かいで飲む事になった。
「……お疲れ様です係長、やつれてますね。ま、取り敢えず一杯どうぞ」
「すまん」
 苦笑いするしかない城崎の持つグラスに、高須がビールを注いでしみじみと述べる。
「係長、本当に苦労が絶えないですよね。偶々あの二人を入れた次の週に、課長が夏休みに入ってしまいましたし」
 それを聞いた城崎は、ちょっと肩を竦めてから何でも無い事の様に告げた。


「課長はお盆期間も返上で勤務してたからな。休まないで下さいとは言えないし、たかだか土日を挟んで五日だぞ? これで支障を来す様なら、俺の力量に疑問符が付く。それに明日から出社されるしな」
「ですが、ただでさえ仲原さんとは空気が微妙で係長が神経すり減らしてるのに、藤宮は藤宮で課長に怒られたのを逆恨みして未だに係長を睨んでるし。止めろって一応窘めてはみたんですが……」
 そう言って苦い溜め息を吐いた高須に、城崎は苦笑を深めた。


「高須、お前の立場でそこまで気にしなくて良いから」
「分かりました。しかし瀬上さんまでくっ付いてくるとは、正直予想外でした。仲原さんに片想い中なのを見抜いて、営業五課のエースを引きずり込む課長の手腕は流石です」
「どうしてそんな事を知ってる?」
 城崎が思わずお通しをつついていた箸の動きを止め、怪訝な顔を高須に向けたが、問われた高須は隠すつもりは無かったらしく、幾分疲れた感じで話し始めた。


「実は二人がうちに入る直前、課長が帰宅しようとした仲原さんと瀬上さんを引き止めて口説き落としている場面に、偶々遭遇しました」
「本当か? どうやって口説き落としたって?」
 軽く目を見張って驚きの表情を見せた城崎から、若干視線を逸らしながら高須が続ける。
「仲原さんに対しては『あの男尊女子腰巾着の下で、正当に評価されるわけ無いでしょう』とか『今回の事を理由に、体よく放り出されるわね』とか、『あなた元々営業部か海外事業部希望だったのよね? 負け犬のままで終わりたい? 最後のチャンスをあげても良いわよ?』とか、脅してるんだか怒らせてるんだか煽ってるんだか、端から聞いていると良く分からない物言いで瞬く間に丸め込んで……」
 そこで口ごもった高須を見て、城崎も視線をテーブルに落としつつ軽く溜め息を吐いた。


「……うちの課長、お嬢様然していて、意外に人を手玉に取るのが上手いからな」
「瀬上さんは……、仲原さんがその場を立ち去ってから課長が『隠れていないで出てきなさい』って物陰に声をかけたら、姿を見せた時には本気で驚きましたよ」
「高須は彼が居たのに気が付かなかったのか?」
 僅かに驚いた様に城崎が確認を入れると、高須は真面目に頷いた。


「ええ。それだけでも驚いたのに、続けて課長が『随分と健気なナイトが居たものね。だけど安心して頂戴、うちには城崎係長がいるから。影からコソコソ見守らなくても結構よ』って、出て来た瀬上さんにころころと笑ってみせて……」
「課長が?」
 反射的に城崎の顔が僅かに引き攣ったが、高須は見なかったふりをした。
「はい。それで……『あの二人、元々付き合ってたらしいし、相性はそんなに悪くない筈だしね~』とか、『この機会に焼け木杭ぼっくいに火がつく、な~んて事にもなりそうよね~』とか、『部下同士が結婚なんて事になったら、やっぱり披露宴とかでは祝辞を頼まれるのかしら? 今から緊張しちゃうわ~』とか、顔を強ばらせてる瀬上さんを散々煽って……」
 そこで高須が再度溜め息を吐いたが、城崎は城崎で片手で頭を押さえながら呻いた。


「課長……、他人の色恋沙汰に首を突っ込んでる暇があったら、少しは自分の周囲に目を向けてあげて下さい。お願いですから……」
 その妙に心情が籠もった呟きに、高須が首を傾げつつ声をかける。
「何をブツブツ言ってるんですか? 係長」
「いや、何でもない。それで?」
 気を取り直した城崎が先を促すと、高須はすぐに話題を戻した。


「散々煽った挙げ句に、『うちは慢性的に人手不足でね。優秀な人間は喉から手が出るほど欲しいのよ。……優秀な人間ならね』とだけ言って帰る素振りを見せたら、瀬上さんが課長を呼び止めて『俺が欲しいならうちの課長に話を通して下さい』ってふてぶてしく笑いながら言い放って、課長が『どの程度優秀かは、実際下で働いて貰ってから判断するわ』って応じて……。もうムチャクチャ怖かったですよ、あの時の二人の周りの空気!」
「課長……、普段冷静沈着で上品なのに、いざとなったら手段を選ばんタイプだからな」
 テーブル越しに僅かに身を乗り出しつつ訴えた高須に城崎が同意したが、ここで高須が真顔で付け加える。


「でも……、一番怖かったのは、瀬上さんがその場を去って、課長だけになった時でした」
「何かあったのか?」
 僅かに首を捻りつつ城崎は詳細を尋ねてみたが、次の瞬間尋ねた事を激しく後悔した。


「すこぶる上機嫌の課長が、『いっもづる~、いっもづる~、いっぽん~づり~で~、いっかくせ~んき~ん!』って妙な節をつけて歌いながら、満面の笑みで歩き去って行きました」
「………………」
 それを聞いた城崎は、もうフォローする事を諦めてグラスから手を離し、無言のまま両手で頭を抱えた。それに高須が追い討ちをかける。


二課うちへの配属希望者って、滅多に居ませんから。仲原さんに加えて瀬上さんまで芋づる式に引き抜ける事になって、よほど嬉しかったんでしょうね。現にあの二人が来てから、うちの業務処理能力とモチベーションが文句なく上がってますし……。あの時の課長の笑顔に寒気を覚えた俺の感性は、おかしいんでしょうか?」
 最後は誰に言うともなく呟いた高須に、何とか気合いを入れて顔を上げた城崎が、冷静に言い聞かせた。


「高須……、悪い事は言わん。俺に今話した事は全て、記憶から綺麗さっぱり消去しろ」
「そのつもりです。もう三年目なので、大体分かってますから大丈夫です」
 そう力強く頷いた高須に城崎は一瞬突っ込みを入れたくなったが、それを辛うじて抑えた。すると高須が城崎の顔色を窺いながら確認を入れてくる。


「察するに……、仲原さんと付き合ってる頃から、係長は瀬上さんに敵視されてたんですよね?」
「別れた後はそれに拍車がかかったがな」
 苦々しい口調になり、手酌でビールを飲むのを再開した城崎を見て、高須が同情する様な声を出した。
「別れて嬉しいけど、彼女を振ったのは許せないって事ですか? ホント面倒ですよねぇ……」
「気持ちは分からないでも無いがな」
 淡々と述べた城崎に、高須が興味深そうに尋ねる。


「で? 取り敢えずどうするんですか?」
 それに対する城崎の答えは明白だった。
「どうもこうも。取り敢えず職場を円滑に回すより他無いだろう? 藤宮さんとはあれ以来一緒に出歩けなくなったし、この前妙な事も言われたが、仕切り直しと割り切って色々考えるさ。状況が落ち着くまでは、ちょっと難しいかもしれないがな」
「何を言われたんですか……。しかし本当に苦労が多いですよね。二課うちの係長は城崎さんにしか務まらないのが良く分かりました。頑張って下さい」
「…………ああ」
 呆れ半分激励半分の、何とも微妙な高須の台詞に頷いてから、城崎はうんざりした様に目の前のグラスの中身を一気に煽ったのだった。



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