恋愛登山道一合目

篠原皐月

第22話 息の根を止める二人

 不満たらたらの真紀は、先輩二人に宥められながら武道場の出入り口までやって来たが、そこから中の光景を眺めて、心底感心した風情でコメントを発した。


「うわぁ……。美樹様ったら、素人相手にあそこまでやりますか。さすが、あの社長の娘さんだわ」
「菅沼……。お前、そんな他人事みたいに……」
「本当に、どうでも良いんだな」
 付いて来た二人が呆れながら呟くと、騒ぎを聞いて武道場に集まっていた野次馬達が、そのやり取りを耳にして一斉に振り返った。


「え?」
「菅沼!?」
「お前、来ても良いのか?」
 揃って目を丸くした面々に、真紀は憮然としながら問い返す。


「部長に、様子を見に行けと言われましたので。ですがこの場合、私は何をどうすれば良いんでしょうか?」
「え? どう、と言われても……」
「あいつ、骨折はしていないみたいだが、打撲に脱臼に鼻と口から出血してるし……」
「あれだけボコボコにされているんだから。一応、人道上の観点から、止めに入るべきじゃ無いのか?」
「どうして私が、そんな事をしないといけないんですか? どう考えても、あいつの自業自得ですよね?」
 よろめきながら何とか立っているだけの健介の腹を目掛けて、美樹の容赦ない蹴りが入り、彼が前屈みになった所で、脇腹に彼女の肘が打ち込まれる。その光景を冷静に観察しながら真紀が正論を繰り出した為、周りは揃って困惑顔になった。


「そう言われても……、なあ?」
「あいつ一応、お前に会いに来たみたいだし?」
「呼んだ覚えは、微塵も無いんですが。止める義理も無いですよね? ……あ、今の跳び蹴り、凄い! 瞬発力も脚力も半端じゃないわ! さすが美樹様!!」
 同僚達の肩越しに、美樹の攻撃を見た真紀が目を輝かせ、それを聞いた周囲が慌てて振り返った視線の先で健介が勢い良く仰向けに倒れ込んだ為、こぞって彼女を叱りつけた。


「菅沼、見る所が違うだろう!?」
「もうどうでも良いから、さっさと美樹様を止めてこい!」
「当事者のお前が頼めば、美樹様だって引いてくれると思うし!」
「……どうして当事者扱いなんですか。納得できません」
 すっかりふてくされて歩き出した真紀は、急に近付いた場合に美樹から問答無用で攻撃される危険性を考え、彼女の背後2メートルの距離で足を止めた。


「オラオラ! 寝るのは早いぞ、立てやオッサン!」
 そして容赦なく健介を足蹴にしている彼女に向かって、冷静に声をかける。


「美樹様。お楽しみの所、誠に申し訳ありません」
「うっさいわね、誰……、あれ? 菅沼さん、こんにちは。何か急用かしら?」
 苛立たしげに振り返った美樹だったが、真紀の姿を認めて不思議そうに尋ねてきた。それに真紀が弁解しようとしていると、美樹の足下で転がっていた健介が、表情を明るくして呼びかけてくる。


「いえ、急用というわけでは無いのですが」
「真紀? 来てくれたのか?」
 しかしそんな彼を無視して、真紀は美樹に視線を合わせて話を切り出した。


「美樹様、部長からの業務命令で、こちらの様子を見てこいと言われたのですが」
「分かってる……、まだ怒っているから、わざと素っ気ない態度を取っているのは分かっているんだ……、真紀」
 何とか身体を捻って上半身を起こしながら健介が言い出した意味不明な内容に、真紀は思わずそちらに顔を向けた。


「はい? 何言ってるわけ? 私は今、美樹様と話をしているのよ?」
「前々から公社が俺の事を調べ上げていたのは、田辺から聞いた。真紀は俺の事情を知って、敢えて黙っていてくれたんだな。それについて、本当に感謝しているんだ」
「……はぁ? 何を言ってるわけ?」
 どうやら例の事件の事を蒸し返している事は分かったものの、それがどうして感謝などの言葉に繋がるのか理解できなかった真紀は、本気で顔を顰めた。しかしその表情を見た健介は、畳の上に両手を付いて座り込んだまま、真紀を見上げて切々と訴える。


「長々と待たせた上、君の気持ちを疑って、すぐに自分の気持ちを告げられなくて悪かった。挙げ句は君が記憶喪失なんて変な勘違いをして、回り道をしたし」
「私、物覚えは良い方なんだけど。喧嘩売ってるわけ?」
「今回、北郷の家から出たんだ。だから元の佐藤健介として、堂々と君に俺の気持ちを言える」
 そこで真紀の顔が、微妙に歪んだ。


「……その不愉快な『佐藤』って苗字、口にしないで貰える?」
「そういえば、真紀はどうして『菅沼』姓を名乗っているんだ? 涼さんに独身だと聞いたが、姓が変わっているからどうしてだろうと思っていたんだ」
 彼女の反応を半ば無視して、健介が何気なく気になっていた事を口にすると、先程から微妙に意志疎通ができていない会話に苛ついていた真紀の、堪忍袋の緒が切れた。


「諸悪の根元が、何抜かす! あんた本当に、喧嘩売ってるわね。美樹様じゃなくて、これからは私がボコってやろうじゃない!」
「分かった。君の怒りは全て受ける。そこから新しい関係を」
「何!? あんたバイに加えてマゾだったの!?」
 大真面目に頷いた健介を見て、それを見下ろしていた真紀は完全に勘違いして一歩後退したが、ここで二人の間にいた美樹がいきなり畳に崩れ落ちるように座り込み、畳を拳で叩きながら爆笑し始めた。


「ぶわっはははっ!! い、居たんだ本当に世の中に、こんな痛い勘違い野郎がっ!! 初めて見たっ!! 最高、笑えるぅっ!!」
 そして仰向けに転がり、両手でお腹を抱えて「あはははは!!」と爆笑している彼女を、真紀は唖然として見下ろしてから、控え目に尋ねてみた。


「あの……、美樹様? 何がそんなにおかしいんですか?」
 それに美樹が、笑いながら答える。


「だっ、だってさぁあっ! そいつ、菅沼さんが今でも自分の事を、好きだと思ってんのよ? とんだ勘違い、ナルシスト野郎じゃない!」
「はぁあ!? 何で私が、こいつを好きなんですか!?」
 勢い良く健介を指差しながら、心外だと言わんばかりに叫んだ真紀に、健介が何か言いかけたが、それを美樹が楽しげに遮りながら解説した。


「だから」
「だって菅沼さん、例の事件の時、警察に被害届を出さなかったでしょ?」
「確かにそうですが。それがどうかしましたか?」
「だーかーらー、そいつ『きっとあの人は、何か理由があって、私の前から姿を消したんだわ。だから警察に被害を届けて、彼に前科が付くような真似はしない。いつまでも信じて待っているから』とか菅沼さんが考えた末の事だと、おめでたい乙女思考で考えていたのよ」
「はぁ? 馬鹿ですか? それに今時、乙女って死語だと思います」
 呆れ果てたと言わんばかりの真紀の台詞に、美樹が笑顔で重ねる。


「そうよね? 乙女って絶滅危惧種よね? 環境省レッドリスト掲載動物よね? シマフクロウにクロマグロに、イリオモテヤマネコにアマミノクロウサギにアホウドリ……。あっ、あほっ、あははははっ!! ピッタリぃぃっ!!」
「…………」
 今度は立ち上がって上から健介を指差しつつ、馬鹿笑いをし始めた美樹を見て、健介は呆然として固まり、ギャラリー達は彼に哀れむ表情を向けながら囁き合った。


「美樹様……、容赦なさすぎだ」
「ちょっとだけ、あの男に同情するな……」
 しかし美樹は全く容赦なかった。


「そっ、それにさあっ、菅沼さん、今フリーじゃない? だから『今でも俺の事を、忘れてはいなかったんだ』とか、勝手に一人で盛り上がってたんじゃない? これを痛い男と言わずに、何て言うのよ?」
「しかし現に!」
 ここで健介がムキになって会話に割り込もうとしたが、女二人の淡々とした会話が続いた。
「確かに今はフリーですが、ここ四ヶ月の話ですよ?」
「そうよね。そいつは確かに菅沼さんの二番目の男だけど、そいつと別れた後、三人と付き合ってるものね」
「……え?」
 予想外の事を聞かされて、茫然自失状態の彼の前で、美樹達の容赦ない会話が続く。


「私個人の感想としては、四番目の男が一番見た目と身体と稼ぎのバランスが良かったと思うんだけど、どうして別れたの?」
「まあ、色々性格の不一致と言う奴で……。ですがどうして私の男性遍歴を、美樹様が事細かくご存知なんですか?」
「そりゃあ菅沼さんは、入社一年目にこんな奴に引っかかっちゃったじゃない? 期待のホープに、これ以上変な奴が纏わりついたら困ると思った幹部連中が、一通り調べさせておいたのよ。いわば、上層部の愛よ、愛。愛されてるわね~。勿論、目にしたデータは他には漏らしていないから、安心して頂戴」
「……今回、上層部の皆さんの黒過ぎる腹の中と重苦し過ぎる愛を、嫌になるほど実感できました」
「所属組織の理解は、とても大切な事よね」
「真紀……」
「はい?」
 呼びかけに反射的に応えてから、真紀は冷え切った視線を健介に向けた。


「あ、あんたまだ居たんだっけ。すっかり忘れてたわ」
「何年も放っていた俺に対して……、怒っていたんじゃないのか? だから知らないふりをして……」
 縋るように尋ねた健介だったが、真紀は益々怪訝な顔になった。


「はぁ? 知らないふり? 何でそんな事をする必要があるわけ?」
「そうよね。菅沼さんは、あの事件で社内で散々笑い物になったから、徹底的に記憶の中からこいつを消去しただけだものね。だから当然これ以上係わり合いになりたくなかったから、被害届も出さなかっただけだし」
「本当に忘れていたと? だが田辺は慰謝料として、金を受け取ったと言っていたぞ!」
 憤慨しながら盛大に言い返した健介だったが、真紀は心底嫌そうに告げた。


「社長に呼び出された席で、例の事件の時に部屋を荒らしたのが田辺だと言われて、漸くそこに繋がったのよ。それに慰謝料なんて正直どうでも良かったけど、私が受け取らなかったら北郷議員を政界から葬るネタを公にすると社長が脅したの。そうしたら田辺が『是非受け取って下さい、お願いします!』と足にすがりついてうざかったから、仕方無く受け取ってあげたってわけ。単にそれだけの話よ。それに関して文句を言われる筋合いは無いし、あんたには微塵も関係ないわ」
「そんな……」
 真相を聞いて愕然とした健介に、美樹が容赦なく追い討ちをかける。


「おおかた乙女思考の延長で、『知らないふりをしていたのは、怒りを抑えていた裏返し。怒っていると言うことは、未だに俺の事を忘れていない証拠』とか思って、誠心誠意謝って、心機一転二人でやり直そう』とか、脳内お花畑な事を考えていたんじゃないの?」
「…………」
 どうやら図星だったらしい健介が黙り込むと、立ち上がった美樹が、彼を見下ろしながら鼻で笑った。


「って言うかさぁ……、愛情の反対が憎悪とか本気で考えている辺り、社会人としてどうかと思うのよね? 憎悪するエネルギーがあるなら、まだ相手に心を残してこだわっている証拠だし。愛情の究極の反対って、無関心よ。ここに、これ以上は無いって位の実例が居るし、少しは学習しなさいよね? 三十過ぎた、いい年のオッサンなんだし」
 そう言いながら自分に歩み寄り、指差した美樹を見て、真紀は神妙な顔つきで問いを発した。


「美樹様。ちょっと宜しいでしょうか?」
「何?」
「美樹様はまだ子供ではいらっしゃいますが、並みの大人よりよほど思慮深いと思われますので、お伺いしたいのですが……」
「構わないわよ? 何が聞きたいの?」
「私、どうしてあんな残念極まりないのと、付き合っていたんだと思います?」
 健介を指さしながら大真面目に尋ねた真紀だったが、美樹も真顔になって言葉を返した。


「……ごめんなさい、菅沼さん。幾ら何でも本人にも分からない物を、赤の他人の私が推察できないわ」
「そうですよね……。変な事をお尋ねして、申し訳ありません」
「別に良いわよ、気にしないで。不思議に思う気持ちは分かるわ。要はあれよ。若気の至りってやつ? 年取ってからすれば単なる馬鹿で笑い話にもならないけど、入社早々にやらかしたんだから立派な笑い話の一つよ」
「そうですね……、今後はそう考えて割り切ります」
「…………っ」
 互いに神妙に言葉を交わしている女二人を目にした健介は、畳に両手を付いたままがっくりと項垂れた。それを離れた所から眺めていた男達が、哀れむ目で囁き合う。


「あいつ、完全に心が折れたな」
「本当に容赦ないな、美樹様」
「いや、最後にトドメを刺したのは、どう見ても菅沼だろう」
 ここで真紀が、健介を完全に無視しながら話を続けた。


「ところで美樹様、もう一つお願いがあるのですが……」
「この際だから、何でも聞いてあげるけど?」
「先程、こいつ相手に戦っているのを少し見ましたが、全然本気では無かったですよね?」
「ああ、見てたのね。当然よ。こんな素人相手に、本気を出すわけ無いじゃない」
 あっさりした口調での美樹の説明に、他の社員達が揃ってうんざりした顔つきになる。


「本気を出さないで、あれかよ……」
「十分、あいつボコボコだったよな?」
「それでもあの動き、技のキレ。美樹様の力量を隠せませんよ。是非、本気の全力で私と手合わせをお願いします!」
 恐れおののくどころか、目を輝かせて物騒な事を申し出た真紀に、美樹が不敵な笑顔を向けた。


「へぇ? 本気でやる気なんだ……。良いわよ? 何なら今からやる?」
「ありがとうございます! 直ちに着替えて参りますので、少々お待ち下さい!」
「分かったわ。身体をほぐし直して、待ってるから。こいつ相手だと、動きが却って鈍った気がするわ」
 嬉々として出入り口に向かって駆け出して行った真紀を、美樹は笑顔で見送ったが、健介は慌てて立ち上がって追おうとした。


「あ! 真紀」
「と言うわけで……」
「ぐあっ!!」
 しかし美樹が軽く踏み込みながら振り抜いた回し蹴りが、健介の頬を直撃し、呻いた彼が呆気なく横に転がる。それをつまらなさそうに見下ろしながら、美樹は先程から様子を窺っていた男達に言いつけた。


「さっさとこのゴミを、ビルの外に放り出して。その前に、その道着は備品だから、きちんと剥ぎ取って頂戴。ほら、全員さっさと動く!」
「はっ、はいぃっ!!」
「直ちに移動させます!」
 鋭く命じられた男達が、忽ち顔色を変えて健介を取り囲んだ。


「ほら、行くぞ! 大人しくしてろよ?」
「悪い事は言わんから、もうここには来るな」
 左右から腕を掴んで肩で支えながら、健介は武道場から連れ出されていき、それを見送りながら美樹は一人、溜め息を吐いた。


「世の中本当に、年だけ取った馬鹿な大人が多くて、困ったものだわ。使える人材確保も大変ね」
 しみじみとそんな事を呟きながら、美樹は身体を解すべく、一人取り残された武道場で柔軟体操を始めたのだった。





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