恋愛登山道一合目

篠原皐月

第20話 健介の決意

 田辺が健介からブローチを奪い、どこかに姿を消してから、事務所内には不穏な空気が満ちていたが、その後暫くして予定にない稔の来訪と田辺が蒼白な顔で戻ってきた事で、スタッフ達の緊張はピークに達した。


「貴様ら!! あの桜査警公社を敵に回すとは、随分馬鹿な事をしてくれたな!!」
 いつもは健介と宗則が使っている部屋に、稔が怒りで顔を赤くしながら入り、次に田辺と彼に引きずられる様に克己が入った直後、稔の罵声が轟いた。しかし克己は、必死の形相で言い返す。


「何で俺が叱られるんだよ!? 俺をこんな目に合わせたんだぜ? たかがボディーガードの会社なんて、親父が圧力かけて潰せば」
「まだ馬鹿抜かすか!! このど阿呆がっ!!」
「げはっ!」
 いきなり手加減無しで克己を殴り倒した稔は、そのままの勢いで息子達に向かってまくし立てた。


「あそこは政財界御用達で、総理の首すらすげ替え可能なネタを幾つも掴んでいる所だぞ! 実際にすげ替えたという噂もある位だ! 明らかな内輪もめで依頼して、派遣された人員に怪我をされたらどうなっていたと思う! 寧ろ、貴様が生きているのが忌々しいぞ! 向こうで殺ってくれれば、手間も省けたものを!」
「お、親父?」
 紛れもない本気の台詞に、克己はさすがに顔を青ざめさせて絶句したが、稔はそのままの勢いで健介に向き直った。


「それに健介! 貴様前々から複数の興信所に、あそこを探らせていたらしいな。下手に手出ししないならと黙認されていたらしいが、今回纏めてあの女への慰謝料を五百万と、公社への迷惑料込みの依頼料を五千万近く請求されたぞ! くそ、忌々しい!」
 吐き捨てられるように告げられた内容を聞いて、健介は驚きで目を見開きながら、独り言のように口にした。


「……それなら真紀は、記憶喪失で当時の事を忘れているわけでは無いと?」
「はぁ!? この期に及んで、何をわけの分からん事を言っているんだ、貴様はっ!!」
「そうか……。仕事中だから、きちんと公私混同をしていたわけだ。流石だな」
 半ば自分を無視して何やら呟いている息子を見て、稔の怒りは最高潮に達した。


「何をブツブツ言っている! そういう訳だから、健介。これ以上あそこに睨まれない為に、貴様が久美と不倫していた事にして、貴様と久美共々こいつを無一文で叩き出す事にしたからな。その代わりに貴様には後々面倒が無いように、五千万生前贈与してやる。例の立て替えた手術費用もチャラだ。ありがたく思え」
「は?」
「何言ってんだ?」
 いきなり告げられた内容が咄嗟に理解できず、健介と克己が固まる中、そんな息子達を完全に無視して、稔は宗則に気持ち悪い位の愛想笑いを向けた。


「さて、城島君。君が例の爆発物のレプリカを作っていたのは、社会人として誉められた行為では無いが、息子と懇意にしてくれていた故の過ちでもあるから、今回は不問に付そう」
「あ……、ありがとうございます」
「義理の母親に手を出す様な奴は勘当するしかあるまいが、君にはまだ私の秘書を務めて貰わないといけないからな」
「は、はぁ……」
 妙に機嫌の良い稔の笑顔に、宗則が薄気味悪さを感じながらもなんとか笑顔で応じていると、健介が冷静に確認を入れてきた。


「それでは私は、後腐れ無く勘当という事で、今後一切そちらと係わる必要はありませんね?」
「当然だ! 克己と同様、桜査警公社の不興を買った貴様なんぞ、後継者になどできるか! 私の後継者は、公恵と結婚する城島君になって貰うからな。期待しているよ? 城島君」
「いやぁ、優秀なお婿様を貰えて、先生も公恵さんも幸運でしたなぁ」
「う、うぇえ!?」
 いきなり稔と田辺から、猫なで声で健介の異母妹との結婚を既定路線の様に語られた宗則は、驚愕で声を上擦らせたが、健介は淡々と応じて父親に向かって一礼した。


「そうですか。それでは失礼します。部屋の私物を纏めて、マンションも出ますので」
「そうだな。さっさと出て行け」
「親父! それじゃあ、俺はどうなるんだ!?」
「貴様の籍も抜くから、俺は知らん。勝手にどこへでも行け。それからさっさとこのマンションからも出ろ。このまま居たければ、正規の家賃を払え」
「そんな!?」
 克己の喚き声と冷淡に応じる父親の声を背中で聞きながら、健介は清々しい気分で廊下に出てドアを閉めた。


(こんな展開は予想外だったが、寧ろ清々したな)
 廊下には事務所のスタッフが顔を揃えており、室内から漏れ聞こえてくる会話で蒼白な顔になっていたが、そんな気まずい空気の中、健介は迷い無く事務所を出てマンションの自室へと向かった。
 それから善は急げどばかりに、早速荷物を纏めにかかった健介だったが、少しして玄関のインターフォンがけたたましく呼び出し音を鳴り響かせた為、容易に相手の見当がついた彼は、苦笑しながら玄関へと向かった。


「おい、健介! お前さっさとトンズラしやがって!」
 ドアを開けるなり盛大に噛み付いてきた宗則に、健介は申し訳なさそうに言葉を返した。


「悪いな。だがこうなったからには、一刻も早くここを出たいし」
「全く……。お前、代議士の椅子なんかに執着無いしな」
「お前に取っては良かっただろう? あいつの地盤を貰えるぞ?」
 溜め息を吐いた宗則を宥める様に告げると、彼は盛大に言い返した。


「冗談だろ!? あの性格ブスがもれなく付いてくるんだぜ? 俺はゴメンだ。人生を無駄にする気は無い!」
「随分と、嫌われたものだな」
 断言した友人に健介は苦笑するしかできなかったが、宗則は忌々しげに続けた。


「親父に『他人の下で働いて、苦労してこい』と言われて、付き合いのあるここに来たが、親父に洗いざらい話して北郷議員との関係を考え直して貰う。あんな奴に付いていても、ロクな事は無いぞ。修行するにしても、他の事務所に移るからな」
「そうか。頑張ってくれ。今回は面倒事に巻き込んでしまって、本当にすまなかった」
「お前の話を聞いて、協力すると決めたのは俺だからな。気にするな。それよりこれからどうする気だ?」
 本気で心配している表情の宗則に、健介は笑って答えた。


「取り敢えずあいつへの借金は無くなったし、落ち着いてから再就職先を探すさ。……その前に、やる事があるが」
 真剣そのものの健介を見て、何の事を言っているのか察してしまった宗則は、少々大げさに肩を竦めてみせた。


「あの女を事を言ってるのか? もう止めておけよ。あいつに係わると、ロクな事にならないだろうが」
「確かにこそこそと探って、向こうの心証を悪くしたのは事実だからな。だが彼女が記憶喪失でも何でも無くて、俺の事を覚えているなら、ちゃんと顔を合わせて言わないといけないから」
「分かった。これ以上、止めても無駄だな。頑張れよ?」
「ああ、ありがとう」
 そして笑顔で握手をしてから宗則は引き上げ、健介は中断していた荷造りを続行した。


(真紀、待っていてくれ。今度は完全にしがらみが無い状態で、正面から君に会いに行くから)
 自分自身にそう誓いつつ、健介は手早く荷物を纏めると同時に転居先を探し、十日後には引っ越しを済ませて、スーツ姿で桜査警公社正面玄関前に立っていた。


(何だ? あの奥との仕切りのような、自動ドアは)
 正面玄関から中に入ると、一見普通に見えるエントランスではあったが、通路が急に狭まり、更にそこを仕切るように全面素通しの壁と、その中央の自動ドアを確認して、健介は不審に思った。
 それは車などで襲撃された場合、直進させないようににわざと通路を曲げ、更に防弾ガラスで防御している為だが、健介としてはその手前の壁際に、並んで立っている男達の方が気になった。


(あれって受付だよな? だが、普通は若い女性が居る筈なのに、体格の良い男が二人……。取り敢えず、行ってみるしかないな)
 幅広めの演台の向こうに、無表情に並んで立っている二人を見て健介は一緒たじろいだが、すぐに覚悟を決めて彼らに向かって歩き出した。


「すみません、防犯警備部門の菅沼真紀さんに、会いに来たのですが」
 そう声をかけると、男の方の一人が淡々と問い返してきた。


「お名前とお約束は?」
「佐藤健介です。約束はありませんが、名前を彼女に伝えてくれれば、分かりますから」
 既に北郷の籍から抜けた為、健介は佐藤姓を名乗ったが、彼がエントランスに足を踏み入れた瞬間、そこを撮影している監視カメラが健介の顔のデータを公社のメインコンピューターに送信し、その照合データが男達の手元にある端末に映し出された。


「……おい」
「ああ」
 《北郷健介》のデータを確認した二人は短いやり取りを済ませ、一人が演台を回り込んで健介に歩み寄り、丁重に断りを入れた。


「誠に申し訳ありませんが、お客様はこれより奥にお通しするわけにはいきませんので、お引き取り下さい」
「何だって? どうしてだ!」
 気色ばんで詰め寄ろうとした健介を、その男が瞬時に口調と態度を豹変させて威圧する。


「うちには招かれざる客の排除リストがあるんだが、あんたはその一番下のレベルに入っていてな。あんたをここから通したら、俺達が上から叱責されるんだよ」
「それなら別に奥に通して貰わなくても構わない。真紀をここに呼んでくれ!」
「あんた、頭が悪いな。『奥に入れない』って事は即ち、『金輪際うちとは係わらせない』って事なんだよ」
「何で貴様みたいな、顧客でもない怪しげな奴と、社員との連絡をつけなきゃならないんだ。ほら、悪い事は言わないから、とっとと帰れ」
 二人に如何にも面倒くさそうに手を振られた健介は、門前払いとしか言いようのない扱いに、ムキになって自動ドアの前で胡座をかいて座り込んだ。


「冗談じゃない! ここまで来て帰れるか! 真紀と会わせて貰うまで、ここで待たせて貰うからな!」
「はぁあ? 何言ってんだ、こいつ」
「どうする? 力ずくで叩き出すか?」
「叩き出しても、また入って来るんじゃないのか? ゴキブリ並みに」
「だけどなぁ、足腰立たない程度に、痛めつけるわけにもいかんだろ。どう見てもズブの素人だし」
「ったく、本職相手ならぶちのめせば良いものを。迷惑な」
 こんな素人の小物相手に全力で対応などできないから面倒だと、二人に迷惑がられていた健介は、真紀に再会する事だけを考えて意気込んでいた。


(確かに二日間朝晩出入りを見張っていても、これまでの興信所の報告通り、真紀らしき人物がこのビルに出入りしているのが分からなかった。今日も居るかはどうかは分からないが、連絡先は全く分からないし、取り敢えず内部に入る口実を作らない事には、話が始まらないぞ!)
 そして何があっても動くかと決意を新たにした時、背後から不機嫌そうな声が聞こえてくる。


「……おい、何だこいつは? 目障りだろう。お前達、さっさと排除しろ」
 それを耳にした三人は、揃ってその人物に向き直って頭を下げた。


「おっ、小野塚部長補佐!」
「お疲れ様です! あの、こいつは」
「小野塚さん! お願いします! 俺を中に入れて下さい!」
 足を崩しながら勢い良く振り返った健介は、正座しながら襲撃事件の際に顔を見知っていた小野塚に向かって頭を下げた。しかしその懇願を聞いても、小野塚は不機嫌そうに顔を顰めただけだった。


「はぁ? 何を言っている。貴様なんぞお呼びじゃない。そこを退け」
「退きません! 俺はここに、れっきとした用事があるんです」
「何の用事だ。菅沼なら会わんぞ」
「いえ、就職希望です」
 咄嗟に思い浮かんだ口実を健介が口にすると、小野塚はそれまでの不機嫌そうな表情を、微妙に嘲笑めいた物に変化させた。


「……ほう? 貴様の様な苦労知らずが、ここでやっていけるとでも?」
 その言い方に棘を感じた健介は、些かムキになって言い返した。
「それなりに苦労はしていますし、経験も積んでいます。勿論、防犯警備部門での採用は無理でしょうが、信用調査部門ならどうにでもなります」
 そして必死に食い下がるあまり、健介は無意識に虎の尾を踏んだ事に気が付かなかった。


「……部長補佐に向かって、『信用調査部門ならどうにでもなる』とか、命知らずだな」
「いや、賭けてもいいが、あいつ絶対に分かって無いぞ」
 受付担当の二人が恐れおののいていると、無表情になった小野塚が淡々とした口調で応じる。


「なるほど……。やる気も能力もありそうで、結構な事だな。分かった。俺の権限で、今から臨時で採用試験をしてやろう。構わないか?」
「はい、勿論です! ありがとうございます!」
「それなら付いて来い。さっさとドアを開けろ」
 嬉々として立ち上がった健介の前で、小野塚が受付担当者に言いつけた。しかしこの後の展開が分かってしまった彼らは、このまま通して良いものかどうか逡巡する。


「あの、ですが……、小野塚部長補佐」
「開けろ」
「……失礼しました」
 そして演台の内側にある操作パネルのボタンを押して透明なドアを開けると、小野塚が健介を引き連れ、奥のエレベーターホールに向かって、無言で歩いて行った。


「おい、どうするよ?」
「取り敢えず、防犯警備部門と信用調査部門双方に連絡しておこうぜ」
「そうだな」
 二人は顔色を悪くしながら両部署に連絡を入れ始めたが、そんな懸念など全く把握していなかった健介は、自分の幸運を疑っていなかった。


(偶然、小野塚さんに会えて助かった。真紀に、胸を張って会う為の第一歩だ。ここはなんとしても採用試験に合格して、公社内に自由に出入りできる立場にならないと)
 そんな事を考えているうちに、目的階に着いた小野塚は無言でエレベーターを降り、健介も慌てて後に続いた。


「おい、こいつに予備の道着を貸してやれ。それからロッカーに案内して、着替えさせろ」
 何かの受付らしいオープンカウンター越しに小野塚が言いつけた為、健介は(どういう事だ?)と困惑したが、中にいた男性も健介を胡散臭そうに眺めながら問い返した。


「小野塚さん、この方は社員ではありませんよね?」
「信用調査部門に就職希望だそうだ。だからこれから、実技試験をする」
「ああ……、そういう事ですか。今、そちらの方に合う物を出します」
 小野塚の言葉だけで正確に事態を把握した彼は、一瞬だけ健介に憐れむような視線を向けてから、奥へと引っ込んだ。


「あの……道着と言うのは、一体どういう事ですか?」
 その健介の問いかけに、小野塚が平然と答える。
「貴様は知らんと思うが、うちの信用調査部門は調査の過程で危険に巻き込まれる場合も多くてな。採用に当たってはある程度の武道の腕前が求められているし、採用後も二週に一度の武闘訓練が義務付けられている」
「……え?」
 予想外の話を聞いてた健介はさすがに顔色を変えたが、小野塚は淡々と話を続けた。


「だから経歴調査や書類審査、筆記試験以前に、それを見させて貰うと言うわけだ。怖じ気づいたなら、帰っても良いぞ?」
「……やります。やらせて下さい」
「そうか。それなら仕方が無い……。一応素人だし、警告はしたからな」
 そこでちょうど道着を手に、先程の担当者が戻って来た為、小野塚は短く言いつけた。


「お前が証人だ。俺は部長に今日の首尾を報告するから、準備が整うまでそいつを着替えさせて、武道場に案内しておけ」
「分かりました」
 そこで小野塚はあっさりと踵を返し、男は健介に道着を手渡してから、すぐ横の《男性用更衣室》と表記のあるドアを開けて、健介を案内した。


「それではこちらにどうぞ。ここで靴を脱いで上がって下さい」
「はい、分かりました」
(よし、真紀。また君に一歩近付いたぞ!)
 そんな健介は気分が高揚するのを抑えるのが精一杯で、その案内役の男が心底憐れむ目を自分に向けている事に、全く気が付いていなかった。





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