恋愛登山道一合目

篠原皐月

第12話 更なる襲撃事件

 地元での講演会当日。北郷稔が公設秘書、その他スタッフを引き連れて、地元事務所に姿を現した。


「やあ、皆、久しぶり。今日はよろしく頼むよ」
「先生、お疲れさまです」
「万事滞りなく、準備は進めてありますので」
「それは良かった」
 重原以下、事務所スタッフに愛想良く笑いかけた稔は、息子の姿を認めた途端、微妙に顔付きを険しくしながら告げる。


「ところで……、移動するまで時間はあるな。健介、お前に話がある」
「……分かりました。それではこちらに」
 そして、普段自分が使っている部屋に健介が父親を誘導していくのを眺めた真紀は、率直な感想を頭の中に思い浮かべた。


(ふぅん? あれが北郷代議士本人か。あの眼光の鋭さは、確かに並みの人間では無さそうだけど、写真で見るより偉そうよね)
 そんな遠慮の無い事を考えていた真紀に、ここで控え目に声がかけられた。


「あの……、見慣れない顔ですが、桜査警公社の方ですか?」
 その問いに、真紀は声がした方を振り返って、冷静に答える。
「はい。北郷健介氏の護衛として派遣されております、菅沼と申します」
「菅沼さんですか……」
 軽く頭を下げると、何故かその初老の男性は、困惑気味に問いを重ねた。


「菅沼さんは、これまで私と面識はありませんよね?」
 それにはさすがに、真紀も戸惑いながら問い返した。
「あの……、申し訳ありません。どちら様でしょうか?」
「これは失礼しました。北郷代議士の政策秘書を務めております、田辺彰俊と申します。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 慌て気味に差し出された名刺を受け取り、それに記載された名前を確認してから、真紀は断言した。


「先程のお尋ねの件ですが、やはり田辺さんとは初対面かと思われますが……」
「そうですね。変な事を言って、申し訳ありません。以前どこかでお目にかかった気がしたものですから」
「平凡顔ですから、似た感じの方は何人もいると思います。お気になさらず」
 平謝りの田辺を真紀が苦笑しながら宥めていると、横から声がかけられた。


「田辺さん、今日の参加者の挨拶順で、ちょっとご相談したいのですが……」
「分かった、今行く。それでは失礼します」
 そして慌ただしく離れて行った田辺を、真紀は首を傾げて見送った。


(何だったんだろう? 知り合いに、私に良く似た顔立ちの人が居たのかしら?)
 するとここで、稔の警護に当たっている真紀の先輩達が、声をかけてくる。


「よう、菅沼」
「今日は男女揃ってよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします。盛田先輩、菊池先輩」
「会場への移動中と講演会前後の警備態勢の、最終確認をしたいんだが」
「はい、構いません」
「二課の菅沼は……。ああ、来たな」
 そして真剣な表情で真紀達が打ち合わせを始めている頃、健介は稔に叱責されていた。


「健介。お前、璃真さんを怒らせるとは何事だ。彼女の父親は、二十年来の私の支持者なんだぞ? 私への支持は続けるが、お前の代になったら考えさせて貰うとまで言われた」
「……申し訳ありません」
 健介は一応神妙に頭を下げたが、そんな息子を見ながら稔は盛大に舌打ちした。


「全く! あそこは父方も母方も良い所に繋がっているし、経済的にも問題が無いから、お前の嫁に選んでやったのに、何を好き好んで男になんぞちょっかいを出してるんだ!」
「それは何度も、誤解だと言っています!」
「それならどうして、三十過ぎても結婚しない! 取り敢えず体面を保つ相手と結婚して、女だろうが男だろうが手を出せば良いだけの話だろうが!」
 そう吐き捨てる様に言われて、さすがに健介も顔に怒りの表情を浮かべながら反論した。


「俺は一応、あなたの後継者にはなりましたが、あなたのやり方を全て認めて、倣うつもりはありません」
 しかしそんな彼の主張を、稔は鼻で笑い飛ばす。


「はっ! 笑わせるな。俺の子供の中で多少はマシだったから、お前を後継者候補にしてやっているだけだ。嫌なら出て行って、一向に構わん。ただしその後誰がどうなっても、俺の責任では無いがな」
「…………」
 その傲慢な言い分を健介は無言で聞いていたが、その視線を真っ向から受け止めていた稔は、すぐに興味が無さそうに話題を変えた。


「分かったな。俺が新しい結婚相手を準備してやるから、その女と一年以内に結婚しろ。話はそれだけだ、行くぞ。俺は忙しいんだ」
 そう横柄に言い捨てて稔はさっさと歩き出し、健介は無言でその後に従って部屋を出て行った。


「待たせたな。そろそろ会場に移動するか」
「そうですね。それでは皆さん。今日は宜しくお願いします」
 稔と健介が大部屋に戻り、周りのスタッフも移動の準備で忙しなく動き始める中、少し前から姿を消していた涼がひょっこり現れ、真紀は思わず顔を顰めながら問い質した。


「菅沼さん? さっき、どこに行ってたんですか?」
「うん? 野暮用。北郷議員って紳士面して、結構ゲスいなぁと。あれなら胸は痛まないな。これまでの行いが行いだし」
「はい? 何を言ってるんですか?」
「いえ、何でもありません。我々も移動しましょう」
「はぁ」
 急に仕事上の言葉遣いになった兄に怪訝な顔になったものの、真紀もすぐに意識を切り替えて健介親子の護衛を開始した。


 真紀達四人は分乗し、稔と健介が乗り込んだ車を護衛しながら事務所が押さえておいた区民ホールに到着し、内外の安全を確認、警戒しながら一行をホール内に先導した。最大限の注意を払いながら、しかし進行の妨げにならない様に、四人は警備を続ける。その甲斐あって稔の講演会は無事、盛況のうちに終わりを告げた。


「しかし《明るい日本の未来を考える会》ねぇ……。今の政治家が全員死に絶えたら、幾らか明るくはなるんじゃ無いか?」
 吹き抜けのロビーを見下ろす二階の通路から警戒中の涼が、でかでかと会場入り口に掲げられている文言を皮肉っぽく読み上げ、それをインカムで聞いてしまった真紀は、襟元のマイクに向かって苛立たしげに囁いた。


「……菅沼さん。無線でくだらない事を呟かないで下さい」
 その苦言に、支持者に囲まれている稔の背後に立って、周囲への警戒を続けている盛田からの叱責が続く。
「そうだぞ、菅沼。資金集めパーティーほど不特定多数の人間は出入りしていないが、議員本人が出席者をロビーでお見送りなんてやってるから、こっちは幾ら警戒しても足りない位だ。人込みに紛れて、どんな人間が近付いて来るか分からん」
「失礼しました」
 それからは暫く何事も無く客が帰って行き、残っている者が半数ほどになったところで、人垣の一角で騒ぎが沸き起こった。


「きゃあ!」
「うわっ! 何だ?」
「え?」
 その悲鳴まじりの声に、真紀達は一瞬で警戒度を最大限に引き上げたが、それと同時に上から真っ先に状況を確認した涼が、端的に告げた。


「真紀! 六時方向、男1、刃物!」
「確認!」
「北郷ぉぉっ!! 死ねやぁぁっ!!」
「菅沼!」
「はい!」
 素早く四人の間で意思疎通が図られ、それぞれが無言のうちに決められた配置に着く。涼の警告と同時に身体の向きを変えた真紀は、刃渡りが二十センチ以上あるナイフを手にした若い男が、割れた人垣から真っ直ぐ自分の方に向かって来るのを認め、彼の進行方向に立ち塞がった。


「危ない!」
「きゃあぁぁっ!!」
 周囲に悲鳴が上がる中、真紀は臆せず、冷静に鋭く警告を発する。


「止まれ!!」
「どけぇええっ!!」
「警告はした! はあぁっ!!」
「ぐおぁっ! げぇっ!!」
 一応警告し、真紀はそのまま突っ込んできた男の腕を払い、鳩尾に一撃を叩き込んだ。しかし男は怯みながらもナイフを振りかざしたが、その瞬間、真紀は彼の右腕を捕らえて身体を捻り、体重をかけて勢い良く彼を床に引き倒す。
 更に右腕に肘を叩き込んでナイフを手から離し、手早く転がしてうつ伏せにした男の両手を背中に回し、いつの間にか取り出した特殊シリコン製の拘束具で、手錠のように束ねて動きを抑えた。


「ぐはぁっ……」
「身柄、確保しました!」
 男が突進して来てから、ここまで一分足らず。あまりの手際の良さに周囲が唖然として固まっていると、盛田が冷静に指示を出す声が、静まり返ったホールに響き渡った。


「二課菅沼、不審者の隔離場所確保! 警察が来るまで、一課菅沼と警戒に当たれ! 俺と菊池は引き続き、議員と健介氏の警護をしながら移動する。警察に身柄を引き渡したら、こちらと合流しろ」
「了解しました」
 この間に階段を駆け下りて一階に到達していた涼は、早速真紀を手続って男を引きずり立たせ、蒼白な顔のホール責任者に隔離しておくのに適切な場所を尋ねながら、ロビーの奥へと移動を開始した。


「よし、こっちだ。行くぞ! ほら、歩け!」
「何すんだ、離せぇぇっ!! 俺は、正義の鉄槌を下してやるんだぁぁっ!!」
「…………」
 しっかり両手を拘束され、二人がかりで引きずられながら狂ったように喚き続ける男を、健介は呆然としながら無言で見送ったが、その横で稔が、如何にも腹立たしげに吐き捨てる。


「全く。世の中、馬鹿が多くて困る」
 それに一瞬何か言いたげな表情になったものの、盛田はすぐに平然と尋ねた。


「北郷議員。因みに、あの人物にお心当たりは?」
「あるわけ無かろう」
「そうですか。それでは今後のスケジュールですが、料亭での後援会幹部との会食はどうなさいますか?」
「予定通りだ」
「了解しました」
 稔の指示に盛田が無表情で応じていると、ここで健介が控え目に声をかけてきた。


「あの……、ちょっとお尋ねしても宜しいですか?」
「何でしょうか?」
「先程の様な事は、結構あるのでしょうか?」
 その問いに、一瞬何の事を言われているのかと怪訝な顔をしてから、盛田は思い当たった事を口にしてみた。


「先程のと言うと……、襲撃される事ですか?」
「ええ」
「それは、身に危険が及ぶ可能性があるので、私達が付くわけですから。勿論、様々な防御策を講じて、襲われないに越したことはありませんが、危ない事をしたくないなんて言いながら、この仕事はできません」
 自分達にしてみれば当然至極の事を真顔で問われて、盛田は半ば呆れながら答えた。それを悟ったらしい健介が、神妙に頭を下げる。


「それはそうですね……。変な事をお尋ねして、申し訳ありません」
「健介! さっさと行くぞ! 後援会の人間を待たせるわけにはいかんだろうが!」
「今、行きます」
 そして揃って移動を始めた親子を護衛しながら、盛田は皮肉げな笑みを浮かべた。


「ま、何を考えているかは分かるが。菅沼が聞いたら、鼻で笑うだろうな」
 そんな呟きを聞いた人間は、勿論皆無だった。


 一方の真紀は、警察に襲撃者を引き渡してから、健介達の警護に合流する涼と別れ、所轄署に出向いた後で桜査警公社に戻って来た。そして廊下を歩いていると、直属の上司である阿南と遭遇する。


「お疲れ様です、主任チーフ
「おう、お疲れ。何だ、今日は随分戻るのが早いんじゃないか?」
「今日、護衛対象者への襲撃がありまして。撃退した後、犯人を警察に引き渡したり、事情聴取を受けていたものですから」
「必然的に上に報告するのもお前だし、こっちに戻って報告したら、そのまま上がる様に言われたか」
「はい。組織だった襲撃ではなく、単独犯だと見受けられますし。どうも、まともな感じもしませんでした」
 そこまで聞いた阿南は、渋面になりながら口を挟んできた。


「まともな犯罪者っておかしいだろう、と突っ込みを入れたい所だが……。薬か?」
「観察できたのは、警察に引き渡すまでの間だけでしたが、言ってる事が支離滅裂でした」
「薬をやるから、議員を襲えとか言われたクチか?」
 そこで今度は真紀が、盛大に顔を顰める。


「……そうだったら人一人の命の値段って、相当軽くなりましたね」
「全くだ。嫌な世の中だな」
 廊下で立ち話をしながら、重いため息を吐いた二人だったが、ここで甲高い声が会話に割り込んだ。


「あれ? ええと……、時々武道場で見かけるけど、特務一課の菅沼さん、だったかしら?」
 その声に慌てて振り向くと、武道場で訓練を受けている時、ごく偶に顔を合わせる少女の姿をそこに認めて、真紀は無意識に顔を引き攣らせた。それは彼女が桜査警公社の社長令嬢であり、真紀とは違った意味で社内で噂が絶えない人物であるからだった。
 そんな彼女が、これから訓練に行く途中であったのか、道着を入れた大きなトートバッグを肩から提げながら怪訝な顔で尋ねてきた為、真紀は頷きながら言葉を返した。


「はい、確かに私は菅沼です。美樹様と直接お話しした記憶は無いのですが、良く私の名前と所属をご存じでしたね。誰かから、私の話をお聞きになったのでしょうか?」
 十歳に満たない真紀にひたすら低姿勢で応じる様子は、他であれば失笑ものの光景であったが、目の前の彼女に対する対応に関しては、これが正解であった。


(美樹様にまで面白おかしく、私の黒歴史を吹き込んだ奴がいたら許さないわよ!)
 本気で誰とも知らない相手に対する報復措置を考え始めた真紀だったが、美樹はその推測をあっさり否定してくる。


「ううん、単に公社社員全員の顔写真と名前と所属を、頭に入れているだけよ」
 そんな風に、とんでもない事をさらっと言われて、真紀の目が点になった。


「え、ええと……、社員全員となると……、少なくとも五百人以上はいるのでは……」
「そうね。なんだかんだで七百人位かしら。それがどうかした?」
「……いえ、何でもございません」
(化け物……。さすがあの副社長が、ここの後継者候補として、一押ししているだけはあるわ)
 平然としている美樹に真紀が本気で戦慄していると、これまで黙って経過を見守っていた阿南が、美樹に話しかけた。


「美樹様。菅沼がどうかされましたか?」
 美樹はそんな阿南にチラリと視線を向けただけで、すぐに真紀に視線を戻した。


「菅沼さん。緊急通報システムの端末をちゃんと持っている?」
「はい。これですが。何か?」
 すぐさま真紀が上着のポケットから出して見せた、容易に握り込める大きさのそれを眺め、美樹は質問を続けた。


「起動試験はちゃんとしている?」
「はい。規定通りに、月に一度はしております」
「ふぅん? 月に一度かぁ……」
「あの……、それが何か……」
 途端に難しい顔になった美樹が、端末と自分を交互に凝視している為、真紀はお伺いを立てた。すると美樹が真顔で告げる。


「もう少し頻繁に、週に一度位は起動試験をしておいた方が良いんじゃないかなぁ?」
「え?」
「それだけ。阿南さん、邪魔してごめんなさい」
「いえ、お構いなく。ご指摘、ありがとうございます」
 唖然としている真紀の横で、阿南が深々と頭を下げている間に、美樹は何事も無かった様に歩き去って行った。そして阿南は頭を上げるなり、真剣そのものの表情で真紀に厳命する。


「菅沼。今すぐ、それの起動試験をしろ」
「え?」
「あの美樹様が、規定より頻繁にしておけと仰ったんだぞ? 悪いことは言わん。週一と言わず、毎日必ずしておけ。分かったな!?」
「……分かりました」
 阿南の迫力に押される形で頷いた真紀は、自分の机に向かいながら、気が重くなるのを止められなかった。


(確かにこれまで美樹様に危険性を指摘されて、危うく難を逃れたって人の噂が、社内でチラホラ聞こえていたけど)
 そして机に突っ伏し、面倒事に巻き込まれそうな予感に頭を抱える。


「だけどまさか、これを本当に使う羽目にならないでしょうね? 誰を引き当てるか分からないから、使った後が怖いんだけど……」
 不吉な予言を受けてしまった真紀は、事態が悪化しない様に密かに願ったが、それが叶えられる事は無かった。



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