恋愛登山道一合目

篠原皐月

第1話 不遜男に天誅を

 滅多に足を踏み入れない、勤務先の実質的なトップの仕事場に呼びつけられた真紀は、ドアの前で背筋を伸ばし、緊張をほぐす為に軽く息を整えてから、ノックした。


「入れ」
「失礼します」
 すぐに応答があり、真紀は一言断りを入れてから入室し、正面の重厚な机に向かって歩き、その向こうに座っているこの部屋の主の前で、自分の所属を名乗った。


「防犯警備部門、特務一課阿南班所属、菅沼真紀です。副社長直々の呼び出しと伺いましたが、どの様なご用件でしょうか?」
 緊迫感溢れるその表情に、桜査警公社の副社長である金田は、苦笑しながら傍らの応接セットを指し示した。


「取り敢えず、座ってくれ。そこで話そう」
「はい、失礼します」
 ゆっくりと立ち上がった金田を見て、真紀もそちらに移動しながら、彼が先に座るのを待つ。そして上司がソファーに落ち着いてから、彼女はその向かい側に、静かに腰を下ろした。


「君に折り入って、頼みたい仕事がある」
 その申し出が通常の業務に関する流れと異なっていた為、真紀は素直に頷きながらも、怪訝な顔になった。


「それは勿論、構いませんが……。副社長直々の呼び出しとは、何事かと思いました。部課長経由では、駄目な話なのですか?」
「少々、事情がある」
「そうですか……」
 真紀から問われる事は想定内だった金田は、笑ってごまかした。これまでの経験で、こういう場合の上司達に食い下がっても無駄だと、既に知り抜いていた彼女は、余計な口を挟まずに、大人しく話の続きを待つ。


「君には、ある人物の護衛任務に付いて貰う。護衛対象者の名前は、北郷健介。代議士、北郷稔氏の次男で、東成大法学部卒業後、父親の私設秘書になっている」
 そこですかさず、側に控えていた副社長秘書の寺島が、真紀に薄いファイルを手渡す。


「彼に関しての資料です。お渡ししますので、ご覧下さい」
「ありがとうございます」
 早速それを開いて、内容に目を通し始めた真紀に、金田が穏やかに声をかけた。


「それを眺めながら聞いてくれ。実は彼には先週から、父親の北郷代議士共々、うちで護衛を付けている」
「初耳です。ですがよほど親しくないと、一々護衛対象者の名前を職場で言ったりしませんから、当然と言えば当然ですが」
 思わず顔を上げて応じた真紀に、金田は淡々とその理由を説明した。


「その理由だが、先週、北郷代議士の事務所に、爆発物のレプリカが郵送されてきた」
「……一気に、話が物騒になりましたね」
 真紀は瞬時に顔を顰めたが、金田は冷静に話を続けた。


「それと一緒に、送りつけられた声明文には、『これまでの非国民な思想と活動を真摯に反省した上で、さっさと辞職しろ。さもなくば後継者諸共、貴様を消す』とあったそうだ。一応資料の最後に、それの全文のコピーを入れておいた」
「あぁ、これですね……。確かにそうですが、具体的にどこの何が悪いとは、書かれていません。それを書くと、自分達の身元がバレるからでしょうか?」
「おそらくそうだろうな」
「それなら書くだけ無駄ですよね。改めようが無いですから」
 バサバサとページを捲って確認した真紀が、呆れ気味に推測を述べ、金田もあっさりと頷いた。


「それで、うちで既に護衛を付けていると言う事は、北郷代議士は議員辞職をするつもりも、主義主張を変えるつもりも皆無なんですね?」
 真紀が一応確認を入れると、金田は当然の如く頷いた。


「その通り。本人は『馬鹿が馬鹿な事をほざいているだけだ』と一蹴して、歯牙にもかけなかったそうだが、周りの人間が動揺したらしい。何と言っても、送りつけられた物がレプリカとは言え、ちゃんと爆発物を内蔵させたら、それなりの威力で遠隔操作で爆発させるのが可能だった代物だったからな」
「この写真を見ると、悪戯にしては手が込んでいますね。プロの仕業とも思えませんが」
「同感だ」
 爆発物の写真を確認しながら真紀が率直な意見を述べると、金田は真顔のままそれまでの経緯を述べた。


「それで、北郷代議士の政策秘書経由で依頼を受けて、念の為代議士本人には二人、息子の方には一人、うちから護衛を付けていた」
 そこまでの話には納得したものの、それなら何故自分にお鉢が回って来るのだろうと、真紀は根本的な疑問を口にした。


「ですが副社長。先週からと言う事は、私は誰かからその護衛業務を引き継ぐと言う事ですよね? 何かあって、急に都合が悪くなったのでしょうか? それとも二人体制に増員する事になったとかですか?」
「こちらの事情と言うよりは、あちらの嗜好の都合と言った方が正しい」
「はい?」
 真顔で言われた意味が分からず、真紀は当惑した顔になった。すると金田は、少々言いにくそうに話を続ける。


「当初、健介氏に付いたのは、君と同じ一課の飯島君だったのだが……」
 それを聞いた真紀は、益々怪訝な顔になった。
「飯島先輩なら、私などと比べるとはるかに要人警護の経験がおありですから、相手方にも不満は無いかと思いますが」
「いや、不満は出なかった。寧ろこの場合、気に入られ過ぎたのが問題だ」
「はぁ?」
 全く要領を得ない話に、真紀が本気で戸惑ったが、金田はその疑問を一言で払拭した。


「手っ取り早く言えば、護衛対象者は飯島君の様な体格の男性が好みで、飯島君は二人きりになった時に、彼に迫られて押し倒されたそうだ。勿論、彼は格闘技の専門家だし、色々な意味で未遂で済んだが」
「…………」
 途端に無言で半眼になった真紀に、金田は説明を続けた。


「それで飯島君からの報告を受けて、岸田君に変えてみたんだが……。彼女に色々と、暴言吐きまくりだったそうだ」
「その失礼な奴、岸田さんに向かって、どんな事を言ったんですか?」
 入社以来、数少ない女性の先輩という事もあって、何やかやとお世話になっている人物の名前が出てきた為、はっきりと顔を顰めて問い質してきた真紀に、金田は淡々と告げた。


「彼女が言うには『女でも年寄りで良かった。父に押し付けられる見合い相手に、あなた位のババアじゃないと興味がないと言えば、皆こぞって愛想を尽かしてくれるでしょうから』とか、『その年になってまで危ない護衛業務なんて特殊な職業に就いているなら、とっくに枯れてるよな。盛ったメス犬みたいに纏わり付かれなくて結構』とか、『そんな年と見た目でも、じじい共には需要があるでしょうから、私の様な若くて美形な男を相手にするなんて分不相応な妄想を抱かないなら、後援会の中からどなたか紹介してあげますよ』とか、それから」
「副社長。そんな男好きで馬鹿でナルシストの勘違い野郎の護衛を、私にしろと仰るんですか?」
 その怒気を孕んだ訴えに、さすがに金田は少々困った顔つきになって答えた。


「色々面倒だし腹立たしい事には違いないだろうが、北郷議員は金払いの良い、大口顧客の一人だ。岸田君から『奴の好みと都合に合う人員を、派遣する必要なんかありません。この際、奴が最大限に嫌がる、若い女性を派遣するべきです。図に乗ると、ろくでもない要求を真顔で繰り出しかねません』と訴えられて、そこで『この際年長者の立場で、物の道理というものを奴に叩き込んでやりたいので、是非、奴の神経をゴリゴリと確実に削ってくれるであろう、菅沼さんに後任をお願いします』と、君の名前が挙がったんだ」
「……光栄なんだか、不名誉なんだか分かりません」
「とにかくそういう事だから、宜しく頼む」
 就職直後から、色々世話してくれた先輩からの指名、かつ副社長から直々に話をされた事で、真紀は完全に腹をくくって頷いた。


「分かりました。仕事は仕事ですし、相手が誰であろうが全力で警護します」
「それでは明日の十五時。北郷代議士の事務所で、護衛対象者と顔合わせの上、岸田君と引き継ぎを頼む」
「了解しました。副社長、他にご用件は?」
「いや、戻って構わない」
「それでは失礼します」
 話が終わったのを確認した真紀が、礼儀正しく一礼して副社長室を出て行くと、金田は少々納得しかねる顔付きになった。


「奴の顔写真は、しっかり目にした筈だが……。それを見ても、気が付かなかったか?」
「その様ですね。経歴も空白の部分を不審に思えば、突っ込む筈でしょうし」
「確かに以前とは、随分見た目が違うが……」
 僅かに不満そうな呟きを漏らした上司に対して、寺島が真紀のフォローをする。


「彼女の物覚えが悪いわけでは無く、単に仕事に必要の無い物は、切り捨てているだけかと思います。我が社の社員が顔を覚えなければいけないのは、上司と同僚と警護対象者と、排除するべき敵のそれだけです」
「確かにそうだな」
 そこで納得した様に薄笑いを浮かべた金田は、全ての事情を知り尽くしている寺島に、同意を求めた。


「しかしこれはなかなか、面白い事になりそうだな。そうは思わんか?」
 それに寺島が、真顔で頷く。
「ええ。まさかうちに、まともに依頼して来るとは思っていませんでした。知らないと言う事は、本当に怖いですね……」
「当時本人が『こんな事で警察沙汰になったら、余計に職場の笑い者になります』と言って、訴える意思が無かったから、あれ以降そのまま放置しておいたが……。今回、不都合があったら、纏めて借りを返して貰う事にするか」
「勿論です。桜査警公社うちの社員にちょっかいを出す馬鹿は、公社全体の敵です」
「それならこの件は、以後はお前に対処を任せる。防犯警備部門の杉本部長と相談して、万事抜かりなく事を進めてくれ」
「了解しました」
 互いにすこぶる真顔でのやり取りは、この二人を良く知る者達にとっては、心肝を寒からしめる代物だった。


(ふざけてるわね。何なのよ、その男の敵で、女の敵は!?)
 一方の真紀は、憤然としながら廊下を歩き、自分の机があるフロアまで戻った。そして偶々、目指す人物が内勤だったのを確認した為、自分の席とほど近い彼の席に直行した。


「飯島先輩」
「ああ、菅沼。どうした?」
「任せて下さい。ちゃんと仕事をこなしながら、奴の神経をゴリゴリ削ってやります」
 鼻息荒く宣言した真紀を、座ったまま見上げた飯島が、怪訝な顔で応じる。


「……何の事だ?」
「男好き馬鹿ナルシスト勘違い野郎」
 防犯警備部門のフロアは閑散としていたが、何人かは在席していた為、真紀は人目を憚りながら、小声で簡潔に口にした。するとそれで察した飯島は、椅子ごと真紀に向き直って、軽く頭を下げる。


「菅沼……。後輩のお前に、迷惑をかけてすまん」
 そんな彼を不憫に思った真紀は、その左肩をガシッと掴みながら、やる気満々の口調で宣言した。


「迷惑をかけられたのは、先輩の方です。気にしないで下さい。先輩の仇は、私がきっちり取ってみせます!」
「いや、仇は取らなくて良いから……、頼むから、穏便にな?」
 飯島は、面倒な人物の警護から離れる事ができて安堵した反面、基本的に熱血気質のこの後輩に、例の人物の護衛任務が任せられるのかと、激しい不安に駆られた。
 その頃、真紀の先輩である岸田裕美は、男二人の前で寺島からの電話を受けていた。


「……はい、了解しました。明日、彼女とこちらで引き継ぎをします。それでは、失礼します」
 そしてスマホを耳から離してポケットにしまい込んでから、神妙な面持ちで椅子に座っている男達を見下ろす。
「お待たせしました。上手く事が運びましたよ? 彼女と明日ここで、引き継ぎをする事になりました」
 端的に述べた裕美に、彼らが幾分安堵した表情を見せた。


「そうですか」
「色々お手数をかけて、すみません」
「あら、謝って貰わなくて結構よ。正直あんたの謝罪なんて、全く訳が分からない上にゴミ以下で不要だもの」
「…………」
 彼女が容赦なくバッサリと切り捨て、男二人の顔が引き攣る。そんな彼らの顔を、仁王立ちのまま面白く無さそうに見下ろした裕美は、声のトーンを低くして凄んできた。


「ところで……、私は彼女に何も言っていないし、これから言うつもりも無いわ。あんた達も、そこら辺はちゃんと分かっているんでしょうね?」
 そう念を押された男達は、一瞬顔を見合わせてから、揃って真顔で頷く。


「……勿論です。文句を言える筋合いでは無いと、理解しています」
「そこの所は、私も責任を持って監視しますので」
「そうして頂戴。ああ、楽しみだわ。早く明日にならないかしら?」
 そして先程までの不機嫌さとは打って変わって、「あはははは」と高笑いし始めた彼女を、彼らは不安そうな顔つきで見上げていた。



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