藤宮美樹最凶伝説

篠原皐月

美樹十八歳、娘の情操教育に問題あり

 結婚するまでのあれこれで、秀明と美樹の仲は修復不可能に近い所まで悪化していたが、年の近い義父に対して和真はかなり同情し、気を遣っていた。特に娘の真論まろんが生まれてからは、自分達が忙しい時など、加積屋敷で使用人達に任せる事ができても、藤宮家に真論を預ける事が多かった。


「それじゃあお母さん、真論まろんをお願いね」
 その日も美樹が一歳の娘を預けに来ると、玄関で母親の美子を初めとして弟妹達が笑顔で真論を出迎えた。


「土日も仕事だなんて大変ね。ちゃんと面倒を見るから心配しないで」
「真論ちゃん、いらっしゃい!」
「一緒に遊ぼうね!」
「じゃあよろしく」
「ええ、いってらっしゃい」
 必要な荷物を渡し、美樹が門の前に待たせていた車の後部座席に戻ると、車内で待っていた和真が、さり気なく声をかけてきた。


「今日は土曜だし、社長は居たか?」
 それに美樹が、隣を見ながら面白く無さそうに答える。


「あいつが居ても、玄関に出て来るとは思えないわね。それに社長は私だけど?」
「実質上はそうだが、対外的には、まだあの人が社長だからな」
「私はとっくに実働してるってのに、まだ未成年だから対外的には無理だなんてね。無駄に年だけ食って親の臑をかじってるならともかく、こっちはしっかり稼いでるのよ? 世の中、色々間違ってるわ」
「まあ、お前の気持ちも分かるがな」
 苦笑いするしかなかった和真は、(取り敢えず真論は社長に懐いているみたいだから、預ける度に真論にご機嫌を取って貰うしかないな)と、美樹の方から歩み寄らせる事を諦め、秀明との関係改善に関しては娘に丸投げしていた。


「あなた、美樹達はもう行ったわよ」
「……ああ」
 美子が真論を抱えたまま居間に戻ると、ソファーに座っていた秀明が仏頂面で出迎えた。しかしその彼を見た瞬間、真論が嬉々として両手を伸ばしながら声を上げる。


「ひで! ひー!」
「あらあら、やっぱり真論ちゃんは、お祖父ちゃんの方が良いの?」
「ひー!」
 大興奮状態で、自分の腕から抜け出そうとしている孫娘を見て、美子は苦笑いしながら秀明に歩み寄った。


「お祖母ちゃん、ちょっと傷つくわね。あなた、真論をお願いしても良い?」
「さっさと寄越せ」
「はいはい」
「ひでー!」
 当初、精神的に受け入れられず、「お祖父ちゃん」と呼ばせるのを断固として拒絶した秀明は、孫に名前を呼ばせて、それが定着してしまった。傍から見ると今では彼女を猫かわいがりしている秀明が、素っ気なく告げた言葉に美子は笑い出しそうになったが、何とか堪えながら慎重に真論を渡す。すると孫娘を抱きかかえた秀明は、忽ち仏頂面を消し去って機嫌良く笑いかけた。


「元気そうだな、真論。ちゃんと食べて寝て遊んでいるか?」
「うん!」
「そうか。お前は良い子だな」
「ひで! あっち!」
「そうだな。ここだと好きなように動き回れないからな。もうこの家の造りを覚えたか。やはりお前は頭が良いな」
 真論がドアの向こうを指さしながら訴えると、秀明はもうどう考えても祖父馬鹿としか言えない台詞を吐いてから、美子を振り返った。


「美子、しばらく俺が座敷で真論を遊ばせているから、お前は構わなくて良いぞ」
「分かりました。お願いします」
「美那、その袋を渡せ」
「はい」
 美那がおもちゃが入っている大きな袋を渡すと、秀明は真論を抱えて居間から出て行った。その後ろ姿を見送ってから、男三人がしみじみとした口調で感想を述べる。


「本当に真論は、妙に父さんに懐いているよな。未だに姉さんと父さんの仲が悪いのに、不思議と言えば不思議だけど」
「だがあれだけ好かれて、秀明だって悪い気はしないだろう。と言うか溺愛レベルだし、良いんじゃないのか」
「お父さん、美樹お姉ちゃんへの態度とは、全然違ってるよね」
 そこで何やら考え込んでいた美那が、ぼそりと口にした。


「真論ちゃん……、お父さんが好きなだけかなぁ?」
 その呟きに、美子が怪訝な顔で応じる。
「美那、どういう意味?」
 その問いかけに、美那は首を傾げながら言い出した


「お父さん、真論ちゃんにベタ甘だし。ここに居るときは、絶対真論ちゃんを歩かせないで、どこに移動するにも抱っこしてるよね?」
「それがどうかしたの?」
「真論ちゃん歩くのが面倒臭くて、お父さんを便利な、喋るベビーカー扱いしてないかなぁ?」
「…………」
 美那が大真面目にそんな事を口にすると、室内が静まり返った。しかしすぐに気を取り直した美子が、微妙に顔を強張らせながら娘に言い聞かせる。


「美那。幾ら何でも、それは考え過ぎだと思うわ」
「そうかなぁ?」
 まだ首を捻っている妹を見て、美久はすかさず提案した。


「父さんは『構うな』と言っていたけど、ちょっと座敷の様子を見に行こうか」
「うん、行こう! お父さんばっかり、真論ちゃん独り占めで狡いよね!」
「いや、美昌。最初はこっそり様子を見るだけだから、静かにな?」
「そうなの?」
 即座に満面の笑みで頷いた弟にしっかり釘を刺してから、美久は弟妹を連れて座敷へと向かった。それを見送った昌典が、何とも言い難い表情で美子に尋ねる。


「美子。本当に真論の秀明に対する認識は、喋るベビーカーとかじゃないよな?」
「そう信じたいわね。あの人の為にも」
「秀明……、不憫な奴」
 美子が微妙に視線を逸らしながら、淡々と口にした為、彼は俯いて目頭を押さえた。
 そんな些細な疑惑と憐憫の情が発生していた当事者達は、その頃、広い座敷でボール遊びをしていた。


「ぽーん!」
「おう、上手だな、真論。ほら、行くぞ?」
 ワンバウンドで返って来たゴム製のボールを、秀明が真論の前で跳ねるように投げると、それは力余って彼女を大きく飛び越えて行った。


「あう! ひでー!」
「悪い、ちょっと大きく跳ねたな」
 すかさず真論が背後に転がったボールを指さして訴え、秀明が謝りながら部屋の隅までボールを取りに行く。そして拾ったボールを真論に手渡してから、彼が元の位置に戻ると、真論は今度はバウンドさせずに、秀明の手の中にボールを放り込んでくる。


「ぽーん!」
「うまいうまい。真論はプロのバスケ選手になれそうだな。じゃあ、これならどうだ?」
 手放しで真論を誉めた秀明は、ボーリングの要領で真論に向かって勢い良くボールを転がした。対する彼女は嬉々としてそれに覆い被さるようにして止めようとしたが、身体が横倒しになり、ボールが身体の下から転がり出る。


「うっ! きゃうっ!」
「大丈夫か?」
「ひでー! ぼーる!」
「ああ、身体全体で取ろうとするとは、真論は闘争心旺盛だな。将来大物になるぞ」
 笑顔でそう誉めながら、真論が取りこぼしたボールを取りに部屋の隅まで歩いて行く秀明の姿を、襖の隙間から覗いていた子供達は、微妙な顔で囁き合った。


「本当に闘争心旺盛なら、転がったボールをどこまでも追いかけると思う」
「そうだよね? 美昌ったら真論ちゃん位の時、どこまでも追いかけて池に落ちて頭を打ったし。あの時、大騒ぎだったよね」
「そうなの? 覚えてないけど」
 するとここで、真論が両手を上に上げながら、大声で呼びかける。


「ひで! だっこ!」
「ああ、疲れたか?」
「おしっこ!」
「ほう? ちゃんと言えるようになったか。偉いぞ。よし、トイレまで連れて行ってやるからな」
 すかさず秀明はボールを置いて真論を誉めながら抱き上げ、笑顔でトイレへと向かった。
 廊下にいた子供達は、二人が部屋を出るまでに近くの部屋に隠れており、人気の無い廊下を秀明達がトイレに向かうと、美子が現れて声をかけてきた。


「あなた」
「ああ、ちょうど良かった。真論をトイレに連れて行くから、新しいパンツタイプのオムツを持って来てくれないか?」
「それが、会社からあなたに電話なの。休日出勤している方から、至急の用件みたいで」
 申し訳無さそうにそんな事を言われた秀明の眉間に、瞬時にシワが寄った。


「どこの馬鹿だ……。分かった、出てくる。美子、真論を頼んだぞ」
「ええ」
 そして仏頂面で離れていった秀明を、真論は美子の腕の中で不思議そうに見やった。


「ひで?」
「お祖父ちゃんはお仕事なの。すぐ戻ってくるから、お祖母ちゃんで我慢してね?」
「うん」
 優しく言い聞かされた真論は、特に我が儘を言わずにおとなしく頷いたが、ここで隠れて様子を見守っていた美那が現れて、明るく声をかけた。


「真論ちゃん、一緒に手を繋ごう?」
「て!」
 すると真論は上機嫌に手を伸ばした為、美子は彼女を廊下に下ろした。すると真論は美那の手を握って、ゆっくりトイレに向かって歩き出す。


「真論ちゃん、ちゃんとトイレ分かるんだ。それにちゃんと歩けるんだね、偉いねぇ」
「うん!」
「…………」
 美那が迷わずしっかりトイレに向かって歩いているのを誉めると、真論が満面の笑みで頷く。それを見た他の面々は微妙な顔になりながら、彼女のオムツの換えを持って後に続いた。
 無事にトイレを済ませてオムツも交換してから、美子と子供達が座敷に戻ろうと歩き始めると、秀明が渋面で歩み寄って来た。


「あなた、用件は済んだの?」
「ああ。あんな事位で、一々俺の判断を仰がないと駄目だとは、ろくに使えん奴だな。次の人事査定で」
「ひで! おぶー!」
 苦々しげに吐き捨てた秀明だったが、下から真論が手を伸ばしながら声を上げた為、忽ち笑顔になった。そして彼女に背中を向けて屈み込む。


「そうか、真論は俺が良いか。ほら、乗れ」
「うん!」
「どうだ? 高いだろう?」
「たかー!」
 互いに上機嫌で座敷に戻って行く二人を見ながら、子供達は囁き合った。


「真論ちゃん、さっきまで、普通に歩いてたのにね……」
「単に、お父さんにだっこされたりおんぶされるのが、好きなだけかもしれないけど」
「美那……。お前、自分で疑惑を口にしておいて、あっさり片付けるな」
 そしてこそこそと再び座敷に戻る子供達を、美子は溜め息を吐いて見送った。


「全く……。自分の娘に、真論まろんなんて名前を本気で付けるとは……。あの馬鹿どもが。冗談かと思って、聞き流していたのに……。出生届を出した後に名前を聞いて、俺は自分の耳を疑ったぞ」
「ひで?」
 何やら急にぶつぶつ悪態を吐き始めた秀明の背中で、真論が不思議そうに声をかけると、座敷に戻った秀明は彼女を背中から下ろし、向かい合って座りながらしみじみとした口調で言い出した。


「どうしてこんな、美味しく食べられそうな名前を付けるんだ。俺はお前の将来が、本当に心配だ。あの親達など当てにならん。自分も常識的では無い所があると自覚しているが、あいつらは非常識にも程があるぞ」
「おいしい?」
 不思議そうに小首を傾げながら尋ねてきた真論に、秀明は軽く首を振ってから真顔で言い聞かせた。


「大丈夫だ。確かに俺は、かつてお前の母親に負けた。しかしそれで己の慢心に、否応無しに気付かされた。あれ以降、どれだけ忙しくても、毎日基礎トレは欠かしていないし、無理をしない程度にジムのトレーナーにスケジュールを組んでもらって、鍛え直して頑張っているからな」
 それを聞いた真論は、反対側に首を傾げながら声を発した。


「がんば?」
「ああ。お前が大きくなった時にちょっかいを出してくるろくでなしがいたら、あいつらの代わりに、俺が叩きのめしてやると決めた」
「ひで、すきー! だっこー!」
「ああ。お前は、変な男には渡さんぞ」
 満面の笑みで再び手を伸ばしてきた真論を、秀明が笑顔で抱き上げつつ、力強く断言した。その光景を盗み見ていた子供達は、揃って微妙な表情で囁き合う。


「父さんに懐きすぎなのも、やっぱり色々と問題があると思う」
「真論ちゃん、結婚できるかな? かずにぃとお父さん、二人を撃破する相手じゃないと結婚できなさそうだね」
「でも真論ちゃん、美樹お姉ちゃんと同じように、和真さんとお父さんをやっつけないかな?」
 美昌が大真面目にそんな事を口にした途端、兄姉の顔がピシッと固まった。そのまま少しの間、その場に沈黙が満ちてから、美久が沈痛な面持ちで対応策を口にする。


「その頃は二人とも、文句なく老人の域に達している筈だし……。真論には成人するまでに、しっかりと敬老精神を叩き込んでおけば良いだろう。お前達も協力しろよ?」
「おまかせ! かずにぃとお父さんが、可哀想過ぎるものね!」
「年少者を導くのが、年長者の役目だもんね!」
「ああ……、宜しく頼むよ」
 正直に言えば、時々変な方向に突き抜ける妹と、普段末っ子の為、年下の子には妙に年上風を吹かせる弟に、美久は若干の不安を感じていたが、自身は年が離れ過ぎている為、真論の躾に関してはこの二人に任せるしか無いだろうと半ば諦めて腹を括った。



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