藤宮美樹最凶伝説

篠原皐月

美樹六歳、野望に向かって進め

 関係者以外には知られていない事だが、桜査警公社社屋ビル内には、専属トレーナー常勤のフィットネスジムの他に、設備の整った武道場が設置されており、そこで防犯警備部門所属の人間は最低週一回、及び信用調査部門所属の人間は、最低二週に一回の武闘訓練が義務づけられていた。
 外部に出る事のない経理や清掃などに携わる社員等は、さすがにその訓練は免除させられていたが、信用調査部門にその訓練義務が課せられているのは、公社が後ろ暗い人物や組織の調査を引き受ける事が多々あり、調査要員だとしてもあらゆる突発事態に対処する為には、ある程度の腕が必要だったからである。
 そして公社内でも指折りの実力保持者であるにも関わらず、「他人の秘密を暴くのがゾクゾクする」との理由で防犯警備部門への配属を蹴り、信用調査部門に席を作ってしまった和真は、二週に一度と言わず、週に二回はここに顔を出す常連だった。


「やあ、今日も使わせて貰う……」
 今日も今日とて、訓練担当の猛者相手に一暴れして憂さを晴らそうと、意気揚々と道着に着替えて道場にやってきた和真だったが、そこに一歩足を踏み入れたところで、不自然に口を閉ざした。目の前で美樹が、身長差が有りすぎる指導者に向かって、拳を繰り出しているのを見た為である。


「あれ? 和真も訓練に来たんだ」
 ちょうどそこで練習が一区切り付いたらしい彼女が振り向いた為、和真はいつもの表情で会釈した。


「今日は稽古の日でしたか。お疲れ様です」
「うん、今週から、週二から週三に増やしたの」
「そうですか……」
(あとでこいつの稽古の時間帯を、再確認しておこう)
 礼儀正しく受け答えしながらも、心の中で忌々しく考えていると、ここでどこからともなくTシャツと半ズボンの幼児が足元に現れた為、和真は少々驚いた。


「ねーちゃ?」
「え?」
「かずま? げぼく?」
「…………」
 キョトンとした顔で自分を見上げてきた幼児が、小首を傾げながら口にした内容に、和真は無言になった。しかしそれを聞いた美樹が、彼の頭を撫でながら誉める。


「そうよ。これが私の一の下僕の、小野塚和真。でも話をしたのは結構前だったと思うのに、良く和真の名前を覚えていたわね。偉いわ、美久」
「うん!」
 誉められたのが嬉しいらしく、にこにこ笑っているその子を見ながら、和真は(そう言えば確か、こいつには弟がいたな)と思い出し、一応確認を入れてみた。


「美樹さん……。その子は弟さんですよね?」
「そうよ。名前は美久よしひさで、今二歳よ。今日から私と一緒に、ここで稽古をつけて貰う事になったから、よろしくね」
「おすっ!」
 姉の台詞に合わせて、威勢の良い掛け声を発した美久に、和真は軽く疲労感を覚えながら声をかけた。


「そうですか……。怪我をされないように、気を付けて下さい」
「おうっ!」
 分かっているのかいないのか、明るく声を上げて力強く頷いてみせた美久に、和真は頭痛を覚え始めた。


(またガキが増えたか……。ここは託児所じゃ無いんだぞ? 何か問題が起こったら、今度こそ金田の野郎を締め上げてやる)
 そんな事を考えながら、和真が道場の隅で身体をほぐし始めると、子供達もそれぞれの稽古を再開した。そして身体を動かしながら、見るともなしに、甲高い掛け声をかけながら手足を動かしている美久を観察する。


「とうっ! ほうっ! はうっ!」
(ふぅん? 小さくても、気迫は一人前だな。それに動きにキレがあって、とても二歳児とは思えない、勢いがある踏み込みや突き……、いや、ちょっと待て)
 最初のうち、なんとなく眺めていた和真だったが、すぐにその異常さに気が付いてストレッチを中断し、美久に付いている指導担当者に歩み寄った。


「おい、ちょっと確認したいが、あの子は今日から訓練を開始したと言っていなかったか?」
 疑わしげに尋ねた和真に対し、ベテラン指導者である寺田が、真顔で彼に答える。


「はい、確かに一時間程前に、美樹様と一緒にいらっしゃいました」
「当然、準備運動とかはさせたよな?」
「勿論です。全くの初めてですから、ストレッチのやり方も含めて、時々休憩を挟みながら三十分位みっちりと時間をかけて、説明しながらやって頂きました」
「それなら、あのガキは実質的な訓練を始めてから、まだ三十分強の筈だが……」
「そうですね」
「それなのにどうしてあのガキは、既に何ヶ月も習っているかの様に、間違えずに途切れなく型を繰り出せるんだ?」
 和真にしてみれば当然のその疑問に、寺田はどこか遠い目をしながら答えた。


「模範演技のつもりで、一度通しでやってみせたら、それで完全に動きを覚えてしまったみたいです。『できる、やる』と言われまして、試しにやらせてみたら……」
「冗談」
「冗談ではありませんから」
「…………」
 和真の言葉を寺田が真顔で遮り、その場に沈黙が満ちる。そこで一通り型を終えた美久が、とてとてと彼らに歩み寄り、見上げながら尋ねてきた。


「ししょー! おわり! いい! まる?」
「はい、美久様、大変結構です。十分お休みしたら、新しい型をお教えします」
「うん! おやすみ~!」
 引き攣り気味の笑顔で寺田が応じ、それを聞いた美久が機嫌良く壁際に移動して、置いてあったステンレスボトルを取り上げた。その背中を見ながら、和真が思わず呟く。


「化け物か……」
「美樹様の弟さんである事を考えれば、納得できますね」
「どういう意味だ?」
「……あれを見て下さい」
「はぁ?」
 妙にしみじみとした口調で寺田が呟いた為、和真が彼に怪訝な顔を向けた。すると寺田は、溜め息を吐きながらある方向を指さし、その指し示す方向に何気なく目を向けた和真が固まる。


「ほぁあああぁ――――っ!!」
 その視線の先では、いつの間にか右手にプロテクターを付けた美樹が、雄叫びを上げながら拳を振り下ろし、重ねた瓦を粉砕しているところだった。


「……あれは何だ?」
「瓦割りです」
「そんな事は、見れば分かる!」
 淡々と答えた寺田に和真が思わず声を荒げる中、美樹は平然と散らばった瓦の破片を見下ろしながら、冷静に背後にいた指導者に声をかけていた。


「よし。無理せずに、今日は五枚だけにしておこうっと。あ、滝田さん。私、また休憩に入るから、ここの片付けをお願いね?」
「畏まりました」
 そして寺田同様、滝田も慣れきってしまったらしく、黙々と瓦と支柱にしたブロックの撤収作業を開始した。それを呆然と眺めながら、和真が乾いた声で確認を入れる。


「……おい、あいつがここに通い始めたのは、先月からだったよな?」
「ええ。もう姉弟揃って、怖い位の格闘センスをお持ちの様で……。最近は、何だかとんでもない怪物を育てている気がして、時々夜中にうなされています」
「…………」
 どこか虚ろな口調で言われた和真は、思わず憐憫の情を覚えながら寺田を見やった。その一方で、寺田達を戦慄させている子供達は、持参した飲み物を飲みながらまったりと寛いでいた。


「ねーちゃ、ひさ、とれる?」
「そうね。この調子で頑張れば、取れるんじゃない? 美久は筋は良いと思うし、真面目に稽古をすれは、大丈夫だと思うわよ?」
「うん、がんばー!」
 そんな一見ほのぼのとした姉弟のやり取りを耳にした和真は、思わず尋ねてしまった。


「弟さんは、何を取りたいんですか? 黒帯ですか?」
「黒帯なんかじゃなくて、もっと俗っぽい物よ」
「俗っぽい物?」
 何だろうかと和真が首を傾げた瞬間、広い道場中に甲高い声が響き渡った。


「こーかいぎしどー!」
「え?」
「ししょーかーてー!」
「…………」
 何となく美久の言いたい事が分かってしまったものの、それを肯定したくない大人達は、揃って無言になった。しかしここで美樹が、真顔で解説してくる。


「一応解説すると、美久は『国会議事堂』と『首相官邸』が欲しいと言っているのよ」
 それを受けて、和真は溜め息を吐いてから言い返した。


「おそらくそうだろうとは思いましたが、通常、二歳児が欲しがる物とは、到底思えませんが?」
「そうよね。あんな味も素っ気もない、左右対称の石造りの物や、角張ったビルもどきを欲しがるなんて、美久の美的センスはどうかしてるわ。ちょっと将来が心配よ」
「お前の考えも、どうかしていると思うがな! 問題点はそこじゃ無いだろう!?」
 呆れて声を荒げた和真だったが、美樹はここでスポーツドリンクを一口飲んでから、淡々と経過を説明した。


「先週、美久がテレビのニュースを見ながら、映し出された画像を指さして、『あれ、ほしー!』って騒ぎ出したの。そうしたらあいつが、『それなら武道を物にしろ』と言い出したのよ」
「社長が? それはどういう意味ですか?」
 美樹が言う「あいつ」が誰かなど、分かりきっていた和真だったが、話がどう繋がっているのか咄嗟に分からず、問い返した。すると美樹が、詳細を説明してくる。


「『その二つが欲しいなら、首相になるしか無い。首相になるには、政治家になる必要がある。政治家になるには、顔と頭と地盤と金と腕が必要だ』と言ったの」
「大筋では間違ってはいないと思いますが、あの人は二歳児に向かって、何を言っているんですか……。理解できるわけ無いじゃありませんか」
 呆れ返った和真だったが、美樹は肩を竦めながら話を続けた。


「それに続けて『顔と頭は、俺の息子だから心配要らない。地盤はお義父さんの実家の倉田家が、子供をどちらか後継者に寄越せと未だにうるさいから、後援会ごと丸々貰ってやる。金は十分足りているから心配するな。だからあとお前に必要な物は、武道の腕前だけだ』と断言したのよ」
「社長の傲岸不遜で傍若無人ぶりは良く分かりましたが、そこでどうして腕っ節の強さが関係してくるんですか?」
 もう溜め息しか出ない和真は、思わず額を押さえたが、美樹は変わらず話を続けた。


「それはやっぱり、目の前に立ち塞がる敵対者を、実力行使で排除するからじゃない?」
「……サラッと物騒な事を、言わないで下さい」
「だって最後の最後で頼りになるのは、己自身だけよね」
 どこか達観した口調でそう述べてから、スポーツドリンクを再び一口飲んだ美樹を、和真はそれはそれは疑わしげな目で見やった。


「あんた、本当は何歳ですか?」
「失礼しちゃうわね。お肌の曲がり角なんて遥か遠くの、ピッチピチの六歳よ」
「ほう? 六十じゃなかったか。一瞬、赤いちゃんちゃんこでも贈ろうかと思ったぞ」
「六十本の赤い薔薇なら、受付可よ」
「薔薇って年か。せいぜいペンペン草だろうが」
「他人の若さを妬むのは、オッサンの証拠ね」
「黙れ、くそガキ」
 突如として和真と美樹の間で舌戦が始まり、寺田達がハラハラしていると、ここで至近距離から鋭い声が上がった。


「げぼく!」
 それを聞いて舌戦中の二人も一瞬黙り込み、美久に視線を向けながら、再び言い合う。


「和真、何だか呼ばれているわよ?」
「弟にまで、俺を下僕呼ばわりさせるな!」
「なまーき! ひさ、てーちゅー!」
「…………」
 そこで美久が、勢い良く和真を指さしながら宣言してきた為、道場内が静まり返った。そして数秒後、地を這う様な声音で和真が問い返す。


「ほぅおぉぉぅ? まさかお坊ちゃまがこの俺に、本気でお仕置きをする気なのか?」
「めーっ!」
 寺田達は和真の殺気を察知して真っ青になったが、対する美久は恐れげも無く、再度和真を叱りつけた。それを見た美樹が、呆れ気味に肩を竦める。


「する気なんじゃない? 美久は姉思いの、良い子だし。悪いことは言わないから、形だけでも私に頭を下げておきなさい。そうすればあの子も納得するから」
 彼女から、如何にも(本当に困った奴)的な扱いをされた和真は、普段の彼らしくなく激高した。


「あぁ!? ふざけんな! 一度徹底的に泣かせてやる!」
「……意外にガキね」
「うるせぇぞ! ガキにガキ呼ばわりされる筋合いは無い!」
 ボソッと付け加えられた美樹の台詞に、益々神経を逆撫でされながら、和真は美久に向かって足を踏み出そうとした。しかしここで駆け寄って来た寺田と滝田に、身体の両側から腕を掴まれる。


「小野塚さん!」
「待って下さい! ここは冷静に!」
「止めるな! ガキの躾は、最初が肝心だろうが!」
「それは確かにそうかもしれませんが!」
「幾ら何でも、相手は二歳児ですよ!?」
 必死の形相で言い募る二人の懸念を、和真は拘束されたまま鼻で笑った。


「当たり前だ。誰が本気で、ガキの相手なんかするか。怪我もさせん。ちょっと足を引っ掛けて転がして、尻でも叩いておく位だ。分かったら、その手を離せ」
「そうですか?」
「それなら本当に、それだけにして下さいよ?」
「くどい。変な心配はするな」
 そして不安の色を隠せないまま、取り敢えず自分の腕を離した二人を放置して、和真は美久の前に立った。





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