藤宮美樹最凶伝説

篠原皐月

美樹六歳、水面下での反抗期

「その算数の授業で、二桁の足し算をやったの」
「二桁の足し算? 繰り上がりとかがある計算ですか?」
「そうよ」
 そんな淡々とした美樹と和真の会話に、近くの席の社員が口を挟んできた。


「あの……、美樹様」
「何かしら?」
「私の娘も今年小学校に入学したばかりですが、まだ夏休み前ですし、数字を書く練習をしたり、数の概念を教わって、漸く一桁の足し算や引き算に入るかと言う所だったかと、思うのですが……」
 恐怖より疑問を解消したい欲求が勝ったらしく、恐る恐る尋ねてみた彼を、周りの者達が(勇者だ……)と尊敬の眼差しで見守っていると、そんな彼に美樹が、事も無げに答えた。


「うちの学校、私立の進学校だし。秋以降に、かけ算に入るみたいよ。だけど、なんで今更繰り上がりとか繰り下がりとかの計算を、真面目にやらないといけないわけ!? 馬鹿馬鹿しくて仕方がないわ!」
「…………」
 最後は吐き捨てる様に美樹が口にした為、周囲が静まり返った。しかし和真だけは、恐れ気もなく指摘してくる。


「美樹さん。ひょっとしなくても、社長から相当先の授業内容を教わっていますよね? 因みに、今はどんな事を自主勉強していますか?」
「因数分解は、パズルみたいで楽しいわ」
「……二次方程式が解ける六歳児って、嫌みですよね」
 美樹が即答した内容を聞いて、思わず遠い目をしてしまった和真だったが、すぐに気を取り直して話を続けた。


「それでは美樹さんにとっては、学校の授業などつまらないでしょうね」
「入学直後に、お母さんにそう言ったわよ。そうしたら『今のあなたに必要なのは勉強では無くて、周りに合わせる協調性と忍耐力よ。あの一見性格破綻者に見える秀明さんに、仲の良いお友達が結構いるのは、一応真っ当な子供時代を過ごしたからだわ』って、真顔で断言したの」
 それを聞いた和真は、しみじみとした口調で同意を示した。


「そうですか……、さすが会長。慧眼をお持ちでいらっしゃいます。そうでなければ、あの社長と結婚なんかできませんよね」
「それで『勉強がつまらないからなんて理由で、登校拒否なんて許しません。それなら勉強の他に、楽しい事を見つけなさい。そうさせるのが、親としての私の義務です』って言われちゃって。だから一応私なりに、周りに合わせて頑張っていたって言うのに……」
 そこで話が元に戻った事を察した和真が、再度尋ねた。


「公開授業で、何があったんですか?」
「普通に、担任が授業をしていたのよ。まず黒板に例題を書いて、解き方を説明して。その後に幾つか問題を書いて、分かった子に手を挙げさせて指名して、前の黒板で解かせていたの。私は、手を挙げなかったんだけど」
 そこで和真は、首を傾げた。


「どうして、手を挙げなかったんですか? 美樹さんなら、分からない筈が無いでしょう?」
「だって、普段手を挙げない様な子が、親の前で良いところを見せたいって、健気に頑張って手を上げているのよ? その子達に当たる確率を少しでも増やしてあげるのが、優秀な人間の人情ってものじゃないの?」
「…………」
 真顔でそんな事を言われてしまった和真は、少しの間、黙って美樹の顔を凝視した。それから溜め息を吐いて、嫌そうに感想を述べる。


「それはある意味、他人を馬鹿にしていますね。この際、『人情』の意味を会長に教わったらどうですか? 一応言っておきますが、社長に教わったら駄目ですよ? ろくでもない『人情』を教わりそうですから」
 それを綺麗に無視して、美樹が話を続けた。


「そうしたら、最初の方は簡単な問題だったのに段々難しくなって、最後は三桁の引き算になったの」
「ちょっと待って下さい。何だか進度が、おかしくありませんか? さっきは二桁の足し算とか言っていましたよね?」
 聞き捨てなら無い内容を耳にして、和真は不審そうな表情で問い返したが、美樹は真顔で頷いてから、説明を加えた。


「ええ。だから授業の最初で前回の二桁の足し算の復習をしてから、二桁の引き算をやって、その応用で三桁の足し算と引き算になったの。そうしたら難しくなって、誰も手を挙げなくてね」
「それ、どう考えてもおかしいだろう!? 何なんだ、その学校!」
 思わず声を荒げて指摘した和真だったが、美樹はそれを再度無視した。


「そうしたら担任が、それまで一度も手を挙げていなかった、私を指名したのよ。『藤宮さん、この問題は分かりませんか?』って。いつも難しい問題でも解いていたから、大丈夫だと思ったんでしょうけど」
「それで? 前に出て解いたんですか?」
 あまりの訳の分からなさに、頭痛を覚えながら和真が尋ねると、美樹は小さく首を振ってから説明した。


「ううん。あまりにも退屈な授業で、うっかりあいつが来ているのを忘れて、『学習指導要領に沿った授業内容をしなくちゃいけないのは理解しているけど、簡単な内容ならそれなりに工夫して、もっと生徒の興味を引く様な指導方法を、自分なりに研究するべきじゃないの? 単なる参考書の板書にしか思えない指導しか出来ない、あんたの考えと力量が理解できないわ』と考えた最後の所だけを、『理解できません』と口にしたのよ」
 それを聞いた和真は(やっぱりこいつ、何か根本的な所が欠落している)と思いつつ、話の先を促してみた。


「……それで、どうなったんですか?」
「担任は『そうですか。藤宮さんにも難しかったですか』と笑って、授業を続行させようとしたけど、そこで教室後方の黒板に、ヒビが入ったの」
「はぁ? 後方の黒板?」
 いきなり予想外の展開になった為、和真が不審そうな顔になったが、美樹はそのまま話を続けた。


「毎日の係とか、連絡事項とか持ち物とかを書いておく、壁にぴったり付いているタイプの物。それをあの馬鹿が、渾身の力を込めて拳で殴ったのよ」
「あの人は娘の教室で、何をやっているんですか?」
 和真は本気で呆れた声を出したが、美樹による秀明の暴挙の説明は、更に続いた。


「そして同級生や親達が驚いて一斉に振り返る中、あいつは憤怒の形相でまっすぐ教壇まで行って、担任の胸倉を掴んで黒板に叩き付けながら、『俺の娘が、こんなアホでも解ける問題が、分からないわけ無いだろうが。それほど娘の体調が悪いのにも気が付かないとは、どこに目をつけてやがる。それとも貴様の目は、単なる飾りか? そうか、飾りだな。それならそんな見苦しい物は心置きなくえぐり取って、烏の餌にでもしてくれる』と、地を這う様な声で恫喝しやがったのよ。その時の教室内の空気と体感気温を、想像できないとは言わせないわ」
 その恨みがましい声と表情に、和真は思わず片手で顔を覆った。


「ええ……。社長は、立派な親馬鹿ですね。……本当の意味でも、馬鹿かもしれませんが」
「仕方がないから事態を収拾する為に、『お父さん、具合が悪いから保健室に連れて行って』と声をかけて、あの馬鹿に抱き抱えられて、保健室に連れて行って貰ったの。もう本当にウザかったわ。『救急車を呼ぶか?』とか『やはり病院に行って、精密検査を』と五月蝿い奴を宥めるのに、どれだけの労力と時間を費やしたと思ってるの?」
「……ご苦労様でした」
 心底美樹に同情し、言葉をかけた和真だったが、彼女はまだ腹立たしげに話を続けた。


「あれでビビって腰を抜かした担任は、その翌日に一身上の都合で退職して、一部始終を目撃した親達にはドン引きされ、同級生達は怖がって、あれ以降誰も近寄って来ないのよ。私のこれまでの、年相応の演技が台無しよ。父親だろうがなんだろうが、『あいつ』や『あの馬鹿』呼ばわりしても、罰は当たらないと思うわ」
「『あいつ』や『あの馬鹿』で結構ですね。社長には、少し反省させるべきです」
 思わず和真がそう口にすると、美樹は軽く首を傾げながら、幾分素っ気なく応じた。


「一応、反省はしたんじゃない?」
「そうですか?」
「その事を、仲の良いママ友から電話で聞いたお母さんが『娘の教室で、何をやってるの!!』と激怒して、あいつが土下座して謝ったの。でもその後家から叩き出されて、一週間位ホテル暮らしをしていたんだけど、お祖父ちゃんと叔母さん達と叔父さん達が、全員総出でお母さんを宥めて、数日前に漸く帰って来たのよ」
 その事実を知った和真の顔が、微妙に引き攣った。


「最近藤宮家で、そんな修羅場が進行中だったとは……、全く存じませんでした」
 するとここで美樹は、妙にしみじみと、同情する様な口調で言い出した。


「あんなのが名目上とは言え、ここのトップだなんて、あんた達も本当に大変よね? 安心しなさい。十年以内に、私がここを分捕ってあげる。そうしたら今よりもう少し、心穏やかに働ける筈よ」
「…………」
 そうして何事も無かった様に、すまし顔でティーカップを傾けた美樹だったが、いつの間にか室内は静まり返っていた。


(いや、心が穏やかになるどころか、神経をすり減らして、退職者続出の事態になるんじゃないだろうか? 桜査警公社設立以来、最大の存亡の危機かもしれない)
 相変わらず平常運転の美樹を見ながら、和真はかなりの危機感を覚えていた。





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